おっとり彼女が生命保険に入ってからごっついメンヘラムーブをしてくる 作:雑巾とナマステ
保険営業、
午前4時半にセッティングしたアラームを、イナイレでいう『いかりのてっつい』の動きでぶっ叩き、のそのそとベッドから起き上がる。
「ちにたい、ちにたいなあ……」
この世のすべてを憂いながら歯を磨き、スーツに着替え、十五分かけ丁寧にメイクを完成させる。
古郡は自分の顔は相当整っているとを自負しているが、崇拝するお上司さまにより可愛いと思って貰うため、毎朝のメイクアップにはかなり力を入れているのだ。
その後、お上司様のバストアップの写真に二度三度挨拶の練習をしてから、家を出発するのは午前5時。
「おっ、おおお、おおお、おはようございます! きききき、きも、気持ちいい、ああああ朝ですね!」
古郡は朝の挨拶には全力を尽くすと決めている。
女性としては異例の189センチの巨躯をぺこぺこと折りたたみながら、ピチピチ紺色スーツ短髪ジェルがひしめくオフィス内をデスクに向けて歩く。
このとき時刻は午前5時半。
すでに出社率は90%を超えており、残りもじきに来る。
なお定時は9時~18時。
もちろん5時半から9時の時間外労働賃はーー出ようはずもない。
古郡の本日の予定は、午前10時から早速アポが入っているので、そこまでは提案資料の見直しや各種事務作業の処理ということになる。
「あ、ああ、あああ、あれれ?? 部長は???」
いつもは自分よりも早く来てあり得ない量の業務を振り分けてくださる神、ではなく保険営業部長は、すでに外出されているようだった。
……ふう、よかった。
危うく、昨日契約が取れていないことについて爆詰めされて朝から大バッドに入って仕舞うところだった。
好きな人に厳しくされるのは、マゾヒストの古郡とて耐えられるものではない。
「はあ……」
いやでも、愛しの部長様に会えないのはそれでそれで大バッドだ。
ともあれ、古郡はデスクに着き本日の予定を確認する。
午前10時からは顧客からのクレーム対応、12時から13時は顧客と昼食、14時から19時はクレーム対応……。
そして、20時からは……。
「はあ……」
古郡は大きなため息をついて、ついに当日になってしまったその予定から、そっと目をそらした。
【古都宮さま 面談】
***
すっかり日が落ちた街角の喫茶店には、オルゴールアレンジされたJPOPがうっすら流れている。
古郡が通された入り口からもっとも遠い窓際の席から外に目をやると、しとしと降る雨粒がぴたぴた窓を叩いていた。
その中を、仲睦まじく相合い傘で歩いてくる男女ペアが一組。
ーー来た。
女の子が古郡の顧客たる古都宮琴子で、その隣は古都宮の恋人、スメラギだ。
女の子は、背の高い男の方を濡らしてはならぬと、自分が濡れるのもいとわず一生懸命傘を高く持ち上げ男に傘を差している。
男の方は横で恋人が傘の位置取りに苦慮していることを気にもとめず、ずんずん喫茶店へ歩み寄ってくる。
まるで従者と主人だな、と古郡は思った。
人様の恋愛事情に口を挟むのは無粋だと分かりながら、古郡は思わずきゅうと胸を締め付けられる感覚に陥った。
「なんで……」
だが……。
「ーー、……なんて」
必死に男の子を雨から守る女の子は、必死で、真剣でーー
「ーー幸せそうなんでしょう……」
***
「あ~古郡さん~、お待たせして申し訳ありません~」
「いいいい、いいいっいえ……こここっ、こっこちらこそ……おっおじっ、ぉ時間いただいて、ありありありありがとうございますぅ……」
いかん、緊張でぜんぜん口が回らん。
古郡はすっかりさめてしまったアメリカンコーヒーで唇をしめらせ、一旦落ち着きを取り戻す。
その間に席に着き、スメラギからタオルを受け取った古都宮は、すぐさま机の下に潜ってーー
「琴子」
「は、はいっ!!!」
ぬっ!と机の下から古都宮の美しい顔が飛び出した。
「そのタオルは琴子が使って」
「え……でも、さっきともくんにドロがはねたところを……」
「貸して、拭いてあげる」
スメラギはぞくっとするほど不自然な甘い声で言うと、放心している古都宮からタオルをそっと抜き取り、優しくぽんぽんと古都宮の髪や顔から水分を取っていく。
…………。
「はい、後ろ向いて」
「ぁ♡、ぁぃ……♡♡」
おずおずとスメラギに背中を向け、色っぽい手つきで長い髪を持ち上げ白いうなじをさらす。
スメラギがその蠱惑的なうなじに優しく綿タオルでふれた瞬間、古都宮の口から「んっ♡」と艶やかな嬌声が漏れ出る。
それに構わず、スメラギはぽんぽんと慈しみをもった手つきで丁寧に水分を取っていく。
「あっ……やぁ♡……ともくん……んっ♡」
(え、えろい……)
いや、自分は何を見せられているのか。
これ以上は目に毒だ。日頃の激務で自由な時間はほとんどなく、最近はひとりでする時間すら無い日々が続いているというのに……。
そんな、完全に溜まっている自分にこのダブルミーニング的な”濡れ場”は、こう……。
「お、おほん……」
軽く咳払いしてちらっと様子を見ると、スメラギは「ああ」と声を上げる。
「申し訳ない、変なところを見せた」
「い、いいえ…………その、古都宮さまとのお付き合いは、もう長いのですか……?」
「ーー小さい頃からの幼なじみなんです~。親同士の仲がよかったんですよ~」
「へ、へえ……」
(なんだろう、このふたりの間に流れる異様な雰囲気は……)
まるでスメラギの口から答えさせまいというタイミングで入ってきた古都宮に違和感を覚えつつ、ちらとスメラギに目をやると、ばっちりと目が合った。
「琴子の今言った通りだ」
言葉少なに言うスメラギの目は、恋人の話をしているというのに、あまりに感情に乏しかった。
この男、皇有朋は前回会ったときから不気味な雰囲気を放っていた。
目の前にいるだけで、古郡の仲にいる小心者の自分がひれ伏したくなるような、そんな圧を感じる。
「そ、そそそ、そなんっす、ね……」
「それより、本題に」
タイミングよく運ばれてきた二人分の紅茶に一口つけ、スメラギは少し眉をひそめた。
本題という単語に、古郡もスイッチを切り替える。
(さあ……ここからが問題なんですよねえ……)
古郡が今日ここに来たくなかった理由は単純だ。
現在、古都宮琴子さまがご契約している”生命保険のプラン”について。
前回の面談でも解約したい旨は聞かされているが、その意向が変わっているかどうかだが……。
まあ変わらず解約する方向だろうな、と古郡は考えていた。
だからここに来たくなかったのだ。
保険営業が一件の契約を勝ち取るためにどれほどの代償を支払い、労力をかけているのか。この大学生に理解できるはずもないが、理解できないとしても、解約されるのは最悪のシナリオだ。
(うちの会社、完全フルコミッションの成果報酬制なんで、契約数減るとそのままお賃金も減っちゃうんですよね……)
お賃金が減ると言うことは、古郡が目標としているFIRE額まで、お仕事という地獄が延長されてしまうと言うことだ。
だから解約だけは避けたい……といっても、解約されるときはされるのだが。
「……今回は、ちょっとチャンスあるんですよねえ……」
「なんの話?」
「えっ……ひょえ!? こえこえこえ声出てました!?」
「チャンスがどうとか」
あ、あっかーん!と古郡は内心で大焦り。
しかし表面上は平静を装い、優雅な手つきでティーカップを手に取る。
「古郡さ~ん、それ私のですよ~?」
「えっ! あっ! すみません! 申し訳ありません! すべて私の責任です! 責任を取らせてください!」
「べつにいいです~、差し上げますよ~♪」
古都宮さまはおっとり穏やかな口調で言うと、そのままゆるりと手を上げ、新たにもう一杯の紅茶を注文した。
じゃあ、これは飲むしかないか……。
そんなわけで古郡は紅茶に口をつけ、気を取り直して口を開く。
「そっ、そのまあ……チャンスというのは、しししし正直私としても今日呼び出されたりり理由は察しがついているところもあああありまして……やはり解約を検討されている、というところでしょうか?」
「いいえ」
「ですよね、ですが解約の決断をされる場合はご契約者様本人の確認が……………………………………ん?」
なわけねえよな、というようなことを言われた気がする。
そもそもだって、なんでここに自分が呼ばれたのかというのは自明の理で……。
「えっ、ええ、と……今日はここに、解約のお話をされに来たんですよね?」
だからここに来たくなかったのだ。
だが解約には本人の同意が必要となる。そこで、契約者本人である古都宮さまは解約を希望していない様子だったので、いくらスメラギがプッシュしようが契約継続の勝機があるという算段だったのだが……。
「本人が解約したくないといってる場合は、解約出来ないという話だったと記憶してるけど」
ええ、全くスメラギさまの言うとおりでございます、と古郡はおそるおそる声を上げた。
どこかおかしい、なにか企みがあるのでは?
……………………。
………………。
(いや、でも契約継続してくれんなら別にいっか……)
古郡は自身の脳内PCが弾き出した答えに深く頷いた。
我ながら大雑把な考えだが、しかし本質を見逃してやるつもりはない。
ーー継続か解約か。
そして今回の答えはーー継続。
さいの目は決した。ならばなにも、深く考える必要もなかろう。
内心で平行して走らせていた疑心の思考をストップさせ、古郡はにっこり笑顔でスメラギを見た。
「でしたら引き続きよろしくお願いいたします! 今日は面談のお時間をいただいてありがとうございました! ……と行きたいところなのですが、実は弊社にて新しい商品がございましてーー」
と。
そこまで口にした瞬間、古郡はとある違和感に気がついた。
お上司様と練習した提案プレゼンの導入をすらすらと言えた、会話の流れも完璧で、まさに自分が求めたデキる営業マンーー
ーーになどなれないことは、これまでの社会人経験でいやというほど学んできたではないか。
つまり今のは夢、幻想の類いだった。
古郡はなにも言えていなかった。
「ぁ、ぁ、おぁ?」
幻想の世界がアイリスアウトする。
意識が目の前に戻ると、刀のように冷めたスメラギの鈍い視線が、古郡につきつけられていた。
そうだ。
古郡はこの恐るべき視線から逃れるように幻想に世界に飛び込んだのだ。
スメラギは言う。
「解約はしない、今からして貰うのは契約の履行だ」
りこう。
……りこう?
何度か頭の中で繰り返し、ようやくソレが”履行”でという字で書くことに思い当たった
りーこう【履行】取り決めたことを実際に行うこと。「契約をーする」
「……? ……契約……履行………………ん? んん??」
だとすると、おかしい話だ。
なぜならいま古都宮さまがご契約しているのは、契約者本人の死亡によってのみ保険金が支払われる”生命保険”だ。
傷害も入院も保険の対象外。
死亡のみが”契約”を”履行”出来る唯一の方法で……。
…………。
「ま、まさかスメラギさん! あなた古都宮さまを……! だ、ダメですよそんなこと!」
「なにがダメなんだ?」
「なにがって……いや! はぁ!!??」
このスメラギ、様子も、言っていることも、完全におかしい。
なにを今更当たり前のことを言っているのか。
倫理観とか道徳とか、その辺をどこかに捨ててしまったのだろうか。
「契約を履行なんて絶対に許されません! だって、だって……!!」
もしも。
もしも、仮にそんなことが起こったら。
「保険金を支払わなきゃいけないじゃないですか!」
古郡リキ:大学2年時に初めて自ら友達を作ることを決意。周りのアッパー系なテンションについていくために飲酒して卓球の授業に参加する”アルコールメソッド”を実行し、無事落単。4年間ぼっちのまま卒業。