おっとり彼女が生命保険に入ってからごっついメンヘラムーブをしてくる 作:雑巾とナマステ
翌朝。
枕を抱きしめてうつ伏せの姿勢で寝ている琴子に毛布を掛けて、俺はそっと大学に行く準備を進めた。
琴子と取っている授業は同じだが、あの調子じゃ、多分今日は一日グロッキーで学校どころじゃないだろう。しばらくベッドで休んでいるのがいい。
それに、今日は一人の方が都合が良いしな。
「さて」
コンコンとつま先を合わせ、最後に琴子がまだ寝ているのを確認してからドアを開けた。
…………。
「……ぁーーっ♡ ぁ、いい朝ね……
黒髪ロングクール系美女。
顔真っ赤。
よく通る声。
「よし」
「? あっ!」
3ワードだけ頭にたたき込み、俺は瞬間的に扉を閉じた。
……いや、朝からなんなんだ? あんな状態の琴子の前でほかの女の子(しかも美人)と対面とか、場合に寄っては俺の方が危険なシチュエーションだ……。
ひとまず持ち帰ったワードを吟味すべく、ドアの鍵を確認して考えをまとめーー
『ちょっと有朋くん! なんで逃げるようなマネするの! 私よ私、あなたの元カーー』
作戦変更。扉を叩かれるのは想定外だ。
「とっ、突然来たのは謝るけれど……ぅ、その、気付いたら来ちゃっただけなの……しんじて有朋……」
「……、あの……」
「ーーぇ……ぁ、ああああありあり有朋ぐん……っ!」
目が合った瞬間、曇天が爆ぜるような勢いで笑顔が華やぐお姉さん。
だが裏腹に、俺の心境は複雑だ。
後ろ手で扉を閉めはしたが、以前薄い扉の向こうに琴子がいることに変わりない。というか、確実に鼓膜には届いているはずだ。寝ているので聞こえてはいないと思うけど。
ふと、俺は改めて目の前の女性を見る。
なにかを期待するような生温かいまなざしを受け止めながら、俺は思わずそのすさまじく洗練されたスタイルを眺めてしまった。
……あ。
「どっどうかしら、有朋くん! ……別れてからもあなたに見て貰いたくて、トレーニングの強度上げたの。腹直筋もぱきぱきに割れてきたし……触る? ねね、触って???」
ぺちゃくちゃと、こちらが背後に感じているプレッシャーも知らずに、聞いてないことをしゃべり始めた女性の話を聞き流す。
「そ、そう! 最近軟体も初めたわ! だからその、どんな体勢でも耐えられるの……だからねっ? ねっ? もう一度…………ん、ぁ、あ有朋君?」
…………。
……ここは一つ、心を鬼にするしかあるまい。
そもそも今の俺には、もしかすると琴子異常に大きな問題があるのだ。よし、言うぞ……。
「ーー、……あの、さっきから申し訳ないけど……ーー君、誰だ?」
「ぇ?」
……うん、想像を絶する気まずさだった。
ぴしりと表情を凍り付かせたクール女子は、そのままパニックに陥ったように目を文字通り白黒させ、訳も分からぬまま苦しげに胸を押さえる。
よほど深いパニックに陥っているようだ……。見てるこっちがつらい……。
けど仕方ない。焦ってるのもあるけど、思い出せないのだ。
それにいま記憶の引き出しを開け閉めしていると、その間に琴子が起きてしまうかもしれない。
ともかくここを乗り切ることが先決だ
「その……俺と知り合いだったら申し訳ないんだけど、名前を教えてもらえれば……」
「ぇ……ね、ねぇやめて、それやだ……」
ああ、言ってて自分で胸が苦しくなってくる……。しかもなんとなく、見覚えがあるような気がしてきたので罪悪感もひとしおだ。けど今は、この女性を琴子から話すのが先決だ。
「その……ごめん」
「……ね、ねぇやめて、それやだ……や、だ……やだぁ……っ」
抗議するように伸びてきた手は、反射的に躱してしまった。だが彼女の動きは緩慢ではあったが、捕まったら最後。骨の髄まで絡みついてきそうな雰囲気すらあった。
えっと、いや本当にどうしよう……このままだと何をしでかすかわかったもんじゃない雰囲気だ。
必死に頭を悩ませ、うんうんと思考回路を回した結果ーー。
「ーー……いや、その、えーっと………………………………わかるだろ?」
ひねり出たのは、我ながら最悪の回答だった。
こっちは覚えてないとか言っておきながら、向こうには理解を求めるって。あまりに不平等だ。
これは、あまりにもひどいな。こういうときはそう……やり直せばいい。
きちんと反省し、言葉を考え直していると、しかしクールな女性は、さっきの俺の言葉を必死に言葉を理解しようとしているのか、かっ開いた目で俺を見つめながら、真剣な表情で一生懸命何度も小刻みに首を立てに振って思考のリズムを取っている。
……まさかこれ、伝わるのか?
よ、よし……。
「そんなわけだから……その、改めてくれるとありがたい」
「ーーっ! わ、わかった! 分かったわ! ーーぁ、朝から、ごめんなさい!!」
言って、クールな女性はぺっきりと上半身を真っ二つにへし折るような勢いで深く頭を下げて、次の瞬間にはヒールの靴もいとわず全力ダッシュで去って行った。
「ま、またな……」
虚空に残した挨拶は、まあ届いてないだろうな、絶対。
……と、とりあえずなんとかなった。
俺の胸に残る山のような罪悪感は、一旦見て見ぬふりだ。
(けど、一体何だったんだ……?}
ともあれ。俺は最後にもう一度、琴子がぐっすりと眠っているのを確認してから、昨晩から無数に届いているLINEを返しながら大学へ足を向けた。
***
午前の講義が終わり、俺は近所にあるショッピングモールのベンチで休んでいた。
いつもは琴子お手製のお弁当だったり、「し、失敗しちゃいました……っ」と死にそうな声で報告してきたときは、近所のレストランに入ってたりしているので、こうして一人飯というのはなにげに久々だ。
わざとらしい甘みの菓子パンを楽しんでいると、突然ナンパに声をかけられた。
「はーーはじめまして
珍しいなかなかご丁寧なナンパだ。
面を拝んでやろうと顔を上げると、緊張した面持ちの金髪ショートボブの女性が立っていた。温和で無害そうなたれ眉で、髪色と裏腹に清純で無邪気そうな顔つきが不思議なギャップを生み出している。
いや、初めましてって……。
「……はあ」
思わずため息がこぼれてしまった。
……覚えてるもなにも、桜花とは一時期付き合っていたことがある。
といっても、向こうから「一週間だけおっ、お試しですよ! 私との相性をみてみてほしいなって……ねっ! 一週間だけっ!」みたいなことを言われて、実際に一週間付き合っていただけのことだけど。
こういうと、まるで俺がモテまくってるみたいだな……。
付き合ってみれば、俺にはもったいないくらい活発で、たった一週間の間に宝石みたいな思い出をたくさんつくって、最後は初めの約束通り別れた。
……で、ここからが本題だが。
そうして別れて以降、桜花は俺に「はじめまして」としか挨拶しなくなったのだ。
なんでそうしているのかは分からない。
桜花に限ってはないだろうが、自分を振った相手への皮肉も入っているのかもしれない。
と、
「ぇ、今のため息……ぁ、そっ、そかそか! 有朋くんみたいなすごい人、いちいち捨てた女の子のことなんて覚えてないよね! ……ぁ……ぁ、やだまたトラウマふえる、まってまって、や、ぁ……」
「あの、桜花……?」
「ぁ、ぇ……ぉ? ーー、……おーか……ーー!? ~~~っっ!!??♡♡」
作り物のような笑顔の仮面を貼り付けた顔をのぞき込むと、桜花はトマトみたいに顔を真っ赤にして目を白黒させた。
なんだか不思議と申し訳ない気持ちになったが、声に出そうとして、その直前で何を言おうとしたのかド忘れした。
ひとまず目線で謝意を伝えておく。
「ーー、……ぁ、目あった……ありともくん……すきぃ……♡」
「あの……桜花、今のは……」
あまりの直球で伝えられた好意の意図を尋ね返すと、桜花はかわいらしく「♡♡♡????」と首をかしげた後、「っっっ!!!」と自分の発言を思い出したようだった。
「ごっ、ごめんね有朋くん! 彼女さん居るのに、その……好きとか言っちゃって。もっーーもちろん返事はしなくていいから! …………ぁ、じゃなくて、返事はやめてください……告白断られたら死んじゃうので……」
別に死にはしないだろ、とは言わないでおく。
せっかく気を遣ってくれたのだ。いつも変な気を回させて申し訳ない……。
元カノだからこそ、なのかは知らないが、桜花は俺の周辺事情をよく知っている。
だから今は琴子と付き合っていることも知っているし、だからこそ”ただの知り合い同士”の関係を壊すような発言はしないよう気をつけてくれている。
逆に桜花の話は聞かないので、実を言うと俺と別れた後ちゃんと大学生活をエンジョイできてるか不安だ。
まあ、桜花のことだし大丈夫だろう。最近別の男子と付き合い始めた噂も聞くし。
俺と別れてからこれで何人目だ?
思考が脱線し始めたので、首を振って切り替える。
「それで、なんの用事?」
「ぇ、かっこぃ♡ ーーあっ、ごめん! 用事だよね用事!」
えーっと、とわたわたし始める桜花の目を盗み、俺はスマホで琴子の位置情報を探る。
……よし、まだ俺の家だな。
ほっと息をつくと、桜花は乱れた前髪と服装を直し、普段のモデル業で見せているような完璧に作り込まれた笑顔で話し始めた。
「用事は二つあって。遅れちゃったけど、まずあの子を紹介するね」
言って、桜花はさっきから少し離れた場所で立ち止まっている、バチバチファッションの女の子に手招きした。
近づきづらいオーラを放っているので、さっきからあえて目を向けないようにしていたのだが、どうやら桜花の知り合いだったようだ。桜花もオーラがあるが、不思議と俺の近くに居るときはそれが立ち消えするので、そういえばあまり意識したことはない。
ともあれ、俺は桜花の知り合いたるクールでミステリアス系な黒タイツと絶対領域が似合いそうな黒髪ロングの爆美女…………。
いや、待て……。
「はいじゃ、自己紹介して」
桜花に促された女の子は俺を見るなり、まるで陸上で最も苦しいと言われる中距離で限界を出し切ったランナーのように、目を限界までかっ開き、荒い呼吸でハァ!ハァっ!と肩を上下させ始めた。
が、がんばれ……。
「はぁ……! わたーーぁ、ぐぁっ……! わっーーわたし……は! 私は!」
「えっ、ちょっとちょっと大丈夫? そんな見苦しいところ見せたら有朋君に嫌われちゃうよ? 自己紹介して覚えてないって言われたときのこと想像して頭おかしくなっちゃうのはいいけど、有朋君の前でそれやっちゃうのは大丈夫なの? 私知らないよ????」
「ーーえ?」
「そりゃそうだよ。だって有朋君、ずっと見てるよ???」
「お? ーーぁ、ありともくんだ……♡ ぇ……ぁ、ありともくん……わたしのこと…………きら……い……? ーーきらい、なの……?」
……まあ、嫌いではないけど普通に怖くはある。
ここで首を横に振るのは簡単だが、俺にはそれをしづらい事情があるわけで……。
桜花にヘルプを求めると、頼られたことがうれしい♡とでも言いたげに顔を赤くすると、今や見る影もないクール女子に向き直った。
「有朋君の気持ちを考えないと。ーー有朋君は、有朋君に好意を持ってる女の子に「嫌い」と伝えてあげない優しさを持ってるの。けど古都宮さんという彼女さんが居る手前、「嫌いじゃない」と伝えることも古都宮さんには不誠実になってしまう。ここまでわかる?」
「????……えっ、えっ……????? わ、わかりゃ、ないです……???」
「あー、この程度のお話も理解できなくなっちゃいましたか」
桜花が俺の立場を的確に説明してくれたが、女の子は一杯一杯な様子でじっと俺の顔を見つめてくるだけだった。あまりのパニックとストレスに言葉がちょっと幼児退行しているしている始末だ。
はあ、と桜花がため息。引き寄せられるアンニュイな雰囲気に、周りにあじさいが咲き誇った気がした。
と、諦めの境地に入ったのか、桜花が申し訳なさそうに俺を見上げてくる。
「有朋君、ちなみにこの子、見覚えあります?」
知るわけがない。
と、今朝方の俺なら言っていたかもしれないが、今はそうじゃない。
完全に思い出した。
このパニックな女の子、もとい”今朝俺の家に突撃してきた女の子”。
俺はこの子のことをーー、
「……知ってる」
「えっ……うらやましい。ーーあっ、ではなくて! よかったね浜辺さん、覚えてくれてるって!」
「ぇ……でもけさ、今朝知らないって……」
パニックな女の子、桜花が言うに”浜辺”は納得していないようだったが、それ以上続けることがやぶ蛇だとわかったのか、もごもごと語尾を濁らせた。
「よかったですね、思い出してもらえて」
「…………ぅん。……ありがとう、ありともくん……♡♡♡」
もじもじしながらちらっちらっと視線を向けられたので、頷いておく。
桜花の声が少し固いと思ったが、にぱっと笑顔を向けられたので口を閉じる。
「さてと。一件目はこの子が今朝家に行ってしまったみたいで……その謝罪をと思ったのですが」
なんだ、そのことだったか。
「次から気をつけてくれればいい」
それに琴子は今もまだグロッキーだろうし、声も聞かれてはいないだろう。
しゃがみ込んで小さく「よかったぁ……よがっだぁ……っ!」とつぶやいている浜辺は、今はそっとしておいてやるのが良いか。
ところで俺と浜辺の関係だが、この子もまた…………俺の元カノだ。いちおうは。
「ーー友達になってあげてもいいわ!」
と。ある日そう声をかけられ、断る理由もないので数日色々と付き合っていると「恋人になりなさい!」と告白された。
で、一回断った。
そのときは琴子とよりを戻そうと考えていたので少し都合が悪かったのだ。
……だが浜辺が無言で泣き始めたので、流石に悪いと思って付き合い始めた、という流れだ。
もちろん浜辺が魅力的だったからこそ告白をOKしたのであって、悪いと思ったのは、自分の都合に浜辺を付き合わせて泣かせてしまったことへの反省だ。
付き合ったこと自体に後悔はない……ないが。
実際つきあったのはほんの三日。
浜辺は魅力的だが、少々思い込みが激しいところがある。琴子との何気ないやりとりをとがめられ「ほかの女の連絡先を消しなさい!」と迫られ、妹の連絡先まで消されそうになったので、流石に別れざるを得なかった。
そんなわけで三日の交際で破局しーー今に至る。
「あっ♡……ぁ、有朋くん、今朝はごめんなさい……」
土下座でも始めそうな勢いだったので、俺は浜辺の腕をつかんでやんわりと立ち上がらせてやる。
あ、おい、さりげなくべたっとくっついてくるな。
こういう、ボディータッチに貪欲なところは付き合っていた頃と変わらないな。今の、琴子に見られたら大変だぞ……。
「さてと、それで一件目はそれで解決ですね」
にっこりと完璧すぎて逆に不自然な笑顔を貼り付けた桜花は、やんわり浜辺を俺から引き剥がずと、「それでは」と二本指を立てた。
そっか。用件は二つだっけか。
そう思い直して続きに耳を傾ける。
「今週の【有朋君元カノ連盟】ーー通称モトカレンの集会、このあとですので。一緒に行きましょうねっ」
桜花さん:別れた翌日に友人として声をかけに言ったら「だれだっけ?」と言われたのがトラウマみたい。
琴子さん:有朋君とハグをした時などに「元カノの記憶を消すツボ」を押している。