私たちはずっと、本を読むのが好きだった。どこかから借りたり、親に買ってもらったりして、よく一緒に色々な本を読んでいた。
絵本も読んだし、図鑑も読んだ。隣同士だ、時間があれば互いの家に行って、一緒に過ごしていた。他の子供たちは大体が家族や家族のポケモン、友達と元気に遊んでいたが、私たちの好みはそういうのではなかった。体を動かすのが嫌いとかでもなくて、本を通して新しいことを知ることが、知らない何かに出会うことが、あの頃は何よりも好きだったから。
そんな風に育ってきたからか、同年代の子供たちが旅に出た年にも、私たちは変わらずに過ごしていた。まあ私と違って彼はときどき家族と共に遠出していたし、私よりは活動的というか、アウトドア気質だったのだろうけれど……旅立つよりも街に残ることを選んだのは同じだ。
とある日。異常気象やらシシコ座流星群やら、短期間に連続して起きた非日常的事象の余韻がまだ微かに漂っている中で、彼は珍しく「遊びに行こう」と誘ってきた。街の北側──115番道路に行きたいのだと。
ホウエン地方、カナズミシティ。西には海が、東には山が。南は湖とトウカの森、そして北は、険しい道と流星の滝。周りをホウエンの特色とも言える豊かな自然に囲まれていて、数ヶ月前にカナシダトンネルが開通するまで、他の街へ行くには“そらをとぶ”かトウカの森を通るくらいしかなかった街。それなのに……いや、だからこそなのだろうか。ホウエンを代表する大企業であるデボンコーポレーションが本社を構え、産業を司る街となっている。ミナモやキンセツのような華やかさは無いが、ここのどっしりと落ち着いた雰囲気が、私は好きだ。
そんなカナズミで生まれ育ってきた中で、私が街を出た経験はたった一度だけ。ずっと前、あの時は小旅行か何かのようにトウカシティまで行ったのだったか。
そして、二度目に『世界』を出たとき────115番道路を越えた先で、私たちは『運命』に出会った。
◆ ◆ ◆
「……ねえ、クロト。本当に行くの?」
「うん。なるべくバトルは避けるけどね」
突然家に押しかけてきて、出発前にもう一度と鞄の中身を再確認していた彼が、その手を止めてこちらに顔を向ける。
「だって、アマネは気にならない? 噂の『誰も知らない』ポケモン」
「気にならないわけじゃないけど……その辺にいるようなものじゃないでしょう。誰も知らないんだから」
事件の中心になったルネやサイユウとここカナズミは、同じホウエンでも大概端と端だ。私はニュースをあまり見ないから、耳に入る話題はそういった怪しげな噂のほうが多い。それを話半分に聞いていただけの私と違って、好奇心の強い彼は色々と調べていたらしく──。
「身も蓋も無いこと言うけど、ちゃんと図鑑に載ってるようなポケモンみたいだよ」
「え? でもそれなら、こんな都市伝説みたいな噂になる?」
「そう思うよね。図鑑は図鑑でも、全国図鑑なんだって。僕たちがよく見るホウエン図鑑じゃなくて、他の地方のポケモンたちが載ってるやつ。この辺りの人からしたら、ある種の『知らないポケモン』ではあるわけ」
「へえ……」
未知への関心。長らく眠っていた好奇心の胎動。旅よりも街を選んでから、いつの間にか私を取り込んでいた停滞の霧が、少し晴れたような気がした。
「どう? 気になってきたでしょ」
「……あんたの思い通りみたいなのは癪だけどね」
「ははっ、これだけ一緒にいるとね」
──荷物を取ってくるからと、私は背中を向けた。
部屋に戻って、鞄を取る。一応中身にざっと目を通すが、いつも通りで変わりはない。あまり使わない財布も、なんとなく入れたままの、空のモンスターボールも。
「ほんと、いつ以来かな」
最後。忘れてはならないもの、忘れるわけがないもの──私の相棒、唯一のポケモンは、庭で彼のポケモンと遊んでいる。漏れ出た言葉に心が躍っていることを自覚させられ複雑に思いながら、階段を降りて準備ができたことを伝えた。
「じゃあ行こうか。キルリア、お待たせー」
庭でくるくる踊って遊んでいた、二体のキルリア。声をかけた彼に気づいて、一方がそちらに駆け寄っていく。
「随分と上機嫌じゃない。そんなに楽しかった?」
もう片方のキルリア……私と同じ
人もポケモンも、私の友達は揃って気ままだ。呆れ混じりに息を吐いて、ボールを腰のホルダーに提げた。
「まったく……」
「準備できたんでしょ? ほら、行くよ!」
「あっ、ちょっと! 引っ張らないで!」
どれだけ楽しみにしていたのか。彼は待ちきれないといった風に、私の手を掴んで駆け出した。さすがに危ないので手はすぐに離されたが、足を緩める気配はない。街と外との境界に着くまでの間、二人で走り続けた。
「はぁ、はぁ…………ふう。カナズミって、案外狭いのね」
「そうだよ。今本気で思ったなら、アマネは外に出なさすぎ。世界はもっと広いんだからね」
「……そういうあんたは、今もよくどっか行ってるの」
「まあね。よく、ってほどでもないけど、父さんの旅行好きは変わってないから」
「そっか。──じゃあ私よりも経験豊富なクロトくんに、ひとつ質問です」
カナズミシティの北端は、115番道路の南端。足を止めて息を整え、それでも多少はズレたままの呼吸に乗せて言葉を交わす。
私なりの“わるあがき”だ。だって、目の前の現実を見たくない。
知っていた。聞いたことはあった。カナズミは山に囲まれていて。だからこそ、そこに眠る資源を活かすためにデボンが生まれ、発展してきたのだと。
でも、だ。
「115番道路と銘打たれた、この数々の大きな段差。これを越えて進みたいというおバカさんの名前と、その考えを教えなさい」
相対的に『大人』と表現されることもあるような歳には、確かになった。でも絶対的には、まだまだ『子供』のほうに分類される範囲だ。だってまだ、背も伸び続けているし。
そしてこの道の険しさは、そういう話じゃない。五年後、十年後の私が来ても、この段差の……いや、小さな壁の連続を上がれはしないだろう。別に低身長でもないはずの私をゆうに超える高さだ。少なくとも技術も無しに越えられる道ではないと思うし、私には、そんなことはできそうにない。
だけど。
「え、簡単でしょ? ──キルリア、お願い」
彼の答えは、明快だった。
ボールから出た彼のキルリアが、目を閉じて両の手を合わせ──
《テレポート》
──次の瞬間には、全員でさっき立っていた場所を見下ろしていた。
「むぅ……。おバカさんは、アマネちゃんのほうでした」
「ぷっ……あははっ! えー、ほんとに思いついてなかったんだ? そっかそっか。ははっ」
「そんなに笑うことないでしょう!? いや、私が悪かったけどさあ」
「ごめんごめん。ほら、アマネも出して。一人で何回もやるのは大変だろうからさ」
「……そうね。キルリア、お願い」
少し熱くなった顔を隠すように、次の『壁』に向き直ってボールを投げる。
ずっと一緒にいるキルリアの、ずっと見てきたサイコパワー。それのシンプルな活用が頭に浮かばなかったことが悔しくて、恥ずかしかった。
それを持ち前の感受性で察したからか、キルリアは私の気持ちを煽るように、わざとらしくこちらを見てくすりと微笑んだ。彼女の仕草はいつも落ち着いていて上品だけど、こんな風になにかと私をからかって楽しむ節がある。そんな様子すら妙に絵になって許せてしまうのだから、困ったものだ。
そうやっていくつかの段差を越えて進んでいると、不意に前方から大きな音、いや、声が響いてきた。
「なに、今の。流星の滝から……?」
悲鳴、とは違う。もっと敵意や威圧の色が強い叫び声。思わず足を止めてしまうような、そういう響きの音だった。
「きっと噂のポケモンだよ! あんな鳴き声聞いたことない!」
「あっ、ちょっと!」
戸惑う私とは正反対に、居ても立っても居られないと、クロトは一人で走っていってしまった。彼の好奇心を阻む壁は、ちょうど今、最後の一つを越えたところだ。
「……あそこに入るとか聞いてないのに」
興奮して突っ走ってしまったのか、それとも元々そのつもりで、けれど言ったら私がついて行かないだろうと黙っていたのか。
いや、今となってはもうどうでもいい。彼はボールから出したままのキルリアすら置いて行ってしまった。腰のホルダーを見るに手持ちはもう一匹いるようだが、それは追いかけない理由にはならない。残された全員、彼が心配だから。
「行くしかないか……!」
駆け足で流星の滝に向かう。突然野生のポケモンが飛び出してきてもいいように、私のキルリアもボールから出したままだ。整備された道の上ばかりを生きてきた私には、この凹凸の激しい道は彼ほどの速さで走っていけるものではなかったが……それでも、私なりに急いで進む。
件の声は、その間にも何度か聞こえてきた。近づくにつれて少しずつ明瞭になっていったその音は、やはり何かのポケモンの鳴き声のようで。そしてやはり、強い敵意を帯びた威嚇の声のようだった。