「あ、そっちも終わったところ?」
緊張が解けてすっかり力が抜けた私は、その場にぺたりと座り込む。ちょうど同じタイミングで、クロトが大岩の向こうから姿を現した。
「この条件差で同着? いや、なんならそっちのほうが速いのか。どんなマジック……って、あんたそれ」
「目ざといね」
「そんな派手なボールでよく言うわ」
彼の腰のホルダー、そこに見慣れないボールが増えている。それはさっきまでなかったということでもあるし、その暗い色合いのボールそのものについてでもある。後者はともかく、前者の意味するところは一つしか考えられない。
「“チャームボイス”のダメージもあったから途中まではいい感じに進んだんだけどさ、最後の一押しがなかなか決まらなくて」
「だからいっそ捕まえようって? まあなんとかなったのはいいけど、よく分からないドラゴンポケモンなのよ。ちゃんと育てられなかったら大事故になるじゃない」
「そう思うよね。じゃあ問題。このボール……ダークボール。僕が持ってきた物だと思う?」
「え? どういう──待った。何この匂い」
どこからか漂ってきた濃厚な匂い。呼吸を止め、口元を手で覆う。
痛みを堪えてどうにか立ち上がろうとするが、何か察したらしいキルリアが座るように伝えてきた。どうやら彼女には、危険なものではないという確信があるらしい。
そうして息を吸うと、それはなんだか美味しい香りに思えてきた。香ばしくて少しピリッとした、食欲をそそる香りに。タツベイが誘われるようにして匂いをたどっていくが……まあ、一時的に協力してくれただけで、私のポケモンになったわけではない。あまり干渉するものではないだろう。
そうしてぼんやり眺めているうちにタツベイは岩の向こうまで行ってしまった、が。
「あ、匂いに誘われてきたのかな? 持っていくところだから、ちょっと待ってね!」
「おっと。アマネ、時間切れだ」
すぐに見知らぬ少女に連れられて戻ってきた。少女の隣では、これまた見知らぬポケモンが大きな鍋を持っている。そして匂いの源は、その大鍋のようだった。
「わあ、すっごくボロボロだけど大丈夫!? カレー食べる!?」
「だいじょ……え、カレー? じゃない、えっと、あなたは……?」
混乱する私を見てくつくつ笑うクロトに微かな苛立ちを覚えつつ、心配そうにその手の食器を差し出してきた少女を見る。
同い年くらい、だと思う。それか少し年下。ノースリーブの黒いワンピースを着た茶髪の少女。ダークレッドの小さなレザーリュックに、モンスターボールが一つだけ揺れている。横で鍋を持っている、二足歩行の大きな兎みたいなポケモンのものだろうか。
とりあえず差し出された空の食器を受け取って、けれどどうすればと一瞬手が止まる。するとタイミングよく、クロトのキルリアが、折り畳み式のテーブルをはじめとする複数のキャンプ用品と共にテレポートしてきた。彼は主より何倍も気遣いができて助かる。
「そっか、まずは自己紹介だね。あたしはユウリ、ガラル地方のハロンタウンってところから来たの! こっちはエースバーン、よろしくね!」
「えっと……カナズミのアマネ。手持ちはこのキルリアだけで、そっちのタツベイは野生のやつ。まだちょっと話についていけてないけど……よろしく。…………ねえ、あんたはいいの?」
「うん。ユウリさんとは一足先に会ったから」
何かを示唆するようにダークボールを軽く叩きながら言う。いや、先ほどのよく分からない問題と合わせたらそれがほとんど答えなのだろう。というかそもそも、その問題自体が話の延長だったわけで。元まで辿れば…………何だったか? 気が抜けているところに情報が押し寄せてきたせいで、もう頭がパンクしてしまっている。テーブルには目にも止まらぬ速さでカレーが並べられていくし。
「ささっ、どーぞ! バトルしてたんだよね? カレーを食べたら元気になるよ!」
「カレーってそんな便利なものだったっけ……?」
「まあまあ。冷めないうちにいただこうよ」
三人のトレーナーだけでなく、戦闘不能となっていたノズパスや共に戦ったタツベイなど、六匹のポケモンも一緒にテーブルを囲む。
漂ってくる匂いを遠くから感じるのみならず、こうして盛りつけられた状態のカレーを目の前にすることで、視覚と嗅覚の二方向からダイレクトに本能を刺激されて思わずお腹が鳴ってしまう。気恥ずかしくなりながらも感謝を述べて口に運べば、なるほど、これは確かに元気になる。未知数のタツベイがどうだかは知らないが、私もキルリアも、さっきの戦いで心身共にかなり疲労した。それがこの甘辛いカレーを一口食べるごとに解消されていく。疲れが飛ぶとはまさにこのことだ。
それはそれとして。少し離れたところでまだ気を失っている赤いやつが気になるが、あれはどうするべきなのだろうか。打ち倒した側ではあるが、放っておくというのは少し気が引ける……なんて思案していると、ユウリが安心させるように柔らかく微笑んだ。
「経緯はクロトから聞いたよ。あの子のことは任せて、起きたらあたしがなだめるから。気が立ってたのか、好戦的な性格なのか……理由は分からないけど、どうにかする!」
「僕はともかく、アマネは傷だらけなんだから。ゆっくり休んでて」
「私まだ何も言ってないけど。でもまあ、そうね。そう言ってくれるなら任せようかな」
「それにしても、本当にボロボロだねー。戦ってたポケモンたちより怪我してるかも? ワイルドなバトルだったんだね」
その言葉に食べ進める手を止めて、自分の姿を確認する。言われてみればその通りだ。攻撃は一度も受けていないキルリアと、石頭のおかげでダメージが少ないタツベイ。どちらにも大した怪我は無い。だというのに私は、露出した四肢は擦り傷だらけになり、服もだいぶ傷んでしまった。ついでに全身砂まみれだが……これに関しては気づくのが遅すぎた。全員もうかなり食べ進んでいるし、はたき落とすのも逆効果だろう。せめて砂埃が舞い散らないようにと、動きを小さくしながら食事を再開した。
大鍋をすっかり空にした私たちは、休憩を兼ねてそのまま雑談に興じることになった。
話の流れでユウリに件の『誰も知らないポケモン』たちのことを尋ねてみれば、やはり他の地方では普通に見かける種族だったのだろう。黒いやつがモノズ、赤いやつがクリムガンだと教えてくれた。
「最初は一匹で暴れてたんだよね? この子“おくびょう”な性格みたいだから、何かあって興奮してたのかも。原因までは分からないけど」
「臆病……? そんなすぐ懐いてるのに?」
屈み込んでモノズをわしゃわしゃと撫で回すユウリを見て、思わず疑問が出る。すると彼女は至極純粋な眼差しで答えた。
「一緒にカレーを食べたらともだちだよ!」
…………まあなんというか、もう少しだけ前だったら何を言っているんだと距離を置いていたかもしれないが……実際にそれを経た身では頷ける言葉だ。既に長い付き合い、彼女の言い方に合わせるならともだちであるところのクロトたちはさておき、知り合って間もないユウリやタツベイとの距離感は確かに大きく縮まった、と思う。
快活な彼女はカレーが非常に大好きで少々わんぱくな子であるとか、いきなりバトルになったタツベイは“むじゃき”に遊びたがっていただけだとか。食事を共にしたことで、少なからず理解が深まった。
「あ。クリムガンだっけ、起きたみたいだよ」
揃って顔を向ける。目を回してダウンしていたクリムガンが、のっそりと起き上がり始めていた。
「僕たちは様子を見てくるけど、アマネは休んでてね」
「ええ。戦った相手だと刺激しちゃうかもしれないし」
席を立つ二人を横目に、椅子に腰掛けたまま大きく伸びをする。
カン、カン、と後方で鳴り始めた音に振り向けば、タツベイがダウンから回復したばかりのノズパスと遊んで……多分、遊んでいた。表情も変えず“のんき”に佇むノズパスへ頭突きをしては、硬い体に跳ね返される。そんな繰り返し。すぐ近くにいる私のキルリアはそれを放って身だしなみを整えているし、そもそもタツベイだって攻撃するならもっと足に力を入れる。だから多分、遊んでいた。あるいは、遊んでもらっていた。
──ただのんびり待っているというのも悪いからと、エースバーンを手伝って後片付けを済ませた頃。二人が駆け足で戻ってきた。
「アマネ、これ見て!」
目を輝かせて片手を差し出すクロト。
開かれた手の中には、小さく、けれど強く視線を惹きつける宝石が輝いていた。
「綺麗…………」
虹色に煌めく石。目を凝らせば、不思議な模様が曇りの奥にうっすらと見える。
思考よりももっと深いところで、ドクン、と何かが脈打つような錯覚があった。
「二人とも。『メガシンカ』って、知ってる?」
「メガシンカ? 知らないことはないけど、どうして……?」
「────あっ。ユウリさん、もしかしてそういうこと?」
「うん、たぶん。お店とかに持っていったらはっきり分かるけど、その石、キーストーンじゃないかな」
交わされる言葉に、遅れて合点がいく。
メガシンカ、それ自体は既知の概念だ。少なくとも、このホウエンに住む人間で知らない者はほぼいないだろう。いつかの中継でも当然のようにメガジュカインだメガメタグロスだと賑やかだったのを覚えている。
だが同時に、身近なものではない。いくつかの条件を満たしたポケモンにだけ起きる現象だったはずだ。
そしてユウリの口から出た、キーストーンという名前。メガシンカの大前提のひとつ、だったと思う。
「そうか、これがキーストーン……!」
ちょっと待ってほしい、理解したのが今なのなら、さっきはどうしてそんなに目を輝かせていたんだ。ただすごそうな石を見つけたというだけだったのか。そんな言葉たちが喉元まで来て、そして押し戻された。
「アマネ、早く帰ろう! 帰って確かめよう!」
「は!? ちょっと急に……待って、待ちなさい!」
彼は興奮するとブレーキがすぐ壊れてしまうようだ。来たときのように手を引かれたので一応は合わせて走り出したが、今度は大人しく従うわけにいかない。団欒していたポケモンたちのほうを向いて叫ぶ。
「お願いキルリア! “ねんりき”!」
“ねんりき”を覚えているのは私のキルリアではなく彼のキルリアだが、まあ私たちはそう浅い関係ではない。これがバトルのためだったならまた違ってくるだろうが……対象が暴走中のトレーナーであることもあって、キルリアは私の頼み通りにサイコパワーでクロトを拘束してくれた。
中途半端なポーズで停止させられたクロトの額を軽く弾いて、その手から石を奪い取る。
「あんたにこんな悪癖があるなんて知らなかった。今日三回目よ、おバカ。少なくとも私、まだユウリにお礼言ってない。キルリアだって出したまま」
「うっ……それは僕もだ」
合図なしに拘束を解除されバランスを崩した彼は、転ばないようどうにか踏みとどまって、頬を掻いた。二人で手持ちをボールに戻し、残ったポケモンはタツベイとエースバーンだけ。
突然周りのポケモンがいなくなったからか、不思議そうに首を傾げるタツベイにチラと視線を吸われつつ、ユウリに向き直る。
「何より、私はこれが一番気になるんだけど……本当にキーストーンならなおさら。これを誰のものにするかみたいな話、もう終わらせてきたの?」
「あっ、うん! その石に気づいたのはクロトだし、暴れてたクリムガンを倒したのもアマネでしょ? だから、見つけたときにね」
「そっか、それならよかった。……慌ただしくてごめんなさい、ユウリ。こいつ居ても立っても居られないみたい。もし……よかったら、なんだけど。一緒に来ない? カレーご馳走になったし、ちゃんとお礼したいと思って」
「お礼だなんて、気にしなくていいよ。美味しそうに食べてくれたのが最高のお礼! それと、ごめんね。ハジツゲタウンでいくつか用事があって、一緒には行けないんだ」
「……そっか。じゃあ──」
「うん! 明日、お昼を食べたらそっちに行くよ! モノズについて相談したいって言われてるしね」
にっこりと、明るい笑顔。若干の誤解があったような気もするが、些細なことだ。結果的には……より嬉しい形になった。
彼女につられて表情が緩むのを実感しながら、ようやくクロトと話した内容を思い出す。彼がモノズを捕まえたと聞いて、私はちゃんと育てられるのかと疑った。彼はそれに意味深な問いで返した。要領を得ないままうやむやになってしまったが、彼が言いたかったのはつまり、当てがあるから安心していいということのはず。そしてそれはユウリのことなのだろう。どうやら出会って間もないはずのこの少女を、既にトレーナーとして強く信頼しているようだ。
しかし……どちらを疑うわけでもないが、彼はどうしてそう思えるのか。確かにエースバーンはよく鍛えられているように見えるものの、ボールを一つしか持っていないうえ、こうも親しみやすい彼女は、少なくとも一目見て強いと分かる類のトレーナーではない。
なんというか、情報面で置いていかれているのを感じる。特別察しが悪いというわけではないと思うが、そういう自己評価は意味を持てない。早めに確認しておくべきかと少しだけ悩み、けれどなんだかその必要はないような気がして──結局何も聞かずに、私たちは流星の滝を出た。
「うっ……眩し。……ん?」
かつて隕石が落ちたことで生まれたという流星の滝は、その成り立ちゆえか天井にちらほらと穴が開いている。日も高い今の時間ならぼんやりと太陽光が差し込んでいて、おかげで洞窟らしい暗闇というものには困らないまま事が済んだ、のだが。
それでも、仄暗さに目が慣れていたのには違いない。青々とした空の真ん中で燦然と輝く太陽が、ひどく眩しく見えて。
「……? ……気のせい?」
細めた視界の片隅で──萌黄色の閃光が、空を裂いた気がした。