ある日、山の中、私はヒグマさんに出会った。
ウチが所有する山で山菜を採ろうと、軽トラックで山道を登っている途中に。
ヒグマが唸り声を上げて、車めがけて突撃を開始してきたのである。
そんなこと現実にある?
「どうしてぇ!」
ここは本州である。
その上、山の中とはいえ勝手を知ったる我が家の敷地内であり。
ツキノワグマすら存在しないはずの里山である。
北海道にしか存在しないヒグマが出ることなんて、有り得なかった。
「なんで、なんでぇ!」
そんな疑問に対して、現実は非情である。
とにかくも、アクセルを踏むしかない。
方向転換する空間的余裕はあるが、逃亡の時間は無いのだ。
ひたすらに山道を走るが。
ヒグマの足は恐ろしく速く、軽トラックの荷台に容易く追いついた。
「なんでぇ!!」
悲鳴しか出てこない。
ヒグマが軽トラックの荷台に前脚をかけ、車体を大きく揺さぶった。
タイヤが虚しく空転し、さながら怪獣パニック映画のような衝撃が襲いかかる。
軽トラックから私の身体は投げ出され、地面を虚しく転がった。
「――っ!」
地面との衝突で身体を打ち、口から悲鳴が漏れた。
色々な思考がよぎる。
あ、これはもうダメだ。
どうして本州にヒグマがいるのかとか、なんで私がこんな目にとか。
そんな愚痴を呟く暇すら無い。
私はもう死ぬだろう。
ヒグマの影が、太陽を遮って私の前にのそのそと近寄る。
私はただ意識が朦朧とする中で、死が迫り来る瞬間を――
「待たれよっ!!」
諦めて待とうとして、代わりに声が響いた。
腹の底から響くような、壮年の男の声であった。
ヒグマめがけて振り下ろされる剣が、太陽の光を受けて鋭くきらめいた。
――え、剣?
私は目を疑った。
「お嬢さんは下がっておれ!!」
鈍い音と共に、まさしく剣がヒグマの皮膚に食い込んで。
少しはダメージを与えられたのか、それともそうでないのか。
わからない。
何よりわからないのは、その男の格好であった。
騎士である。
プレートアーマーにサーコート。
カイトシールドにロングソード。
多分、もっと詳しい人がいれば他に正しい呼び名はあるのだろうが。
うん、一般的な人間の考える、どう見ても西洋騎士の姿である。
顔は西洋人男性で、いわゆるイケオジという奴であった。
「あ、そうか」
これ夢だな。
ウチの里山にヒグマがいるわけねえ。
まして、ここは地元の里山で、ツキノワグマすらいない。
イノシシや鹿の数が増えて、農家が困っている程度のド田舎だ。
そんなところに西洋騎士が現れて、ヒグマと死に物狂いで殺し合っているわけがない。
まして騎士が助けようとしているのは、誠に残念ながら芋ジャージの女である。
とてもヒロインに相応しくはない格好であった。
齢も二十代後半と、若くもない。
だから、これは夢だ。
夢なのだ。
うん。
「――」
私は身体の痛みで、気を遠くしながら。
まあ夢なら夢で良かったが、どうせならば助けてくれた西洋騎士の勝利を祈った。
それぐらいはしてもバチは当たらないだろう。
うん。
そんなことを考えながら、意識を失った。
―――――
目を覚ます。
覚まして、まず気付いたのが背筋の痛みであり。
まるで身体を地面にぶつけた鈍痛だった。
「はい?」
周囲を見渡すと、見覚えがある。
間違いなくウチの敷地の里山であった。
「……」
そうっと、しずかにもう一度周囲を見る。
私の愛車である軽トラック(愛称:白銀号)があり、クルマのキーは挿したままであった。
荷台を見れば、大きな肉食獣の爪で引っかかれたとしか思えない痕が残っている。
「はい?」
もう一度、間抜けな声を出す。
ヒグマはいない。
あの人間以上の体格を誇る、私の細い身体などバリバリ食べてしまいそうな肉食獣は幸いなことにいなかった。
代わりに残されているのが、西洋騎士である。
「……あの、もしもし?」
辺りには血液が飛び散っている。
私の足下まで、それが川のように流れてきていた。
ヒグマの血液か?
いや、残念ながら、これは敗北した人間からのものであり。
幸いなのは、私の血ではないことで。
おそらくは、この西洋甲冑姿の騎士のもの――
負傷箇所はどうやら足であった。
「ちょっと?」
西洋騎士に近寄る。
プレートアーマーの胸部は凹んでいた。
まるでヒグマの突進を受けたかのようである。
また、腕には囓られた痕がある。
どうもヒグマは仕留めた獲物を食べようとしたが、それが出来なかったことから去ったのではないか。
そんなことが脳裏によぎる。
何はともあれだ。
これは――現実にあったことで。
「夢じゃない?」
ウチのド田舎の里山にヒグマが現れたことも。
それに襲われて殺されかけたことも。
なんでか知らないが、この西洋騎士が颯爽と躍り出て、助けようとしてくれたのも。
全てが現実であり、その、なんだ。
この騎士は私を助けたせいで死にかかっているというわけだ。
「ちょっと! 死なないでよ!!」
私はすぐさま正気に返り、西洋騎士を揺する。
意識を取り戻して最初に口にしたのは、心配であった。
「……無事であったか? 敗北こそしたが、騎士の名誉だけは守れたようだな」
その口から漏れ出たのは、確かに日本語であった。
私は答えようとして、状況を尋ねた。
「動ける? すぐに医者に連れて行くから!!」
「うむ。かたじけないが肩を貸してくれ。お嬢さんには重いだろうが……」
騎士の右腕を肩に回した。
全身に力を込め、うりゃーとばかりに片足を引きずる騎士を連れてだ。
「せーの!」
なんとか、騎士を我が軽トラックの荷台に、転がして乗せることに成功する。
火事場の馬鹿力というやつだ。
とにかく、とにかくだ。
事態は一刻を争うのだ。
荷台の、青いビニールシートに転がるイケオジを診療所に運ばねばならない。
病院だと?
そんな立派なものが我がド田舎にあるか!!
「いくよ! 白銀号!!」
私はキーが挿さったままの軽トラックに乗り込み、アクセルを踏んだ。
白銀号の調子は悪い。
だが、ヒグマにぶん殴られたところで完全停止しないのが軽トラックの頑丈さであった。
我が愛車は期待に応え、少なくとも騎士が診療所に着くまでの長い距離を。
私の命の恩人を助けるために、必死に持ちこたえてくれた。