ポケットモンスター Agent PLATINUM 作:ミノワ
鈍く光る時空の裂け目。
それは、彼らのすぐ数十メートル先にあった。
吸い込まれるようにその中へ入った2人は、現実世界の色彩を奪ったような、モノクロームの岩壁内に降り立つ。
ライルはデバイスを確認しながら進む。
「全然数値が安定しない。やっぱり長くは保たない……」
この空間がいつまで開いているのか分からない、底知れない焦燥と重圧が二人を襲う。
(もしいま穴が閉じれば?)
(こんな狭い場所でギラティナが現れたら?)
背筋に刃を押し当てられるような嫌な予感が、全身を駆け巡る。
その時、ルカの鋭い声が静寂を切り裂く。
「おい! 誰かあそこにいるぞ!!」
岩場の影に動く人影。二人は反射的に駆け出し、逃げ場のない行き止まりでその正体を捉えた。
「———ッ!!」
そこにいたのは、ポケモン、ましてやギラティナなどではない。
7〜8歳ほどの少年だった。埃まみれの服を着て、泣いていたのだろう、赤く腫れた目で二人を見上げていた。
ライルは駆け寄り、すぐに声をかける。
「大丈夫か!? こんなところで何してる!?」
「怪我はねーな?どこか痛いところはあるか?」
ルカも少年に声をかけ、素早く身体をチェックした。
少年は怯えたように、しかし静かに「大丈夫」と呟く。
「急いで脱出しよう。おれが担ぐ。お前、護衛を頼めるか?」
ライルは素早く丁寧に少年をおぶる。
ルカはクロバットを新たに繰り出し、ルガルガンとともに警戒に当たらせ、そしてライルに問いかけ返す。
「ああ。……他に見とくもんはねーか?」
その言葉を聞き、ライルは背中の少年に問いかけた。
「君、他には誰もいないか? 誰か一緒にいた人は?」
少年は消え入りそうな声で、「いない」と答えた。
それでもライルの脳裏には、この奥にダイゴがいるかもしれないという一縷の望みがよぎった。
しかし、背負った子どもの震えが、今優先すべきことをハッキリと示していた。
ライルはルカに告げる。
「……行こう」
「……ああ」
ライルとルカは少しずつ閉じゆく空間を慎重に駆け抜ける。光をめがけて突き進み、再びテンガンの森の草を踏みしめた瞬間、冷や汗が一気に噴き出す。
振り返ると穴は、ほんの数分ほどで閉じてしまった。二人は肩で息をする。
ライルとルカは安全な場所まで移り、少年を下ろすとその場に崩れ落ちるように座り込む。
しばらく介抱をし、少年の意識がややはっきりしてきたところで、ルカの声が森中に響き渡る。
「おいガキ! あんな危ねーところに一人でいんじゃねえ! 人様に迷惑かけんな!」
少年は驚きながらも「ご、ごめんなさ……」と言葉にならない謝罪を口にしている。
ライルはルカに対し、『お前だけはそれを言うな』と口を突いて出そうになるのを必死に堪え、少年に話しかける。
「……もう大丈夫だ、おれたちがついてるよ。だけど、こいつの言う通りだ。あそこは遊びで済まされる場所じゃない」
少年は涙ながらに訴える。
「違うんだ……お兄さんたち、ここどこ……? ぼく浜辺で遊んでたんだよ!」
「海だぁ? ここは山のど真ん中だ。どんだけ離れてると思ってんだよ」
顔を見合わせるライルとルカ。ライルが少年に問いかける。
「……なあ君、どこの浜辺で遊んでたんだ?」
少年は震える声で言い放った。
「ミオシティだよ……!!」
二人の顔から血の気が引く。ミオシティから、このテンガンの山中まで、小さな子どもがたったひとりだけで移動するなど、到底不可能。
それが示すのは、まるで物理的距離を無視するかのような空間移動の可能性。
これもギラティナが与える影響なのか。想定以上に進んでいる世界の歪みに、二人は言いようのない不安を覚えた。
◇ ◇ ◇
少年は力尽きたように眠っていた。傍らでルカがそれを見守っているのをライルは見ていた。
そしてライルは、画面上に表示されている数件の着信履歴をしばらく眺めていたが、覚悟を決めたようにボタンを押し、耳に当てた。通話先の相手はワンコールでそれを取る。
ライルは小さく息を吐き、電話口へ告げた。
「……シロナさん、お疲れ様です。反転世界内で少年一名を保護しました。これから本部に戻ります」
シロナは冷徹な声で、淡々と返した。
「……了解。少年を医務室に連れて、諸々の手続きを終えたら、すぐに私の執務室に来なさい。ルカちゃんとは別々に。わかったわね?」
「……はい、わかりました……」
リーダー室への呼び出し、しかも個別。独断専行、通信拒否、弁明の余地はない。
少年の一命を取り留めた安堵感と、これから待ち受ける「制裁」の予感。ライルは沈黙したまま、夕闇の迫るプラチナム本部へと帰路につく。
◇ ◇ ◇
医務室から伸びる白い廊下、眠りにつく少年を見届け、2人はリーダー室へと向かう。
「はぁ……終わった。憂鬱だ。今までシロナさんに怒られたことなんてなかったのに……」
ライルの足取りは、特に重そうだ。
「ほんと、お前は真面目ちゃんだなあ。いいか? こういうのは慣れだよ、慣れ。自慢じゃないが、あたしは昔、スクールでも毎日のように怒られてたぜ」
「あっそ」
全く誇れることではないのに、ルカはなぜか胸を張っている。ライルは冷ややかな視線をルカへと浴びせた。
「……じゃあまずはおれが入るから、お前は後からな。頼むから、暴れるなよ」
「そりゃあ、何を言われるかによるな」
ライルはルカの言葉を軽くスルーしながら、深く息を吐き、重厚な扉をノックした。
部屋に入ると、シロナは窓の外を眺めていたが、ゆっくりとライルの方へ向き直る。
大きな椅子に座り、腕を組むその姿には、静かながらも、さすがチャンピオンという堂々たる威圧感がある。
彼のボスは、ゆっくりと口を開いた。
「椅子にかけなさい。……任務、ご苦労様。お手柄だったわね」
「いえ、そんな……」
ライルは言われた通りに座るも、その体は極限まで縮こまっている。
シロナは表情を崩さず続ける。
「呼び出された理由は分かるかしら?」
「……はい。軽率な行動をしたと思います。通信を切り、独断で穴に飛び込んだこと……」
「そうね。結果オーライでは済まされない、ということも分かるかしら?」
「はい……ほんとに、おっしゃる通りで。申し訳ありませんでした」
ライルは覚悟を決めて頭を下げた。
厳しい叱責、あるいは謹慎処分。
あらゆる可能性を考え、身構える。
しかし、返ってきたのは意外な言葉だった。
「分かっているなら、いいわ」
「はい、甘んじて受け入れます。…………って、へっ?」
ライルは驚きのあまり顔を上げた。
「え、終わりですか?……勝手な行動を取ったのに、お咎めなし?」
シロナは真っ直ぐにライルを見つめて答える。
「ええ、そうよ」
「なんていうか、謹慎とか……懲罰とか」
シロナは片眉を上げた。
「なによ、懲罰受けたいの?」
「いや、そういうわけじゃ」
意外そうな顔をするライルに、シロナは答える。
「……確かにあなたは独断で行動をした。でも、私たちは雇われのエージェント。滅私奉公する軍隊じゃない。現場は刻一刻と状況が変わるから、全てに当てはまる絶対的なルールなんて存在しないの」
「……はい」
シロナは優しく慈愛に満ちた、それでいて揺るぎない声で言い放つ。
「メンバーの命を思い、慎重に行動しようとする君も、誰かが待っているかもと衝動のように駆け出す彼女も、私は間違っているとは思わない」
そのシロナの言葉にライルは問いかける。
「ならおれは、どうすれば良かったんですか……? 何が正解だったのか……」
シロナはその問いに、少しだけ首を振る。
「そうじゃない。『選んだ決断を正解にする』のよ」
ライルはハッとして目を開く。シロナはさらに続ける。
「そのためには、迷わないこと。迷いは間違いと弱さを生む。いざという時ほど、最速で決断しなさい。常に神経を研ぎ澄まして、その決断に責任を持ち、自分や仲間を守りなさい」
「……それって、とんでもなく難しいんじゃ……」
シロナは一呼吸おき、威風堂々たる振る舞いで答えた。
「それがリーダーというものよ」
その表情にはリーダーとして、チャンピオンとして、重い責務を負う者の強さが溢れ出していた。
シロナの瞳は、ライルの「今」ではなく「未来」を見据えていた。その信頼の眼差しは、彼を奮い立たせるには充分なものだった。
しかし、ダイゴやシロナという並外れた傑物への道は、辿り着くには余りにも遠い。
その重さを噛み締めるようにライルは言う。
「わかりました。ご指導、ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
部屋を後にしたライルが廊下を見渡すと、そこで待っているはずのルカの姿はどこにもない。
「あいつ、いねーじゃん……。どこに行ったんだ?」
不器用な彼女のことだ、叱られるのが嫌になったのかも知れない。
そう考えるも、ライルはとりあえず、空腹を満たし精神的な疲れを癒やすために食堂へと向かった。
◇ ◇ ◇
ルカは鏡の前にいた。
そこは執務室から近い女性トイレ。
彼女は気怠そうに独り言を呟く。
「あ〜、やっぱりめんどくせぇ。この歳になってまで説教されるなんざごめんだぜ」
ライルの推測通り、彼女は逃げ込んでいた。
(いっそのことバックれちまうか……?)
そんなことを考えていたが、ふとルカの頭によぎるものがあった。
それは——頼んでもいないのに朝ご飯を差し出してくるし、真面目すぎるほど真剣に仕事に向き合う、少年の姿、そしてその言葉。
『信じてみたいんです。こいつの力は、本物ですから』
(……ったく、しょうがねえ)
ルカは頭を掻きながら、小さな溜め息を吐き、観念したように再びリーダー室の扉へと向かった。
◇ ◇ ◇
その少し後、ライルが軽食を摂っていると、ルカが戻ってくる。
そして椅子を引き、ライルの真横に座った。
二人の間には、任務中の張り詰めた空気とは違う、どこか穏やかで内省的な時間が流れていた。
「お前、いなかったじゃん。ちゃんとシロナさんとこ行ってきたんだろうな」
「ああ、行ってきたよ。さっきは手洗いに行ってただけだ」
ライルはここでも、ルカのために取っていた軽食を差し出しながら言う。
「何言われたんだよ……。お前のことだから、また突っかかったりしてないだろうな」
「してねーし。……別に、普通だよ」
ルカはそう言いながら軽食を手に取り、自分の頭の中だけで、シロナとのやり取りを反芻していた。
* * *
ルカが無言で部屋に入ると、シロナは真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「そこにかけなさい。ご苦労だったわね。あなたたちのおかげで人の命が救われた」
ルカは椅子に腰を下ろし、背もたれにもたれかかる。
「……最終的に行くと判断したのは銀髪だ」
シロナは小さく微笑む。
「ええ、そうかもね」
その笑みを崩さぬまま、穏やかに問いかけた。
「初任務はどうだったかしら。今後もやっていけそう?」
肩をすくめて答えながらも、ルカは逆にシロナに問う。
「さあ、まだ分からない。……ていうか、怒らねーの?」
「なぜ?」
「いや、呼び出されるってことは大体そうだろ」
シロナは思わず口元を緩めた。
「ふふ、問題児だったのかしら? 少なくとも私は今、そのつもりはないわ」
ルカは少しだけ目を丸くする。
「……そうなんだ」
「ええ」
静かな空気が部屋を満たす。
シロナは腕を組み直し、真っ直ぐルカを見据えた。
「ハッキリ言って、私はあなたをイレギュラーだと思ってる。衝動的だし、チームに混乱や衝突をもたらすこともあるかもしれない」
ルカは少しだけ拳を握る。
「…………」
「でも、あなたは迷わない。迷わない人間は例外なく、強い。そしてあなたのその強さには、理由があるのでしょうね。それを無理に聞き出すつもりはないけれど——」
ルカは握った拳を軽くほどき、その真っ直ぐな視線を受け止めた。
「この組織に所属するなら、その力を今回のように、誰かのために、正しいことのために使うことを考えてみなさい。私から言いたいことはそれだけよ」
ルカは少しだけ俯き、小さく返事をした。
「……ウス」
* * *
——迷わないことが強さ
シロナの言葉は、自分の存在を丸ごと肯定されたような不思議な感覚を抱かせるものであった。
「……呼び出されて怒られなかったのは、初めてだ」
ルカのその言葉に、ライルは少し驚いたような顔をして、それから優しく笑う。
「……そうか。良かったな」
食堂の片隅で、二人は初めて「相棒」としての言葉を交わしたのかもしれない。
ルカは紙パックのジュースを指先で弄びながら、小さく口を開く。
「なあ銀髪。……悪かったよ」
突然の謝罪に、ライルは手を止め、思わずルカの方を見た。
「……何だよ急に」
「……なんとなくだよ」
肩をすくめるルカに対して、ライルは苦笑し肩の力を抜いた。
「お前が謝ることなんてあんだな」
「うっせえ」
少しだけ沈黙が流れる。
ライルは静かに息を吐き、穏やかな口調で続けた。
「……気にすんなよ。あの時、あの子を助けられたのはお前のおかげだ」
ルカは何も答えず、ただライルの言葉を黙って聞いている。
「……だけど同じように、もう目の前で仲間を失いたくない。そのために行動したいんだ。これからもきっと迷うことだらけなんだろう。それでも、進んでみるよ」
ルカはただ真っ直ぐにライルを見つめていた。
その瞳には、今までのような刺々しさはなく、ライルという人間の「不器用な誠実さ」を見る静かな光があった。
その視線が少し照れくさくなり、ライルは目を逸らして話題を変える。
「それに、まだ仕事は残ってるぜ」
「おい、まだ仕事すんのかよ」
呆れるルカに、淡々と続けるライル。
「当たり前だ。影響がどんどん大きくなってるんだ。あの子に話を聞いて、報告書をまとめなきゃな。それに、ミオシティの近辺にも調査ポイントがあった。明日、あの子を送り届けて、そのついでに調査しに行こう」
ルカは溜め息をつきながら呟いた。
「過労死すんぞ……。まあ、飽きるまでは、あたしも手伝ってやるよ」
それは、不器用なルカなりの共闘宣言だった。
二人の間に、絆が確かに結ばれた瞬間であった。