第一章 ヨキ
目を覚ますと、見慣れない天井が広がっていた。
木造の梁がむき出しになった質素な部屋。窓から差し込む朝日が、埃の舞う空気を照らしている。
「……どこだ、ここ」
寝ぼけ眼のまま体を起こす。
昨夜の記憶が曖昧だ。
仕事を終え、帰宅し、そのまま眠った――はずだった。
部屋を見回しても、見覚えのある家具は一つもない。
違和感を抱えたまま洗面台へ向かい、水で顔を洗う。
冷たい水が頬を打ち、ようやく頭が冴えてきた。
「ふぅ……」
ゆっくりと顔を上げる。
鏡を見た瞬間、思考が止まった。
「……え?」
鏡の向こうに映っていたのは、自分ではない。
少しふくよかな体格。
脂ぎった顔。
どこか頼りなく、それでいて小狡そうな印象を受ける中年男性。
何より、その顔には見覚えがあった。
「……誰だ?」
いや。
違う。
知らない顔ではない。
知っている。
知っているからこそ、理解したくなかった。
数秒後、全身から血の気が引いた。
「……ヨキ?」
思わず名前が口をついて出る。
漫画『鋼の錬金術師』に登場した、あのヨキ。
何度も読み返した作品の脇役。
ユースウェル炭鉱を私物化し、住民から恨まれていた小悪党。
それが、鏡の中からこちらを見返していた。
「いやいやいや……」
頬をつねる。
痛い。
もう一度つねる。
やっぱり痛い。
「夢じゃないのかよ……」
膝から力が抜け、その場へ座り込んだ。
転生。
そんな荒唐無稽な言葉しか、この状況を説明できない。
しかも、よりにもよってヨキ。
「何で主人公じゃないんだよ……」
乾いた笑いしか出てこない。
「よりによって、ヨキかよ……」
コンコン、と扉が叩かれた。
「ヨキ中尉、お時間です。」
部屋の外から副官の声が聞こえる。
「本日はユースウェル炭鉱の視察予定となっております。」
「……あ、ああ。」
反射的に返事をすると、部下はそのまま立ち去っていった。
ユースウェル。
その地名を聞いて、胸の奥がざわつく。
どこかで聞いたことがある。
いや、知っている。
知っているはずなのに、記憶が霧に包まれたようにはっきりしない。
「ユースウェル……ユースウェルか。」
頭を押さえながら軍服へ袖を通す。
鏡に映るヨキの姿には、どうしても慣れなかった。
「頼むから、俺の知ってるユースウェルじゃありませんように……」
そんな願いを口にしながら、ヨキは部屋を出た。
◇
馬車に揺られ、炭鉱町へ向かう。
向かいに座る副官は、必要以上に姿勢を正していた。
視線は合わせない。
話しかけてもこない。
ただ、こちらの機嫌を損ねないよう、じっと息を潜めているように見えた。
(……俺、部下にも怖がられてるのか?)
嫌な汗が背中を伝う。
車窓から見える景色はどこか活気がなく、建物も薄汚れていた。
しばらくすると、巨大な炭鉱施設が姿を現す。
「中尉、お着きしました。」
「ああ。」
馬車を降りた、その瞬間だった。
「帰れ!」
怒号が飛ぶ。
「俺たちからまだ搾り取る気か!」
「人の血で飯を食う寄生虫が!」
次々と罵声が浴びせられる。
ヨキは反射的に肩を震わせた。
炭鉱夫たちがこちらを睨んでいる。
老人は顔を背け、若者は拳を握り締めていた。
幼い子どもでさえ、親の後ろから怯えた目でこちらを見ている。
ガツン、と足元へ小石が転がった。
誰かが投げたのだろう。
「……え?」
隣の副官は何事もなかったかのように立っている。
「いつものことです、中尉。」
「いつもの……?」
「はい。この程度なら大人しい方ですよ。」
副官は慣れた様子で答えた。
ヨキは言葉を失う。
町の人々の目には、憎しみしか宿っていなかった。
その視線が胸に刺さる。
「……ヨキって。」
「こんなに嫌われてたのか。」
思わず漏れた独り言は、誰にも届かなかった。
◇
視察を終え、帰路につく。
炭鉱の設備は老朽化し、作業員たちの服は煤だらけだった。
町の建物も傷みが激しく、笑顔はほとんど見られない。
これが、ヨキの治める町。
胸の奥が重くなる。
「……。」
断片的だった記憶が少しずつ繋がり始める。
ヨキ。
ユースウェル。
炭鉱。
住民からの反感。
原作の細かな流れまでは思い出せない。
けれど、自分がどんな作品の世界にいるのかは分かる。
鋼の錬金術師。
錬金術。
軍。
国家錬金術師。
ホムンクルス。
そして、ヨキという男の末路。
「このままじゃ……」
嫌な予感だけが膨らんでいく。
それでも、一つだけ確信できることがあった。
「このまま、このヨキとして生きていたら……ろくな未来にならない。」
拳を握る。
死にたくない。
惨めな人生なんて送りたくない。
だったら。
「……変えよう。」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
「まずは、この炭鉱からだ。」
静かに生きたい。
ただ、それだけだった。
そのためには、この未来を少しだけ変えるしかない。
ヨキはまだ知らない。
その“少しだけ”が、自分の人生を大きく狂わせることを。