翌朝。
東方司令部の執務室には、いつもと変わらない時間が流れていた。
書類をめくる音。
通信機器の作動音。
軍人たちが行き交う足音。
ただ一つ。
ヨキの席だけが空いていた。
リザは時計へ目を向けたあと、静かに口を開く。
「ヨキ中尉が、まだ出勤しておりません。」
机へ向かっていたマスタングは、書類から目を上げなかった。
「遅刻か。」
「現在のところ、無断欠勤です。」
「昨日は非番だったはずですが。」
リザの声には、わずかな呆れが含まれていた。
「昨夜も飲みに行っていたのではないか。」
マスタングは面倒そうに息を吐く。
「放っておけ。」
「出勤してきたら始末書を書かせろ。」
「承知しました。」
リザは手元の書類へ視線を戻す。
「それと。」
「鋼の錬金術師がお見えになっています。」
マスタングが、ようやく顔を上げた。
「青の団の件か。」
「そのようです。」
「やれやれ。」
マスタングは椅子から立ち上がる。
「彼に借りを作るのは、気色が悪いな。」
そう言いながら、執務室を後にする。
リザも資料を手に、そのあとへ続いた。
室内へ、再び仕事の音が戻る。
その中で。
ハボックだけが、何もせずにヨキの空席を見つめていた。
昨日の酒場。
俯きながら、推測を語っていたヨキ。
『俺の考えすぎかもしれないな。』
無理に浮かべていた、ぎこちない笑顔。
ハボックは何かを考え込むように、静かに目を細めた。
◇
冷たい床の感触で、意識が浮かび上がった。
「……う。」
ヨキはゆっくりと目を開く。
薄暗い部屋。
鼻を刺す薬品の匂い。
頭が重い。
視界もまだ揺れている。
身体を起こそうとしたが、手足がまったく動かなかった。
「……何だ。」
両手首と両足首には、分厚い金属製の拘束具が嵌められている。
さらに、その拘束具は床へ固定されていた。
身体の下へ視線を落とす。
複雑な線。
円。
記号。
幾重にも重なる図形。
巨大な錬成陣。
その中心に、自分は寝かされていた。
(……やられた。)
記憶が蘇る。
タッカー宅。
応接室。
確認。
穏やかな笑顔。
背後から回された腕。
薬品の染み込んだ布。
「起きましたか。」
暗がりの向こうから、声がした。
ショウ・タッカーが、ゆっくりと姿を現す。
いつもと同じ穏やかな顔。
まるで、昨日起きたことなど何でもなかったかのように。
「そろそろ薬が切れる頃だと思っていました。」
タッカーは床の錬成陣へ目を落とす。
「本当は。」
「あなたが目を覚ます前に、すべて終わらせたかったのですが。」
困ったように笑う。
「準備が間に合いませんでした。」
「ニーナちゃんと……アレキサンダーは。」
ヨキは乾いた喉から声を絞り出した。
「二人は、どこにいる。」
「しばらく知人の家へ預けています。」
「あなたがいくら叫んでも、聞こえませんよ。」
ヨキは、わずかに息を吐いた。
少なくとも。
今、この家にはいない。
それだけは救いだった。
「俺を……どうするつもりだ。」
「分かりませんか?」
タッカーは錬成陣の外側へ立つ。
「あなたは、私がしたことに気付いた。」
「そして。」
「これから私がしようとしていることにも。」
「そのような軍人を、このまま帰すわけにはいきません。」
「口封じか。」
「それだけでは、もったいないでしょう。」
タッカーの口元が、静かに緩んだ。
「あなたには、材料になっていただきます。」
「俺を使って……合成獣を作るのか。」
「ええ。」
「以前よりも、良い成果が得られるかもしれません。」
「査定にも間に合う。」
その声には、喜びも怒りもなかった。
ただ、研究内容を説明するような平坦さだけがあった。
「……狂ってるな。」
「よく言われます。」
タッカーは少しも気にした様子を見せない。
「ですが。」
「研究者とは、そういうものではありませんか。」
「未知を知りたい。」
「手の届かなかった場所へ進みたい。」
「そのために必要な材料を使う。」
「それだけのことです。」
「自分の家族でもか。」
タッカーの動きが、わずかに止まる。
しかし、すぐに笑顔へ戻った。
「人間は皆、都合よく命の価値を決めます。」
「家族ならば尊い。」
「他人ならば仕方がない。」
「敵ならば殺してもいい。」
ゆっくりとヨキへ近付く。
「軍人であるあなたなら、よくご存じでしょう。」
「イシュヴァールでは。」
「あなた方軍人が、何万人もの命を奪った。」
「国家錬金術師を人間兵器として投入し。」
「子どもも。」
「老人も。」
「罪のない者たちも殺した。」
タッカーは肩をすくめた。
「私は。」
「ほんの数人ですよ。」
「違いは。」
「国の命令か。」
「私の意思か。」
「それだけではありませんか。」
ヨキは黙ってタッカーを見つめた。
イシュヴァール。
この国が行った蛮行。
否定できる話ではない。
軍の人間が、多くの命を奪ったことも事実だ。
それでも。
「違う。」
ヨキは、はっきりと答えた。
「何が違うのです?」
「軍がしたことを正しいなんて言わない。」
「国の命令なら、何をしても許されるとも思わない。」
「それでも。」
拘束具へ力を込める。
「目の前の子どもを。」
「自分を信じて笑っている娘を。」
「研究材料にする人間を、俺は認めない。」
タッカーは静かに首を傾げた。
「感情論ですね。」
「そうかもしれない。」
「軍人らしくありません。」
「かまわない。」
ヨキは苦笑した。
「俺は、立派な軍人になりたいわけじゃない。」
「助けられる人を、見捨てたくないだけだ。」
タッカーはしばらくヨキを見つめていた。
やがて、残念そうに息を吐く。
「あなたなら。」
「もう少し、私のことを理解してくださると思ったのですが。」
「理解したから止めに来たんだよ。」
「そうですか。」
タッカーは錬成陣へ視線を落とす。
「では。」
「始めましょう。」
ゆっくりと床へ手を伸ばす。
(まずい。)
ヨキは必死に身体を動かそうとする。
拘束具は、びくともしない。
(誰も来ない。)
(俺は誰にも相談しなかった。)
(ハボックには推測を話しただけだ。)
(ここにいることすら伝えていない。)
タッカーの手が、錬成陣へ近付いていく。
(考えろ。)
(何かないか。)
(時間を稼ぐ方法は。)
「タッカー。」
ヨキは声を張った。
タッカーの手が止まる。
「何でしょう。」
「俺が消えたら。」
「本当に誰も気付かないと思ってるのか。」
「突然の異動を繰り返している軍人です。」
「誰も不思議には思わないでしょう。」
「そうかな。」
「俺は昨日。」
「君のことを、一人の同僚に話した。」
タッカーの笑みが、ほんの少しだけ固くなる。
「資料の内容も。」
「俺の推測も。」
「全部だ。」
嘘ではない。
ただ、ハボックが助けに来る保証など何もなかった。
「俺が消えたら。」
「同僚は君を疑う。」
タッカーは静かに答えた。
「疑うことと、証明することは違います。」
「あなた自身が言ったのでしょう。」
「証拠はない、と。」
ヨキは歯を食いしばる。
その通りだった。
「それでも。」
「人間は、気になったら調べるものだよ。」
「少なくとも。」
「あいつは、そういう奴だ。」
タッカーは、しばらく黙っていた。
しかし。
やがて、再び穏やかな笑みを浮かべる。
「では。」
「その方が来る前に終わらせましょう。」
再び、床へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
――ドンッ!!
激しい音とともに、研究室の扉が蹴破られた。
「動くな!!」
ハボックが、扉の向こうから飛び込んでくる。
タッカーが振り返る。
「なっ――」
その一瞬で、ハボックは距離を詰めた。
タッカーの腕を掴み、床へ叩きつける。
「ぐっ……!」
背中へ膝を押し当て、腕をねじ上げた。
ヨキは呆然と、その姿を見つめる。
自分では振りほどけなかったタッカーを。
ハボックは、難なく制圧している。
その直後。
赤い外套を纏った少年と、巨大な鎧が研究室へ飛び込んでくる。
「兄さん!」
「ああ!」
少年は床一面へ描かれた錬成陣を一目見ると、その中へ踏み込んだ。
靴底で錬成陣を踏み荒らす。
さらに両手を打ち合わせ、床へ触れる。
青白い光が走った。
「うおっ!」
ヨキの手足を拘束していた金具が、音を立てながら変色していく。
表面に亀裂が入り、急速に脆くなった。
「アル!」
「うん!」
鎧の少年がヨキの傍へ膝をつく。
「少しだけ我慢してください!」
両手で拘束具を掴み、一気に引きちぎった。
金属が砕け、ヨキの手足が自由になる。
「大丈夫ですか?」
「……助かりました。」
身体を起こそうとしたが、薬の影響が残っている。
力が入らない。
鎧の少年が、身体を支えてくれた。
そして。
三人の後ろから。
マスタングが、ゆっくりと研究室へ入ってきた。
破壊された扉。
踏み荒らされた錬成陣。
床へ押さえ込まれているタッカー。
拘束されていたヨキ。
それらを一目見て。
マスタングの表情から、わずかな笑みすら消えた。
「ショウ・タッカー。」
低い声が響く。
「国家錬金術師としての権限を、一時停止する。」
「詳しい話は、東方司令部で聞かせてもらおう。」
遅れて入ってきた憲兵たちが、タッカーの両腕へ手錠を掛ける。
「これは誤解です。」
タッカーは、最後まで穏やかな声を崩さなかった。
「私は、ただ研究を――」
「言い訳は後で聞く。」
マスタングが冷たく遮る。
タッカーは憲兵に連れられ、研究室を出ていった。
その背中を見送り。
ヨキは、ようやく全身から力が抜けるのを感じた。
「……助かった。」
「本当に……。」
その場へ座り込みそうになる。
ハボックが素早く肩を貸した。
「中尉。」
「生きてます?」
「なんとか。」
「そりゃ良かった。」
いつもの軽い調子。
だが。
ハボックの表情には、はっきりと怒りが滲んでいた。
「しかしまぁ。」
「ここまでするなら、言ってくださいよ。」
ヨキは申し訳なさそうに顔を伏せる。
「すまなかった。」
「こんなことで、君に迷惑を掛けるわけにはいかなかった。」
ハボックは、大きくため息を吐いた。
「中尉。」
「そういうところですよ。」
「俺たち、仲間でしょ?」
「一人で抱え込まれる方が、よっぽど迷惑です。」
「昨日あんな話を聞かされたら。」
「今日来なかった時点で、気になるに決まってるじゃないですか。」
「……怒ってる?」
「怒ってますよ。」
ハボックは即答した。
「でも。」
「生きてたんで、今日はこれくらいにしときます。」
ヨキは少し驚いたように目を瞬かせ。
やがて、小さく笑った。
「ありがとう。」
「次からは、ちゃんと相談するよ。」
「絶対ですよ。」
「ああ。」
少し離れた場所で。
赤い外套の少年と、鎧の少年が二人のやり取りを見ていた。
「仲いいんだな。」
赤い外套の少年が、小さく笑う。
「うん。」
鎧の少年も、優しく頷いた。
ヨキは、その声に気付いて二人へ目を向けた。
「ところで。」
「そちらの方たちは?」
ハボックが、ようやくいつもの笑みを浮かべる。
「鋼の錬金術師と、その弟さんですよ。」
「あなたが……鋼の錬金術師。」
「ああ。」
少年は少し胸を張る。
「エドワード・エルリック。」
「鋼の錬金術師だ。」
鎧の少年が丁寧に頭を下げた。
「弟のアルフォンスです。」
「ヨキ中尉です。」
ヨキは身体を支えてもらいながら、深く頭を下げた。
「リオールでは、本当にありがとうございました。」
エドワードが、少し不思議そうな顔をする。
「あなたがいなければ。」
「私は今、ここにはいませんでした。」
エドワードはヨキの顔を見つめる。
「礼なんていいよ。」
エドワードは照れくさそうに鼻をこする。
「困ってる人を助けるのは、当たり前だろ。」
その言葉に。
ヨキは、ほんの少し目を細めた。
「ええ。」
「本当に、その通りですね。」
◇
その夜。
ハボックの提案で、小さな打ち上げが開かれた。
ヨキ。
ハボック。
エドワード。
アルフォンス。
四人は、イーストシティの飲食店へ集まっていた。
「今日は、中尉のおごりです!」
ハボックが高らかに宣言する。
「勝手に決めるなよ。」
「命の恩人ですよ?」
「それを言われると弱いなぁ。」
ヨキは苦笑した。
「しょうがない。」
「今日は俺が出すよ。」
「よっしゃ!」
ハボックが嬉しそうに拳を握る。
エドワードも、目の前に並んだ料理へ視線を輝かせた。
「じゃあ、遠慮なく食うぞ!」
「兄さん。」
「遠慮はしてよ。」
「今日はいいよ。」
ヨキは笑う。
「助けてもらったお礼だからね。」
「中尉。」
「気前いいですねぇ。」
「君が言わせたんだろ。」
全員が笑う。
しばらくして。
ヨキとハボックが、酒を飲みながら店の話を始める。
「そういや中尉。」
「この前の店、どうでした?」
「悪くなかったね。」
「今度は、もう少し落ち着いた所がいいかな。」
「女の子がいる所ですか?」
「もちろん。」
その会話を、アルフォンスが興味深そうに聞いていた。
「女の子がいるお店って、どんな所なんですか?」
「アル!」
エドワードが慌てて止める。
ヨキは鎧の少年へ笑いかけた。
「アルくんも。」
「いつか連れて行ってあげるからね。」
「中尉!?」
ハボックが吹き出す。
「何を教えてるんですか!」
また、笑いが起きた。
ヨキも。
今度は心から笑っていた。
◇
同じ頃。
東方司令部。
リザは書類を抱え、マスタングの執務室へ入った。
「あら。」
「大佐は行かれなかったのですか。」
マスタングは窓の外を眺めていた。
街の灯りが、夜のイーストシティを照らしている。
「野郎だけの飲み会に興味はない。」
そう言って、小さく笑った。
しばらくの沈黙。
やがて。
マスタングが静かに口を開く。
「妙な男だ。」
「ヨキ中尉ですか。」
「ああ。」
「臆病そうに見えて、危険へ飛び込む。」
「人を見る目だけは、異様に鋭い。」
「優秀なのか、無謀なのか。」
リザは少しだけ考え。
静かに答えた。
「少なくとも。」
「放っておけない方ではあります。」
マスタングは苦笑する。
「そうだな。」
窓の外へ視線を戻す。
「東方へ来てもらって。」
「正解だったのかもしれんな。」
リザは、その言葉に静かに微笑んだ。