その夜。
リゼンブールの夜は静かだった。
窓の外では虫の声が響き、穏やかな風が庭木を揺らしている。
長旅の疲れもあったのだろう。
ニーナはアレキサンダーへ寄り添うように眠っていた。
ウィンリィはその寝顔を優しく見つめると、小さく微笑み、そっと部屋を後にする。
「それじゃ、おやすみ。」
ピナコも立ち上がり、
「年寄りは先に寝るよ。」
と言い残して自室へ戻っていった。
静かな居間には、ヨキ、エドワード、アルフォンスの三人だけが残る。
しばらく、誰も口を開かなかった。
湯飲みから立ち上る湯気だけが、静かに揺れている。
やがて。
「……ヨキさん。」
静寂を破ったのは、アルフォンスだった。
「聞いてもいいですか。」
「もちろん。」
ヨキは穏やかに頷く。
アルフォンスは少し迷うように視線を伏せ、それから真っ直ぐヨキを見つめた。
「どうして、あそこまで分かったんですか。」
エドワードも腕を組みながら続ける。
「俺も気になってた。」
「マルコー先生のこと。」
「賢者の石のこと。」
「尾行のこと。」
「全部だ。」
「正直、訳が分からねぇ。」
ヨキは二人を見つめ、小さく笑った。
「そうだろうね。」
湯飲みを手に取り、一口だけ茶を飲む。
そして静かに口を開いた。
「全部は話せない。」
二人の表情が僅かに引き締まる。
「話せない?」
「ああ。」
「話せないこともある。」
「ただ。」
「隠したままでいるのも、不誠実だと思う。」
ヨキは穏やかに続けた。
「話せる範囲でなら、全部話そう。」
エドワードとアルフォンスは黙って頷いた。
「まず最初に。」
「君たちは勘違いをしている。」
「俺は何でも知っている人間じゃない。」
「ただ。」
「昔から、情報を集めて考えるのが好きだった。」
「考える?」
アルフォンスが首を傾げる。
「思考実験だよ。」
「一つ情報があれば。」
『もし、こうだったら。』
『いや、こちらの方が自然じゃないか。』
『なら次はどうなる。』
「そんなことばかり考えて遊んでいた。」
「だから。」
「今はたまたま、それが上手く当たっているだけなんだ。」
エドワードは納得できないという顔をした。
「いや。」
「そんなレベルじゃねぇだろ。」
「俺たちの事情なんて。」
「あんたには話してねぇ。」
「そうだね。」
ヨキは素直に頷いた。
「だから。」
「君たち自身を見ていた。」
二人は黙る。
「国家錬金術師になった少年が。」
「軍へ仕えることより。」
「何かを探すように旅をしている。」
「しかも。」
「普通の研究資料では満足していない。」
「もっと深い何かを探している。」
ヨキは二人を見た。
「だったら。」
「失った何かを取り戻すために。」
「賢者の石を探している。」
「そう考えるのが、一番自然だった。」
アルフォンスが苦笑する。
「僕たち。」
「そんなに分かりやすかったですか。」
「普通なら分からないと思う。」
ヨキも苦笑した。
「でも。」
「人を見るのが好きなんだ。」
「何を考え。」
「何を求め。」
「何を隠そうとしているのか。」
「つい考えてしまう。」
エドワードが頭を掻く。
「敵には回したくねぇ人だな。」
「褒め言葉として受け取っておくよ。」
三人は少しだけ笑った。
重かった空気が、ほんの少し和らぐ。
だが。
ヨキの表情は再び真剣なものへ変わった。
「本当に違和感を覚えたのは。」
「リオールで見た。」
「あの賢者の石だった。」
居間の空気が静まり返る。
「錬金術は。」
「等価交換が基本だ。」
「何かを得るには。」
「必ず何かを失う。」
「それは俺みたいな素人でも知っている。」
「でも。」
「あの石だけは違った。」
エドワードも静かに頷く。
「……。」
「錬金術師でもないコーネロが。」
「あれほどの錬成を何度も繰り返す。」
「代償が見えない。」
「それが、一番気になった。」
ヨキは湯飲みを見つめながら続ける。
「だから。」
「あれは兵器だと思った。」
「兵器……。」
アルフォンスが呟く。
「人を簡単に戦わせる道具。」
「戦争の形を変える道具。」
「そんな印象だった。」
ヨキは静かに続けた。
「なら。」
「これほど危険な物を。」
「誰が研究していたのか。」
「そこから調べ始めた。」
「そこで。」
「ドクター・マルコーという人物を知った。」
「賢者の石を研究していた国家錬金術師。」
「その後、消息を絶った人物。」
エドワードが身を乗り出す。
「でも。」
「どうして居場所まで。」
「そこは。」
ヨキは少し照れ臭そうに笑う。
「完全に思考実験だよ。」
「研究者なら。」
「追われる立場になった時。」
「どんな場所へ身を隠すか。」
「まず、自分ならどうするかを考えた。」
「町を転々とするか。」
「偽名を使うか。」
「いや。」
「研究者なら。」
「きっと人を救う仕事だけは、捨てられない。」
「大きな町か。」
「人里離れた村か。」
「軍の目が届きにくく。」
「それでいて。」
「医者として暮らせる場所。」
「そんな場所を、一つずつ潰していった。」
「さらに。」
「町医者として腕のいい先生がいる。」
「そんな噂をいくつか照らし合わせた。」
「だから。」
「マウロ先生が。」
「ドクター・マルコーである可能性は高い。」
「そう考えた。」
ヨキは肩を竦める。
「もちろん。」
「外れていたら。」
「君たちに怒られていただろうけどね。」
一瞬の沈黙。
そして。
「……。」
エドワードは深く息を吐いた。
「やっぱり。」
「普通じゃねぇよ。」
「その頭ん中、一回見せてほしいくらいだ。」
ヨキは苦笑する。
「ありがとう。」
「褒め言葉として受け取っておくよ。」
「……でも。」
「ここまでの話は。」
「まだ序の口なんだ。」
◇
誰も言葉を発しない。
ヨキは湯飲みを一口含み、静かに息を吐く。
「一つ。」
「君たちに聞きたい。」
エドワードが顔を上げる。
「……何だ?」
「君たちは。」
「今の軍を、どう見ている?」
突然の問いだった。
エドワードとアルフォンスは顔を見合わせる。
「急にどうしたんだ?」
ヨキは小さく笑った。
「いや。」
「思考実験だよ。」
その一言だけで、二人は続きを待った。
「私がリオールへ赴任してから。」
「ずっと考えていたことがある。」
「どうにも。」
「この国は、不自然なんだ。」
二人は黙って聞いている。
「私はこれまで。」
「町を立て直しては異動。」
「町を立て直しては、また異動。」
「そんなことを何度も繰り返してきた。」
「最初は偶然だと思っていた。」
「でも。」
「回数が重なると、嫌でも考えるようになる。」
「まるで。」
「平和になることを、望んでいないようだと。」
エドワードが眉を寄せる。
「……。」
「戦争には。」
「金がいる。」
「兵器もいる。」
「食料もいる。」
「はっきり言って。」
「採算が取れるものじゃない。」
少し間を置き。
ヨキは静かに続けた。
「だから私は考えた。」
「もし。」
「この国が、本当に必要としているものの為に。」
「わざわざ戦争を起こしているのではないかと。」
「それは何なんだろう、と。」
「話を戻そう。」
「私はリオールで賢者の石を見た。」
「錬金術師でもない男が。」
「常識では考えられない錬成を行っていた。」
「私は錬金術には詳しくない。」
「だから。」
「兵器として見た。」
「軍人だからね。」
ヨキは苦く笑う。
「兵器なら。」
「必ず代償がある。」
「そう考えるのが自然だ。」
アルフォンスが静かに尋ねる。
「だから……。」
「人の命だと?」
「確証はない。」
「でも。」
「平和を拒む国。」
「終わらない戦争。」
「そして。」
「常識外れの錬成。」
「全部を並べると。」
「どうしても。」
「人の命が、どこかで使われているんじゃないか。」
「そんな結論しか出てこなかった。」
エドワードもアルフォンスも、何も言えなかった。
あまりにも突飛な話だ。
だが。
今までヨキの思考実験は、何度も現実になってきた。
◇
ヨキの表情が少しだけ引き締まる。
「そして。」
「ここからが。」
「私が一番話したかったことだ。」
エドワードもアルフォンスも自然と姿勢を正した。
「私は。」
「軍そのものを疑っている。」
二人は息を呑む。
「もちろん。」
「証拠なんてない。」
「全部。」
「思考実験だ。」
「でも。」
「もし。」
「私の考えが正しいなら。」
「軍の上層部には。」
「賢者の石について知っている者がいる。」
「そして。」
「その存在を隠そうとしている者もいる。」
静寂が流れる。
「リオール以降。」
「私には尾行が付くようになった。」
「軍なのか。」
「それ以外なのか。」
「今でも分からない。」
「でも。」
「ドクター・マルコーの場所だけは。」
「かなり自信があった。」
「だから。」
「私が向かえば。」
「尾行者にも、その場所を教えることになる。」
「そう考えた。」
「だから。」
「君たちだけで向かってもらった。」
「私は。」
「尾行を引き受けた。」
エドワードが目を丸くする。
「列車で一緒だった女。」
「彼女だ。」
「話しかけた。」
「席へ案内した。」
「世間話もした。」
エドワードは頭を抱えた。
「いやいやいや!」
「そこじゃねぇだろ!」
「尾行相手と世間話って何だよ!」
アルフォンスも思わず苦笑する。
「兄さんの言う通りだよ……。」
ヨキは照れくさそうに笑った。
「少しでも時間を稼ぎたかったんだ。」
「結果として。」
「君たちが先に動けた。」
「それで十分さ。」
「その女性は。」
「ラストと名乗った。」
「黒髪で。」
「とても美しい人だった。」
「胸元には。」
「蛇が自分の尾を喰らう。」
「ウロボロスの紋章。」
「間違いなく。」
「普通の人間じゃない。」
「そして。」
「私の見解としては。」
「彼らは。」
「賢者の石を持っている。」
エドワードが顔をしかめる。
「何でそこまで言えるんだ?」
「もし。」
「リオールの石が試作品なら。」
「本物は。」
「もっと異常な筈だ。」
「全身を武器へ変える者。」
「人間離れした再生能力。」
「そんな存在がいても。」
「私は驚かない。」
「いや。」
「さすがにそれは……。」
エドワードが呟く。
ヨキは静かに微笑んだ。
「エドワード君。」
「私の好きな言葉でね。」
一呼吸置く。
「――ありえないなんて事は、ありえない。」
「だから。」
「君たちにお願いがある。」
「もし。」
「軍を疑う日が来ても。」
「決して。」
「表へ出すな。」
「真っ直ぐな人ほど。」
「危ない。」
「まだ。」
「誰も信じ切らないでくれ。」
「そして。」
「必ず。」
「生きて帰ってきてくれ。」
エドワードとアルフォンスは、静かに頷いた。
少しの沈黙のあと、ヨキが尋ねる。
「ところで。」
「ドクター・マルコーとは会えたのかな?」
「ああ。」
エドワードが頷く。
「いろいろあったけど。」
「中央図書館第一分館に。」
「研究資料が残ってるらしい。」
ヨキの表情がわずかに変わる。
「そうか。」
「なら。」
「一日でも早く向かった方がいい。」
「え?」
「証拠というものはね。」
「永遠には残らない。」
「本棚から消えるかもしれない。」
「誰かに持ち去られるかもしれない。」
「事故で燃えるかもしれない。」
「理由なんて。」
「後から、いくらでも作れる。」
エドワードは思わず息を呑んだ。
それを見て、ヨキはニコリと微笑んだ。
◇
その夜。
自室へ戻る途中。
エドワードがぽつりと呟いた。
「……なぁ、アル。」
「うん。」
「あの人。」
「本当に考えてるだけなのかな。」
アルフォンスは少しだけ考え、静かに首を振った。
「……分からない。」
「でも。」
「僕は。」
「外れてほしい思考実験ばかりだと思った。」
二人は言葉を失ったまま、夜の廊下を歩いていった。