翌朝。
リゼンブールには、穏やかな朝日が降り注いでいた。
窓を開ければ、澄んだ空気が部屋いっぱいに流れ込む。
遠くでは風車が静かに回り、鳥たちがさえずっている。
昨夜までの重苦しい空気が嘘のような、穏やかな朝だった。
◇
「ほらほら、冷める前に食べな。」
ピナコの声が食卓へ響く。
焼きたてのパン。
温かなスープ。
採れたての野菜。
豪華ではない。
それでも、どこか心まで温かくなるような朝食だった。
「いただきます!」
ニーナが元気よく手を合わせる。
「わふっ!」
アレキサンダーも嬉しそうに鳴いた。
「いっぱい食べな。」
ウィンリィが笑顔でパンを差し出す。
「うん!」
昨日まで見せていた怯えた表情は、もうほとんどない。
ニーナは嬉しそうにパンを頬張っていた。
その姿を見て、ヨキは自然と頬を緩める。
(よかった。)
(本当によかった。)
その思いだけで胸が満たされる。
◇
朝食を終えると、エドワードが立ち上がった。
「そろそろ行く。」
その一言で、場の空気が少しだけ引き締まる。
「もう行くの?」
ウィンリィが少し寂しそうに尋ねる。
「ああ。」
「やることがある。」
エドワードは短く答えた。
アルフォンスも静かに頷く。
「僕たちも、立ち止まってはいられないから。」
ヨキは二人を見つめる。
昨夜。
マルコーから聞いた話。
そして中央図書館第一分館。
二人は、また危険の中へ飛び込んでいく。
それでも、その瞳には迷いがなかった。
◇
荷物をまとめ終えた頃。
家の前には、見送りのため全員が集まっていた。
風が優しく吹き抜ける。
どこまでも青い空だった。
「それじゃ。」
エドワードが肩へ荷物を担ぐ。
「行ってくる。」
「ああ。」
ピナコが頷く。
「機械鎧を壊したら、また帰ってきな。」
「壊す前提かよ。」
「毎回壊してるじゃないか。」
ウィンリィが笑う。
「……返す言葉もねぇ。」
エドワードは頭を掻き、苦笑した。
その様子に皆が笑う。
ほんの短い時間だったが、その笑いが緊張を少し和らげてくれた。
◇
ヨキはゆっくりとエドワードたちへ歩み寄る。
「エドワード君。」
「あ?」
「昨夜も言ったけれど。」
「中央へ着いたら。」
「研究資料の確認を最優先にしてほしい。」
「ああ。」
「分かってる。」
エドワードは真剣な表情で頷いた。
「証拠は。」
「待ってはくれない。」
ヨキは静かに続ける。
「人の手で消えることもある。」
「事故で失われることもある。」
「だから。」
「少しでも早く動いてほしい。」
「……ああ。」
短い返事。
だが、その重みは十分伝わった。
アルフォンスも力強く頷く。
「必ず確認してきます。」
「頼んだよ。」
◇
少しだけ沈黙が流れる。
やがてエドワードが、小さく息を吐いた。
「ヨキさん。」
「ん?」
「昨日は。」
「ありがとな。」
その一言は、とても小さかった。
照れ隠しのように視線も逸らしている。
ヨキは一瞬だけ目を丸くした。
そして、優しく微笑む。
「こちらこそ。」
「ありがとう。」
「君たちと出会えたことは。」
「私にとっても、大きな意味があった。」
エドワードは少しだけ照れくさそうに鼻を擦る。
「……そういう真面目な返しされると。」
「調子狂うんだよ。」
「はは。」
ヨキは穏やかに笑った。
◇
エドワードは歩き出す。
アルフォンスもその後を追う。
数歩進んだところで。
「……ヨキさん!」
エドワードが振り返った。
「ん?」
「あんた。」
「あんまり無茶すんなよ。」
一瞬だけ静寂が流れる。
ヨキは少し驚いたように目を見開き。
それから、静かに笑った。
「ああ。」
「ありがとう。」
「君たちもね。」
「必ず。」
「生きて帰ってくるんだ。」
エドワードは照れ隠しのように片手を上げる。
「あったり前だ。」
「俺たちは。」
「まだ終われねぇからな。」
その言葉に、ヨキは力強く頷いた。
――きっと大丈夫。
そう信じたいと思えた。
◇
エドワードとアルフォンスの姿が、小さくなっていく。
やがて一本道の向こうへ消えるまで、ヨキは黙ってその背中を見送っていた。
「行っちゃったね。」
隣でウィンリィが小さく呟く。
「ああ。」
ヨキは静かに頷いた。
「きっと。」
「また元気な顔で帰ってくる。」
その言葉は、二人へ向けた願いでもあり、自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。
◇
「おヒゲのおじちゃん。」
小さな手が、そっとヨキの服の裾を掴む。
振り返ると、ニーナが見上げていた。
「お仕事。」
「行っちゃうの?」
「ああ。」
ヨキはゆっくりとしゃがみ込み、ニーナと目線を合わせる。
「少しだけね。」
「お仕事が終わったら。」
「また会いに来る。」
「ほんと?」
「約束だ。」
ヨキは優しく微笑んだ。
「ニーナちゃんは、その間。」
「ここで。」
「たくさん笑って。」
「たくさん食べて。」
「たくさん遊んで。」
「元気に過ごしていてほしい。」
ニーナは何度も頷く。
「うん!」
「ウィンリィお姉ちゃんと遊ぶ!」
「アレキサンダーともいっぱい遊ぶ!」
「わふっ!」
アレキサンダーも嬉しそうに尻尾を振る。
その光景に、ヨキの表情も自然と和らいだ。
◇
だが。
ニーナは急に少しだけ寂しそうな顔になる。
「でも。」
「さみしくなったら?」
ヨキは少し考え、穏やかに答えた。
「その時は。」
「空を見上げてごらん。」
「空?」
「ああ。」
「イーストシティからでも。」
「リゼンブールからでも。」
「空は繋がっている。」
「だから。」
「私も。」
「ニーナちゃんも。」
「同じ空を見ている。」
ニーナは空を見上げる。
「……ほんとだ。」
「おっきい。」
「うん。」
「だから。」
「一人じゃない。」
その言葉を聞いたニーナは、小さく笑った。
「うん!」
◇
そして。
ニーナは突然、ヨキへ抱きついた。
「……!」
一瞬だけ驚く。
だが。
ヨキは優しく、その小さな身体を抱き返した。
「ありがとう。」
その一言しか出てこなかった。
ニーナは顔を上げる。
「おヒゲのおじちゃん。」
「なあに?」
「元気でいてね。」
その言葉に。
ヨキは思わず目を見開く。
今まで何度も。
自分が誰かへ願ってきた言葉。
それを今度は、自分が掛けられている。
胸の奥が熱くなった。
「ああ。」
静かに頷く。
「約束する。」
「必ず。」
「元気で帰ってくる。」
「約束!」
ニーナが小さな小指を差し出す。
ヨキも笑って、小指を絡めた。
「約束だ。」
二人の指がゆっくり離れる。
その小さな約束は。
ヨキにとって、何よりも重い約束だった。
◇
「それじゃあ。」
ヨキは立ち上がる。
ピナコへ深く頭を下げた。
「改めて。」
「ありがとうございました。」
「この御恩は。」
「必ず返します。」
「恩なんて返さなくていいよ。」
ピナコは鼻を鳴らした。
「その代わり。」
「あんたも。」
「ちゃんと生きな。」
ヨキは少しだけ笑う。
「はい。」
「必ず。」
ウィンリィも笑顔で手を振る。
「また来てくださいね!」
「ああ。」
「今度は。」
「ゆっくり遊びに来るよ。」
◇
ロックベル家を後にする。
数歩歩いたところで。
ヨキはもう一度だけ振り返った。
庭では。
ニーナが大きく手を振っている。
「おヒゲのおじちゃーん!」
「またねー!」
アレキサンダーも元気よく吠える。
「わふっ!」
ヨキも静かに手を振り返した。
「また来るよ。」
その笑顔を胸へ刻み。
前を向く。
◇
リゼンブールを出る一本道。
穏やかな風が吹き抜ける。
ヨキはゆっくりと空を見上げた。
(一人、救えた。)
それだけで終わってはいけない。
(でも。)
(これで終わりじゃない。)
ニーナの笑顔。
アレキサンダーの元気な姿。
エドワードたちの背中。
あの穏やかな食卓。
守りたいと思えるものが、また一つ増えた。
(知ってしまった。)
(だから。)
(もう。)
(見て見ぬふりはできない。)
誰かが泣く未来を知っている。
救える命があることを知っている。
ならば。
立ち止まる理由はない。
ヨキは静かに歩き出した。
向かう先は、東方司令部。
彼の足取りは、これまでで一番力強かった。