炭鉱を変えよう。
そう決意した翌朝。
ヨキは執務机いっぱいに積まれた書類を前に、深いため息をついていた。
「……で、何から始めればいいんだ?」
昨日までは「生き残るために改革しよう」と勢いだけで決めた。
しかし、一晩経って現実を突きつけられる。
炭鉱経営など経験したことがない。
前世では、ごく普通の会社員だった。
会議へ出席し、資料を作り、上司へ頭を下げる毎日。
町一つを預かる立場など、想像したことすらなかった。
「ヨキ中尉。」
扉を叩き、副官が入室する。
まだ三十代前半ほどだろうか。
真面目そうな青年士官は、両腕いっぱいに書類を抱えていた。
「今月分の収支報告です。」
「あ、ありがとう。」
受け取って目を通す。
利益は悪くない。
いや、むしろ十分すぎるほど出ている。
「……ん?」
ヨキは眉をひそめた。
「これだけ利益があるのに、何で町はあんな状態なんだ?」
「少し前の帳簿もございますが、ご覧になりますか?」
「頼む。」
副官は少し驚いた表情を見せながらも、すぐに過去数か月分の帳簿を机へ並べた。
一枚。
また一枚。
ページをめくるたび、ヨキの表情が曇っていく。
「……えぇ。」
思わず声が漏れた。
高級酒。
豪華な調度品。
接待費。
食事会。
装飾品。
到底、炭鉱運営とは思えない支出が並んでいる。
「これ、全部……俺?」
「はい?」
「あ、いや、何でもない。」
思わず額を押さえた。
(前のヨキ、好き放題やってたんだな……。)
これでは住民に恨まれて当然だ。
しばらく考え込んだ末、ヨキは静かに顔を上げた。
「この高級酒、全部やめよう。」
「……え?」
「接待も最低限でいい。」
「ですが、中尉。それは毎月の慣例で……。」
「そのお金で、炭鉱夫の靴は買えないかな?」
副官は言葉を失った。
「靴、ですか?」
「うん。」
「現場を見たけど、皆ずいぶん傷んだ靴を履いてた。」
「歩きにくそうだったし。」
「その方が役に立つと思う。」
副官はしばらくヨキを見つめていた。
(昨日まで高級酒しか口にしなかった中尉が……。)
目の前にいる人物が、本当に同じ人間なのか。
そんな疑問が胸をよぎる。
「……承知しました。」
それでも、副官は静かに敬礼した。
◇
数日後。
新しい採掘道具が炭鉱へ届いた。
老朽化していた足場も補強される。
休憩所へ机と椅子が置かれ、飲み水を補給する設備も整えられた。
しかし。
「どういう風の吹き回しだ?」
「どうせ後で倍にして取り返す気だ。」
「信用するな。」
炭鉱夫たちの目は冷たい。
当然だった。
今まで散々搾取されてきたのだ。
数日優しくされた程度で信じられるはずがない。
ヨキは反論しなかった。
(そりゃ、そうだよな。)
(昨日まで酷いことしてた奴を、急に信じろって方が無理だ。)
焦らなくていい。
本当に少しずつでいい。
そう自分へ言い聞かせながら、今日も町を歩き続けた。
◇
そんなある日の昼下がりだった。
「ヨキ中尉!」
副官が血相を変えて駆け込んでくる。
「第三坑道の支柱に大きな亀裂が見つかりました!」
「えっ!?」
「このままでは崩落の危険があります!」
「い、行こう!」
二人は現場へ走った。
坑道では、炭鉱夫たちが変わらず採掘を続けている。
その奥には、今にも折れそうな一本の支柱。
素人目にも危険だと分かる。
(いやいやいや……。)
(あれ、本当に大丈夫なのか?)
(絶対危ないよな!?)
鼓動が速くなる。
止めなければ。
でも、自分は軍人だ。
前のヨキなら、採掘量を優先していたのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
それでも。
支柱を見る。
炭鉱夫たちを見る。
(……駄目だ。)
(あれが崩れたら、人が死ぬ。)
ヨキは大きく息を吸った。
「あ、あの……!」
坑道の音にかき消される。
誰も気付かない。
副官が振り返った。
「中尉?」
怖い。
喉が渇く。
足も震えている。
それでも。
「──作業を止めろーーーーーーっ!!」
坑道中へ声が響き渡った。
一斉に作業の音が止まる。
炭鉱夫たちの視線がヨキへ集まった。
「全員、今すぐ外へ出てください!」
副官が戸惑う。
「ですが中尉。本日の採掘量が……。」
一瞬だけヨキは言葉に詰まった。
軍人としては、それが正しい。
それでも、崩れかけた支柱を見上げる。
そして炭鉱夫たちの顔を見る。
覚悟を決めた。
「命より大事な採掘なんてない!」
「責任は全部、俺が取る!」
坑道が静まり返る。
やがて、一人の年配の炭鉱夫がため息をついた。
「……今日は終いだ。」
その一言をきっかけに、作業員たちは坑道を後にした。
翌朝。
第三坑道は轟音とともに崩れ落ちた。
もし前日、作業を続けていたなら、多くの命が失われていただろう。
その出来事を境に、町の空気は少しずつ変わり始める。
◇
「……変ですね。」
執務室へ戻る途中、副官がぽつりと呟いた。
「何が?」
「いえ……。」
「昨日までの中尉なら、採掘量を優先していたはずです。」
「それが今では、炭鉱夫の命を優先している。」
「正直、別人のようです。」
ヨキは苦笑した。
「そう見える?」
「はい。」
「……まあ、人は変われるってことじゃないかな。」
そう言って笑うヨキを見て、副官は少しだけ笑みを浮かべた。
「そういうことに、しておきます。」
◇
季節が巡る。
市場には活気が戻り始める。
炭鉱夫たちの表情にも余裕が生まれた。
町を歩いても、以前のような罵声は飛ばない。
「おはようございます。」
パン屋の店主が頭を下げる。
「あ、お、おはようございます。」
ぎこちなく頭を下げ返すヨキ。
市場を歩けば、炭鉱夫たちも軽く会釈をしてくれる。
(……変わったな。)
町が。
そして、自分も。
◇
夕暮れ。
仕事を終えたヨキが町外れを歩いていると、小さな足音が近づいてきた。
「ヨキさん!」
幼い男の子が駆け寄ってくる。
大事そうに両手で抱えていたのは、一輪の小さな花だった。
「これ!」
「お母さんが、ありがとうって。」
「……俺に?」
少年は照れくさそうに笑いながら、大きく頷いた。
ヨキは恐る恐る花を受け取る。
道端に咲いていた、ごくありふれた花。
それでも、これまで受け取ったどんな贈り物より温かかった。
「ありがとう。」
そう言うと、少年は満面の笑みを浮かべ、元気よく走り去っていく。
ヨキはその背中を見送りながら、小さく笑った。
この町へ来た日。
自分へ向かって飛んできたのは石だった。
今日、自分の手の中にあるのは花だった。
その違いが、胸の奥をじんわりと温める。
「……悪くないな。」
生き残るため。
ただ、それだけのつもりで始めた改革だった。
けれど、今は少しだけ違う。
この町の人たちが笑って暮らせるなら。
そんな未来も、悪くない。
静かに生きるって、案外悪くない。
そう思えた自分に、ヨキは少しだけ驚きながら、夕日に染まるユースウェルの町をゆっくりと歩き続けた。