「……ショウ・タッカー。」
エドの声が、静まり返った研究所に響く。
丸眼鏡。
頬に浮かべた、どこか卑屈な笑み。
間違えるはずがない。
国家錬金術師――ショウ・タッカー。
ニーナやアレキサンダー、家族を錬成材料にすることを厭わない狂った錬金術師。
「どうして……。」
エドの拳が震える。
「どうしてあんたがここにいる!」
タッカーは答えない。
ただ、口元を歪めながら、エドの姿を眺めていた。
「答えろ!!」
エドが一歩踏み出す。
その前へ、ヨキの腕が伸びた。
「待ってください。」
「ヨキさん!」
「少し、おかしい。」
ヨキはライフルを構えたまま、タッカーの姿を静かに観察する。
顔。
声。
立ち姿。
ヨキの視線は、その隣に立つ黒髪の女へ移る。
長い黒髪。
胸元の開いた黒い衣服。
落ち着き払った立ち姿。
そして、胸元に刻まれた印。
見間違えるはずがない。
色欲を名に冠する人造人間。
ラスト。
彼女がここにいるのならば、隣に立つ男の正体も決まっている。
「なるほど……。」
ヨキが小さく呟く。
「そちらの方は、他人の姿を真似ることができるのですか。」
エドが目を見開いた。
「何?」
タッカーの笑みが止まる。
「へぇ。」
男の口から、先ほどまでとは違う声が漏れた。
「どうしてそう思うのさ。」
「ショウ・タッカーが生存している可能性よりも。」
ヨキは静かに答える。
「あなたが彼の姿を真似ている可能性の方が高いと判断しました。」
一瞬の沈黙。
「ははっ。」
やがて、タッカーの姿をした何者かが肩を震わせた。
「面白いね、おじさん。」
男の輪郭が揺らぐ。
まるで粘土をこね直すように、身体そのものが歪み始めた。
丸眼鏡が沈む。
髪が伸び、顔立ちが別人のものへと変化していく。
数秒後。
そこに立っていたのは、長い黒髪を持つ若者だった。
「タッカーじゃ……ない?」
エドが呆然と呟く。
「残念でした。」
若者は楽しそうに笑う。
「エンヴィーだ。」
「よろしくね、鋼のおチビさん。」
「誰がチビだァ!!」
反射的にエドが叫ぶ。
「そこに反応するんですか……。」
ヨキが小さく呟いた。
「うるせぇ!」
エドは怒鳴り返しながらも、すぐに表情を引き締める。
「何者だ、お前ら。」
「どうしてタッカーの姿をしてた。」
「どうして?」
エンヴィーは首を傾げる。
「そりゃあ、その方が面白そうだったからさ。」
エドの表情が険しくなる。
拳が固く握られた。
「てめぇ……。」
「エドワード君。」
ヨキが静かに名を呼ぶ。
エドは歯を食いしばりながらも、その場に踏みとどまった。
◇
「落ち着いているのね。」
これまで黙っていた黒髪の女が口を開いた。
静かで、どこか艶のある声だった。
ヨキはライフルを構えたまま、女へと視線を移す。
「お久しぶりです。」
「ラストさん。」
エドが驚いたようにヨキを見る。
「知り合いなのか?」
「以前、一度だけ。」
「汽車の旅で相席しました。」
ヨキは短く答える。
ラストはわずかに目を細めた。
「覚えていてくれたのね。」
「忘れられるような出会いではありませんでしたから。」
「それは光栄だわ。」
ラストの唇に、微かな笑みが浮かぶ。
その隣で、エンヴィーが二人を交互に見た。
「なに?」
「知り合いだったの?」
「少しね。」
ラストは視線をヨキから外さずに答える。
「随分と変わった軍人だったから、覚えていたのよ。」
「へぇ。」
エンヴィーがヨキを値踏みするように眺める。
「こいつが?」
「失礼ですね。」
ヨキは小さく息を吐いた。
「私としては、極めて常識的に生きているつもりなのですが。」
「ハッ!」
「自分でそう言う奴ほど変わってるんだよ。」
エンヴィーが楽しそうに笑う。
「それで。」
エドが二人の会話を遮った。
「お前らは何者だ。」
「ここで何をしてる。」
ラストの視線が、エドへと向けられる。
「質問が多いのね。」
「当たり前だ!」
「賢者の石を作るために、人間を使っていたのか。」
「この研究所は何なんだ。」
「全部答えろ!」
エドの声が研究所内へ響き渡る。
しかし。
ラストも、エンヴィーも答えなかった。
ラストは静かな微笑を浮かべたまま、エドを見つめている。
エンヴィーに至っては、面白そうに口元を歪めるだけだった。
「……何とか言えよ。」
エドの声が低くなる。
「質問に答えろって言ったんだ!」
「答える必要があるのかしら。」
ラストが静かに問い返した。
「あなた達は、勝手にここへ入り込んだ鼠。」
「こちらが事情を説明してあげる理由はないわ。」
「だったら力ずくで――」
「待ってください。」
再び踏み出そうとしたエドを、ヨキが制した。
「答えていただけないのであれば。」
ヨキはラストとエンヴィーを見据えたまま、静かに続ける。
「こちらで考えてみましょう。」
「考える?」
エンヴィーが眉を上げた。
「いつもの思考実験です。」
ヨキはエンヴィーへ視線を向ける。
「まず、エンヴィーさん。」
「あなたは、全身を別人の姿へ変化させることができる。」
「顔や声だけではありません。」
「身長や体格、衣服まで含めてです。」
「それが何?」
「通常の錬金術であれば、錬成陣や錬成に必要な動作があるはずです。」
「ですが、あなたはそのどちらも行わなかった。」
エンヴィーの笑みが、わずかに薄れる。
「錬成陣もなく、瞬時に肉体を作り変えるには、莫大な錬成エネルギーが必要になります。」
「通常の人間が、己の生命力だけで何度も行えるとは思えません。」
研究所に沈黙が落ちる。
ヨキは構えたライフルを下ろさないまま、推察を続けた。
「先ほどまで、私達は賢者の石について調べていました。」
「大量の人間の生命から作られ、錬成の原則を超える力をもたらすもの。」
「仮に。」
「あなた方の体内に賢者の石が備わっているのならば。」
「その変化にも、説明がつきます。」
「……!」
エドの瞳が大きく見開かれた。
エンヴィーも、今度こそ笑みを消していた。
「おじさん。」
「そこまで分かるの?」
「推測にすぎません。」
ヨキは穏やかに答える。
「その上で、考えられる可能性は二つです。」
ヨキは言葉を選ぶように、僅かに間を置いた。
「一つは。」
「人間の肉体へ、賢者の石を移植した存在。」
「そして、もう一つは。」
ヨキはラストの赤い瞳を真っ直ぐに見る。
「人間を基にして、賢者の石を核として造られた人造人間。」
エドが息を呑んだ。
エンヴィーは呆れたように肩をすくめる。
「ハッ。」
「本当に変わったおじさんだね。」
「さらに。」
ヨキはラストを見る。
「お二人とも、同じ印が身体にある。」
「偶然か、それとも必然なのか。」
「必然であるならば、あなた方は同一の方法によって生み出された存在である可能性が高い。」
ラストはしばらくヨキを見つめた後、楽しげに目を細めた。
「正解は、後者の方よ。」
「ラスト!」
エンヴィーが声を上げる。
「構わないでしょう。」
ラストはヨキから視線を外さない。
「そこまで辿り着いた相手に、隠す意味もないわ。」
そして。
自らの胸元へ、細い指を添えた。
「私達は、人間によって造られた人ならざる者。」
「ホムンクルスと呼ばれているわ。」
「ホムンクルス……。」
エドが、その言葉を反芻する。
「じゃあ、お前らは……。」
「それ以上は教えない。」
エンヴィーが冷たく言葉を遮った。
「誰が造ったのか。」
「何のためにいるのか。」
「そんなことまで親切に話してやると思う?」
「てめぇ……。」
「ですが。」
ヨキが静かに口を挟む。
「賢者の石が体内にあるという推察については、否定されないのですね。」
エンヴィーの眉が動く。
ラストは小さく笑った。
「本当に、一つの答えから次々と拾っていくのね。」
「残念ながら。」
「それについても、これ以上教えるつもりはないわ。」
「十分です。」
ヨキは素直に頷いた。
「少なくとも。」
「正面から戦うべき相手ではないことは、よく分かりました。」
「ちょっと待て!」
エドがヨキを見る。
「まだ何も――」
「いいえ。」
ヨキはエドを見ず、ラスト達から目を離さなかった。
「すでに多くのことが分かっています。」
「目の前にいるのは、賢者の石の力を扱える可能性が高い二人。」
「こちらは、消耗している軍人一名と錬金術師一名。」
「勝ち目を期待するには、あまりにも条件が悪い。」
「随分と物分かりがいいのね。」
ラストが微笑む。
「臆病なだけですよ。」
ヨキは静かに答えた。
「そのおかげで、今日まで生き延びてきました。」
その時。
研究所の奥から、低い振動音が響いた。
床が僅かに揺れ、天井から細かな埃が落ちてくる。
「何だ?」
エドが周囲を見回す。
「もう始まったみたいだね。」
エンヴィーが楽しげに笑う。
「何がだ。」
「お掃除。」
エンヴィーが両腕を広げる。
「君達が嗅ぎ回ったこの場所は、もう必要ない。」
「まさか……。」
エドの表情が変わる。
「この研究所を壊すつもりか!」
「証拠が残っていたら面倒でしょう?」
ラストは何でもないことのように答えた。
「賢者の石の材料を知った。」
「第五研究所へ辿り着いた。」
「けれど。」
「その程度の知識だけでは、何も成し遂げられないもの。」
エドは奥歯を噛み締める。
「それでも。」
「人間を材料にしていた事実は変わらねぇ!」
「ええ。」
ラストはあっさりと認めた。
「だから、すべて消すのよ。」
再び、研究所が揺れる。
先ほどよりも大きい。
壁に細い亀裂が走り、床へ小さな石片が落ちた。
ラストの視線が、ヨキの手元へ移る。
そこには、鎧から切り取った血印がある。
「それは返してもらえるかしら。」
「これを、ですか。」
「ええ。」
「あなた方にとって重要な存在ということですか?」
「まさか。」
エンヴィーが鼻で笑う。
「そいつは、ここを守らせていただけの番犬さ。」
「ひでぇ言い方しやがる……。」
血印から、鎧の不満げな声が漏れた。
「でも。」
エンヴィーは続ける。
「だからって、持っていかせるわけにはいかない。」
「話せる証拠は、証拠品より厄介だからね。」
「なるほど。」
ヨキは血印へ視線を落とす。
「返さなければ?」
ラストの右手が、静かに持ち上がった。
「こうなるわ。」
次の瞬間。
細い指先が、一気に伸びた。
黒い閃光が、ヨキの頬を掠める。
ヨキの頬から血が流れる。
ヨキは動じない。
「なっ……。」
エドが息を呑む。
指先は何事もなかったように縮み、元の美しい手へ戻っていく。
「ヨキさん!」
「大丈夫です。」
「今のが、ラストさんの能力ですか。」
「ええ。」
ヨキは考えるように呟いた。
「恐らく、爪を構成する炭素を利用して。」
「形状と硬度を自在に変えているのでしょう。」
「究極の矛。」
「そう言っても良いかもしれませんね。」
ラストは自らの指先を無言で眺める。
「そして。」
「石の力で分解と再構築を瞬時に繰り返しているのなら。」
「傷を負っても、同じように再生できるはずです。」
「少なくとも。」
「一度致命傷を与えた程度では、倒せない可能性を考えるべきですね。」
「……。」
エンヴィーが呆れたようにヨキを見る。
「一度見ただけで、そこまで考える?」
「思考実験ですから。」
「だから気味が悪いって言ってんだよ。」
「残念です。」
ヨキは苦笑した。
「分かりました。」
ヨキは血印を持つ手を上げる。
「お返しします。」
「ヨキさん!」
エドが声を上げた。
「これは貴重な証人だぞ!」
「だからこそです。」
ヨキは静かに答える。
「この証人を守るために、私達が死んでは意味がありません。」
「だけど――」
「エドワード君。」
ヨキはエドを真っ直ぐに見た。
「ここで得たものは、この血印だけではありません。」
「私達は、賢者の石の秘密へ近づいた。」
「ホムンクルスという存在も知った。」
「生きて帰れば。」
「次に備えることができます。」
「……。」
エドは悔しそうに拳を握った。
それでも。
ヨキの言葉が正しいことは理解していた。
「分かった。」
絞り出すように答える。
ヨキは血印を、ゆっくりとラストの足元へ滑らせた。
エンヴィーがそれを拾い上げる。
「物分かりがよくて助かるよ。」
「お褒めいただき、ありがとうございます。」
「褒めてないけど。」
ヨキは一度息を吐く。
「ところで。」
「何かしら。」
ラストが問い返す。
「今度の日曜日。」
「お時間はありますか?」
◇
研究所の振動すら、止まったように感じられた。
「……は?」
エドとエンヴィーの声が、綺麗に重なる。
ラストだけが、僅かに目を細めた。
「何の話かしら。」
「以前お会いした頃から。」
「機会があれば、ゆっくりお話をしたいと思っていました。」
「ですので。」
「お茶でもいかがでしょう。」
「ヨキさん!?」
エドが叫ぶ。
「何を言ってるんだ!」
「いやいやいや。」
エンヴィーも額を押さえる。
「今、殺されかけたんだよ?」
「ええ。」
「ですから。」
ヨキは頬の傷を拭いながら、穏やかに続けた。
「次は、もう少し安全な場所でお話しできればと。」
「おじさん。」
「頭でも打った?」
「失礼ですね。」
ヨキは心外そうに眉を下げる。
ラストは、そんな彼をしばらく無言で見つめた。
やがて。
僅かに口元を緩める。
「場所は?」
「中央通りにある喫茶店です。」
「午後二時ではいかがでしょう。」
「私達が行くと思う?」
エンヴィーが呆れたように尋ねる。
「来ていただければ嬉しい、というお誘いです。」
「強制するつもりはありません。」
「当たり前だろ。」
エンヴィーは吐き捨てた。
ラストは答えない。
ただ。
ヨキを見つめる目に、先ほどまでとは違う色が宿っていた。
「覚えておくわ。」
「ありがとうございます。」
ヨキは丁寧に頭を下げる。
エドは頭を抱えた。
「何で敵と約束取り付けてんだよ……。」
「まだ約束とは限りませんよ。」
「そういう問題じゃねぇ!」
再び、研究所が大きく揺れた。
今度は天井の一部が崩れ、石片が床へ落下する。
「お話はここまでね。」
ラストが背を向ける。
「早く逃げなければ、瓦礫の下よ。」
「その前に。」
ヨキが呼び止めた。
「出口は、どちらでしょうか。」
「お前、本当に図々しいな!」
エンヴィーが声を上げる。
ラストは振り返らない。
ただ、右手を僅かに上げ、通路の一つを指差した。
「突き当たりを右。」
「階段を上がれば外へ出られるわ。」
「ご親切に、ありがとうございます。」
ヨキが礼を述べる。
「行きますよ、エドワード君。」
「あ、ああ。」
エドはラスト達を警戒しながら、ヨキの後を追う。
二人の姿が通路の奥へ消えていく。
その背中を見送りながら。
エンヴィーは呆れたように息を吐いた。
「何なんだよ、あのおじさん。」
「敵を前にして、能力を聞き出して。」
「その場で仕組みを考えて。」
「最後はお茶に誘う?」
「変な奴。」
「ええ。」
ラストは静かに答えた。
その視線は、二人が消えた通路へ向けられたままだった。
「とても変わった人ね。」
「それだけじゃない。」
エンヴィーが血印を弄びながら続ける。
「あいつ。」
「人柱の条件を満たすかもしれない。」
ラストの表情が、僅かに変わる。
「錬金術師ではないわ。」
「今はね。」
エンヴィーは口元を歪めた。
「あれだけ考えられる人間なら。」
「扉を開ける方法に辿り着くかもしれない。」
「……。」
「どうしたのさ、ラスト。」
「別に。」
ラストはヨキ達が去った通路から、ようやく視線を外した。
「研究所を落とすわ。」
次の瞬間。
足元から、これまでとは比べものにならないほど大きな振動が響いた。