ヨキですが、静かに生きたいだけなんです。   作:千遇万歩

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幕間
休日


 

 日曜日。

 

 中央市街の大通りから少し外れた場所に、一軒の喫茶店がある。

 

 煉瓦造りの落ち着いた建物。

 

 通りに面した店内とは別に、裏手には小さな庭と、それを見渡せるテラス席が設けられていた。

 

 普段ならば、休日を楽しむ家族連れや恋人達で賑わっている場所だった。

 

 しかし、今日に限っては。

 

 テラスに置かれた幾つもの席に、他の客の姿はない。

 

 その中央。

 

 一人分の紅茶を前にして、ヨキは静かに腰を下ろしていた。

 

「……少々、奮発しすぎましたかね。」

 

 誰に聞かせるでもなく、呟く。

 

 今日のために、テラス席を貸し切った。

 

 これから交わす会話を他人に聞かれないため。

 

 そして何より。

 

 万が一にも、無関係な一般客を巻き込まないためだ。

 

 必要な出費である。

 

 そう自分へ言い聞かせても、後日届く請求書を考えると、少しばかり胃が重くなる。

 

 ヨキは小さく息を吐き、紅茶へ口をつけた。

 

 第五研究所での出来事から、既に数日が過ぎている。

 

 研究所は、その大部分が崩壊した。

 

 軍は直ちに現場を封鎖し、調査を開始している。

 

 もっとも。

 

 地下に隠されていた施設も。

 

 そこで行われていた実験も。

 

 中身が空っぽの鎧も。

 

 その痕跡のほとんどは、瓦礫の下へ消えていた。

 

 自分達が持ち帰れたものは少ない。

 

 証拠と呼べるものに至っては、何一つないと言ってもよい。

 

 だからこそ。

 

 ヨキは、エドとアルへ記録を残さないように伝えた。

 

 敵が軍の上層部にまで入り込んでいる可能性がある以上、迂闊に文章へ残せば、それを知った者まで巻き込む恐れがある。

 

 今はまだ。

 

 互いの記憶の中へ留めておくしかない。

 

「……もっとも。」

 

 ヨキは、紅茶の水面へ視線を落とす。

 

「私達だけで抱え込むには、少々大きすぎる話ですが。」

 

 故に。

 

 ヨキは一人だけ、別の形で情報を託した。

 

◇

 

 数日前。

 

 ヨキは、ヒューズ家を訪れていた。

 

 招待を受けていたわけではない。

 

 玄関の奥からは、エリシアの誕生日を祝う楽しげな声が聞こえている。

 

 色とりどりの紙飾り。

 

 食卓を囲む人々の笑い声。

 

 そして。

 

『見ろよ、グレイシア! 今日のエリシアはいつもの百倍かわいいぞ!』

 

『あなた、それ昨日も言っていたでしょう?』

 

『昨日より今日の方がかわいいんだから、当然だろ!』

 

 聞き慣れたヒューズの声が、玄関の外にまで響いていた。

 

 ヨキは扉の前で、僅かに苦笑する。

 

 呼び鈴を鳴らすと。

 

 暫くして、ヒューズ本人が扉を開けた。

 

「おう、ヨキ中尉じゃないか。」

 

 ヒューズは目を丸くする。

 

「どうしたんだ?」

 

「突然、申し訳ありません。」

 

 ヨキは軽く頭を下げた。

 

「本日は、贈り物だけお渡ししようと思いまして。」

 

「なんだよ。」

 

「来たなら上がっていけばいいだろ。」

 

「いえ。」

 

「せっかくのご家族の時間を邪魔するわけにはいきません。」

 

「そんなこと気にするなって。」

 

 ヒューズはそう言いながらも、ヨキの両手に抱えられた包みへ視線を向けた。

 

「それ、エリシアにか?」

 

「ええ。」

 

 ヨキは頷く。

 

「子供が何を喜ぶのか分かりませんでしたので。」

 

「店員の方に随分と相談してしまいました。」

 

「お前、そういうところ妙に真面目だよな。」

 

 ヒューズが笑う。

 

 ヨキが用意したのは、小さな白い熊のぬいぐるみと、綺麗な挿絵の入った絵本だった。

 

 声を聞きつけたのか。

 

 玄関の奥から、小さな足音が近づいてくる。

 

「パパー?」

 

 顔を覗かせたエリシアが、贈り物を見て目を輝かせた。

 

「お誕生日おめでとうございます、エリシアさん。」

 

 ヨキは腰を落とし、包みを差し出す。

 

「こちらを。」

 

「わあ!」

 

 包みを受け取ったエリシアは、その場で中を開ける。

 

 白い熊のぬいぐるみを見つけると。

 

 すぐに両腕で抱き締めた。

 

「かわいい!」

 

「ありがとうございます!」

 

「喜んでいただけたなら、何よりです。」

 

 ヨキは安堵したように微笑む。

 

 その横で。

 

 ヒューズは感極まったように胸を押さえていた。

 

「見たか、ヨキ!」

 

「うちのエリシアは、礼を言う姿まで世界一かわいい!」

 

「ええ。」

 

「存じ上げております。」

 

「分かってるじゃないか!」

 

「あなた。」

 

 奥から現れたグレイシアが、呆れたように夫を見る。

 

「玄関に立たせたままにしないの。」

 

「いや、こいつが上がらないって言うんだよ。」

 

「本当に、贈り物をお渡ししに来ただけですので。」

 

 ヨキは、もう一度頭を下げる。

 

「どうぞ、お気遣いなく。」

 

 そして。

 

 ヨキは手元に残っていた、もう一つの細長い箱をヒューズへ差し出した。

 

「それと。」

 

「こちらは、ヒューズ中佐へ。」

 

「え?」

 

 ヒューズが自分を指差す。

 

「俺にも?」

 

「ええ。」

 

「賄賂のようなものですよ。」

 

「そんな渡し方あるか!」

 

 ヒューズは笑いながら箱を受け取った。

 

「何が入ってるんだ?」

 

「上等な葉巻です。」

 

「俺、煙草は吸わないんだけど。」

 

「承知していますよ。」

 

「じゃあ、何で葉巻なんだよ。」

 

 ヒューズの声音から、僅かに笑いが消えた。

 

 ヨキは穏やかな表情のまま。

 

 少しだけ声を落とす。

 

「仕事をしていると。」

 

「一人で、ゆっくり考えたい時もあるでしょうから。」

 

「……。」

 

「是非。」

 

「お一人で、お楽しみください。」

 

 ヨキは、ヒューズの目を真っ直ぐに見た。

 

 ほんの僅かな沈黙。

 

 ヒューズの瞳が細められる。

 

「……分かった。」

 

 箱を持つ手に、僅かに力が込められた。

 

「ありがたく、いただくよ。」

 

「ええ。」

 

 ヨキは頭を下げる。

 

「それでは。」

 

「私は、これで失礼します。」

 

「本当に帰るのか?」

 

「ええ。」

 

「また、改めてお伺いしますよ。」

 

 エリシアが熊のぬいぐるみを抱えたまま、ヨキへ手を振る。

 

「おじさん、ありがとう!」

 

「はい。」

 

「良いお誕生日を。」

 

 ヨキも小さく手を振り返し。

 

 ヒューズ家を後にした。

 

◇

 

 ヨキは、テラス席で一人。

 

 あの日のやり取りを思い返していた。

 

 あの人ならば、気づく。

 

 自分が、ヒューズの嗜好を知らずに葉巻を選んだのではないことも。

 

 あえて「一人で」と念を押した意味も。

 

 箱の中に。

 

 葉巻以外のものが入っていることも。

 

 マース・ヒューズという男は、鋭すぎる。

 

 何の助けがなくとも。

 

 いずれ自力で、この国に潜む異常へ辿り着いてしまう可能性が高い。

 

 だからこそ。

 

 先に情報を渡した。

 

 遠回りをさせないため。

 

 そして。

 

 真相を知った後。

 

 知ったことを、敵に悟られないよう警告するために。

 

 敵がどこにいるのか。

 

 誰の目が、どこまで届いているのか。

 

 まだ何も分からない。

 

 その状態で、真相へ近づいたことを表へ出せば。

 

 ヒューズは、恐らく消される。

 

 原作で起きたことと、同じように。

 

 だから。

 

 手紙には、知っていることだけではなく。

 

 知った後、どう振る舞うべきか。

 

 それも記しておいた。

 

 気づいていないふりをすること。 

 

 一人で目立つ行動を取らないこと。

 

 すぐに上層部へ報告しないこと。

 

 そして。

 

 手紙を読み終えた後は、必ず処分すること。

 

「……どうか。」

 

 ヨキは、静かに呟く。

 

「気をつけてください。」

 

 ヒューズならば。

 

 自分の警告の意味まで、理解してくれる。

 

 そう信じるしかなかった。

 

◇

 

 ヨキが東方から中央へ異動した後。

 

 発見された戦闘の痕跡から。

 

 軍は、傷の男――スカーが死亡した可能性が高いと判断しつつある。

 

 大規模な破壊の跡。

 

 スカーの物と思われる服。

 

 それに付着していた大量の血痕。

 

 そして、それ以降途絶えた目撃情報。

 

 状況だけを見れば。

 

 妥当な判断ではある。

 

 それに伴い。

 

 エドとアルへ付けられている護衛も、近く解除される見込みだという。

 

 マリア・ロス少尉と。

 

 デニー・ブロッシュ軍曹。

 

 二人の負担が減ること自体は喜ばしい。

 

 だが。

 

「スカーは、生きているでしょうね。」

 

 ヨキは小さく呟く。

 

 少なくとも。

 

 自分が知っている物語では、彼はここで死なない。

 

 もっとも。

 

 自分が介入したことで、既に多くの出来事が変わり始めている。

 

 未来の知識が、今も正しいとは限らない。

 

 ヨキの知る物語には存在しなかった出来事が起き。

 

 生きるはずだった者が死ぬ可能性も。

 

 死ぬはずだった者が生きる可能性もある。

 

 それでも。

 

 スカーが、簡単に命を落とすとは思えなかった。

 

 護衛が解除された後も。

 

 注意を続けるよう、エド達へは伝えておくべきだろう。

 

 考えるべきことは多い。

 

「……。」

 

 ヨキは懐中時計を取り出した。

 

 約束の時刻までは、まだ間がある。

 

 もう一度、紅茶へ口をつけようとした時だった。

 

 テラスへ続く扉が、静かに開いた。

 

 細い靴音が近づいてくる。

 

 ヨキが顔を上げる。

 

 そこには。

 

 長い黒髪を揺らしながら、一人の女性が立っていた。

 

 漆黒の衣服。

 

 整った顔立ち。

 

 胸元に刻まれた、赤い紋様。

 

 列車の中で出会い。

 

 第五研究所で再会した女性。

 

 ラストだった。

 

 ヨキは席を立つ。

 

「来てくださって、ありがとうございます。」

 

 軽く頭を下げる。

 

「それにしても。」

 

 ヨキは懐中時計へ目を落とす。

 

「随分と早いお着きですね。」

 

 ラストは、薄く笑った。

 

「待たせるよりはいいでしょう?」

 

「ええ。」

 

「それは、勿論。」

 

 ヨキは椅子を引き、彼女へ勧める。

 

「本日は、このテラスを貸し切っています。」

 

「周囲を気にする必要はありませんよ。」

 

「ええ。」

 

 ラストは椅子へ腰を下ろした。

 

「随分と気が利くのね。」

 

「皆さんとお話をする以上、この方が安心でしょう。」

 

「それに。」

 

「無関係な方を、巻き込むわけにはいきませんから。」

 

 ヨキは少し困ったように笑う。

 

「そう。」

 

 ラストは頬杖をつき、ヨキを見つめる。

 

「私と二人きりになるためではなくて?」

 

「ははは。」

 

 ヨキは、乾いた笑いを漏らした。

 

「それは、困りましたね。」

 

「何が?」

 

 ヨキは彼女と視線を合わせる。

 

 そして。

 

 穏やかな声で問いかけた。

 

「ところで、エンヴィーさん。」

 

「ラストさんは、いらっしゃらないのですか?」

 

「……。」

 

 女性の笑顔が固まった。

 

 数秒。

 

 風が、誰もいないテラスを通り抜ける。

 

「……何で分かったの?」

 

 先ほどまでの艶やかな声ではない。

 

 苛立ちを含んだ、若い声だった。

 

「勘ですよ。」

 

「はあ?」

 

「本当に、それだけです。」

 

 ヨキは苦笑する。

 

「何となく。」

 

「ラストさんではないように感じましたので。」

 

「……ったく。」

 

 エンヴィーが悪態をつく。

 

 次の瞬間。

 

 赤い錬成反応が、誰もいないテラスを照らした。

 

 長い黒髪が縮む。

 

 女性らしい輪郭が崩れ。

 

 目の前に、中性的な姿のエンヴィーが現れる。

 

「つまんねぇ奴。」

 

「せっかく驚かせてやろうと思ったのに。」

 

「申し訳ありません。」

 

「謝るくらいなら、騙されてろよ。」

 

「それは少々、難しいお願いですね。」

 

「……本当に、むかつくな。」

 

 その時。

 

 再び、テラスの扉が開いた。

 

「あら。」

 

 落ち着いた声が響く。

 

「もう、ばれてしまったのかしら。」

 

 ヨキとエンヴィーが、同時に振り返る。

 

 そこに立っていたのは。

 

 今度こそ、本物のラストだった。

 

 普段の身体へ密着した黒い衣服とは違う。

 

 深い色合いの上品なドレス。

 

 肩には、薄手のショールを掛け。

 

 長い髪も、いつもより丁寧に整えられている。

 

 戦場へ現れる姿とは。

 

 明らかに違っていた。

 

 エンヴィーが、口元を歪める。

 

「へえ。」

 

「随分と気合い入れてきたじゃん。」

 

「店に合わせただけよ。」

 

 ラストはエンヴィーの言葉を受け流し、ヨキへ視線を向けた。

 

「待たせたかしら。」

 

「いいえ。」

 

 ヨキは椅子を引く。

 

「来てくださって、ありがとうございます。」

 

◇

 

 三人の前へ、紅茶が給仕された。

 

 白い陶器のカップ。

 

 焼き菓子と、幾つかの軽食。

 

 店員がテラスを離れた後。

 

 ヨキは、向かいへ座るラストを改めて見た。

 

「ラストさんは。」

 

「今日も素敵ですね。」

 

「……。」

 

 ラストは僅かに目を瞬かせた。

 

 それから。

 

 ゆっくりとカップへ手を伸ばす。

 

「……どうも。」

 

「おいおい。」

 

 エンヴィーが、呆れた声を上げる。

 

「本当にお茶してんじゃねぇぞ。」

 

「お茶会へお招きしましたので。」

 

「そういう意味じゃねぇよ!」

 

 エンヴィーは苛立たしげに卓上へ肘をついた。

 

「それで?」

 

「お前の目的は、何なんだよ。」

 

「第五研究所じゃ。」

 

「あんな変な誘い方までしやがって。」

 

 ヨキは、紅茶のカップを静かに置く。

 

「そうですね。」

 

 少し考えるように、間を取った。

 

「お伝えだけでもしたかった。」

 

「それが、本音でしょうか。」

 

「伝えるぅ?」

 

 エンヴィーが眉を寄せる。

 

「何をだよ。」

 

 ラストは、何も言わない。

 

 ただ。

 

 カップを手にしたまま、ヨキを見つめている。

 

 ヨキは一度だけ。

 

 庭へ視線を向けた。

 

 穏やかな日差し。

 

 風に揺れる木々。

 

 休日の街から届く、遠い喧騒。

 

「本当は。」

 

 ヨキは、静かに口を開く。

 

「私は、このような舞台へ上がるつもりなどなかったのですがね。」

 

「舞台?」

 

「ええ。」

 

「物語の中心ではなく。」

 

「遠くから、知っている出来事を眺めて。」

 

「できることなら、静かに生きていきたいと思っていました。」

 

「ですが。」

 

「守りたい人を、守ろうとしていたら。」

 

「いつの間にか。」

 

「舞台の上に立っていた。」

 

「それが、今の私です。」

 

 エンヴィーは黙っている。

 

 ラストもまた。

 

 言葉を挟まない。

 

「ですから。」

 

「できる限りのことはしようと、覚悟しているつもりです。」

 

「ですが。」

 

「正直なところ。」

 

 ヨキは、小さく笑う。

 

「いつ死んでも、おかしくありませんからね。」

 

「……。」

 

「ですので。」

 

「死ぬ前に、伝えておきたかった。」

 

「そういうことです。」

 

「だから。」

 

 エンヴィーの声が低くなる。

 

「何をだよ。」

 

 ラストの瞳が、僅かに細められた。

 

 ヨキは、二人を見た。

 

 目を逸らさず。

 

 ゆっくりと告げる。

 

「私は。」

 

「あなた達を、救いたいと思っています。」

 

「……は?」

 

 エンヴィーが、間の抜けた声を漏らす。

 

 ヨキは続けた。

 

「この物語が、結末を迎える頃。」

 

「あなた達が生きていて。」

 

「誰かに命じられたものではない。」

 

「自分で選んだ、自由な生き方ができるようになっている。」

 

「そうあってほしいと思っています。」

 

「そして。」

 

「できることなら。」

 

「私も、そうなるための力になりたい。」

 

「それが。」

 

「お伝えしたかったことです。」

 

 沈黙。

 

 紅茶から立ち上る湯気だけが。

 

 ゆっくりと揺れている。

 

 エンヴィーは、暫く何も言わなかった。

 

 やがて。

 

 その口元が、歪んだ。

 

「……馬鹿じゃねぇの、お前。」

 

 低い声。

 

 先ほどまでの軽い苛立ちとは違う。

 

 明確な敵意が滲んでいた。

 

「救う?」

 

「誰が、誰をだよ。」

 

 エンヴィーが立ち上がる。

 

 椅子が音を立てて、後ろへずれた。

 

「無力な雑魚の蟻が。」

 

「僕達を救うだって?」

 

「笑わせんな。」

 

 エンヴィーの身体から、殺気が膨れ上がる。

 

「今ここで。」

 

「お前を殺してやろうか?」

 

 空気が変わった。

 

 穏やかだったテラスが、一瞬にして戦場へ変わる。

 

 ヨキの指先が、僅かに震えた。

 

 怖くないわけではない。

 

 エンヴィーの正体を自分は知っている。

 

 自分程度では。

 

 一瞬で命を奪われる。

 

 それでも。

 

 ヨキは、目を逸らさなかった。

 

 エンヴィーと真っ直ぐに視線を合わせる。

 

「確かに。」

 

「人間は、弱いですよ。」

 

「あ?」

 

「叩かれれば、傷つきます。」

 

「へこたれることもある。」

 

「道を外すことも。」

 

「倒れそうになることもあります。」

 

 ヨキは。

 

 静かに言葉を続ける。

 

「しかし。」

 

「綺麗事だと分かっていても。」

 

「もう駄目だと思っても。」

 

「何度でも、立ち向かう。」

 

「一人で立ち上がれない時には。」

 

「周りの誰かが、手を差し伸べてくれる。」

 

「そして。」

 

「今度は、その人が。」

 

「誰かの手を取る。」

 

 ユースウェルの人々と出会い。

 

 リオールの人々と向き合い。

 

 自分を変えてくれた。

 

 自分一人では立てなかった場所で。

 

 手を差し伸べてくれた。

 

「私は。」

 

「人間とは。」

 

「そういう存在だと思っています。」

 

「……。」

 

 エンヴィーの怒りが。

 

 一瞬だけ、消えた。

 

 目を見開き。

 

 何かを言い返そうとして。

 

 しかし。

 

 言葉が出てこない。

 

 その表情を隠すように。

 

 顔を背ける。

 

「……くだらねぇ。」

 

 吐き捨てる。

 

「本当に。」

 

「付き合ってられないね。」

 

 エンヴィーは椅子を蹴るように離れ、そのままテラスの出口へ向かった。

 

「エンヴィー。」

 

 ラストが声を掛ける。

 

 だが。

 

 エンヴィーは振り返らない。

 

「帰る。」

 

「こんな茶番。」

 

「好きに続けてろよ。」

 

 扉が、乱暴に閉じられた。

 

 テラスへ。

 

 再び、静寂が戻った。

 

◇

 

 ヨキは。

 

 エンヴィーが去った扉を見つめていた。

 

「……怒らせてしまいましたね。」

 

「そうね。」

 

 ラストが、静かに答える。

 

「ですが。」

 

「殺されずに済んだだけでも。」

 

「幸運でしょうか。」

 

「本当に、分かっているの?」

 

「何がでしょう。」

 

「今のエンヴィーが。」

 

「本気で、あなたを殺す可能性もあった。」

 

「ええ。」

 

「私が止めなかったとしても?」

 

「……それは困りますね。」

 

 ヨキが、苦笑する。

 

 ラストは。

 

 暫く彼を見つめていた。

 

「本当に。」

 

 ゆっくりと、口を開く。

 

「そんなことができると思っているの?」

 

「私達を救うなんて。」

 

 ヨキは、首を横へ振った。

 

「分かりません。」

 

 迷いのない返答だった。

 

「できると断言できるほど、私には、力も知識もありません。」

 

「それに。」

 

「私は、皆さんのことをほとんど知りません。」

 

「なら。」

 

「何故?」

 

「後悔する選択は。」

 

「したくないと思っています。」

 

 ヨキは、卓上へ視線を落とす。

 

「何もせずに。」

 

「皆さんが、結末へ向かうのを見届けることは。」

 

「恐らく。」

 

「私にはできません。」

 

「だから。」

 

「今日、来ていただきました。」

 

 ラストは。

 

 カップの中の紅茶へ目を落とす。

 

「何故。」

 

「そこまでするの?」

 

「私達は、あなたの敵よ。」

 

「あなたを利用するかもしれない。」

 

「殺すかもしれない。」

 

「それでも?」

 

「ええ。」

 

 ヨキは。

 

 少し困ったように微笑んだ。

 

「困ったことに。」

 

「昔から、好きなんですよ。」

 

「放ってはおけないのです。」

 

「……。」

 

 ラストが、顔を上げる。

 

 ヨキの言葉の本当の意味を。

 

 彼女が理解することはできない。

 

 この世界へ来るより前から。

 

 彼女達の結末を知るより前から。

 

 物語の中で生きる彼女達を見た時から。

 

 好きだった。

 

 だからこそ。

 

 知ってしまったなら。

 

 見て見ぬふりはできない。

 

「……本当に。」

 

 ラストの口元が。

 

 僅かに緩む。

 

「変な人。」

 

「よく言われます。」

 

 ヨキも、微笑む。

 

 二人の間に。

 

 先ほどまでとは違う。

 

 静かな時間が流れた。

 

 やがて。

 

 ラストはカップを置き、席を立つ。

 

「では。」

 

「私も失礼するわ。」

 

「ええ。」

 

 ヨキも立ち上がった。

 

「今日は来てくださって。」

 

「ありがとうございました。」

 

 ラストは数歩進んだところで、立ち止まる。

 

 振り返り。

 

 ヨキを見た。

 

「次に会う時は。」

 

「戦場かもしれないわよ。」

 

「ええ。」

 

「承知しています。」

 

「私は。」

 

 ラストの指先が。

 

 僅かに伸びる。

 

「あなたを刺すかもしれない。」

 

「覚悟しています。」

 

 迷いなく答えるヨキに。

 

 ラストは、小さく笑った。

 

「ふふ。」

 

「やはり。」

 

「変な人ね。」

 

 それだけを残し。

 

 ラストは、テラスを去っていった。

 

◇

 

 それから。

 

 暫く後。

 

 貸し切りの時間も、終わりへ近づいていた。

 

 ヨキは一人。

 

 何杯目かも分からない紅茶を飲んでいた。

 

 焼き菓子も、幾つか手をつけた。

 

 緊張が解けたためか。

 

 少しばかり、身体が重い。

 

 この後。

 

 改めて考えるべきことが増えた。

 

 エンヴィーを怒らせたことは。

 

 間違いなく、今後の危険へ繋がる。

 

 それでも。

 

 伝えたことを、後悔はしていなかった。

 

 その時。

 

 テラスの扉が、勢いよく開いた。

 

「ヨキさん!!」

 

 エドが飛び込んでくる。

 

 その後ろから。

 

 アルも、大きな身体を揺らしながら続いた。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「お二人とも。」

 

 ヨキは、平然と紅茶へ口をつける。

 

「随分と慌てていますね。」

 

「当たり前だろ!」

 

 エドが、卓上へ両手をついた。

 

「ホムンクルスと一人で会いに行く奴があるか!」

 

「もし何かあったら、どうするつもりだったんだ!」

 

「ええ。」

 

 ヨキは頷く。

 

「問題ありませんよ。」

 

「問題しかねぇよ!」

 

「ラストさんも。」

 

「エンヴィーさんも、来てくださいました。」

 

「良いお茶会でした。」

 

「そういう問題じゃない!!」

 

 エドとアルの声が重なった。

 

 ヨキは。

 

 少しだけ、目を丸くする。

 

「お二人とも。」

 

「息がぴったりですね。」

 

「誰のせいだと思ってんだ!」

 

「心配したんですよ、ヨキさん!」

 

「申し訳ありません。」

 

 ヨキは、素直に頭を下げた。

 

「ですが。」

 

「戦闘にはなりませんでしたので。」

 

「なりかけただろ、どうせ!」

 

「……鋭いですね。」

 

「やっぱりじゃねぇか!」

 

 エドが、頭を抱える。

 

 アルは。

 

 空いている椅子を引いて腰を下ろした。

 

「それで。」

 

「何か、大事なことは聞けたんですか?」

 

「ホムンクルスの目的とか。」

 

「仲間が何人いるかとか。」

 

「そうですね。」

 

 ヨキは、顎へ手を添える。

 

 暫く考えた後。

 

「ああ。」

 

「大事なことを、一つ聞き忘れていました。」

 

 エドとアルが。

 

 同時に身を乗り出す。

 

「何だ?」

 

「何ですか?」

 

 ヨキは。

 

 真剣な表情で二人を見る。

 

「エンヴィーさんは。」

 

「男性と女性。」

 

「どちらなのでしょうね?」

 

 僅かな沈黙。

 

「そこじゃねぇぇぇぇぇ!!」

 

 エドの叫びが。

 

 休日の喫茶店へ、大きく響き渡った。

 

◇

 

 翌日。

 

 エドとアルが滞在する宿の一室。

 

「ったく。」

 

 エドは、ベッドの上へ腰を下ろし。

 

 腕を組んでいた。

 

「今度会ったら。」

 

「絶対に、説教してやる。」

 

「昨日も、十分してたじゃない。」

 

 アルが苦笑する。

 

「あれじゃ足りねぇ。」

 

「ホムンクルスを茶に誘うとか。」

 

「普通じゃねぇだろ。」

 

「でも。」

 

「戦いにならなくて、よかったよ。」

 

「結果論だろ。」

 

 エドは吐き捨てる。

 

「それなのに、あの人。」

 

『エンヴィーさんは、男性と女性、どちらなのでしょうね?』

 

 昨日のヨキの真剣な顔を思い出す。

 

「……本当に。」

 

「何考えてんだか。」

 

 アルが、小さく笑った。

 

「ヨキさんらしいけどね。」

 

「らしくて困るんだよ。」

 

 その時だった。

 

 部屋の扉が、激しく叩かれた。

 

「失礼します!」

 

 聞き慣れた声。

 

 返事を待たず。

 

 扉が開く。

 

 マリア・ロス少尉と。

 

 デニー・ブロッシュ軍曹が。

 

 部屋へ飛び込んできた。

 

 二人とも。

 

 息を切らしている。

 

 顔色が悪い。

 

 エドは、眉を寄せた。

 

「どうしたんだよ。」

 

「そんなに慌てて。」

 

「大変です。」

 

 ロスは、呼吸を整えようとする。

 

 だが。

 

 その声は。

 

 僅かに震えていた。

 

「何かあったのか?」

 

 エドが立ち上がる。

 

 アルもまた。

 

 ロス達へ向き直った。

 

 ロスは唇を引き結ぶ。

 

 一度。

 

 俯き。

 

 そして。

 

 二人へ告げた。

 

「昨日。」

 

「ヨキ中尉が。」

 

「殉職しました。」

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