幕間 休日
日曜日。
中央市街の大通りから少し外れた場所に、一軒の喫茶店がある。
煉瓦造りの落ち着いた建物。
通りに面した店内とは別に、裏手には小さな庭と、それを見渡せるテラス席が設けられていた。
普段ならば、休日を楽しむ家族連れや恋人達で賑わっている場所だった。
しかし、今日に限っては。
テラスに置かれた幾つもの席に、他の客の姿はない。
その中央。
一人分の紅茶を前にして、ヨキは静かに腰を下ろしていた。
「……少々、奮発しすぎましたかね。」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
今日のために、テラス席を貸し切った。
これから交わす会話を他人に聞かれないため。
そして何より。
万が一にも、無関係な一般客を巻き込まないためだ。
必要な出費である。
そう自分へ言い聞かせても、後日届く請求書を考えると、少しばかり胃が重くなる。
ヨキは小さく息を吐き、紅茶へ口をつけた。
第五研究所での出来事から、既に数日が過ぎている。
研究所は、その大部分が崩壊した。
軍は直ちに現場を封鎖し、調査を開始している。
もっとも。
地下に隠されていた施設も。
そこで行われていた実験も。
中身が空っぽの鎧も。
その痕跡のほとんどは、瓦礫の下へ消えていた。
自分達が持ち帰れたものは少ない。
証拠と呼べるものに至っては、何一つないと言ってもよい。
だからこそ。
ヨキは、エドとアルへ記録を残さないように伝えた。
敵が軍の上層部にまで入り込んでいる可能性がある以上、迂闊に文章へ残せば、それを知った者まで巻き込む恐れがある。
今はまだ。
互いの記憶の中へ留めておくしかない。
「……もっとも。」
ヨキは、紅茶の水面へ視線を落とす。
「私達だけで抱え込むには、少々大きすぎる話ですが。」
故に。
ヨキは一人だけ、別の形で情報を託した。
◇
数日前。
ヨキは、ヒューズ家を訪れていた。
招待を受けていたわけではない。
玄関の奥からは、エリシアの誕生日を祝う楽しげな声が聞こえている。
色とりどりの紙飾り。
食卓を囲む人々の笑い声。
そして。
『見ろよ、グレイシア! 今日のエリシアはいつもの百倍かわいいぞ!』
『あなた、それ昨日も言っていたでしょう?』
『昨日より今日の方がかわいいんだから、当然だろ!』
聞き慣れたヒューズの声が、玄関の外にまで響いていた。
ヨキは扉の前で、僅かに苦笑する。
呼び鈴を鳴らすと。
暫くして、ヒューズ本人が扉を開けた。
「おう、ヨキ中尉じゃないか。」
ヒューズは目を丸くする。
「どうしたんだ?」
「突然、申し訳ありません。」
ヨキは軽く頭を下げた。
「本日は、贈り物だけお渡ししようと思いまして。」
「なんだよ。」
「来たなら上がっていけばいいだろ。」
「いえ。」
「せっかくのご家族の時間を邪魔するわけにはいきません。」
「そんなこと気にするなって。」
ヒューズはそう言いながらも、ヨキの両手に抱えられた包みへ視線を向けた。
「それ、エリシアにか?」
「ええ。」
ヨキは頷く。
「子供が何を喜ぶのか分かりませんでしたので。」
「店員の方に随分と相談してしまいました。」
「お前、そういうところ妙に真面目だよな。」
ヒューズが笑う。
ヨキが用意したのは、小さな白い熊のぬいぐるみと、綺麗な挿絵の入った絵本だった。
声を聞きつけたのか。
玄関の奥から、小さな足音が近づいてくる。
「パパー?」
顔を覗かせたエリシアが、贈り物を見て目を輝かせた。
「お誕生日おめでとうございます、エリシアさん。」
ヨキは腰を落とし、包みを差し出す。
「こちらを。」
「わあ!」
包みを受け取ったエリシアは、その場で中を開ける。
白い熊のぬいぐるみを見つけると。
すぐに両腕で抱き締めた。
「かわいい!」
「ありがとうございます!」
「喜んでいただけたなら、何よりです。」
ヨキは安堵したように微笑む。
その横で。
ヒューズは感極まったように胸を押さえていた。
「見たか、ヨキ!」
「うちのエリシアは、礼を言う姿まで世界一かわいい!」
「ええ。」
「存じ上げております。」
「分かってるじゃないか!」
「あなた。」
奥から現れたグレイシアが、呆れたように夫を見る。
「玄関に立たせたままにしないの。」
「いや、こいつが上がらないって言うんだよ。」
「本当に、贈り物をお渡ししに来ただけですので。」
ヨキは、もう一度頭を下げる。
「どうぞ、お気遣いなく。」
そして。
ヨキは手元に残っていた、もう一つの細長い箱をヒューズへ差し出した。
「それと。」
「こちらは、ヒューズ中佐へ。」
「え?」
ヒューズが自分を指差す。
「俺にも?」
「ええ。」
「賄賂のようなものですよ。」
「そんな渡し方あるか!」
ヒューズは笑いながら箱を受け取った。
「何が入ってるんだ?」
「上等な葉巻です。」
「俺、煙草は吸わないんだけど。」
「承知していますよ。」
「じゃあ、何で葉巻なんだよ。」
ヒューズの声音から、僅かに笑いが消えた。
ヨキは穏やかな表情のまま。
少しだけ声を落とす。
「仕事をしていると。」
「一人で、ゆっくり考えたい時もあるでしょうから。」
「……。」
「是非。」
「お一人で、お楽しみください。」
ヨキは、ヒューズの目を真っ直ぐに見た。
ほんの僅かな沈黙。
ヒューズの瞳が細められる。
「……分かった。」
箱を持つ手に、僅かに力が込められた。
「ありがたく、いただくよ。」
「ええ。」
ヨキは頭を下げる。
「それでは。」
「私は、これで失礼します。」
「本当に帰るのか?」
「ええ。」
「また、改めてお伺いしますよ。」
エリシアが熊のぬいぐるみを抱えたまま、ヨキへ手を振る。
「おじさん、ありがとう!」
「はい。」
「良いお誕生日を。」
ヨキも小さく手を振り返し。
ヒューズ家を後にした。
◇
ヨキは、テラス席で一人。
あの日のやり取りを思い返していた。
あの人ならば、気づく。
自分が、ヒューズの嗜好を知らずに葉巻を選んだのではないことも。
あえて「一人で」と念を押した意味も。
箱の中に。
葉巻以外のものが入っていることも。
マース・ヒューズという男は、鋭すぎる。
何の助けがなくとも。
いずれ自力で、この国に潜む異常へ辿り着いてしまう可能性が高い。
だからこそ。
先に情報を渡した。
遠回りをさせないため。
そして。
真相を知った後。
知ったことを、敵に悟られないよう警告するために。
敵がどこにいるのか。
誰の目が、どこまで届いているのか。
まだ何も分からない。
その状態で、真相へ近づいたことを表へ出せば。
ヒューズは、恐らく消される。
原作で起きたことと、同じように。
だから。
手紙には、知っていることだけではなく。
知った後、どう振る舞うべきか。
それも記しておいた。
気づいていないふりをすること。
一人で目立つ行動を取らないこと。
すぐに上層部へ報告しないこと。
そして。
手紙を読み終えた後は、必ず処分すること。
「……どうか。」
ヨキは、静かに呟く。
「気をつけてください。」
ヒューズならば。
自分の警告の意味まで、理解してくれる。
そう信じるしかなかった。
◇
ヨキが東方から中央へ異動した後。
発見された戦闘の痕跡から。
軍は、傷の男――スカーが死亡した可能性が高いと判断しつつある。
大規模な破壊の跡。
スカーの物と思われる服。
それに付着していた大量の血痕。
そして、それ以降途絶えた目撃情報。
状況だけを見れば。
妥当な判断ではある。
それに伴い。
エドとアルへ付けられている護衛も、近く解除される見込みだという。
マリア・ロス少尉と。
デニー・ブロッシュ軍曹。
二人の負担が減ること自体は喜ばしい。
だが。
「スカーは、生きているでしょうね。」
ヨキは小さく呟く。
少なくとも。
自分が知っている物語では、彼はここで死なない。
もっとも。
自分が介入したことで、既に多くの出来事が変わり始めている。
未来の知識が、今も正しいとは限らない。
ヨキの知る物語には存在しなかった出来事が起き。
生きるはずだった者が死ぬ可能性も。
死ぬはずだった者が生きる可能性もある。
それでも。
スカーが、簡単に命を落とすとは思えなかった。
護衛が解除された後も。
注意を続けるよう、エド達へは伝えておくべきだろう。
考えるべきことは多い。
「……。」
ヨキは懐中時計を取り出した。
約束の時刻までは、まだ間がある。
もう一度、紅茶へ口をつけようとした時だった。
テラスへ続く扉が、静かに開いた。
細い靴音が近づいてくる。
ヨキが顔を上げる。
そこには。
長い黒髪を揺らしながら、一人の女性が立っていた。
漆黒の衣服。
整った顔立ち。
胸元に刻まれた、赤い紋様。
列車の中で出会い。
第五研究所で再会した女性。
ラストだった。
ヨキは席を立つ。
「来てくださって、ありがとうございます。」
軽く頭を下げる。
「それにしても。」
ヨキは懐中時計へ目を落とす。
「随分と早いお着きですね。」
ラストは、薄く笑った。
「待たせるよりはいいでしょう?」
「ええ。」
「それは、勿論。」
ヨキは椅子を引き、彼女へ勧める。
「本日は、このテラスを貸し切っています。」
「周囲を気にする必要はありませんよ。」
「ええ。」
ラストは椅子へ腰を下ろした。
「随分と気が利くのね。」
「皆さんとお話をする以上、この方が安心でしょう。」
「それに。」
「無関係な方を、巻き込むわけにはいきませんから。」
ヨキは少し困ったように笑う。
「そう。」
ラストは頬杖をつき、ヨキを見つめる。
「私と二人きりになるためではなくて?」
「ははは。」
ヨキは、乾いた笑いを漏らした。
「それは、困りましたね。」
「何が?」
ヨキは彼女と視線を合わせる。
そして。
穏やかな声で問いかけた。
「ところで、エンヴィーさん。」
「ラストさんは、いらっしゃらないのですか?」
「……。」
女性の笑顔が固まった。
数秒。
風が、誰もいないテラスを通り抜ける。
「……何で分かったの?」
先ほどまでの艶やかな声ではない。
苛立ちを含んだ、若い声だった。
「勘ですよ。」
「はあ?」
「本当に、それだけです。」
ヨキは苦笑する。
「何となく。」
「ラストさんではないように感じましたので。」
「……ったく。」
エンヴィーが悪態をつく。
次の瞬間。
赤い錬成反応が、誰もいないテラスを照らした。
長い黒髪が縮む。
女性らしい輪郭が崩れ。
目の前に、中性的な姿のエンヴィーが現れる。
「つまんねぇ奴。」
「せっかく驚かせてやろうと思ったのに。」
「申し訳ありません。」
「謝るくらいなら、騙されてろよ。」
「それは少々、難しいお願いですね。」
「……本当に、むかつくな。」
その時。
再び、テラスの扉が開いた。
「あら。」
落ち着いた声が響く。
「もう、ばれてしまったのかしら。」
ヨキとエンヴィーが、同時に振り返る。
そこに立っていたのは。
今度こそ、本物のラストだった。
普段の身体へ密着した黒い衣服とは違う。
深い色合いの上品なドレス。
肩には、薄手のショールを掛け。
長い髪も、いつもより丁寧に整えられている。
戦場へ現れる姿とは。
明らかに違っていた。
エンヴィーが、口元を歪める。
「へえ。」
「随分と気合い入れてきたじゃん。」
「店に合わせただけよ。」
ラストはエンヴィーの言葉を受け流し、ヨキへ視線を向けた。
「待たせたかしら。」
「いいえ。」
ヨキは椅子を引く。
「来てくださって、ありがとうございます。」
◇
三人の前へ、紅茶が給仕された。
白い陶器のカップ。
焼き菓子と、幾つかの軽食。
店員がテラスを離れた後。
ヨキは、向かいへ座るラストを改めて見た。
「ラストさんは。」
「今日も素敵ですね。」
「……。」
ラストは僅かに目を瞬かせた。
それから。
ゆっくりとカップへ手を伸ばす。
「……どうも。」
「おいおい。」
エンヴィーが、呆れた声を上げる。
「本当にお茶してんじゃねぇぞ。」
「お茶会へお招きしましたので。」
「そういう意味じゃねぇよ!」
エンヴィーは苛立たしげに卓上へ肘をついた。
「それで?」
「お前の目的は、何なんだよ。」
「第五研究所じゃ。」
「あんな変な誘い方までしやがって。」
ヨキは、紅茶のカップを静かに置く。
「そうですね。」
少し考えるように、間を取った。
「お伝えだけでもしたかった。」
「それが、本音でしょうか。」
「伝えるぅ?」
エンヴィーが眉を寄せる。
「何をだよ。」
ラストは、何も言わない。
ただ。
カップを手にしたまま、ヨキを見つめている。
ヨキは一度だけ。
庭へ視線を向けた。
穏やかな日差し。
風に揺れる木々。
休日の街から届く、遠い喧騒。
「本当は。」
ヨキは、静かに口を開く。
「私は、このような舞台へ上がるつもりなどなかったのですがね。」
「舞台?」
「ええ。」
「物語の中心ではなく。」
「遠くから、知っている出来事を眺めて。」
「できることなら、静かに生きていきたいと思っていました。」
「ですが。」
「守りたい人を、守ろうとしていたら。」
「いつの間にか。」
「舞台の上に立っていた。」
「それが、今の私です。」
エンヴィーは黙っている。
ラストもまた。
言葉を挟まない。
「ですから。」
「できる限りのことはしようと、覚悟しているつもりです。」
「ですが。」
「正直なところ。」
ヨキは、小さく笑う。
「いつ死んでも、おかしくありませんからね。」
「……。」
「ですので。」
「死ぬ前に、伝えておきたかった。」
「そういうことです。」
「だから。」
エンヴィーの声が低くなる。
「何をだよ。」
ラストの瞳が、僅かに細められた。
ヨキは、二人を見た。
目を逸らさず。
ゆっくりと告げる。
「私は。」
「あなた達を、救いたいと思っています。」
「……は?」
エンヴィーが、間の抜けた声を漏らす。
ヨキは続けた。
「この物語が、結末を迎える頃。」
「あなた達が生きていて。」
「誰かに命じられたものではない。」
「自分で選んだ、自由な生き方ができるようになっている。」
「そうあってほしいと思っています。」
「そして。」
「できることなら。」
「私も、そうなるための力になりたい。」
「それが。」
「お伝えしたかったことです。」
沈黙。
紅茶から立ち上る湯気だけが。
ゆっくりと揺れている。
エンヴィーは、暫く何も言わなかった。
やがて。
その口元が、歪んだ。
「……馬鹿じゃねぇの、お前。」
低い声。
先ほどまでの軽い苛立ちとは違う。
明確な敵意が滲んでいた。
「救う?」
「誰が、誰をだよ。」
エンヴィーが立ち上がる。
椅子が音を立てて、後ろへずれた。
「無力な雑魚の蟻が。」
「僕達を救うだって?」
「笑わせんな。」
エンヴィーの身体から、殺気が膨れ上がる。
「今ここで。」
「お前を殺してやろうか?」
空気が変わった。
穏やかだったテラスが、一瞬にして戦場へ変わる。
ヨキの指先が、僅かに震えた。
怖くないわけではない。
エンヴィーの正体を自分は知っている。
自分程度では。
一瞬で命を奪われる。
それでも。
ヨキは、目を逸らさなかった。
エンヴィーと真っ直ぐに視線を合わせる。
「確かに。」
「人間は、弱いですよ。」
「あ?」
「叩かれれば、傷つきます。」
「へこたれることもある。」
「道を外すことも。」
「倒れそうになることもあります。」
ヨキは。
静かに言葉を続ける。
「しかし。」
「綺麗事だと分かっていても。」
「もう駄目だと思っても。」
「何度でも、立ち向かう。」
「一人で立ち上がれない時には。」
「周りの誰かが、手を差し伸べてくれる。」
「そして。」
「今度は、その人が。」
「誰かの手を取る。」
ユースウェルの人々と出会い。
リオールの人々と向き合い。
自分を変えてくれた。
自分一人では立てなかった場所で。
手を差し伸べてくれた。
「私は。」
「人間とは。」
「そういう存在だと思っています。」
「……。」
エンヴィーの怒りが。
一瞬だけ、消えた。
目を見開き。
何かを言い返そうとして。
しかし。
言葉が出てこない。
その表情を隠すように。
顔を背ける。
「……くだらねぇ。」
吐き捨てる。
「本当に。」
「付き合ってられないね。」
エンヴィーは椅子を蹴るように離れ、そのままテラスの出口へ向かった。
「エンヴィー。」
ラストが声を掛ける。
だが。
エンヴィーは振り返らない。
「帰る。」
「こんな茶番。」
「好きに続けてろよ。」
扉が、乱暴に閉じられた。
テラスへ。
再び、静寂が戻った。
◇
ヨキは。
エンヴィーが去った扉を見つめていた。
「……怒らせてしまいましたね。」
「そうね。」
ラストが、静かに答える。
「ですが。」
「殺されずに済んだだけでも。」
「幸運でしょうか。」
「本当に、分かっているの?」
「何がでしょう。」
「今のエンヴィーが。」
「本気で、あなたを殺す可能性もあった。」
「ええ。」
「私が止めなかったとしても?」
「……それは困りますね。」
ヨキが、苦笑する。
ラストは。
暫く彼を見つめていた。
「本当に。」
ゆっくりと、口を開く。
「そんなことができると思っているの?」
「私達を救うなんて。」
ヨキは、首を横へ振った。
「分かりません。」
迷いのない返答だった。
「できると断言できるほど、私には、力も知識もありません。」
「それに。」
「私は、皆さんのことをほとんど知りません。」
「なら。」
「何故?」
「後悔する選択は。」
「したくないと思っています。」
ヨキは、卓上へ視線を落とす。
「何もせずに。」
「皆さんが、結末へ向かうのを見届けることは。」
「恐らく。」
「私にはできません。」
「だから。」
「今日、来ていただきました。」
ラストは。
カップの中の紅茶へ目を落とす。
「何故。」
「そこまでするの?」
「私達は、あなたの敵よ。」
「あなたを利用するかもしれない。」
「殺すかもしれない。」
「それでも?」
「ええ。」
ヨキは。
少し困ったように微笑んだ。
「困ったことに。」
「昔から、好きなんですよ。」
「放ってはおけないのです。」
「……。」
ラストが、顔を上げる。
ヨキの言葉の本当の意味を。
彼女が理解することはできない。
この世界へ来るより前から。
彼女達の結末を知るより前から。
物語の中で生きる彼女達を見た時から。
好きだった。
だからこそ。
知ってしまったなら。
見て見ぬふりはできない。
「……本当に。」
ラストの口元が。
僅かに緩む。
「変な人。」
「よく言われます。」
ヨキも、微笑む。
二人の間に。
先ほどまでとは違う。
静かな時間が流れた。
やがて。
ラストはカップを置き、席を立つ。
「では。」
「私も失礼するわ。」
「ええ。」
ヨキも立ち上がった。
「今日は来てくださって。」
「ありがとうございました。」
ラストは数歩進んだところで、立ち止まる。
振り返り。
ヨキを見た。
「次に会う時は。」
「戦場かもしれないわよ。」
「ええ。」
「承知しています。」
「私は。」
ラストの指先が。
僅かに伸びる。
「あなたを刺すかもしれない。」
「覚悟しています。」
迷いなく答えるヨキに。
ラストは、小さく笑った。
「ふふ。」
「やはり。」
「変な人ね。」
それだけを残し。
ラストは、テラスを去っていった。
◇
それから。
暫く後。
貸し切りの時間も、終わりへ近づいていた。
ヨキは一人。
何杯目かも分からない紅茶を飲んでいた。
焼き菓子も、幾つか手をつけた。
緊張が解けたためか。
少しばかり、身体が重い。
この後。
改めて考えるべきことが増えた。
エンヴィーを怒らせたことは。
間違いなく、今後の危険へ繋がる。
それでも。
伝えたことを、後悔はしていなかった。
その時。
テラスの扉が、勢いよく開いた。
「ヨキさん!!」
エドが飛び込んでくる。
その後ろから。
アルも、大きな身体を揺らしながら続いた。
「大丈夫ですか!?」
「お二人とも。」
ヨキは、平然と紅茶へ口をつける。
「随分と慌てていますね。」
「当たり前だろ!」
エドが、卓上へ両手をついた。
「ホムンクルスと一人で会いに行く奴があるか!」
「もし何かあったら、どうするつもりだったんだ!」
「ええ。」
ヨキは頷く。
「問題ありませんよ。」
「問題しかねぇよ!」
「ラストさんも。」
「エンヴィーさんも、来てくださいました。」
「良いお茶会でした。」
「そういう問題じゃない!!」
エドとアルの声が重なった。
ヨキは。
少しだけ、目を丸くする。
「お二人とも。」
「息がぴったりですね。」
「誰のせいだと思ってんだ!」
「心配したんですよ、ヨキさん!」
「申し訳ありません。」
ヨキは、素直に頭を下げた。
「ですが。」
「戦闘にはなりませんでしたので。」
「なりかけただろ、どうせ!」
「……鋭いですね。」
「やっぱりじゃねぇか!」
エドが、頭を抱える。
アルは。
空いている椅子を引いて腰を下ろした。
「それで。」
「何か、大事なことは聞けたんですか?」
「ホムンクルスの目的とか。」
「仲間が何人いるかとか。」
「そうですね。」
ヨキは、顎へ手を添える。
暫く考えた後。
「ああ。」
「大事なことを、一つ聞き忘れていました。」
エドとアルが。
同時に身を乗り出す。
「何だ?」
「何ですか?」
ヨキは。
真剣な表情で二人を見る。
「エンヴィーさんは。」
「男性と女性。」
「どちらなのでしょうね?」
僅かな沈黙。
「そこじゃねぇぇぇぇぇ!!」
エドの叫びが。
休日の喫茶店へ、大きく響き渡った。
◇
翌日。
エドとアルが滞在する宿の一室。
「ったく。」
エドは、ベッドの上へ腰を下ろし。
腕を組んでいた。
「今度会ったら。」
「絶対に、説教してやる。」
「昨日も、十分してたじゃない。」
アルが苦笑する。
「あれじゃ足りねぇ。」
「ホムンクルスを茶に誘うとか。」
「普通じゃねぇだろ。」
「でも。」
「戦いにならなくて、よかったよ。」
「結果論だろ。」
エドは吐き捨てる。
「それなのに、あの人。」
『エンヴィーさんは、男性と女性、どちらなのでしょうね?』
昨日のヨキの真剣な顔を思い出す。
「……本当に。」
「何考えてんだか。」
アルが、小さく笑った。
「ヨキさんらしいけどね。」
「らしくて困るんだよ。」
その時だった。
部屋の扉が、激しく叩かれた。
「失礼します!」
聞き慣れた声。
返事を待たず。
扉が開く。
マリア・ロス少尉と。
デニー・ブロッシュ軍曹が。
部屋へ飛び込んできた。
二人とも。
息を切らしている。
顔色が悪い。
エドは、眉を寄せた。
「どうしたんだよ。」
「そんなに慌てて。」
「大変です。」
ロスは、呼吸を整えようとする。
だが。
その声は。
僅かに震えていた。
「何かあったのか?」
エドが立ち上がる。
アルもまた。
ロス達へ向き直った。
ロスは唇を引き結ぶ。
一度。
俯き。
そして。
二人へ告げた。
「昨日。」
「ヨキ中尉が。」
「殉職しました。」