リゼンブール。
昼下がりのロックベル家に、電話の呼び出し音が響いた。
「はいよ。」
作業台から立ち上がったピナコは、腰を軽く叩きながら受話器を取る。
「義肢装具のロックベルでございます。」
『……ばっちゃん。』
聞こえてきた声に、ピナコは眉を上げた。
「アルかい。」
受話器の向こうにいるのは、アルフォンスだった。
いつもの穏やかな声。
けれど。
今日は、その声がひどく遠く聞こえた。
「どうしたんだい。」
「またエドが、無茶して機械鎧を壊したのか?」
『ううん。兄さんは、隣にいるよ。』
「そうかい。」
ピナコは、短く答えた。
エドが隣にいる。
それなのに、電話を掛けてきたのはアルだ。
その事実だけで。
良い知らせではないことが、分かってしまった。
『ばっちゃん。』
「……ああ。」
『落ち着いて、聞いてほしいんだ。』
ピナコは黙った。
聞きたくない。
次に続く言葉を。
聞いてしまえば、もう戻れない気がした。
それでも。
「言いな。」
アルが、息を呑む気配がした。
『ヨキさんが。』
一度。
声が途切れる。
『ヨキさんが、亡くなった。』
「……。」
時計の針が進む音だけが。
やけに大きく聞こえた。
「そうかい。」
ピナコが返せたのは、それだけだった。
『ごめん。』
「何で、あんたが謝るんだい。」
『でも。』
「アル。」
ピナコは静かに、その言葉を遮った。
「エドは、そこにいるんだね。」
『……うん。』
「代わらなくていい。」
今のエドに。
無理に話をさせる必要はない。
電話の向こうからは。
誰かの声も。
物音も聞こえなかった。
けれど。
受話器のすぐ近くで。
エドが俯いているような気がした。
「ちゃんと飯を食べるんだよ。」
『ばっちゃん。』
「食べたくなくても、食べるんだ。」
「眠れなくても、身体は休めな。」
「……それだけは、忘れるんじゃないよ。」
長い沈黙の後。
『分かった。』
アルが答えた。
『また、連絡するね。』
「ああ。」
ピナコは。
いつもと変わらない声を作った。
「気をつけて帰ってくるんだよ。」
『うん。』
通話が切れた。
ピナコは、受話器を置かなかった。
耳元に残る無音を。
暫く、聞き続けていた。
やがて。
ゆっくりと受話器を戻す。
「……まったく。」
口から漏れた声は。
自分でも驚くほど、弱かった。
作業台へ戻ろうとして。
足が止まる。
指先が、震えていた。
ピナコは、その手をもう片方の手で押さえた。
ヨキが、この家で過ごした時間を思い出す。
大袈裟な出来事ではない。
食卓を囲んだこと。
エド達の話をしたこと。
ニーナの様子を、気に掛けていたこと。
「勝手な男だよ。」
ピナコは、空になった部屋へ呟いた。
「帰ってくる場所だけ作らせておいて。」
「勝手にいなくなるんじゃないよ。」
「ばっちゃん?」
幼い声がした。
ピナコは、すぐに顔を上げる。
居間の入口に。
ニーナが立っていた。
両手には、一枚の紙を持っている。
「電話、だれからだったの?」
「エドとアルだよ。」
「お兄ちゃんたち?」
ニーナの顔が明るくなる。
「元気だった?」
「ああ。」
ピナコは少し間を置いてから、頷いた。
「元気にしてるよ。」
「そっか。」
ニーナは嬉しそうに笑った。
それから。
手に持っていた紙を、ピナコへ差し出す。
「見て。」
そこには。
何人かの人間が描かれていた。
大きな鎧。
金髪の少年。
小さな少女。
そして、その隣には。
小さな口髭を生やした男が描かれていた。
皆が一緒に、手を繋いでいた。
「ヨキおじさんも、描いたの。」
「……そうかい。」
「今度来たら、見せるんだ。」
ニーナは、描かれた男を指差す。
「ヨキおじさん、次はいつ帰ってくるの?」
「……。」
言わなければならない。
いつかは。
ヨキが、もう帰ってこないことを。
ニーナが待ち続けても。
玄関の扉は開かないことを。
それでも。
今、この子へ告げることが正しいのか。
ピナコには分からなかった。
「……しばらく。」
ピナコは、ゆっくりと口を開く。
「忙しくなるそうだよ。」
「そうなの?」
「ああ。」
「だから。」
「帰ってくるのは、少し先になるかもしれないね。」
ニーナは、残念そうに紙へ目を落とした。
けれど。
すぐに顔を上げる。
「じゃあ、待ってる。」
「帰ってきたら、いっぱい見せるの。」
「……ああ。」
ピナコは頷いた。
「そうしな。」
ニーナは絵を大切そうに胸へ抱く。
「なくさないように、しまってくるね。」
小さな足音が。
階段の方へ遠ざかっていく。
ピナコは、その背中を見送った。
やがて。
完全に姿が見えなくなってから。
深く、息を吐く。
「悪いね。」
誰へ向けた言葉なのか。
ピナコ自身にも分からなかった。
ニーナへか。
ヨキへか。
それとも。
真実を口にできなかった自分へか。
ピナコは、先ほどニーナが立っていた場所を見つめる。
あの子は待っている。
また、ヨキがこの家へ帰ってくる日を。
「……あんたの帰る場所は。」
「まだ、ここにあるよ。」
返事はない。
それでも。
ピナコは静かに呟いた。