静かな寝息が途切れた。
ゆっくりと。
彼の瞼が開く。
黒い瞳。
その視線が。
私を捉えた。
私は。
一歩だけ後ろへ下がっていた。
どうしてなのか。
自分でも分からない。
彼はゆっくりと身体を起こす。
そして。
迷うことなく床へ足を下ろした。
一歩。
また一歩。
何事もなかったように立ち上がる。
腕を動かし。
肩を回す。
白くなった髪が揺れた。
伸びた髭へ触れる。
そして。
顔を走る傷へ。
静かに指を添えた。
「……戻れたようですね。」
独り言のようだった。
驚きも。
混乱もない。
受け入れている。
最初から。
全部。
彼がこちらを見る。
「身体は。」
「問題ありませんね。」
「少し変わりましたが。」
「生きていますから。」
彼は小さく笑った。
穏やかだった。
まるで。
何一つ失っていないような笑みだった。
(この人は……。)
やっぱり。
普通じゃない。
彼は部屋の出口へと向かう。
迷いがない。
「どこへ行くの。」
「ここを出ます。」
即答だった。
「待ちなさい。」
「外へ出られる訳がない。」
彼は足を止める。
ゆっくりと振り返った。
「前にもお伝えしました。」
静かな声だった。
「あなた達を。」
「救いたいと思っています。」
胸の奥が揺れる。
(どうして。)
(今。)
(そんなことを言うの。)
「馬鹿なことを言わないで。」
「ここはお父様の研究所よ。」
「勝手に出られる場所じゃない。」
「出口なんて分からないでしょう!」
彼は少しだけ考えるように目を閉じた。
そして。
小さく頷く。
「分かりますよ。」
私は息を止めた。
「……え?」
彼は小さく笑う。
「今なら。」
それだけ言うと。
再び歩き始めた。
(どういうこと。)
(何が。)
(分かるというの。)
彼の背中だけが。
少しずつ遠ざかっていく。
(止めないと。)
(監視しないと。)
(私は。)
(お父様に従わないと。)
それなのに。
身体が動く。
「……待って。」
彼が振り返る。
「私も行く。」
言った瞬間。
自分で驚いた。
(違う。)
(これは。)
(監視よ。)
(……それだけ。)
彼は小さく笑った。
「そうですか。」
その一言だけだった。
私は。
何も言えないまま。
一歩。
彼の後を歩き始めた。
◇
研究所の廊下は静かだった。
足音だけが響く。
彼は迷わない。
一度も。
立ち止まらない。
(どうして。)
(迷わないの。)
(ここは初めてのはずなのに。)
曲がり角を一つ。
また一つ。
その時だった。
物音。
廊下の奥。
何人もの男が現れる。
その目に。
生気はない。
「下がりなさい!」
思わず声が出た。
「魂のない人間よ!」
実験の過程で生みだされた産物。
命令にただ従う兵士。
彼らは。
ここの番人として配置されている。
それが。
一斉に駆け出してきた。
「この数!」
「無理よ!」
「戻りなさい!」
彼は振り返らない。
ゆっくりと一歩だけ前へ出る。
最初の一人が拳を振り下ろす。
避ける。
ほとんど動いていない。
右足が低く走る。
鈍い音。
膝があり得ない方向へ曲がった。
男は倒れる。
それでも。
腕だけで這い寄ってきた。
(まだ動く。)
彼は視線だけを落とした。
「なるほど。」
静かな声だった。
「痛みは感じないようですね。」
(戦いながら。)
(分析している。)
次の一人。
腕を掴まれる。
彼は身体を捻る。
肩関節が外れる音。
そのまま投げる。
床へ叩きつけられた男は。
起き上がる。
腕をぶら下げたまま。
歩いてきた。
(倒しているんじゃない。)
(動けなくしている。)
彼は相手を見ていた。
人ではなく。
身体を見ている。
どこを壊せば。
止まるのか。
それだけを見ている。
次々と。
膝。
肘。
肩。
関節だけが砕かれていく。
誰一人。
致命傷は負っていない。
それでも。
もう立ち上がれない。
静寂が戻る。
彼は一人の男の前へしゃがみ込んだ。
身体へ触れる。
しばらく目を閉じる。
そして。
小さく頷いた。
「やはり。」
「賢者の石は入っていませんね。」
私は息を呑む。
「……え?」
その横顔は。
嘘をついているようには見えなかった。
彼は男の身体から手を離した。
「不死の軍団ではありません。」
私は。
言葉を失った。
「どうして。」
思わず口をついていた。
彼は私を見る。
少しだけ笑う。
「分かりますよ。」
それだけだった。
その時。
低い唸り声が響く。
床が微かに震えた。
私は反射的に顔を上げる。
廊下の奥。
闇の向こうから。
巨大な影がゆっくりと姿を現した。
獣。
いや。
人とも獣ともつかない。
肉が無理矢理つなぎ合わされた。
醜い合成獣。
「……!」
思わず息を呑む。
「下がって!」
叫ぶ。
「合成獣よ!」
巨体が床を蹴る。
一気に距離を詰めてきた。
彼は静かに一歩前へ出る。
その瞬間だった。
銀色の閃光。
風を裂く音だけが遅れて届く。
合成獣の首が。
宙を舞った。
重い音を立てて床へ転がる。
巨体が崩れ落ちた。
静寂。
廊下の奥。
一つの鎧が立っていた。
「間に合ったようだな。」
兜から落ち着いた声が響く。
続いて。
胴体から明るい声が響いた。
「旦那!お久しぶりです!」
彼は小さく笑った。
「お久しぶりです。」
「ご無事で何よりだ。」
「ありがとうございます。」
穏やかな再会だった。
まるで。
ここがお父様の研究所ではないかのように。
彼は少し困ったように笑う。
「ですが。」
「こんな所へ戻って来なくても。」
「もう。」
「あなた方は自由だとお伝えしましたが。」
鎧は静かだった。
やがて。
「ああ。」
「だからだ。」
兜から声が響く。
彼は少しだけ首を傾げた。
兜は続ける。
「自由だから。」
「俺達は俺達で決めた。」
胴体が身体を大きく動かす。
「そうだぜ旦那!」
「誰にも命令されちゃいねぇ!」
「俺達が来たくて来たんだ!」
私は。
言葉を失う。
(自由だから。)
(自分で。)
(決めた。)
彼は目を伏せる。
そして。
少し照れたように笑った。
「……そうでしたね。」
「ありがとうございます。」
兜から落ち着いた声が響く。
「礼なら不要。」
「もう十分に受け取っている。」
「で。」
「旦那。」
胴体から明るい声が響く。
「ホムンクルスの姉ちゃんはどうするんだ?」
彼がこっちを向く。
私の前へ歩いて来る。
そして。
右手を差し出した。
「家出しませんか。」
私はその手を見る。
彼の顔は。
見られなかった。
「きっと。」
「楽しいですよ。」
その言葉が。
胸の奥へ奥へ落ちていく。
ゆっくりと。
手を伸ばす。
彼の手へ触れる。
温かかった。
「これは。」
俯いたまま呟く。
「監視よ。」
少しだけ間を置く。
「……勘違いしないで。」
「監視なんだから。」
彼は何も言わない。
ただ。
小さく笑っているのだろう。
私は。
彼の顔を見られないまま。
自分の意志で。
一歩。
彼の隣へ歩き始めた。