ヨキですが、静かに生きたいだけなんです。   作:千遇万歩

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第二章 一歩

 

 静かな寝息が途切れた。

 

 ゆっくりと。

 

 彼の瞼が開く。

 

 黒い瞳。

 

 その視線が。

 

 私を捉えた。

 

 私は。

 

 一歩だけ後ろへ下がっていた。

 

 どうしてなのか。

 

 自分でも分からない。

 

 彼はゆっくりと身体を起こす。

 

 そして。

 

 迷うことなく床へ足を下ろした。

 

 一歩。

 

 また一歩。

 

 何事もなかったように立ち上がる。

 

 腕を動かし。

 

 肩を回す。

 

 白くなった髪が揺れた。

 

 伸びた髭へ触れる。

 

 そして。

 

 顔を走る傷へ。

 

 静かに指を添えた。

 

 「……戻れたようですね。」

 

 独り言のようだった。

 

 驚きも。

 

 混乱もない。

 

 受け入れている。

 

 最初から。

 

 全部。

 

 彼がこちらを見る。

 

 「身体は。」

 

 「問題ありませんね。」

 

 「少し変わりましたが。」

 

 「生きていますから。」

 

 彼は小さく笑った。

 

 穏やかだった。

 

 まるで。

 

 何一つ失っていないような笑みだった。

 

 (この人は……。)

 

 やっぱり。

 

 普通じゃない。

 

 彼は部屋の出口へと向かう。

 

 迷いがない。

 

 「どこへ行くの。」

 

 「ここを出ます。」

 

 即答だった。

 

 「待ちなさい。」

 

 「外へ出られる訳がない。」

 

 彼は足を止める。

 

 ゆっくりと振り返った。

 

 「前にもお伝えしました。」

 

 静かな声だった。

 

 「あなた達を。」

 

 「救いたいと思っています。」

 

 胸の奥が揺れる。

 

 (どうして。)

 

 (今。)

 

 (そんなことを言うの。)

 

 「馬鹿なことを言わないで。」

 

 「ここはお父様の研究所よ。」

 

 「勝手に出られる場所じゃない。」

 

 「出口なんて分からないでしょう!」

 

 彼は少しだけ考えるように目を閉じた。

 

 そして。

 

 小さく頷く。

 

 「分かりますよ。」

 

 私は息を止めた。

 

 「……え?」

 

 彼は小さく笑う。

 

 「今なら。」

 

 それだけ言うと。

 

 再び歩き始めた。

 

 (どういうこと。)

 

 (何が。)

 

 (分かるというの。)

 

 彼の背中だけが。

 

 少しずつ遠ざかっていく。

 

 (止めないと。)

 

 (監視しないと。)

 

 (私は。)

 

 (お父様に従わないと。)

 

 それなのに。

 

 身体が動く。

 

 「……待って。」

 

 彼が振り返る。

 

 「私も行く。」

 

 言った瞬間。

 

 自分で驚いた。

 

 (違う。)

 

 (これは。)

 

 (監視よ。)

 

 (……それだけ。)

 

 彼は小さく笑った。

 

 「そうですか。」

 

 その一言だけだった。

 

 私は。

 

 何も言えないまま。

 

 一歩。

 

 彼の後を歩き始めた。

 

◇

 

 研究所の廊下は静かだった。

 

 足音だけが響く。

 

 彼は迷わない。

 

 一度も。

 

 立ち止まらない。

 

 (どうして。)

 

 (迷わないの。)

 

 (ここは初めてのはずなのに。)

 

 曲がり角を一つ。

 

 また一つ。

 

 その時だった。

 

 物音。

 

 廊下の奥。

 

 何人もの男が現れる。

 

 その目に。

 

 生気はない。

 

 「下がりなさい!」

 

 思わず声が出た。

 

 「魂のない人間よ!」

 

 実験の過程で生みだされた産物。

 

 命令にただ従う兵士。

 

 彼らは。

 

 ここの番人として配置されている。

 

 それが。

 

 一斉に駆け出してきた。

 

 「この数!」

 

 「無理よ!」

 

 「戻りなさい!」

 

 彼は振り返らない。

 

 ゆっくりと一歩だけ前へ出る。

 

 最初の一人が拳を振り下ろす。

 

 避ける。

 

 ほとんど動いていない。

 

 右足が低く走る。

 

 鈍い音。

 

 膝があり得ない方向へ曲がった。

 

 男は倒れる。

 

 それでも。

 

 腕だけで這い寄ってきた。

 

 (まだ動く。)

 

 彼は視線だけを落とした。

 

 「なるほど。」

 

 静かな声だった。

 

 「痛みは感じないようですね。」

 

 (戦いながら。)

 

 (分析している。)

 

 次の一人。

 

 腕を掴まれる。

 

 彼は身体を捻る。

 

 肩関節が外れる音。

 

 そのまま投げる。

 

 床へ叩きつけられた男は。

 

 起き上がる。

 

 腕をぶら下げたまま。

 

 歩いてきた。

 

 (倒しているんじゃない。)

 

 (動けなくしている。)

 

 彼は相手を見ていた。

 

 人ではなく。

 

 身体を見ている。

 

 どこを壊せば。

 

 止まるのか。

 

 それだけを見ている。

 

 次々と。

 

 膝。

 

 肘。

 

 肩。

 

 関節だけが砕かれていく。

 

 誰一人。

 

 致命傷は負っていない。

 

 それでも。

 

 もう立ち上がれない。

 

 静寂が戻る。

 

 彼は一人の男の前へしゃがみ込んだ。

 

 身体へ触れる。

 

 しばらく目を閉じる。

 

 そして。

 

 小さく頷いた。

 

 「やはり。」

 

 「賢者の石は入っていませんね。」

 

 私は息を呑む。

 

 「……え?」

 

 その横顔は。

 

 嘘をついているようには見えなかった。

 

 彼は男の身体から手を離した。

 

 「不死の軍団ではありません。」

 

 私は。

 

 言葉を失った。

 

 「どうして。」

 

 思わず口をついていた。

 

 彼は私を見る。

 

 少しだけ笑う。

 

 「分かりますよ。」

 

 それだけだった。

 

 その時。

 

 低い唸り声が響く。

 

 床が微かに震えた。

 

 私は反射的に顔を上げる。

 

 廊下の奥。

 

 闇の向こうから。

 

 巨大な影がゆっくりと姿を現した。

 

 獣。

 

 いや。

 

 人とも獣ともつかない。

 

 肉が無理矢理つなぎ合わされた。

 

 醜い合成獣。

 

 「……!」

 

 思わず息を呑む。

 

 「下がって!」

 

 叫ぶ。

 

 「合成獣よ!」

 

 巨体が床を蹴る。

 

 一気に距離を詰めてきた。

 

 彼は静かに一歩前へ出る。

 

 その瞬間だった。

 

 銀色の閃光。

 

 風を裂く音だけが遅れて届く。

 

 合成獣の首が。

 

 宙を舞った。

 

 重い音を立てて床へ転がる。

 

 巨体が崩れ落ちた。

 

 静寂。

 

 廊下の奥。

 

 一つの鎧が立っていた。

 

 「間に合ったようだな。」

 

 兜から落ち着いた声が響く。

 

 続いて。

 

 胴体から明るい声が響いた。

 

 「旦那!お久しぶりです!」

 

 彼は小さく笑った。

 

 「お久しぶりです。」

 

 「ご無事で何よりだ。」

 

 「ありがとうございます。」

 

 穏やかな再会だった。

 

 まるで。

 

 ここがお父様の研究所ではないかのように。

 

 彼は少し困ったように笑う。

 

 「ですが。」

 

 「こんな所へ戻って来なくても。」

 

 「もう。」

 

 「あなた方は自由だとお伝えしましたが。」

 

 鎧は静かだった。

 

 やがて。

 

 「ああ。」

 

 「だからだ。」

 

 兜から声が響く。

 

 彼は少しだけ首を傾げた。

 

 兜は続ける。

 

 「自由だから。」

 

 「俺達は俺達で決めた。」

 

 胴体が身体を大きく動かす。

 

 「そうだぜ旦那!」

 

 「誰にも命令されちゃいねぇ!」

 

 「俺達が来たくて来たんだ!」

 

 私は。

 

 言葉を失う。

 

 (自由だから。)

 

 (自分で。)

 

 (決めた。)

 

 彼は目を伏せる。

 

 そして。

 

 少し照れたように笑った。

 

 「……そうでしたね。」

 

 「ありがとうございます。」

 

 兜から落ち着いた声が響く。

 

 「礼なら不要。」

 

 「もう十分に受け取っている。」

 

 「で。」

 

 「旦那。」

 

 胴体から明るい声が響く。

 

 「ホムンクルスの姉ちゃんはどうするんだ?」

 

 彼がこっちを向く。

 

 私の前へ歩いて来る。

 

 そして。

 

 右手を差し出した。

 

 「家出しませんか。」

 

 私はその手を見る。

 

 彼の顔は。

 

 見られなかった。

 

 「きっと。」

 

 「楽しいですよ。」

 

 その言葉が。

 

 胸の奥へ奥へ落ちていく。

 

 ゆっくりと。

 

 手を伸ばす。

 

 彼の手へ触れる。

 

 温かかった。

 

 「これは。」

 

 俯いたまま呟く。

 

 「監視よ。」

 

 少しだけ間を置く。

 

 「……勘違いしないで。」

 

 「監視なんだから。」

 

 彼は何も言わない。

 

 ただ。

 

 小さく笑っているのだろう。

 

 私は。

 

 彼の顔を見られないまま。

 

 自分の意志で。

 

 一歩。

 

 彼の隣へ歩き始めた。

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