第一章 東方司令部
病院を退院した翌日。
ヨキは東方司令部の正門を見上げていた。
「……また軍かぁ。」
思わず小さくため息が漏れる。
肩の傷はまだ完治していない。
動かすたびに、少し痛みが走る。
リオールでの出来事は、今でも夢に見るほど鮮明だった。
向けられた銃口。
響いた銃声。
そして、考えるより先にロゼを庇っていた自分。
「もう、あんな思いはごめんだ。」
静かに拳を握る。
(今度こそ。)
(本当に何もしない。)
(危ないことには近づかない。)
(目立たない。)
(平穏に勤務して。)
(平穏に異動して。)
(平穏に人生を終える。)
「よし。」
そう自分へ言い聞かせ、東方司令部の中へ足を踏み入れた。
◇
東方司令部。
アメストリス東部一帯を管轄する軍の中枢。
司令官であるグラマン中将のもと、多くの軍人たちが勤務している。
ユースウェルやリオールのような地方勤務とは違う。
ここでは自分は、ただの中尉。
数多くいる軍人の一人に過ぎない。
(これくらいがちょうどいい。)
(地方の責任者なんて、もう勘弁だ。)
受付で手続きを済ませると、配属先まで案内される。
「こちらになります。」
「ありがとうございます。」
廊下を歩いていると、一人の青年とすれ違った。
封の切られていない煙草の箱を手に、どこか気の抜けた笑みを浮かべている。
「どうも。」
「新しく来た中尉さんですよね?」
青年は足を止め、軽く敬礼した。
「ジャン・ハボック少尉です。」
「ああ。」
ヨキも敬礼を返す。
「ヨキ中尉だ。」
「よろしく。」
「こちらこそ。」
短いやり取りだけを交わし、二人はそのまますれ違った。
(ハボック少尉。)
(やっぱり気さくそうな人だな。)
そんな第一印象だけが残った。
◇
「こちらです。」
案内役が扉を開ける。
その先にいた人物を見た瞬間、ヨキは内心で固まった。
それでも表情には出さず、姿勢を正す。
「ヨキ中尉、本日付で着任いたしました。」
「よろしくお願いいたします。」
敬礼。
机の向こうに座る男も静かに敬礼を返した。
「ロイ・マスタング大佐だ。」
「歓迎しよう。」
(うわぁ……。)
(マスタング組かよ。)
心の中だけで頭を抱える。
目の前にいるのは、焰の錬金術師。
空気中の酸素濃度を操り、発火布の火花を起点に爆炎を生み出す国家錬金術師。
後に軍の中枢へと駆け上がっていく男でもある。
その傍らに立つのは、リザ・ホークアイ中尉。
高い射撃技術を持ち、冷静な判断力でマスタングを支える副官。
部屋を見渡せば、情報分析に長けた男、通信担当、現場叩き上げの軍人……優秀な人材ばかりが揃っている。
(原作でも最後まで第一線にいた人たちだ。)
(絶対に関わりたくねぇ……。)
(この人たちの近くにいたら、間違いなく面倒事へ巻き込まれる。)
ヨキの心情など知らず、マスタングは淡々と告げた。
「まずはイーストシティの地理を覚えてもらう。」
「ハボック少尉。」
「はい。」
先ほど廊下ですれ違った青年が返事をする。
「市内巡回を兼ねて、ヨキ中尉を案内してやれ。」
「了解しました。」
マスタングはヨキへ視線を戻した。
「異論はあるか?」
「ありません。」
ヨキは再び敬礼する。
「では、行ってこい。」
「失礼します。」
ヨキとハボックは部屋を後にした。
◇
部屋にはマスタングとリザだけが残った頃。
「よろしかったのですか。」
リザが静かに尋ねる。
「以前、一度会ってみたい男だと仰っていましたが。」
「まさか、配属まで受け入れられるとは思いませんでした。」
マスタングは椅子の背へ身体を預け、小さく笑った。
「構わん。」
「短期間で二度の異動を経験した人材だ。」
「中央の人事を受け入れるだけで、こちらに借りを作れるなら安いものだ。」
「それに。」
わずかに口元を上げる。
「使えないようなら、その時は君に面倒を見てもらう。」
リザは表情一つ変えなかった。
「私は、大佐のお守りだけで十分です。」
マスタングは肩をすくめる。
「冗談だ。」
◇
「また会いましたね、中尉。」
司令部の外で、ハボックが笑った。
「ああ。」
「よろしく頼むよ。」
「任せてください。」
ハボックは駐車場の方角へ顎を向ける。
「車を出します。」
「その前に、一服します?」
取り出された煙草を見て、ヨキは少しだけ目を細めた。
「煙草か。」
「吸います?」
「昔は吸ってたよ。」
「禁煙してた気もするけど。」
自分のことなのに、少し妙な言い回しだった。
しかし、ハボックは特に気にした様子もない。
「じゃあ、一本どうぞ。」
「ありがとう。」
煙草を受け取り、火を借りる。
煙を肺へ入れ、ゆっくりと吐き出した。
「……うまいな。」
「でしょ?」
「仕事前の一本は格別ですよ。」
「おすすめの銘柄があったら教えてよ。」
「もちろんです。」
二人は並んで煙をくゆらせる。
(関わりたくないといっても。)
(これから同じ組織で働くんだ。)
(人間関係、上手くいけばいいが。)
そう思いながらも。
ヨキは、この気さくな少尉とは案外うまくやっていけそうな気がしていた。
◇
ハボックの運転する車で、イーストシティを巡回する。
東方司令部。
憲兵詰所。
市内の主要施設。
軍が重点的に警戒している区域。
ハボックは慣れた様子で、一つずつ説明していった。
「まあ、イーストシティはこんな感じです。」
「東方司令部のお膝元だけあって、軍人も多いですけど。」
「住民との距離は、そこまで遠くないですよ。」
「なるほど。」
車窓の外へ目を向ける。
人々が行き交う街並み。
店先から聞こえる声。
軍人と住民が言葉を交わす姿。
地方の町とは違う活気があった。
「そろそろ昼ですね。」
ハボックが時計を見る。
「昼飯でも食いますか?」
「そうしよう。」
二人は近くの店へ入った。
◇
食事を終え、ハボックが財布を取り出そうとする。
その手を、ヨキが軽く制した。
「昼飯くらい俺が出すよ。」
「え?」
「いやいや、中尉。」
ヨキは苦笑する。
「年上に格好つけさせてくれよ。」
「昔も、こういう時は俺が出してたからね。」
ハボックは少しだけ迷ったあと、財布をしまった。
「じゃあ、ごちそうになります。」
「ああ。」
「その代わり。」
「この辺で、いい店があったら教えてよ。」
「飯屋ですか?」
「いや。」
一拍置く。
「女の子がいる店。」
ハボックの目が輝いた。
「中尉!」
「話が分かるじゃないですか!」
「いい店、知ってますよ。」
「じゃあ、今夜行こうか。」
「俺が奢るよ。」
「本当ですか!?」
「もちろん。」
「ただし、勤務が終わってからな。」
「分かってますって!」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
その夜。
ヨキとハボックは約束通りの場所へ向かった。
イーストシティで評判の店。
くだらない冗談。
二人は大いに飲み、大いに笑った。
危険な目には遭いたくない。
これ以上、面倒事へ深入りもしたくない。
それは紛れもない本心だった。
それでも。
知っている人たちが同じ場所で生きていること。
気の合う同僚と出会えたこと。
その二つだけは、素直に嬉しかった。
(これから先、どうなるかは分からない。)
(それでも。)
(とりあえず、毎日を必死に生きていこう。)
その日。
二人はヨキの奢りで、夜遅くまで酒を酌み交わした。
この時のヨキは、まだ知らない。
目の前で楽しそうに笑う少尉が、これから幾度となく自分の無茶へ付き合うことになるとは――。