日本国転移 作:えーあい
午後2時47分。
山田光成は外務省の自分のデスクで、パソコンのモニターを眺めていた。40代半ばの男は、眼鏡を中指で軽く押し上げながら、メールを読み進めていく。その動作は習慣的で、緊張感に欠けていた。2026年の平和な日本の、何の変哲もない木曜日の午後である。
モニターに表示されているのは、東アジア地域の通商協議に関するメールの連続。某国との経済交渉について、細かい条件が列挙されている。つまらない仕事ではないが、退屈ではない。外交官としての山田は、こうした細部の調整に喜びを感じるタイプの人間だった。
「山田さん、ちょっといいですか」
隣の席から、若手職員の声がした。山田は顔を上げた。
「どうしました」
穏やかな返事。この柔らかい物腰は、山田の特徴である。
「あの、衛星通信がですね……」
若手職員は、パソコンの画面を見せながら説明を続けた。内容は技術的で、山田にはすぐには理解できなかった。しかし、その職員の表情から、これが通常の問題ではないことは察せられた。
「システムエラーですか」
「いや、それが……一時的なエラーではなくて。衛星との接続そのものが……」
午後2時52分。
山田は隣の席を離れ、情報通信課へ向かった。廊下を歩きながら、彼の脳裏には「まさか」という言葉だけがあった。衛星通信の途絶。それは、日本の対外的な情報網の一部が、突然に失われたことを意味していた。
情報通信課は、すでに異様な雰囲気に包まれていた。職員たちが複数のパソコンの前に集まり、何かを確認し続けていた。その表情は、硬い。
「課長、どういうことですか」
課長は眼鏡をかけ直し、ため息をついた。
「全衛星通信が接続不能になった。GPS信号も同時に失われた。海外との通信網も……」
「全て、ですか」
「ええ。一度に」
その瞬間、山田の脳裏に、ある言葉が浮かんだ。「一度に」。自然災害ではない。システムの故障ではない。何か、より大きな異常が起きている。
午後3時15分。
外務大臣・花田の元へ向かう廊下で、山田は携帯電話を握っていた。その画面には、彼自身が確認できていないニュースが飛び込んできていた。航空会社からの緊急声明。船舶運航会社からの緊急声明。通信キャリアからの障害報告。
すべてが、同じ時刻に起きていた。
午後2時47分——正確には、午後2時47分8秒。
その時刻を境に、日本は世界から切り離されていたのだ。
外務大臣・花田の執務室は、すでに非常事態体制に移行していた。70代の秘書が何枚もの報告書を机に広げ、花田はそれらを次々と目を通していく。その表情は、いつもの嫌味ったらしさは消え、純粋な緊張感に満ちていた。
「衛星通信が全て」と報告書に書かれている。それだけで十分だ。
「GPS、衛星放送、国際通信回線——全部ですか」
「はい。大臣。同時刻に」
花田は眼鏡を外し、目をこすった。60代の男は、長年の外交経験から、これが何を意味するのかを、すぐに理解していた。
「海外からの報告は」
「ありません。こちらが消えたのか、相手が消えたのか、まだ……」
「つまり、どちらでもない、ということか」
花田は再び眼鏡をかけた。
「世界中どこからも、日本への到着報告がない。同時に、日本から海外への信号も、一切受信されていないということだ」
秘書は頷いた。
「現在、官邸が対応を検討しています。総理は非常事態宣言の準備を……」
「やめろ」
花田の声は低かった。
「非常事態宣言を出す前に、すべての事実を確認しろ。推測で国民を惑わすな。それが政府の責任だ」
午後3時30分。
山田は、外務大臣の執務室に招き入れられた。花田は、机の前に立ったまま、山田を見つめた。
「衛星通信が全て失われたそうですね」
「そうだ。同時にだ。これは異常だ」
「何か、予測されていた事態ですか」
山田の質問は、冷静だった。
「いや」
花田は、机の上の報告書に目を落とした。
「地震でもない。テロでもない。我々は、この瞬間まで、何も知らなかった」
その言葉の中には、外務大臣としての無念さが込められていた。外交官は、情報によって生きる。その情報源が、一度に失われたのだ。
「現在の対応方針は」
「官邸は、全省庁に非常事態体制への移行を指示している。警察、自衛隊、地方自治体——全てが動く」
花田は、窓の外を見た。東京の街は、変わらずそこにあった。高層ビル、車、人。すべてが通常通りに動いている。その落差が、より一層不気味だった。
「山田」
「はい」
「今から、お前に重要な仕事をさせる」
山田は、静かに待った。
「国外からの連絡を、あらゆる手段を使って試みろ。衛星ではない。もし可能なら、海上の船舶、航空機、すべてを使ってだ。世界はどうなっているのか。日本は本当に消えたのか。確認するんだ」
「かしこまりました」
「そしてもう一つ」
花田の目は、鋭かった。
「国民への発表は、慎重にしろ。我々が何も知らないうちに、デマが広がる。スーパーから商品が消える。ガソリンスタンドに長蛇の列ができる。そうなってからでは遅い」
「国民へは」
「『現在、対外通信に一時的な障害が生じており、対応中である』と発表しろ。それ以上は言うな。まだ、事実がはっきりしていないのだから」
午後5時。
東京のテレビ局では、緊急のニュース放送の準備が進んでいた。スタジオのキャスターは、台本を読み、その内容に眉をひそめた。
「『現在、対外通信に一時的な障害が生じており、対応中です』?」
プロデューサーは、苦笑いをした。
「それ以上は、政府から指示がない」
「でも、視聴者は気付いていますよ。衛星放送が止まった。海外ニュースが流れていない。それなのに『一時的な障害』とは……」
「政府の判断だ。信じろ」
午後7時。
スーパーマーケットは、すでに異様な雰囲気に包まれていた。買い物客たちは、商品を積極的に買い込んでいる。そのニュースは、インターネット上で瞬く間に拡散していた。
「衛星通信が全て失われた」
「日本が世界から切り離されたのか?」
「首都直下地震の前触れか」
推測と、不安と、デマが、混じり合っていた。
午後9時30分。
山田光成は、依然として外務省の執務室にいた。彼の前には、複数のパソコンが並び、あらゆる情報ルートからの報告が、次々と入ってくる。
無線通信。衛星電話。国際電話。海上無線。航空無線。
すべてが、「相手が応答しない」という同じ返答をもたらしていた。
世界は、そこにあるはずなのに。
つながらない。
山田は、深くため息をついた。40代の外交官の脳裏を占めるのは、一つの疑問だけだった。
「何が起きたのだ」
その問いに答える者は、まだ誰もいなかった。