日本国転移 作:えーあい
劉威と任充は、昨夜、十分な休息を得ていた。官邸内の宿泊施設は、古代中国の宮殿と比較しても、その快適さは比較にならないものだった。柔らかな寝台、清潔な浴室――水がひとりでに出た。妖術のようだ――そして夜間でも明るく照らされた部屋がすべてを提供していた。
朝食の時間、山田が二人の使者にその日の予定を説明した
「劉威様、任充様。本日は、朝の短い技術説明の後、わが国の文化や日常の風景をご体験いただきたいと考えております。乗り物にて、東京市内を案内させていただきたいのですが、いかがでしょうか」
任充は、その提案を喜んで受け入れた。技術説明よりも、日本の実際の暮らしを見ることが、王建王への報告にとって、より重要であると彼は考えていたのだ。
翌日、官邸の玄関前で、一台の黒い大型乗り物が待機していた。劉威と任充は、それを見て立ち止まった。
「これは、何か」
劉威の声は慎重だった。その乗り物は、何かが動いているように見えた。内部から、かすかな音と振動が感じられる。
「これが、自動車です」と山田は説明した。「人間が乗り込み、機械の力で、陸地を移動する乗り物です。古代中国の馬車とは異なり、馬の力ではなく、エンジンという機械の力で動きます」
「えんじん、とな」
任充は、その乗り物を慎重に観察した。その形状は、どこか馬車に似ているが同時に全く異なっていた。窓があり、内部には座席があり、そして何より馬がいない。
「馬がいないのに、どうして動くのか」
劉威が、素朴な質問を発した。
「先程申しました通り中にエンジンという機械があります。その機械が、燃料を燃やし、その熱と力により、車輪を回転させるのです」と山田は答えた。「では、乗ってみてください。その中で、より詳しくご説明いたします」
任充と劉威は、山田の言葉に従い、乗り物に乗り込んだ。
乗り物の内部は、古代中国の馬車とは全く異なるものだった。クッションの効いた座席、滑らかに動く窓、そして、内部には複雑な機械部品が見えた。
すべてが目新しい。
「えんじん、と言ったが。具体的にこの乗り物はどのような仕組みで動くのか」
任充が、周囲を観察しながら、質問した。
山田は、運転手に指示を出した。運転手は、複雑な動きを行った。両手で、ある円形の物体を回転させ、同時に、足で、複数のペダルを踏む。すると乗り物の内部から、低い音が発生し、そして乗り物が動き始めた。
劉威は、その瞬間の驚愕を、完全には隠すことができなかった。馬がいないのに。何の外部からの力もないのに。この乗り物が自分たちの意思で動き始めたのだ。
「これは、妖術のようだ」
劉威の呟きに、山田は微笑んだ。
「いいえ、妖術ではありません。科学です。エンジンが燃料を燃やし、その爆発の力を利用して、複雑な機械を動かし、その結果として車輪が回転するのです」
乗り物は、官邸から走り出した。その動きは、極めて滑らかで、古代中国の馬車のような上下左右への揺れがない。
任充は、窓から外を見た。建物が横へ流れていく。乗り物が確実に動いていることを確認した。しかし、その動きに馬の存在感がない。ただ、機械的な力だけが、この乗り物を前へ推し進めているのだ。
「速さはどうか」と任充が、山田に質問した。
「時速は、約五十キロメートルです」と山田は答えた。
古代中国での距離の単位では、その速度の意味を任充は完全には理解できなかった。しかし、古代中国の最速の馬であっても、この速度を維持して、長時間走ることはできないということは理解していた。
「その速度で、いつまで走り続けることができるのか」
「この乗り物の燃料が尽きるまで、走り続けることができます。燃料が満杯な状態であれば、数百キロメートルは、走ることができます」
任充は、その数字の意味を処理しようとしていた。数百キロメートル。つまり、この乗り物は古代中国の一つの州を、丸ごと横断することができるということなのか。そして、その間、馬の餌を用意する必要もなく、馬の体力が尽きるまで待つ必要もないということなのか。
劉威は、運転手の動作を注視していた。運転手は、両手でハンドルと呼ばれる円形の物体を握り、その動きで、乗り物の進む方向を調整していた。同時に、足で複数のペダルを操作し、速度を調整していた。その一連の動作は、極めて複雑で、一見、無秩序に見えた。しかし、その無秩序に見える動作の結果として、乗り物は完璧に調整された安定した走行を行っていた。
「この操作は、いかなる訓練で習得するのか」
劉威が、運転手に質問した。
「運転手は、専門の学校で、訓練を受けます」と山田は答えた。「その訓練を受け、試験に合格した者だけが、このような乗り物を操作することができるのです」
古代中国でも、馬車の操者は、訓練を受ける。しかし、ここまでの複雑さを伴う訓練は、古代中国では存在しないだろう。
乗り物は、交差点に到達した。そこには、色が変わる機械が設置されていた。赤い光が点灯すると、運転手は乗り物を止めた。
中華には交通において明確なルールがない。せいぜい身分の高い者に道を譲るくらいか。
しかしここでは、その色が変わる機械が、すべての乗り物に対して、同等の指示を出しすべての運転手がその指示に従っていた。
「あの色が変わる機械は、何か」
任充が、質問した。
「あれは、信号機です」と山田は説明した。「あの機械が、道路の交通を調整しているのです。赤い光が点灯すれば、乗り物は止まります。青い光が点灯すれば、乗り物は進みます。その機械の指示に従うことで、乗り物と人間が、衝突することなく、安全に行き来することができるのです」
古代中国では、街路の秩序は、警官や役人たちが、維持するものである。彼らは、武力を背景に、命令を下す。しかし、ここでは、その秩序が、機械により、自動的に維持されているのだ。その効率性、その安全性。すべてが、計算に基づいて、設計されていた。
乗り物が、再び走り出した。今度はより複雑な街路へ進んだ。ここには、無数の乗り物が、規則正しく走っていた。古代中国の市場のように混雑と混乱がある場所とは全く異なり、すべての乗り物が完璧に調整された走行を行っていた。
「これほど多くの乗り物が、なぜ衝突せずに走ることができるのか」
劉威は驚いて質問する。
「それは、すべての乗り物の運転手が、同じルールに従っているからです」と山田は答えた。「古代中国では、個々の力や権力が、道路での優先権を決めるかもしれません。しかし、ここでは、すべてが、同じルールの下に置かれているのです」
任充は、その説明に深く考えた。つまり、この乗り物の社会では、個々の力や権力よりも、全体のルールが、優先されているということなのか。中華では考えられないことだ。
*
乗り物は、浅草地区に到着した。劉威と任充は乗り物から降りる。
目の前には、巨大な赤い灯籠がある。その下には、古い木造の寺院が、静かに立ち上がっていた。その寺院の建築様式は、中華の寺院と、どこか似ている。しかし、その細部の装飾は、日本独特のものだった。
「これは、何か」と劉威が、その灯籠を指差した。
「これは、浅草寺という、古い寺院です」と山田は説明した。「この寺院は、千年以上前に建立されたものです。わが国の宗教的な中心地の一つです」
任充は、その建物を慎重に観察していた。古代中国の寺院との共通点と、相違点を頭の中で整理していたのだ。
寺院の周辺には、多くの商人たちが露店を出していた。中華でも、寺院周辺――正確には道教などの廟――に商人が集まるのは一般的なことだ。しかし、ここの露店は、古代中国のそれとは全く異なるものだった。
露店で売られているのは、古代中国では見たことのない、様々な製品だ。紙製の扇、装飾品、食べ物など。それらはすべて精密に作られ、美しく包装されていた。
「これらの製品は、誰のものか」と任充が、山田に質問した。
「これらは、複数の商人たちが、作り、販売しているものです」と山田は答えた。「各商人が、自分たちの技術と創意を競い合い、より良い製品を作ろうと努力しています」
*
昼食の時間、山田は二人の使者を一軒のレストランに導いた。その建物は古い造りの日本家屋だが、内部は近代的に改装されていた。靴を脱いで床座の席に座る。古代中国にも床座の文化があるが、ここの床座はクッションが用意されており、極めて快適だった。
食事が運ばれてきた。白い米飯、複数の小さな皿に盛られた様々な料理。その色合い、その香りは、古代中国の食事とも、どこか似ているが、同時に全く異なるものだった。
「この料理は、いかなる技術で作られたのか」
任充が質問した。
「これは、わが国の料理人による、わが国の文化的な食事です」と山田は答えた。「食事もまた、文化の表現であり、その国の人民の生活様式を映し出すものなのです」
「たしかにその通りだ」
食事を堪能したのち、山田は次に一軒の大型建物に二人の使者を導いた。
「これは、商業施設です。わが国の文化や製品を、あらゆる形で体験できる場所です」
建物に入った瞬間、劉威と任充は再び驚愕に襲われた。建物の内部は巨大で、複数の階層に分かれていた。各階には無数の商品が整然と並んでいた。
古代中国でも大規模な市場は存在する。しかし、ここの規模と組織化の度合いは比較にならないものだった。
一階には食料品が並んでいた。その種類の多さ、その量の豊富さ。古代中国では一般人がこのような量の食料品にアクセスできることはあり得ないことである。
「これらの食料品は、誰が購入するのか」
劉威が質問した。
「一般の人民です」と山田は答えた。「わが国では、ほぼすべての人民が毎日このような店で食料品を購入し、自分たちの家庭で食事を作ります」
任充は,その言葉の意味を深く考えた。古代中国では限られた者たちだけが豊富な食料をえられる。しかし、ここでは一般の人民全体が豊富な食料にアクセスできるということなのか。
二階には衣料品が並んでいた。その種類の多さ、その色彩の豊かさ。古代中国でも衣料品は存在するが、ここまでの種類と品質を備えた衣料品を一般向けに販売する場所は古代中国には存在しないだろう。
劉威は一枚の衣料品を手に取った。その生地の質感、その色合い。絹ではないが、麻でもない。しかし古代中国の高級衣料と比較しても遜色がないといえた。
「この衣料品の価格は、いかほどか」と劉威が山田に質問した。
山田は値札を指差した。その数字を見て――簡単な数字の読み方と、物の相場を予め教わっていた劉威は驚いた。古代中国の高級衣料にくらべはるかに安い価格で同等あるいはそれ以上の品質の衣料品が販売されているのだ。
「なぜこれほど安いのか」
「わが国は製造技術が発達しているため、大量に効率的に製品を製造することができます。その結果、一個あたりのコストが下がり、販売価格も下がるのです」と山田は説明した。
任充はその説明を聞きながら、一つの深い理解に達した。古代中国の商人たちは利益を最大化するために価格を高く設定しようとする。しかしここでは技術と効率性によりコストが下がった結果として自動的に価格が下がっているのだ。
その過程でより多くの一般人民がより良い製品を購入できるようになる。その結果として市場全体の規模が拡大し、商人たちの売上も増加する。つまり個々の商品の利益率は古代中国のそれより低いかもしれない。しかし売上高ははるかに大きいのだ。中華の商人たちの思考方式では、このような戦略は理解しがたいものだった。
三階には書籍が並んでいた。その数は古代中国の最大の図書館さえも上回るのではないか。
「これらの書籍は、すべて誰のものか」
任充が驚いて質問した。
「これらの書籍は市民たちが購入することができます」と山田は答えた。「わが国では教育が非常に重要であると考えられています。そのため多くの市民たちが書籍を購入し読むことで知識を高めています」
劉威はその言葉に深い感銘を受けた。
斉国でも教育は重要であると考えられている。しかし教育を受ける機会は限られた者たちに限定されている。しかしここでは多くの市民たちが教育へのアクセスを持っているということなのか。
施設を出た後、山田は二人の使者を東京の街路を散歩させることにした。街路には多くの人間が歩いていた。その人間たちはすべて清潔で整った服装をしていた。古代中国でも人口密集地には多くの人間が集まる。しかしここの人間たちはその行動が極めて規則正しく秩序立てられているのだ。
街路では、再び、あの色が変わる機械が見えた。赤い光が点灯すれば、人間たちは止まる。青い光が点灯すれば、人間たちは歩き出す。その機械の指示に従って全員が秩序正しく行動している。
街路沿いには無数の店舗があった。古代中国の市場と異なりこれらの店舗はすべて建物の一部として組織化されている。店員たちもすべてユニフォームを着用し極めてプロフェッショナルな態度で顧客に接していた。
「これらの店舗は、いかなる者たちが運営しているのか」
任充が質問した。
「様々な商人たちや商家たちが運営しています」と山田は答えた。「しかし彼らはすべて法律と規則に従い営業活動を行っています」
劉威はその説明に古代中国との大きな違いを感じた。古代中国では商人たちは往々にして法律や規則を逃れる方法を探す。しかしここでは商人たちが自発的に法律と規則に従い営業活動を行っているのだ。
*
官邸に戻り夕食の時間が到来した。
山田が夕食の途中である質問を発した。
「劉威様、任充様。本日の観光はいかがでしたか。わが国の文化や生活様式について何かご質問がございましたらお答えさせていただきます」
任充は深く考えてからゆっくりと答えた。
「山田殿。本日見たものは古代中国の経験では説明しがたいものばかりです。しかしその中でわたくしが最も感銘を受けたのは一般の人民たちの生活水準の高さです。古代中国では人民の多くは食糧に困り衣料も不足しています。しかしここでは一般の人民が豊富な食料と高質な衣料にを得ることができるのです」
山田はその言葉に深く頷いた。
「その通りです。わが国の考え方は人民全体の生活水準を高めることで結果として国家全体の安定と繁栄が実現されるというものです。それがわが国と貴国との交易を望む理由なのです」
任充はその言葉を心に刻み込んだ。
明日彼と劉威は斉国に帰路につく。そして王建王にすべてを報告しなければならない。その報告の内容が斉国と日本の未来の関係を大きく左右することになるのだ。