日本国転移 作:えーあい
劉威と任充は高層ホテルの部屋に泊まっていた。窓から見える東京の夜景は電灯に満ちており、まるで星が地上に落ちたようだった。任充は硝子窓に手をかざしながら街を見つめていた。
劉威は床に座り、今日一日の出来事を整理していた。自動車、信号機、浅草の寺院、商人たちの秩序ある営み。すべてが秦国にも斉国にも存在しないものばかりだった。
「劉殿」と任充が静かに呼びかけた。
「どうした」
「この国の力について、大王様にどう報告すべきか」
劉威は息をついた。同じ懸念を抱いていた。
「船の鋼鉄、動く乗り物、医療の技術。そして最も恐ろしいのは、これらすべてが整然と統治されている点だ。秦の大王がこのような技術を手に入れたら、中華は秦のものになるだろう」
任充が振り返った。
「だが山田殿の態度を見ていると、日本は秦国とも斉国とも、等しく関係を持つつもりではないか。技術提供の時期と対象は日本が判断するという。つまり、誰に何を与えるかは、日本の裁量次第ということだ」
劉威は窓の外の夜景を見た。灯火は無数に輝いている。古代中国のどの城市も、これほどの光を保つことはできない。日本という国は、もはや古代の世界の一部ではないのだ。
「そうだな。大王様には、すべてを報告し、判断を仰ぐしかない。だが、この情報が秦国に漏れたら」
「そうだ」任充が低い声で言った。「王宮に忍び込んでおる他国の間者たちが、今頃は何かを企んでいるに違いないしのう」
二人は黙った。窓の外の電灯が揺らいでいた。
*
官邸の応接室は、昨日と同じように整然としていた。山田は劉威と任充を見送る準備をしていた。二人の表情は前日と異なっていた。警戒心と決意が込められていた。
「山田殿」劉威が切り出した。
「はい」
「日本の技術は、すべての国に等しく提供されるのか。それとも、選別されるのか」
山田は質問の重みを感じた。これは外交的な試金石だった。
「また、秦国との関係はどのようなものになるのでしょう」と任充が続けた。
山田は静かに考えた。正直に答える必要がある。だが、すべてを明かすわけにもいかない。
「日本は、すべての国と平和的な関係を望んでいます。秦国も例外ではありません。ただし、どの技術をどの時期に、どの国に提供するかは、日本の指導者たちが慎重に判断します」
劉威の目が鋭くなった。
「つまり、その判断は状況次第ということか。秦国が斉国を圧倒しようとするなら、斉国に技術を与え。斉国が秦国に対抗するなら、秦国に技術を与える。そうして、日本は中華全体の力関係を操作するということか」
山田は首を横に振った。
「操作ではなく、バランスを――均衡を保つのです。どの国も他国を滅ぼすことができなくなれば、戦争は不可能になります。それが平和に繋がるのです」
任充は眉をひそめた。
「では秦国が大王様に直接接触してきたとき、日本はどうするのか。秦国が仲介者を通さずに日本と交渉しようとしたら」
山田は慎重に言葉を選んだ。
「その時は、その時です。ですが、斉国が日本の最初のパートナーであることは、日本は忘れません。それなりの配慮があるはずです」
山田の言葉は曖昧だったが、その曖昧さの中に、戦略的な含みがあることに二人は気がついた。つまり、秦国が日本に直接アクセスすれば、斉国の仲介者としての価値は失われるということだ。そうなれば、秦国にとって斉国を支援する理由がなくなる。
劉威は静かに立ち上がった。
「わかりました。王建王様にはすべてを報告します。日本の技術、日本の制度、そして日本の意図。それをどう判断するかは、大王様の決断です」
「ぜひそうしてください」山田が答えた。
任充は山田に深く頭を下げた。
「山田殿。斉国を支援してくれたこと、技術を見せてくれたこと、感謝申し上げます。ですが最後に一つだけ」
「何でしょう」
「日本が言う『平和』とは何か。それを教えてもらえますか」
山田は少し困ったように笑った。
「戦争がない状態です。ですが単に戦争がないだけでは足りません。人々が自分たちの生活を営み、家族を大事にし、知識を学び、商いを行う。そのすべてが安全に行われる状態。それが平和だと、我々は考えています」
任充は頷いた。
だが、心の中では疑問が消えていなかった。日本のいう平和は理想的だが、現実はそれほど甘くはない。
人間の欲望、国家の野心。そうしたものが存在する限り、真の平和は不可能なのではないか。だが、それを口に出すことはしなかった。
「――その平和が、本当に実現するのか。それを斉国も確かめてみたいと思います」
山田は微笑んだ。
「ぜひ。斉国との協力を通じて、日本も学ぶことがあるでしょう」
*
自動車で港へ向かう道中、劉威と任充は黙したままだった。窓から見える日本の風景は美しく、秩序立っていた。だが彼らの心には複雑な思いが残っていた。
この国の技術を得ることは、斉国の発展に繋がるだろう。だが同時に、秦国がこの技術を得る可能性もある。そして、もし秦国が先に日本と直接交渉に成功すれば、斉国の立場は急速に弱くなるかもしれない。
佐々木が運転する自動車は、東京の街を静かに走っていた。信号機で止まり、行き交う人々を見た。みな、自分たちの人生を生きている。戦争のない世界で、日々を営んでいる。
劉威は任充に言った。
「大王様が秦国と日本を結びつけることを決めたなら、我々の役割は大きくなる。仲介者として、斉国の立場を保つこと。それが最優先だ」
「そうだな」任充が答えた。「王宮の間者たちが、既に我々の行動を報告しているかもしれん。だからこそ、大王様は慎重に判断しなければならないのだ」
港に到着し、伊勢丸が見えた時、任充は山田の方を見た。
「山田殿。一つ覚えておいてください。大王様の前では、日本の対応次第で斉国の選択も変わる。それが現実です」
山田の表情が引き締まった。
「その忠告を、ありがとうございます。日本も、その責任を忘れません」
甲板に立つ二人を見送りながら、山田は思った。劉威と任充は、ただの使者ではない。彼らは王建王の目そのものだ。彼らが見たもの、聞いたもの、感じたものがすべて、王建王の判断の材料になるのだ。
伊勢丸は静かに港を離れ、東シナ海へと向かっていった。劉威と任充は、デッキの上で日本の海岸線が遠ざかっていくのを見守った。やがて陸地は見えなくなり、海だけが残った。
*
王宮にて。
夜半を過ぎた頃、王建王は一人だけとなっていた。劉威と任充からの報告を何度も反芻していた。日本という謎めいた国。その力と技術。そして、その曖昧な態度。
王は蛇を首に巻きつけたままの姿で、火鉢の傍に座っていた。炎が揺らぐのを見つめながら、頭を整理しようとしていた。
日本からいかにして最大の利益を得るか。医療の技術、食料保存の技術、製造の技術。これらを手に入れることができれば、斉国の発展は飛躍的に進むだろう。
だが、秦国のことを忘れるわけにはいかない。かつて王建王は秦の大王・嬴政と個人的に密約を交わしていた。秦国が中華のすべての国を滅ぼしたとき、斉国だけは降伏するというものである。秦国の足どりは少しずつそこまで近づいている。
ここに機会がある。秦国と日本を結びつけることができれば、王建王は秦国の信頼を得られるかもしれない。秦の大王は日本の技術を欲しがるに違いない。
その時、王建王が仲介すれば、秦国に対して強い恩を売ることができるのだ。それがどれだけの金を、そして未来の利益を産むか――。
だが、その計画には危険もある。もし秦国が日本に先に接触したら、王建王の仲介者としての立場は失われる。それは、美味くない。
だから、秦国に日本のことを知らせるタイミングが重要だ。王宮の間者を通じて、慎重に情報を漏らすのだ。その過程で、秦国が王建王を通じてしか日本に接触できないような形を作り出すのである。
王建王は蛇を撫でた。
すべては計算の問題だ。秦国の大王に恩を売り、日本の信頼を得る。その両立が、斉国の生き残りの鍵となるだろう。
戸を叩く音がした。侍従が入ってきた。
「大王様。劉威と任充が参上いたしました」
王建王は頷いた。
「奥の間に通せ。そして、王宮の警衛を増やすよう命ずるのだ。間者どもが何かを企んでいるかもしれん」
夜はまだ明けていなかった。
王建王の計算は、これからも続くであろう。