日本国転移 作:えーあい
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秦国王都、咸陽――。
秦国大王嬴政は、自らの執務室で書簡を読んでいた。机の上には、日々の各地からの報告書が積み重ねられている。
前線の将軍たちからの軍事報告、商人たちからの経済情報、そして最も重要な情報源である、中華全土に潜む間者からの密報――。
そしていま、その目が一通の書簡に釘付けになっていた。
斉国からの間者による報告。その内容は、嬴政の予想を大きく上回るものだった。
書簡には、以下のように記されていた。
「斉国の王建王が、謎めいた外国の使者を迎えた。その国は日本と称し、海の向こうから船で来たという。詳細は不明であるが、その使者は高度な技術を持つ国からの派遣者のようである。
斉国の使者が日本へ向かい、十日後に帰国した。その後、王建王は機密の会議を開き、高官たちと話し合った。その内容は不明であるが、王建王の指示により、斉国は日本への技術者派遣の準備を始めたとの情報もある。さらに、王宮の警衛が増やされたという。何か重要な決定がなされたと推測される」
嬴政は書簡を読み終わり、机の上に置いた。頭の中で、中華全土の戦局を思い浮かべた。
秦国は現在、中華統一への道を本格的に歩み出しているところだ。 信は朱海平原の戦いで将軍となり、そして――平陽の戦いで、桓騎が、十万人の投稿兵の首を落とした。
「……」
政は強く目を瞑った。
――斉国の王建王とは、かつて個人的な密約を交わしている。秦国がすべての国を滅ぼした時、斉国だけは降伏するという約束だ。
嬴政は立ち上がり、窓から咸陽宮の庭を眺めた。秦国の兵士たちが、訓練に励んでいる。秦国の軍事力は、中華全土で最も強大だ。
だが、力だけではすべてを支配することはできない。情報、戦略、そして相手の心理を読むこと。そうしたものが、統治には必要なのだ。
この「日本」という新しい要素。
その正体は、まだ不明だ。だが、王建王がそれに関心を持った。その事実だけで十分だ。
嬴政は侍従を呼んだ。
「昌平君を呼べ」
――間もなく、昌平君が現れた。
彼は秦国の軍総司令であり、右丞相でもある嬴政の信頼厚い人物だ。
「大王。お呼びでしょうか」
「昌平君。斉国からの報告を見よ」
嬴政は書簡を手渡した。昌平君は黙って読んでいたが、その表情は、徐々に険しくなっていった。
読み終わった昌平君は、書簡を返した。
「これは」
昌平君が言った。
「日本という国がある……いや、出現した、ということだ。斉国の王建王が、それとの接触に成功している。我々は、この情報を後から知ったのだ」
昌平君は考えに沈んだ。
「斉国は……何か重要な決定をしたのでしょう。それが何であるかは、まだわかりませんが」
「そうだ」嬴政が言った。「王建王という男は極めて慎重で計算高い。そのような男が、わざわざ機密の会議を開き、警衛を増やす。何かが起こっているのだ」
昌平君は書簡を読み返した。
「詳細は不明とありますが。間者は何も知り得なかったのでしょうか」
「知り得たのは、その程度だと考えるべきだ。つまり、王建王は極めて警戒している。王宮内に秦国の間者がいることを知っているかもしれん」
嬴政は再び窓へ向かった。
「いや。もし間者の存在を知っていたなら、とっくに捕らえているはずだ。ならば、王建王は単に、秦国の反応を警戒しているのだ。この日本という国が何であるか、そしてそれが秦国にもたらす影響が何であるか。それを見極めるまでは、王建王は秦国に情報を漏らすまいと考えているのだろう」
昌平君が言った。
「――では、大王は、この日本という国は、秦国にとって脅威となるとお考えか」
嬴政は黙った。窓から見える庭の風景を眺めながら、頭を巡らせていた。
「脅威か否かは、今のところ判断できん。だが、王建王が関心を持った。その事実が重要だ。
技術派遣ということは、その日本という国が、斉国の持っていない何かを持っているということだ。
なれば、秦国の統一戦争は、予期しない障害に直面するかもしれん」
昌平君は頷いた。彼も同じことを考えていたのだ。
「つまり、斉国がこの日本から何かを得ることで、秦国との力関係が変わる可能性があるということですか」
「そうだ。だが、それと同時に考えるべきは、この日本という国が、なぜ斉国に現れたのかということだ。偶然か。それとも意図か」
嬴政は机に戻り、座った。
「昌平君。秦国の他の間者たちに指示を送るのだ。斉国の動向をより詳しく監視させよ。王建王がこの日本という国に対して、具体的に何をしようとしているのか。技術者派遣というのは、どのような規模なのか。そして、この日本という国そのものについて、どのような情報が入ってくるか。すべてを知りたい」
「かしこまりました。大王様」
「また」嬴政が続けた。「他の諸国に対しても、警戒を強めるのだ。楚国、燕国、趙国。どこからでも、この日本という国についての情報が入ってくるかもしれん。そして、その情報を秦国が知ることで、秦国は他の諸国よりも一歩先に出ることができるのだ」
昌平君は深く頷いた。
「了解いたしました。早速、指示を送ります」
嬴政は昌平君を見た。
「昌平君。もし日本という国が、秦国に接近してきたとしたら。どうすべきだと考える?」
昌平君は一瞬、黙った。その質問の重さを感じていた。
「それは、相手がどのような国であるかによって、判断が異なると考えます。友好的なのか、敵対的なのか。強いのか、弱いのか。その情報がなければ、判断することはできません」
「そうだな」嬴政が言った。「だから、情報が必要なのだ。今のところ、我々は何も知らない。だが、知ろうとする意志を持つことで、我々は他の諸国よりも先に、この日本という国の正体に近づくことができる」
嬴政は書簡を再び手にした。その目は、書簡に書かれた限定的な情報から、その背後にある真実を読もうとしていた。
「王建王が警衛を増やしたというのが、気になる。それは何を意味するか」
昌平君が答えた。
「秦国からの間者に対する警戒が高まっているということでしょう。あるいは、王宮内での権力争いが激しくなっているのかもしれません」
「いや」嬴政が言った。「それ以上のことを意味しているのだろう。王建王は、秦国からの反応を予測しているのだ。この日本という国の出現が、秦国に知られたとき、秦国がどのように反応するか。その可能性に備えて、警衛を増やしたのではないか」
昌平君は、嬴政の思考の深さに驚いた。その推論は見事だった。
「つまり、王建王は秦国を警戒している。その意図は、秦国がこの日本という国に対して、どのような態度を取るかを見極めるということですね」
「その通りだ」嬴政が答えた。「秦国との最終的な関係だけでなく、この新しい国との関係。そして、その両者の間での自らの立場。すべてを計算しているのだろう」
嬴政は窓から目を離し、昌平君を見た。
「昌平君。もし王建王が、秦国とこの日本という国を結びつけようとしたとしたら。秦国は、その仲介を受けるべきか」
昌平君は考えた。その質問は、単なる情報戦ではなく、秦国の統一という大業全体に関わる問題だったのだ。
「それは、この日本という国が、秦国にとって有益であるか、有害であるかによって判断されるべきです。
もし有益なら、仲介を受けても良いでしょう。だが、もし有害なら、王建王の仲介を受けず、秦国が直接接近すべきかもしれません」
「そうだな」嬴政が頷いた。「だから、今は情報を集めることが最優先なのだ。そしてもう一つ。王建王の心理を読むこと。彼が何を望んでいるのか。秦国との最終的な関係をどう考えているのか。その中で、この日本という国がどのような役割を果たすつもりなのか。すべてを見極める必要がある」
嬴政は書簡を机の上に置いた。
「昌平君。今のところ、秦国はこの日本という国に対して、沈黙を保とう。知られず、警戒されず、ただ情報を集める」
昌平君は深く頭を下げた。
「かしこまりました。大王様。早速、指示を送ります」
嬴政は再び窓へ向かった。秦国の兵士たちは、相変わらず訓練に励んでいた。彼らは知らない。中華の地平線の向こうに、新しい国が現れたことを。
だが、嬴政は知っている。そして、その知識を如何に活用するか。その思考は、既に始まっていたのだ。
外では、秦国の旗が風になびいていた。