日本国転移 作:えーあい
午後10時。
政府の非常対策本部は、官邸の地下にあった。山田光成は、その会議室に招き入れられた。机の周りには、各省庁の責任者たちが集まっていた。防衛大臣、総務大臣、内閣官房長官、そして総理大臣・中野。
中野総理は、60代の政治家で、その表情は厳しかった。彼は、複数の報告書に目を通した後、口を開いた。
「衛星通信の復旧の見通しは」
防衛大臣が答えた。
「現在のところ、衛星システム自体には異常が認められません。ただし、その全てが日本からのシグナルに応答しない状態です。つまり、我々の設備が故障しているわけではなく……」
「衛星が、我々からの信号を受け取らなくなった、ということか」
総務大臣が補足した。
「いや。それではなく。より正確には——」
総務大臣は、複雑な表現を避けるために、間を置いた。
「——我々が、衛星と接続する能力を失った。あるいは、衛星が日本を『見る』ことができなくなった。いずれかのどちらかです」
その言葉を聞いて、会議室は沈黙に包まれた。
中野総理は、その沈黙を破った。
「つまり、日本が地球上から消えたということか」
「そのように解釈するしか、現状では説明がつきません」
別の報告が、続いた。
「総理。航空機からの通信もすべて失われました。羽田空港発東南アジア便、成田空港発アメリカ便——合計47便が、現在、上空で通信不能状態にあります」
その報告に対して、総理の表情は、さらに厳しくなった。
「機体そのものには異常がないのか」
「はい。機体からのビーコン信号は、依然として発信されています。ただし、その信号は、我々のレーダーに映っていません」
「映っていない」
「消えたわけではなく。むしろ、存在する場所が、我々の測定システムの範囲外になってしまったのではないかと……」
その説明は、さらに混乱をもたらした。
山田は、その議論を聞きながら、ある一つの仮説に行き着いていた。
「総理」
山田は、静かに発言した。
「恐れながら、発言してもよろしいでしょうか」
中野総理は、山田に視線を向けた。
「山田外交官か。どうぞ」
「現在の状況を整理すると。衛星通信、GPS、国際通信回線——すべてが、午後2時47分に同時に失われた。航空機も同じ時刻から通信不能になった。そして、その機体は『存在する場所が我々の測定システムの範囲外』とのことです。つまり……」
山田は、ため息をついた。
「——日本そのものが、地球上の通常の空間から、何らかの理由により、隔離されている可能性があります」
その仮説を聞いて、会議室は再び沈黙した。
防衛大臣が、その沈黙を破った。
「隔離。それは、どのような状態を指しているのか」
「詳しくは分かりませんが。もし、日本が何らかの結界や異空間に隔離されているとすれば。我々の衛星やGPSは、地球上の通常の空間にあり、日本はその『外側』にある。だから通信できない」
「そのようなことが、可能なのか」
防衛大臣の質問に、山田は答えた。
「現在の科学では、説明ができません。しかし、事実として目の前にあります。ですから、起きているのです」
中野総理は、その論理を受け入れた。
「わかった。では、我々に今必要なのは、二つのことだ。一つ。国民への発表。二つ。この状況への対応の方針決定だ」
総理は、各大臣に指示を下した。
「総務大臣。国民への発表は『対外通信に障害が生じているが、原因究明中である』と伝えよ。パニックを起こさせるな。警察庁は、全国の警察に非常態勢を指示しろ。暴動、略奪、デマの拡散に対応する準備を整えよ」
「かしこまりました」
「防衛大臣。自衛隊は、全国に展開を開始しろ。ただし、武装は見せるな。あくまで『準備』だ。国民に恐怖を与えるな」
「了解です」
「そして山田」
中野総理は、山田を見つめた。
「この状況下において、我々ができることは何か」
山田は、思案した。
「総理。我々は、今、完全に『孤立』しています。外部からの情報も得られず、外部への連絡もできない。その状態で、我々が生き残るために必要なのは、三つのことです」
「何か」
「一。国内の食糧、エネルギー、医療資源の確保。二。国民のパニックを抑制し、秩序を維持すること。三。もし、この隔離が解除される可能性があるのであれば、その機会を逃さないこと」
中野総理は、その言葉を聞いて、頷いた。
「その通りだ。では、具体的にどうするか」
「国内の食糧備蓄の確認。全国の農業地域への情報提供。医療施設の非常体制への移行。そして何より重要なのは、国民への『説明』です。正直に、事実を伝えるべきです」
「その事実とは」
「『我々は、何が起きたのか、まだ分かっていない。しかし、日本という国家と、そこに住む国民は、確実に存在している。我々は、生き残る。その方法を、今から構築する』——そう伝えるべきです」
中野総理は、山田の言葉に耳を傾けていた。
「山田。お前に、新しい職務を与える」
「はい」
「お前は、外交官だ。その経験を活かし、我々が現在、どのような状況下にあるのかを分析してくれ。そして、もし、この隔離状態が解除される可能性があるなら、その方法を探れ。わかるか」
「かしこまりました。総理」
その時点で、山田光成の人生は、大きく変わった。
彼はもはや、単なる外交官ではなくなった。
彼は、未知の世界への日本の代表者となったのだ。
*
午後11時。
スーパーマーケットは、パニック状態に陥っていた。
「衛星通信が全て失われた」というニュースは、インターネットを通じて瞬く間に全国に広がった。テレビの発表は「対外通信に障害」という控えめなものだったが、ネット上の情報は、遥かに刺激的だった。
「日本が世界から切り離された」
「地震の前触れか」
「戦争が始まったのか」
推測と、不安と、デマが、混じり合い、拡散していった。
その結果、人間の根源的な本能——「生き残る」という本能が、目覚めた。
食糧を買い込む人々。ガソリンスタンドに長蛇の列。医療品を買い占める人々。
警察は、動き始めていた。だが、すべての店舗に対応することは、不可能だった。
午後11時30分。
東京の街は、すでに異様な雰囲気に包まれていた。通常の夜の東京とは異なる、何か別の質感が、そこに存在していた。
人々の不安。そして、政府への不信。
「政府は、何かを隠しているのではないか」
その疑念が、さらに買い占めを加速させた。
*
翌日、午前0時。
首都圏の複数のスーパーマーケットから、商品が消えた。
完全に消えたわけではないが、消費者が「必要」と判断した商品——食料品、医療品、懐中電灯、電池——からは、ほぼ全て品切れになった。
その光景は、テレビで放映された。その映像は、さらに不安を増幅させた。
「政府が言わないということは、本当に何か起きているのだ」
その心理が、さらなる買い占めを生み出した。
正午に近い午前11時。
政府から、公式な発表があった。
中野総理大臣は、記者会見で、国民に対して語りかけた。
「現在、我が国は、対外通信に障害が生じた状態にあります。その原因については、現在、究明中です。しかし、これは一時的な現象であり、国内の状況は、通常通り維持されています。国民の皆様には、冷静な行動をお願い申し上げます」
その発表は、一定の効果をもたらした。
だが、根本的な不安は、払拭されなかった。
「対外通信に障害」という表現は、あまりにも曖昧だ。その曖昧さが、さらに不安を生み出した。
*
午後1時。
山田光成は、外務省の一室で、複数のスタッフと共に、現在の状況の分析を続けていた。
壁には、地図が貼られている。日本の周辺地域の地図だ。
「外交官殿」
部下の一人が、報告した。
「現在、確認できる事実をまとめました」
「報告してください」
「午後2時47分。日本との対外通信が全て失われた。同時に、日本国内の電子機器には異常がない。つまり、通信インフラ自体には問題がない。相手側が受信できないのです」
「その理由は」
「現在のところ、物理学的には説明がつきません。しかし、一つの可能性として——」
部下は、地図を指した。
「——日本列島が、何らかの理由により、地球上の『通常の空間』から隔離されている。という仮説が、最も矛盾が少ないです」
山田は、その仮説を受け入れた。
「その隔離状態が、解除される可能性は」
「わかりません。ただし、もし、この隔離が物理的な現象であれば。それは、何らかの『法則』によって成立しているはずです。そして、法則があれば、その法則を理解できれば、隔離を解除できる可能性もあります」
山田は、その言葉に、わずかな希望を感じた。
「わかりました。その『法則』の解明に、全力で当たってください。物理学者、数学者、あらゆる専門家を集めてください。この隔離がどのようなメカニズムで成立しているのか。理解することが、我々の生き残りの鍵です」
「かしこまりました」
*
午後3時。
テレビは、依然として通常放送を続けていた。だが、その内容は、通常ではなかった。
「『対外通信障害について、政府が正式な会見を開きます』」
そのテロップが、画面に表示されている。
視聴者たちは、テレビの前に釘付けになった。
中野総理大臣と、花田外務大臣が、会見に臨んでいた。
中野総理は、その会見で、より詳しい状況説明を行った。
「現在、我が国は、対外通信が途絶した状態にあります。その原因については、複数の仮説がありますが、最も有力な説は、何らかの物理的な現象により、我が国が世界から一時的に隔離されている、というものです」
その発表を聞いて、テレビの前の国民は、息を飲んだ。
「隔離」
その言葉が持つ意味は、重い。
中野総理は、続けた。
「しかし、国民の皆様にお伝えします。日本という国家は、消えていません。我々は、ここに存在します。そして、我々は、生き残ります。その方法を、政府は、今から構築していきます」
その言葉は、ある種の「決意表示」だった。
「具体的には、以下のような対応を取ります。一。国内の食糧、エネルギー、医療資源の確保。二。全国の自治体と連携した、国民生活の維持。三。この隔離状態の原因究明と、解除の可能性の探索」
中野総理の表情は、厳しかった。だが、その瞳には、確実な決意が宿っていた。
「国民の皆様に、お願い申し上げます。冷静にしてください。パニックは、状況を悪化させるだけです。政府と、各地方自治体と、そして国民の皆様が、一体となって、この困難を乗り越えましょう」
その会見は、ある程度の効果をもたらした。
完全にはパニックを抑制できなかったが、「政府が対応している」という安心感は、国民にもたらされた。
*
翌々日、午前9時。
日本は、完全に非常事態体制に移行していた。
各都道府県は、非常本部を設置。警察と自衛隊は、全国に展開。
そして、山田光成は、依然として、外務省の一室で、現在の状況の分析を続けていた。
彼の前には、複数のパソコンと、複数の地図が広がっていた。
「外交官殿」
別のスタッフが、報告に来た。
「海上自衛隊より、報告があります。護衛艦『いずも』と、複数の測量船を、結界の境界に向かわせたいとのこと」
山田は、それを聞いて、顔を上げた。
「結界の境界ですか」
「はい。現在、どこに『隔離の境界線』があるのかを、把握する必要があると、防衛大臣が判断しました」
山田は、その判断を支持した。
「わかりました。その護衛艦に、外交官を派遣することを提案します」
「外交官ですか」
「はい。もし、その結界の向こうに、何らかの世界が存在しているとすれば。外交官が、その世界との接触窓口になるべきです」
その提案は、最終的に、中野総理に上げられた。
中野総理は、その提案を、即座に承認した。
「わかった。山田。お前が行け」
「総理。恐れながら、私が行くべきでしょうか」
「当然だ。お前が、この状況を分析したのだろう。ならば、お前が、その向こうの世界と対話するべきだ」
山田は、その指示を受けた。
「かしこまりました。総理」
翌日、午前8時。
横須賀の海上自衛隊基地。
護衛艦「いずも」は、出港の準備を整えていた。
山田光成は、その艦上に立ち、東方の海を見つめていた。
「外交官殿」
艦長が、近づいてきた。
「準備は完了しました。結界の境界へ向かいます」
「わかりました。記録はすべて保持してください。この航海のすべてが、日本の未来を決める可能性があります」
「了解です」
護衛艦「いずも」は、ゆっくりと、出港を開始した。
その艦の上で、山田光成は、東方を見つめていた。
その先に、何があるのか。
世界は、存在するのか。
それとも、別の何かが存在するのか。
すべては、謎のままだ。
だが、山田は知っていた。
外交とは、不確実性の中での判断の学問だ。
完全な情報を得ることはできない。
それでも、人間は判断し、行動しなければならない。
その時が、今なのだ。
「いずも」は、東方へ進み続けた。
その先に、古代中国の世界が存在することを、山田はまだ知らない。
だが、そこへ行きつく運命は、すでに決定していたのだ。
よく考えたら秦に一番に接触はおかしいので修正投稿。