日本国転移 作:えーあい
午後一時三十分(日本時間)。
護衛艦「いずも」の艦橋。自衛官たちが、レーダー画面の異常データを眺めていた。GPS信号は一時間ごとに五パーセント、確実に減衰している。このペースなら、二十時間後には完全に消失するだろう。海水温度も異常だ。通常、この緯度の海は冷たいはずなのに、温度計は熱帯海域並みの数値を示し始めていた。
艦橋の一角には、山田光成が座っていた。外務省からの派遣外交官として、この船上に乗り込んでから、既に五時間が経過している。彼の表情は、落ち着きを保ちながらも、緊張感に満ちていた。
「山田さん」
艦長・佐藤が、山田に声をかけた。
「南西方向に陸地のシルエットが見えます。地理的に推測すると、古代中国の沿岸部である可能性が高い。この異常現象と関連があると考えられます」
山田は頷いた。
「ありがとうございます。記録に残していただければ、幸いです」
彼の返答は、自然で柔らかく、艦長への敬意を込めていた。山田は、あくまで外交官であり、この船の運航判断は艦長に委ねるべき立場であることを、十分に認識していた。
午後二時。
古代中国の沿岸がより近づき、その輪郭がはっきりと見えるようになった。木造の監視塔、城壁らしき構造物、そして何隻もの小型船舶。すべてが歴史書の挿絵そのままだ。
やがて、一隻の小型帆船が、護衛艦「いずも」に向かって接近してきた。古代中国の典型的な船——帆は布製、船体は木造。その船から放たれた旗には、見覚えのない文字が描かれていた。斉国の象徴だろう。
船上に立つ男は、筋肉質で、一見すると粗暴そうに見えた。だが、その眼差しは鋭く、計算されたものだった。
男は、大声で呼びかけた。
「我が斉国沿岸司令官・劉威である。貴船は何者か。返答せよ」
その言葉は、日本語で聞こえた。ごく普通の、現代的な日本語。だが、相手は古代中国の人間のはずだ。
艦橋の通信士が、山田に目をやった。
「山田さん。相手が日本語で話しかけてきています。何ででしょう……」
山田は、その違和感を感じながらも、それを一度押し戻した。今は、その矛盾について考えている余裕はない。
「佐藤艦長。申し訳ありませんが、このように返答していただけますか」
山田は、落ち着いた声で、返信内容を述べた。
「日本国外交使節船『いずも』である。平和的な目的で接触を望む。武装しているが、先制攻撃の意図はない。貴国の指導者との対話を希望している」
佐藤艦長は頷き、通信士に指示を出した。
劉威は、その返答を受け取ると、何か思案するような表情を浮かべた。
「日本国。聞いたことがない国だ。だが、その船の構造は……」
劉威は、護衛艦「いずも」を上から下まで眺めた。その目は、計算に満ちていた。
「王建大王様へ報告する必要がある。貴船は、暫く沿岸より控えた距離を保ちながら、待機していただきたい。報告後、王建大王様の判断により、対応が決まるであろう」
劉威は帆船を操り、海岸方向へ向かった。
*
斉国王宮。玉座の間。
劉威は、王建の前に跪いていた。王建は、帝王らしく高座に座り、蛇をくわえてくるくると回している。その目は鋭く、思考に満ちていた。
「つまり、東の海から、白色で巨大な鉄の船が現れ、自らを『日本国』と名乗り、我が国の指導者との対話を望んでいるということか」
王建の声は低く、だが確かな重みを持っていた。
「左様です、大王様。船の構造は、我が国の技術では説明できぬものです。帆がなく、速度も異常に速い。その申し入れ人物は、極めて冷静で、計算された言動をしておりました」
王建は蛇を回し続けた。その沈黙の間、何か複雑な計算が行われているようだった。
「日本国。聞いたことがない。海の南東か、それとも北か。いずれにせよ、この時代の地理では未知の存在だ」
王建は立ち上がり、玉座の間を歩き始めた。
「我が国の指導者との対話を望むという。それは何故か。単なる外交的接触か、それとも、秦国に対する何らかの警戒か。あるいは、地理的な理由か。いずれにせよ、その申し入れ人物の言動から、彼らは相当に計算されたものであると判断するか」
「はい。その通りです。彼の物腰は柔らかく、敬意を払っており、攻撃的な言動は一切ございません。だが、その目は鋭く、状況を冷徹に分析している様子が伺えます」
王建王は笑った。その笑みは、何か秘密を知っているかのようだった。
「ふむ。では、彼らを招待しよう。王宮での会談を設ける。その際に、彼らの正体、意図、そして技術を、詳細に調査するのだ」
王建王は窓から、東の海を眺めた。
「劉威よ。この『日本国』なるものは、軍事的脅威となり得るか」
「不明です、大王様。ただ、その船の構造と速度から判断すれば、かなりの……いいえ。途方もない技術力を有していることは確かです」
王建王は蛇をくわえ、くるくると回した。その動作は、何か深い思考を示していた。
「では、彼らに伝えよ。斉国王は、この『日本国』なる未知の国家と、会談を望むと。明日の日の出直後に、王宮での謁見を認めると。ただし、武装は厳禁だ。そして、従者は山田とやら、その申し入れをした人物と、その護衛一名のみとする」
劉威は頭を下げた。
「かしこまりました、大王様」
王建王は、再び蛇をくわえた。その目は、遠く何かを見つめているようだった。何か秘密の計画が、その心の中で形成されつつあるようだ。
*
数日後、
護衛艦「いずも」の甲板。劉威の帆船が、再び接近してきた。
劉威は、大声で呼びかけた。
「山田外交官へ。大王様は、貴国との会談を望まれております。明日の日の出直後に、王宮での謁見をお認めになられました。ただし、武装は厳禁。山田外交官と護衛一名のみの参加となります」
佐藤艦長は、山田に目をやった。
「山田さん。これは、かなり急速な対応ですね」
山田は、その言葉に頷いた。
「そうですね。この古代中国の王は、この状況を極めて重要と認識しているのだと思います。これは、戦略的な判断だと言えます」
山田は、静かに思案の表情を浮かべた。
「佐藤艦長。申し訳ございませんが、この古代中国に関する歴史文献が、艦上にございますでしょうか。斉国とその王について、可能な限りの情報が欲しいのですが」
佐藤艦長は、通信士に指示を出した。やがて、数冊の歴史書が、山田の前に置かれた。
山田は、それらを丹念に読み始めた。彼の目は、一つの疑問に捕らえられていた。この時代の斉国王は、なぜ、このような異国の訪問者に、このように迅速に対応するのだろうか。
同時に、彼の脳裏には、別の違和感が渦巻いていた。古代中国の人間が、なぜ日本語を話すのか。その理由が、彼には理解できなかった。だが、言葉は確かに通じている。それが現実であることが、彼の常識を揺さぶっていた。
その夜、山田は客室で、会談に備えて、日本国の戦略を整理した。
「紀元前三世紀の古代中国と接触。斉国王・王建は、予想より迅速に判断を下している。これは、この状況を極めて重要と認識している証拠だ。明日の会談では、王建の意図を探り、日本国の生存戦略を構築する基盤を作らねばならない。秦国との対話は、斉国の仲介を通じてのみ可能となった。この制約の中で、最大限の利益を引き出す方法を模索する必要がある」
山田は、床に横たわり、明日に備えた。だが、その心の片隅には、なぜ古代中国の人間が日本語を話すのか、という問いが、くすぶり続けていた。
*
翌日。
護衛艦「いずも」から、山田と護衛兵一名が、劉威が用意した馬車に乗り込んだ。古代中国の風景は、夜明けの淡い光の中で、より一層古いものとなっていた。
馬車が、王宮の城門へ近づく。その高さと威厳は、山田の予想を上回るものだった。
やがて、馬車は王宮の内庭で止まった。
劉威が、山田を出迎えた。
「大王様は、貴方の到着をお待ちです。こちらへ」
山田は、劉威に従い、静かに王宮の奥へ進んだ。
港から王都までの距離がわからんので誤魔化し失礼。