日本国転移 作:えーあい
王宮の客室で、山田は古代中国の料理を食べ終えていた。その味は、教科書に書かれた説明とは異なっていた。より素朴で、より生に近い。それはまた同時に、自分が本当に古代の世界にいることを改めて認識させた。
護衛の自衛官が、窓の外を見つめていた。
「山田さん。あの王は、本当に何を考えているんでしょうね」
「さあ。ですが、彼が我々を客人として扱っているという事実は、良い兆候だと思います。もし敵と見なされれば、こうはいかなかったでしょう」
山田は、静かに答えた。
その時、侍女がノックをした。
「お客人様。大王様がお呼びです。お示しした客室でお休みになられるか、あるいは王宮の庭園をご覧になられるか、ご希望をお聞きしたいとのことです」
山田は、侍女に丁寧に返礼した。
「ご丁寧にありがとうございます。庭園を拝見させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
侍女は頷いた。
――王宮の庭園。
山田は、侍女に導かれて、広大な庭園を歩いていた。古代中国の造園技術が、ここに集約されていた。池、橋、石造の灯籠。すべてが、歴史書の挿絵そのままだ。
庭園の一角で、数人の学者らしき者たちが、竹簡に何かを書いていた。彼らは、山田を見つめた。その目は、好奇心に満ちていた。兵士たちの軽蔑とは全く異なる、知識人としての興味だ。
一人の学者が、山田に近づいてきた。彼は年配で、眼光が鋭い。
「貴方が日本国からお越しになった方ですね。私は斉国の学者・任充と申します。あのような未知の船を操る国のことを、ぜひお聞きしたいのですが」
山田は、丁寧に頭を下げた。
「任充先生。光栄です。ですが、申し訳ございません。詳しくお説明する際は、貴国の指導者の許可をいただいてからと考えておりまして、今は控えさせていただきたいのです」
任充は、その返答に満足したようだ。
「ふむ。では、他のことでしたら、いかがでしょうか。貴国の地理的位置について。我が国からどれほど離れているのか。それくらいでしたら、お答えいただけるのではないでしょうか」
山田は、しばし思案した。地理的な情報は、軍事的な脅威とはならないだろう。それに、これは信頼を構築する機会かもしれない。
「東方の海上です。この大陸から、かなり遠い距離にあります。具体的な距離については、申し訳ございませんが、お答えできません。ですが、我が国は、この地との接触を求めており、長期的な関係構築を望んでおります」
任充は、その返答をメモする形で、竹簡に記した。
「なるほど。では、貴国の技術についてはいかがでしょうか。その船の構造について、何かご説明いただけることはありますか」
「申し訳ございません。それについても、まだお答えする段階ではないと考えております。ご理解いただければ幸いです」
山田は、一貫して詳細な情報を控えていた。
任充は、それでも満足したようだ。
「了解しました。では、こちらの質問ではなく、貴方からのご質問があれば、お答えさせていただきたいのですが」
山田は、その提案に乗ることにした。
「ありがとうございます。では、失礼ですが、現在、この地域ではどのような状況が続いているのでしょうか。政治的な、あるいは軍事的な状況について、教えていただけますか」
任充の表情が、微かに変わった。
「それは、興味深い質問ですね。つまり、貴国は、この地域の現在の状況について、詳しく知らないということですね」
「左様です。我が国は突然、この世界に出現したため、現在の状況について、ほとんど何も知らないのです」
任充は頷いた。
「では、簡潔にお答えしましょう。この大陸は、現在、七つの主要な国家に分かれています。我が斉国もその一つです。他には、秦国、楚国、燕国、趙国、韓国、魏国があります。これらの国々は、常に対立し、戦争が繰り返されています」
山田は、その情報を脳裏に記録した。七つの国家。対立と戦争。つまり、この時代は戦国時代なのだ。
「ありがとうございます。この七つの国の中で、最も力を持つのはどの国でしょうか」
「それは、時代によって変わります。現在のところ、複数の大国が拮抗していると言えるでしょう。ただし、最近の傾向としては、西部の秦国が著しく力を強めているという報告もあります」
秦国。山田は、その名を心に刻み込んだ。だが、今のところ、それは七つの国の一つに過ぎない。秦国が特別に重要だとは、まだ認識していなかった。
「秦国ですか。そうなのですね」
山田は、その情報を整理していた。
任充は、山田の表情を観察していた。
「貴国は、この地域の情勢について、まるで知らないようですね。それは、本当に驚くべきことです。どのように隔絶された地域にあるのでしょうか」
「申し訳ございません。その詳細については、今はお答えできません。ですが、我が国は、これからこの地域との関係を構築していきたいと考えております」
山田は、その質問を避けた。
任充は、竹簡に何かを記した。その動作は、何か重要な情報を記録しているかのようだった。
客室に戻った山田は、この日の情報を整理していた。
七つの国家。戦国時代。複数の大国が拮抗している。秦国が力を強めている。
現在がいつなのかは、まだ特定されていない。だが、古代中国の戦国時代に出現したことは確かだ。そうであれば、日本国の生存戦略は、この複数の国家が共存する時代を背景に構築する必要があるだろう。
山田は、客室の窓から、王宮の外を眺めた。古代中国の風景は、教科書の中にしか存在しなかったはずのものだ。だが、今、それが彼の目の前に広がっている。
護衛の自衛官が、山田に近づいた。
「山田さん。あの学者は、何か重要な情報を得ようとしていましたね」
「そうだね。だが、彼は悪意を持っているわけではないと思う。彼は、単に、我々の正体を理解しようとしているだけだ。それは、学者としての本能だろう」
山田は、静かに答えた。
「では、我々はどうするのですか」
「今は、観察と情報収集を続ける必要がある。斉国に留まる間に、この古代中国の世界を理解し、日本という国家の立場を確保する必要がある」
山田は、そう述べた。
その夜、山田は日誌に書き記した。
「古代中国の戦国時代と思われる時代に出現した。七つの主要な国家が存在し、それぞれが対立と戦争を繰り返している。秦国が最近力を強めているとのこと。現在の正確な年代は不明だが、これから情報収集を進める中で明らかになるだろう。日本国の生存戦略は、この複数の国家が共存する時代を背景に構築する必要がある」
山田は、ペンを置いた。
明日から、彼の本当の調査が始まるだろう。この古代中国の世界で、日本という国家の位置を確保するための、長期的な戦略を構築する必要があるのだ。
*
「しかし、戦国時代ですか」
「どうかしたかい」
翌日。どこか憂鬱そうな自衛官の呟きに、山田は目を瞬かせた。
「中華の戦国時代といえば割と長いですが、ほら、いちばん有名なのは秦の統一戦争の時代でしょう。そんなところに放り込まれたのだとしたら、我々もそれに巻き込まれるのかと」
「まあ、まだ、そうと決まったわけではないだろう。それに、我が国の資源は限られている。遠い国……たとえばアメリカはまだまだ未開発だろうけれども、そんなところにプラントなどを作る余裕もない。未開発の土地では作物もまともに育っていないわけだからね」
「中国とやり取りするのが合理的なのはわかっています。なぜか日本語も通じているわけですから。ですが、秦国王の名前だけでも知りたいところですね。若き始皇帝の名前が出てきてしまったら……」
「ふむ……」
確かに、それは山田も気になるところではあった。だが、斉国王に聞けば、なぜ秦を気にするのかと聞かれるだろう。戦国時代ならば自国以外は敵のはずで、無礼と取られてしまうかもしれない。
「君の言う通り、秦の統一戦争に巻き込まれるのは避けたい。だが、まだそれが確定したわけではない。重要なのは、秦国の王が誰であるか、ということだ」
山田は、窓辺に立ちながら、静かに言葉を続けた。
「君の言葉から一つ気づいたことがある。『若き始皇帝』という表現だ。それが本当にそうなら、時代の特定ができる。だが、その情報を得るためには、慎重に行動する必要がある」
自衛官は、山田の言葉に耳を傾けた。
「では、どうするのですか」
「直接聞くわけにはいかない。秦国について過度に関心を示せば、王建王は我々の意図を疑うだろう。だが、別の角度からなら、情報を引き出せるかもしれない」
山田は、思案するような表情を浮かべた。
「例えば?」
「例えば、各国の王について、一般的な知識として聞く。どの国の王が若いのか、どの国の王が古いのか。そういった形なら、警戒を買わずに済むだろう」
自衛官は、その戦略に頷いた。
*
王宮の廊下。
山田は、意図的に劉威に道中での会話を仕掛けた。昨日、任充との会話で得た情報を、さらに掘り下げるつもりだ。
「劉威殿。申し訳ないのですが、一つ質問があります」
劉威は、立ち止まった。
「何でしょうか、山田殿」
「各国の王について、お聞きしたいのです。我が国では、王の年齢が政治に大きな影響を与えます。この地域の各国の王は、どのような年齢の方々なのでしょうか」
劉威は、微かに眉をひそめた。だが、それは警戒というより、むしろ興味の表れであるようだった。
「それは、興味深い質問ですね。貴国では、王の年齢が重要だと」
「左様です。若い王は改革的で、年老いた王は伝統を重んじる傾向があります。政治的な判断において、その差は極めて大きいのです」
山田は、その説明に説得力を持たせた。
劉威は、それを納得したようだ。
「では、簡潔にお答えしましょう。我が斉国の大王様は、在位三十年以上にわたります。趙国の王は若く、西部の秦国の王も比較的若いとの報告があります。他国に比べ、若い年代で王位についたとも聞きます」
山田の心が、わずかに動いた。秦国の王は若い。その情報は確認できた。だが、具体的な名前はまだ出ていない。
「秦国の王が若いということですね。それは、秦国が急速に力を強めている理由の一つかもしれませんね」
「その通りです。若い王は、新しい政策を実行するのに躊躇いがないのです。秦国は、そうした改革によって、力を強めているのだと言えるでしょう」
劉威の言葉から、秦国の王が相当な実行力を持つ人物であることが推測できた。だが、名前はまだ不明だ。
「秦国の王の名前について、何かご存知ですか」
山田は、その質問を慎重に投げかけた。
劉威は、一瞬、沈黙した。その目は、山田を計測するような表情を浮かべた。
「秦国の王の名前ですか。それは大王様お聞きになる方がよろしいのではないでしょうか」
劉威は、そう答えた。その返答は、決して敵意に満ちたものではなかった。むしろ、山田に対する、ある種の信頼を示しているかのようだった。
「そうですか。ありがとうございます」
山田は、その返答を受け入れた。
*
王建王との接見。
斉国王は、玉座に座り、蛇をくわえてくるくると回していた。
「山田よ。今日は何か、お知らせすることはあるか」
「恐れ入ります、大王様。一つ、お伺いしたいことがあります」
山田は、慎重に言葉を選んだ。
「各地の王について、我が国では、王の性格や能力が、国の運営に大きな影響を与えます。秦国の王について、何かご存知でしたら、お教えいただきたいのです」
王建王は、蛇を回す動作を止めた。その目は、鋭く山田を見つめた。
「秦国の王についてか。なぜ、秦国に関心があるのか」
山田は、その質問に、あらかじめ用意していた返答をした。
「各国の政治体制を理解することで、この地域全体の動向を把握したいのです。秦国が力を強めているという話を聞きましたので、その王がどのような人物であるのかを知ることは、有用だと考えたのです」
王建王は、その説明を聞き、蛇を再び回し始めた。
「ふむ。合理的な判断だ。では、簡潔に答えよう。秦国の王の名前は嬴政という。若く、野心に満ちた王だ。彼は、秦国の権力を一手に握り、あらゆる改革を推し進めている」
嬴政。その名が、王建王の口から発せられた。
山田は、その名を心に深く刻み込んだ。嬴政。秦国の王。若く、野心的。
秦国の統一戦争を指揮したのは、嬴政である。その名が出たということは、このときが、秦国がまだ統一戦争を本格化させていない時代であるということを意味していた。具体的には、紀元前221年より前。だが、秦国がすでに力を強めているということから、おそらく紀元前230年代だろう。
「嬴政ですか。若き野心的な王。わかりました」
山田は、その情報を表面上は冷静に受け止めた。だが、その内心には、大きな衝撃が走っていた。
「秦国の王の名前を知ってどうするのか」
王建王が、鋭く問いかけた。
「申し訳ございません。我が国が、この地域に長期的に滞在するためには、各国の指導者について、基本的な知識を持つ必要があるのです。それだけです」
山田の返答は、完璧だった。王建王は、僅かに探るような目をしたのち、鼻を鳴らした。
「フン、外交官としての心構えと言うわけか。では、嬴政という名を知ったことで、何か判断は変わるか」
山田は、その質問に、一瞬沈黙した。
「いいえ。変わりません。ただ、秦国という国家が、どのような方針で統治されているのかを、より明確に理解することができるようになったということです」
王建王は、蛇をくわえ、微かに笑みを浮かべた。
「正直な答えだ。では、嬴政という名を知ったことで、何が理解できたのか」
「秦国の王が改革的であること、若い世代の思考を持っていることです。それは、秦国が急速に力を強めている理由を説明しています」
山田の分析は、正確だった。
王建王は、それ以上の質問をしなかった。蛇をくわえ、窓から東の方角を眺めた。
「嬴政か。あの若き王は、いずれ大きな波乱を巻き起こすだろう。その時に、我が国がどのような判断をするのか。それは、我が国の未来を左右するであろうのォ」
王建王の言葉は、秦国の統一戦争への不安と、それへの冷徹な対応を示していた。
*
客室。
山田は、日誌に記した。
「秦国の王の名前は嬴政。若く、野心的。現在、秦国が力を強めている段階にあり、統一戦争はまだ本格化していない。この情報から、現在の時代は紀元前230年代と推定される。秦国の統一は紀元前221年であるから、我が国が滞在する時間は、最大でも10年程度に限定される。この時間の中で、日本国の立場を確保し、秦国との関係を構築することが、極めて重要である」
山田は、ペンを置いた。
同時に、彼の脳裏には、一つの計画が形成されつつあった。秦国の嬴政という王。若く、野心的。改革的。そうした王であれば、日本の技術に興味を持つかもしれない。そして、秦国の統一戦争に、日本が何らかの役割を担うことも、不可能ではないかもしれない。
だが、それは、極めて危険な道でもあった。秦国の統一に巻き込まれれば、日本は古代中国の政治に深く関与することになる。それは、日本という文明を失わないという原則に反するかもしれない。
山田は、窓から、王宮の外の夜景を眺めた。古代中国の星空は、現代日本の星空とは異なっていた。
その星空の下で、彼は、日本国の未来を決定する選択を迫られることになるだろう。