日本国転移 作:えーあい
朝日が東の空を染める中、山田は馬車で斉国の王都へ向かっていた。昨夜、伊勢もから東京への無線連絡を済ませ、本国からの基本方針を受け取った。それは、斉国との関係を維持しながらも、軍事的な協力については慎重な判断が必要というものだった。しかし同時に、山田は一つの戦略的機会を見出していた。
馬車が揺れるたびに、山田は心の中で言葉を整える。斉国王に対して、どのように提案すべきか。直接的すぎては相手の警戒心を招く。かといって曖昧では、相手の興味を引き出せない。バランスが必要だった。
護衛として同乗する自衛官・佐々木は、窓から外の景色を眺めていた。赤レンガの城壁、木造の見張り塔、行き交う商人たちの姿。この古代中国の風景は、彼にとって完全に異世界だった。
「山田さん」と佐々木が静かに声をかけた。「本当に、王様は日本の船を見せることに同意してくれるんでしょうか」
「まだ、提案の段階です」と山田は答えた。「ただし、王建王ほどの知略を備えた指導者であれば、この提案の価値を理解してくれるはずです。日本の技術と文明を直接見ることで、貴国との長期的な交易の可能性が見えてくるからです」
馬車は王宮の正門へ近づいていた。
――劉威の案内により、山田と佐々木は王建王の玉座間へ導かれた。玉座に腰かけた王建王は、昨日と同じように口の中に蛇をくわえていた。その細い目は、山田の姿を捉えた。
「戻ってきたか、山田よ」
王建王の声は低い。蛇がその口の中で時折動く。王建王はそれを意識することなく、身を乗り出した。
「本国への報告は済んだであろう。どのような返事を得たかのか、聞かせてもらおうかのォ」
山田は両膝をついて、恭しく頭を垂れた。
「大王様。本国からは、貴国との長期的な関係構築を望む旨の指示を受けました。ただし、現在の複雑な状況下では、軍事的な関与については、慎重な判断が必要とのことです」
王建王の表情が、わずかに歪んだ。蛇をくわえた口が、不満げに動く。
「ふむ。予想通りか。日本とて、所詮は遠い国の民族。現在の大陸の情勢を前にしては、身を守ることで精一杯なのだろう」
「いえ、大王様」と山田は顔を上げた。「むしろ、日本の立場からすれば、大陸全体の安定が重要です。現在のように複数の国家が並立している状況こそが、日本にとって最も交易をしやすい環境なのです。各国との個別の関係を築き、長期的な交易ネットワーク……交易経路を構築する。それが、日本の生存戦略の一部なのです」
王建王は、玉座の上で身を引いた。蛇をくわえた口が、ゆっくりと開く。
「ほう。つまり、日本は複数の国家と個別に関係を築くことで、自国の安全を確保しようというわけか。悪くない。実に現実的な外交戦略だ」
王建王は、蛇を口から引き出した。長さ一メートル以上ある黒い蛇は、その細い身体を主人の腕にからませる。王建王はそれを静かに眺めながら、玉座の上で腕を組んだ。
「そこで、何か提案があるのか。戻ってきたのは、単に報告をするためではあるまい」
山田は、この瞬間を待っていた。王建王の言葉に、わずかな好意と興味の色が混ざっていた。
「大王様。実は、一つのご提案が申し上げたいことがあります」
「言え」
「日本の国力と文明水準を、より正確にご理解いただくために、貴国の有識者の方々に、われわれの船をご視察いただきたいのです。言葉では説明しきれない、日本の技術と文明を、直接ご体験いただくことで、より深い相互理解が生まれるのではないかと考えます。医療の技術、食糧の貯蔵方法、工業的な製造技術など、長期的な交易に結びつく知識については、喜んで共有させていただきたいのです」
王建王の目が、一瞬、鋭くなった。蛇が、その腕の中でうねる。
「わが国の者たちが、日本の船を見学するということか。それは、一つの賭けではないか。わが国の武官たちが、過度な詮索をする可能性もあろう」
「確かにそうです」と山田は頷いた。「しかし、日本は軍事的な秘密については、十分に保護をいたします。戦争による破壊ではなく、平和的な交易による相互発展。それが、日本が貴国と望む関係なのです。わが国の技術が、貴国の人民の生活を豊かにする手助けになれば、それ以上の喜びはございません」
王建王は、玉座の上で身を動かした。蛇を腕から降ろし、再び口にくわえる。その動作は、彼が深く思案していることを示していた。
劉威が側に立ったままで、この会話を聞いていた。任充も、奥の方から姿を現し、玉座の前に控えた。老いた任充の顔には、深い皺が刻まれていた。
「大王」と任充が静かに声をかけた。「この提案は、興味深いものではありませんか。日本の文明と技術を直接見ることで、われわれが得られる知識は、大陸における競争において大きな力となるでしょう」
王建王は、任充の言葉に耳を傾けた。蛇をくわえたまま、その目は遠くを見つめている。
「確かに。だが、同時に危険もある。わが国の最高の知識人たちを、日本の異なる船に送り込むことで、わが国の実力について、日本側に過度に知られてしまう可能性もある」
「しかし大王様」と山田は再び口を開いた。「わが国は、貴国の軍事的な実力を評価する必要がない立場にあります。われわれが望むのは、貴国との長期的な平和的関係です。軍事的な衝突は、日本にとって何の利益ももたらしません。むしろ、貴国が強く、安定していることが、日本にとっての最大の利益なのです」
王建王は、玉座から立ち上がった。蛇をくわえたまま、彼は玉座の周りを歩き始める。その動作には、王者としての威厳と、計算高い知略が混在していた。彼の靴が、石床の上でかすかな音を立てる。
「山田よ。お前の言葉は理に適っている。しかし、国家間の関係とは、時に言葉よりも行動が雄弁だ。日本が本当に平和的な関係を望むのであれば、わが国の使節に、その行動で示す必要がある」
王建王は玉座に戻り、再び腰を下ろした。彼の体は、玉座の上で大きく見える。
「よろしい。わが国から使節を派遣しよう。劉威と任充を、貴国の船へ送る。彼らは、日本の文明と技術を直接見学し、わが国へ報告することになる。その報告内容により、日本に対するわが国の今後の対応が決まるであろう」
山田の顔に、わずかな安堵の表情が浮かんだ。
「かたじけないことです、大王様。本国は、必ずや貴国の使節をもてなすことでしょう」
「ただし」と王建王は付け加えた。「劉威と任充は、わが国の最高水準の知識人だ。彼らの目をごまかすことは、容易くないだろう。もし、日本が言葉とは異なる意図を隠していると判明した場合、わが国の態度は豹変することになる。その覚悟があるか」
山田は、その視線を真っすぐに受け止めた。
「あります、大王様。日本は、その言葉に責任を持ちます」
王建王は、蛇をくわえたまま、わずかに笑った。その笑みは、満足と警戒の両方を含んでいた。
「よかろう。では、本日の午後、劉威と任充を伴い、貴国の船へ向かうがいい。わが国の使節の視察は、わが国の国益そのものだ。決して無駄にはさせん」
*
山田と佐々木、そして劉威と任充は、馬車で海岸へ向かっていた。劉威は、無言で窓から外の景色を眺めていた。任充は、山田の隣に座り、時折、鋭い目で山田の表情を観察していた。
「山田殿」と任充が静かに話しかけた。「王建王は、この提案を受け入れた。しかし、それは条件付きの受け入れだ。わが国の期待値は極めて高い。期待に沿わないようなことがあれば、日本に対する態度は、大きく変わるだろう」
「承知しています」と山田は答えた。「だからこそ、可能な限り誠実にご対応させていただきたいのです。貴国の知識と経験に敬意を払い、有意義な交流の時を過ごしていただきたいと願っております」
任充は、それ以上何も言わず、再び窓の外へと視線を戻した。その老いた顔には、深い思案の色が刻まれていた。
馬車が揺れるたびに、山田は心の中で、これからのシナリオを描いていた。いずもの医療設備、食糧貯蔵室、通信機器の一部を見せることで、日本の文明レベルの高さを示すことができるだろう。しかし同時に、軍事的な機密は厳重に保護する必要がある。その綱渡りが、今後の日本の運命を大きく左右することになるのだ。
馬車が海岸に到着した瞬間、劉威と任充の体が、まるで磁石に引き寄せられるかのように、窓へ近づいた。
そこに在ったのは、彼らの想像をはるかに超える光景だった。
護衛艦は、その灰色の巨大な船体を、夕焼けを背にして立ち上がらせていた。全長は百メートルを超える。その形状は、彼ら古代中国の知る船舶の概念を、完全に打ち砕くものだった。
木造の帆船と異なり、いずもの船体は、鋼鉄でできていた。その表面は、幾何学的な構造で覆われ、至るところに小さな砲塔のような出っ張りがある。上部には、複数の機関部が立ち上がっており、その形状は、まるで城塞の塔のようだ。
「これが……」
劉威の声は、かすれていた。彼は、眼前の光景を前にして、言葉を失っていた。
任充は、眼鏡をかけ直し、その巨大な船体を隅々まで観察しようとしていた。老いた知識人の顔には、驚嘆と好奇心が入り混じっていた。
「あれは、本当に船なのか」
劉威の呟きが、馬車の中に響き渡った。
「はい」と山田は静かに答えた。「あれが、日本の船『いずも』です。あの船こそが、日本がこの大陸に出現した手段であり、日本の技術と文明の象徴なのです」
任充は、馬車から身を乗り出さんばかりの勢いで、その船を眺めていた。彼の目は、船の細部にある数々の技術的な特徴を、次々と吸収していく。
「あの突起は、何なのか」
「あれは、船を守るための装置です」と山田は説明した。「詳しいことは、船上でご説明させていただきます」
劉威は、依然として言葉を失ったままだった。彼の手は、馬車の窓枠をぎゅっと握りしめていた。
目前に広がるいずもの光景は、彼らにとって、単なる船舶ではなかった。それは、彼らが暮らす世界とは全く異なる、別の文明そのものの到来を意味していたのだ。城塞のような船体、その複雑な機構、そして何よりも、その圧倒的なスケール。
「ああ……なんという……これが……船か?」
劉威は、ようやく声を出した。
「山田よ。あれは……本当に海を航海する船なのか。あたかも城塞そのものが、海に浮かぶかのようではないか」
「その通りです」と山田は答えた。「わが国の技術とは、このような形をしているのです。貴国の知識人たちに、その中身をご見学いただき、日本の文明がいかなるものであるかを、ご理解いただきたいのです」
馬車が、砂浜へと進み始めた。いずもは、その圧倒的な存在感を保ちながら、劉威と任充の目の前で、ますます大きくなっていく。
それは、古代中国の知る船舶という概念を、やはり根底から覆す光景だったのだ。