日本国転移 作:えーあい
午後一時 東京・首相官邸。
自動車で、港から一時間。劉威と任充は、日本の首都、東京の中心部に到着していた。
その移動の間、彼らが見たもの。無数の建物、無数の人間、そして無数の乗り物。その景観は、古代中国のいかなる大都市をも、はるかに上回るものだった。
首相官邸の前に、二人の使者は降ろされた。そこには、複数の日本の高官たちが、彼らを出迎えるために、待機していた。首相官邸は永田町のほかの建物に比べ背が低かったが、なぜだか驚くほどの威容を誇っていた。
中野首相は、自ら、二人の使者に頭を垂れた。
「劉威様、任充様。ようこそ、日本へ。わたくしは、日本国の首相、中野と申します」
任充は、その首相の言動に、わずかな違和感を覚えた。古代中国では、皇帝は、外国の使者に対して、自ら頭を垂れることは、ほぼ皆無である。しかし、ここでは、国の最高指導者が、外国の使者に対して、敬意を払う姿勢を示しているのだ。
「かたじけないことです、首相殿」と任充は答えた。「わが国の大王様より、日本の指導者たちとの対話を通じて、日本についてのより深い理解を得よ、とのお命じを受けております。貴国のご配慮に、心より感謝いたします」
中野首相は、二人の使者を、執務室へ導いた。その執務室の窓からは、東京の広大な景観が見下ろせた。その光景は、港で見たものさえも上回る、圧倒的な規模のものだった。
しかし、今、二人の使者の注意は、窓の外の景観ではなく、この執務室で行われようとしている会談に、集中していた。
「では、本題に入らせていただきたいのですが」と中野首相は、静かに切り出した。「わが国と貴国の間に、いかなる関係が構築できるかについて、お話しさせていただきたいと思います」
任充は、その言葉に、身を乗り出した。これが、彼らの任務の中心なのだ。
「かしこまりました、首相殿。王建王様も、同じ思いです。わが国と日本の間に、長期的で、相互に利益をもたらす関係を構築したいと考えております」
「ありがとうございます」と中野首相は答えた。「では、まず、わが国の基本的な立場を、お伝えさせていただきたいと思います」
中野首相は、身を乗り出し、ゆっくりと話し始めた。
「わが国は、貴国との間に、平和的な交易関係を構築したいと考えています。軍事的な同盟や、軍事的な協力ではなく、商業的な交易を中心とした、相互に利益をもたらす関係です」
劉威は、その言葉を聞きながら、わずかに眉をひそめた。
「軍事的な同盟ではなく、商業的な交易ということですね。では、日本は秦国との対立には関与しないということか」
「その通りです」と中野首相は答えた。「わが国は、貴国と秦国との間の軍事的な紛争に直接関与することはありません。そのかわりに、わが国の技術や知識を、貴国と共有することで、貴国の発展に貢献したいと考えているのです」
任充は、その回答に深く考えた。つまり日本は、秦国に対して直接的な軍事支援を行わないということだ。これは、王建王が期待していた、軍事的な同盟とは異なるものだ。
しかし同時に、任充は、別の可能性を見出していた。
「首相殿。では、わが国が日本の技術を導入することで、わが国の国力が強化されるという理解でよろしいか」
「その通りです」と中野首相は答えた。「わが国の医療技術、食糧保存技術、製造技術などを、貴国と共有することで、貴国の人民の生活が向上し、結果として、貴国の国力が強化される。それがわが国の望むところです」
劉威は、その説明に、一つの疑問を抱いた。
「であれば、秦国に対しても同様の技術を提供するのか」
中野首相は、その質問に慎重に答えた。
「その点については、状況に応じて、判断させていただきたいと思います。わが国の基本的な立場は、複数の国との交易関係を維持することで、大陸全体の安定を図ることです。しかし、いかなる国との関係を構築するかについては、その国の政治的な姿勢や、わが国との相互理解の度合いに基づいて、判断されるべきものです」
任充は、その回答の含意を理解した。つまり、秦国との関係も、斉国との関係も、すべては、相互理解と、政治的な交渉の結果として、決定されるということだ。
「では、具体的にわが国と日本の間に、いかなる交易が行われるのか。その点についてのお考えをお聞かせいただきたいのですが」
中野首相は頷いた。
「良い質問です。わが国が、貴国に提供できるものは、技術と知識です。具体的には、医療技術、食糧保存技術、製造技術などです。これらの技術を、貴国の工匠や学者たちに、教えることで、貴国の人民の生活が、向上することになるでしょう」
「そのかわりに、わが国は、何をお求めになるのか」
「我々が求めるものは、二つです。第一に、貴国の産物です。我が国は食料や、薬の材料となる植物が不足しています。それをわが国に供給していただきたいのです。第二に、貴国との長期的な平和的関係の維持です。わが国は、大陸に安定した状況が続くことで、継続的な交易を行いたいと考えているのです」
劉威は、その提案に、内心で計算を始めていた。斉国が日本の技術を導入し、その技術により斉国の国力が強化されれば、秦国に対する対抗力も増加するはずだ。
一方で、日本は斉国の産物を得ることで、利益を得る。そして、秦国とも同様の交易関係を構築する可能性がある。
つまり、日本の戦略は、複数の国との交易を通じて、大陸全体に、自国の影響力を浸透させるというものなのだ。
「では、具体的な交易の方法についてお聞かせいただきたいのですが」
中野首相は、身の側に置かれた複数の資料を示した。
「わが国は、貴国に、複数の提案を用意しております。第一に、医療技術者の育成案です。貴国から、優秀な医学者や、工匠たちを派遣していただき、わが国で、一定期間の訓練を受けていただきます。その後、彼らが貴国に戻り、貴国内でその技術を伝承していくという形です」
任充は、その提案に興味を示した。
「ではその場合、派遣する者の数は、いかほどか」
「年間、数十人から、数百人程度を想定しております」と中野首相は答えた。
劉威は、その数字に、驚嘆した。数十人から数百人。そのような大人数を、異国で訓練するとは。古代中国では、そのような規模の技術移転は、考えられないことだ。
「第二の提案は、食糧保存技術の供与です。わが国の缶詰製造技術を、貴国に提供し、貴国内での製造を支援いたします。それにより、貴国の兵士たちや人民たちが、より良い食糧環境を得ることができるでしょう」
任充は、その提案に対して、一つの質問を発した。
「その場合、その技術を、いかなる商人たちに提供するのか。古代中国では、そのような重要な技術は、往々にして、一族や、一個の商家に独占されてしまうのですが」
中野首相は、その質問に、深く頷いた。
「良い指摘です。わが国の立場は、複数の商人たちに、この技術を提供することです。そうすることで、競争が生まれ、より良い製品が、より安い価格で市場に供給されることになるのです。その結果、より多くの人民がより良い食糧を得ることができるようになります」
任充は、その戦略に、一つの新しい発想を見出していた。古代中国では、技術や商権の独占が、富と権力の源泉である。しかし日本の戦略は、それとは逆に複数の商人への技術提供により競争を促進し、結果として全体の利益を増加させるというものなのだ。
「第三の提案は、製造技術の移転です。わが国の工業技術を、貴国に提供することで、貴国が、より質の高い製品を、大量に製造できるようになるでしょう。その結果、貴国の商人たちは、わが国や他国との交易において、より有利な立場に立つことができるようになります」
劉威は、その提案に対して、素朴な質問を発した。
「では、その場合、日本との競争になるのではないか。もし、斉国の製品が日本の製品と同じ質で、より安い価格で販売されるようになれば、日本の商人たちは、損失を被るのではないか」
中野首相は、その質問に対して、微笑んだ。
「その通りです。その可能性は存在します。しかしわが国はそれでも構わないと考えています。なぜなら、その競争の中で、双方がより高度な技術を開発することで、結果としてより優れた製品が市場に供給されるようになるからです。また、わが国は、貴国の製品よりもさらに高度な製品を開発し、その上で競争に打ち勝つことができると考えているからです」
任充は、その回答に、再び、日本の指導者たちの戦略的な奥深さを感じた。
「では、いつから、このような技術移転が開始されるのか」
「わが国は、可能な限り迅速に、開始したいと考えています」と中野首相は答えた。「貴国が準備ができ次第、医療技術者や工匠たちを、わが国へ派遣していただければ、わたくしたちは、彼らを全力で支援いたします」
任充は、その言葉に一つの新しい現実を理解した。
日本は、単なる技術的な優位性を持つ、外国ではない。日本は、古代中国の戦略的な思考とは、全く異なる新しい思考様式を持つ別の文明なのだ。
「首相殿」と任充が、静かに口を開いた。「わが国に戻り、王建王様に、すべてをお伝えいたします。この提案が、いかに重要で、いかに可能性に満ちたものであるかを、王建王様にご理解いただけると、わたくしは確信しております」
中野首相は、深く頷いた。
「ありがとうございます。わたくしたちは貴国の国王陛下……大王様と、長期的で実りある関係を築くことを、心から望んでおります。貴国との協力を通じて、大陸全体がより発展し、より多くの人民の生活が向上することをわたくしたちは望んでいるのです」
劉威と任充は、その言葉を聞きながら、深く思案していた。
日本の首相の言葉は、一見理想的で、利他的に聞こえるかもしれない。しかし、その背後には明確な戦略が隠されているのだ。
複数の国との交易を通じて、大陸全体に日本の影響力を浸透させる。そしてその過程で、各国の内部に日本寄りの勢力を育成する。
その結果として、秦国が統一を成し遂げた場合であっても、日本は統一帝国に対して、十分な影響力と交渉力を持つことができるようになるのだ。
古代中国の戦略家たちも、こうした複雑な戦略を展開することはあるが、ここまで体系的で長期的な視点に基づいた戦略は、彼らの経験の中では稀なものだった。
「では、本日は、この程度とさせていただき」と中野首相が、立ち上がった。「わたくしたちは、貴方がたがゆっくり休息していただくことを望んでいます。明日の朝詳細な技術説明を、わたくしたちの専門家たちが行う予定です」
任充と劉威は、深く頭を垂れた。
「かたじけないことです、首相殿。わが国に戻り、王建王様に、すべてを報告いたします」