【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて―   作:horizontal line

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第十話

 

 

 退院の日が来るのを、晴星はずっと待っていた。医師から「このまま順調なら」と前置きされたうえで日付を教えられてからは、あと三日、あと二日と密かに数えていたし、前日の夜、美月が持ってきてくれた私服をベッド脇の椅子へ置いてもらったときには、それを眺めているだけで少し嬉しくなった。

 

 病院での生活にも、もう随分慣れた。決まった時間に起きて、食事をして、診察や検査を受け、リハビリをして、見舞いに来てくれた人たちと話す。最初の頃と違って自分でできることも増え、廊下を歩く距離だって日に日に伸びていく。それでも、晴星が好きなのはやっぱりこういう毎日ではなかった。

 芝居がしたい。ララライの稽古場で誰かの芝居を見ながら、どうして今その台詞をそう言ったのだろうと考えたい。学校へ行って、仕事や芝居の話をしていたかと思えば、次の瞬間にはどうでもいいことでクラスメートたちと笑っていたい。自分の部屋で本を読んだり、台本を開いたり、腹が減ったら何を食べようか考えたりしたい。

 事件が起きる前には何でもなかった、そんな時間を過ごしているときが、晴星は一番好きだった。

 だから朝になって目を覚まし、最初に目へ入ったシャツとズボンを見た瞬間、胸の奥が少し弾んだのが自覚できたほどだ。

 

 (――今日、帰れるんだ!)

 

 朝食を食べ、薬を飲み、最後の診察を受ける。普段なら気にもしない時計を何度も見てしまい、看護師から「晴星くん、そんなに帰りたい?」と笑われれば、格好をつける理由もないので「帰りたいです」と素直に答えた。「正直でよろしい」と笑われてしまったが、それくらい今日の晴星は機嫌がよかった。

 着替えも、できるところまでは自分でした。シャツへ腕を通すくらいならもう問題はない。ただ、ズボンを穿くために身体を曲げると、腹の奥にまだ引っ張られるような感覚がある。痛いというほどではなくても、事件前なら意識すらしなかった動作の一つ一つで、身体の方から退院と完治は違うのだと教えられているようだ。

 それでも着替え終えて鏡を見ると、また少し嬉しくなった。病院着ではない。点滴もない。腹にはまだ傷が残り、顔も多少痩せた。それでも鏡を見れば、ようやく「入院患者」ではなく、『普段通りの自分』だ。

 

 午前中には美月が迎えに来て、二人で医師から最後の説明を受けた。経過は順調。ただし、しばらくは傷の状態を見ながら生活し、重い物を持ったり激しい運動をしたりすることは避ける。発熱や強い腹痛、傷口の異常があればすぐに連絡する。仕事への復帰も段階的に考え、特に身体へ負担のかかる撮影については今後の診察を受けながら判断する。

 晴星自身も一つずつ聞いていたが、その隣では美月が日常生活の中でどの程度まで身体を使っていいのか、本人にも判断しやすい目安を医師へ細かく確認していた。晴星が「俺もちゃんと聞いてるよ」と言っても、「知ってるわよ。でも、あなたは『これくらいなら平気だと思った』をやるでしょ」と返される。

 

「……やらないとは言えない」

「だから聞いてるの」

 

 医師が少し笑った。晴星としても反論できる材料がないので、そのあとは美月と一緒に大人しく説明を聞いた。

 退院の手続きがすべて済んでも、晴星は荷物を持ってそのまま帰ろうとはしなかった。この十日余り、毎日のように顔を合わせていた人たちがいる。夜中に痛みが強くなったときに来てくれた看護師も、初めて廊下を歩いた日に励ましてくれた看護師もいた。ナースステーションへ立ち寄り、担当してくれた医師にも改めて挨拶をして、晴星は世話になった人たちへ一人ずつきちんと頭を下げた。

 

「いろいろお世話になりました。本当にありがとうございました」

 

 こういうことについて、美月は昔から厳しかった。仕事でも私生活でも、自分一人の力で何もかもできたと思うな。誰かに助けてもらったなら覚えておくこと。そして感謝は思っているだけではなく、きちんと言葉にすること。幼い頃から何度も言われてきたし、今では晴星自身もそれが当たり前になっている。

 

「またね、とは言わないでおくね」

 

 最後に看護師の一人からそう言われ、晴星も笑った。

 

「はい。もう入院では来ないようにします」

 

 もう一度頭を下げ、美月とともに病棟を離れていく。あれほど待ち遠しかった退院なのに、いざ最後になると少しだけ名残惜しく思うのだから、人間の気持ちは妙なものだった。

 そしてそれは、見送る側も同じだったらしい。晴星の姿が廊下の向こうへ消え、エレベーターの方へ曲がって完全に見えなくなると、ナースステーションでは一人の看護師が「あ~……」と長い声を漏らしながら机へ突っ伏した。

 

「あ~……私の一日の活力の源がぁ~……」

「分かる。晴星くん見たら『よし、今日も頑張ろ!』ってなったよね」

 

 隣で記録を整理していた看護師までしみじみと頷く。もちろん彼女たちにとって晴星は患者であり、仕事中は必要な距離を守って接していた。それでも十日以上も毎日のように顔を合わせれば、無事に退院できたことを喜ぶ気持ちと、少し寂しく思う気持ちは両立する。まして相手は、テレビや映画で何度も見たことのある人気俳優だった。

 

「というか晴星くん、画面越しで見るよりずっとイケメンじゃなかった? 背も高いし、スタイルいいし」

「分かる~! しかも性格まで優しいんだもん。理想の彼氏って感じだったよね!」

「私、前よりもっとファンになったもん」

 

 次々と同意が重なっていたところで、一人がふっと表情を緩めた。

 

「でもまあ……もう怪我とか病気とかで、ここでは会いたくないよね」

「それはそう。次に見るならテレビがいい」

「映画でもいいなあ~」

 

 そこだけは全員の意見が一致した――はずだった。

 

「まあ、個人的に私に会いに来てくれるとかだったら、別にいいけど?」

 

 一瞬だけ静かになった。

 

「……は?」

「何言ってんの?」

「夢は寝て見るものだよ?」

「あ、今寝てるのか。早く起きなさい」

「ちょっと! 一人くらい応援してくれてもよくない!?」

 

 そこから再び騒がしくなったナースステーションへ、とうとう廊下を通りかかった医師がこめかみに青筋を浮かべて顔を覗かせた。

 

「そこ! 仕事中に何を騒いでるんですか!」

 

 慌てて仕事へ戻る者、笑いを堪えながら記録へ目を落とす者、その横で「でも可能性はゼロじゃ――」「ゼロです」とまだ小声で揉めている者までいる。晴星が退院したら少しは静かになるかと思われたナースステーションは、本人がいなくなってからもしばらく騒がしかった。

 

     ◇

 

 病院の正面玄関を出ると、見慣れた車が待っていた。スターライトから出してもらった車でもタクシーでもない。晴星のマネージャーが普段から仕事の送迎に使っている車で、今日は午前中の予定を空け、自分で迎えに来てくれたらしい。

 

「退院おめでとう」

 

 運転席から降りてきた彼に声を掛けられ、晴星は少し意外に思った。

 

「迎えに来てくれたの?」

「そりゃ来るよ。担当俳優の退院くらい迎えに来させてよ」

 

 そう言いながら彼は美月から荷物を受け取り、晴星が持っていた鞄にも手を伸ばした。軽いから自分で持てると主張しても、そこだけは譲ってくれない。

 

「それ、母さんにも言われた」

「じゃあ美月さんと意見が一致したね。今日は大人しく僕らの言うこと聞いてよ」

「二対一はずるくない?」

「多数決ってそういうものだからね」

 

 横で聞いていた美月が「珍しく正しいこと言うじゃない」と笑い、マネージャーは「珍しくは余計ですよ」と苦笑する。そのやり取りまで、晴星には久しぶりだった。

 病院へ見舞いに来たときには、自分が迎えに行くはずだった晴星が刺されたという事実を、彼はまだ上手く飲み込めずにいた。それでも二回目のお見舞い以降は、美月と軽口を交わしながら荷物を持ち、いつものように晴星の体調へ気を配っている。あの朝のことを忘れたわけではないだろうし、晴星も忘れてほしいとは思わない。ただ、こうして以前と同じ距離で世話を焼かれることが嬉しかった。

 

「帰ろうか。疲れたら言ってね。途中で休むから」

「うん。お願い」

 

 晴星と美月が後部座席へ乗り込むのを確認してから、マネージャーは車をゆっくりと発進させた。窓の外には、久しぶりの東京が流れていった。信号を待つ人がいて、店の前へ商品を並べる人がいて、制服姿の学生が自転車で通り過ぎていく。たった十日余り離れていただけで街そのものは何も変わっていないのに、病室の窓から眺めることしかできなかった外の景色をこんなふうに間近で見ると、どれも妙に新鮮だった。

 マネージャーから「寝てもいいからね」と言われても、晴星は外を見ていたかった。久しぶりだから、と答えると、それ以上は何も言われない。隣の美月も同じように窓の外へ目を向けていて、車内にはしばらく穏やかな時間が流れた。

 

 自宅マンションへ着く頃には、晴星は少し疲れていた。病院を出て玄関まで歩き、人と話し、車へ乗っただけで思っていた以上に体力を使っている。退院できることと、元の身体へ戻ったことはやはり同じではないらしい。

 そのことは顔にも出ていたようで、車を降りるとすぐマネージャーから今日は大人しくしているよう釘を刺された。今度は晴星も素直に頷いた。自分でも疲れていると分かる以上、意地を張る理由はない。

 

 三人でエレベーターへ乗り、自宅の階へ上がる。扉が開いた瞬間、晴星の足だけが僅かに遅くなった。自分の家と、その隣にあるアイの家。二つの玄関が、事件の日と同じ場所に並んでいる。

 あの日の朝も、晴星は自宅の玄関を出て、この廊下を歩くはずだった。少し離れたいつもの待ち合わせ場所まで行けば、今一緒にいるマネージャーが迎えに来ている。その車へ乗り、そのまま撮影へ向かう。いつも通りの一日が始まるはずだった。

 けれど隣の玄関の前には、知らない男が立っていた。声がして、扉が開いて、その向こうにアイがいて――刃物が見えた。

 そこから先を思い出そうとすると、記憶はところどころ途切れている。今、廊下に血はない。警察官もいない。事件の痕跡はすでに片付けられ、そこにあるのは以前と変わらないマンションの廊下だけだった。

 それでも身体の方は、頭より先にあの日を覚えていたらしい。腹の奥に無意識に力が入り、呼吸が少し浅くなったことに自分で気づいて、晴星はゆっくり息を吐いた。

 

「晴星?」

 

 後ろから美月に呼ばれ、反射的に「大丈夫」と答えかけたところで、少し考えた。本当に何も感じていないわけではない。

 

「……ちょっと思い出しただけ」

「そう」

 

 美月はそれ以上聞かなかった。マネージャーも余計なことは言わず、ただ晴星が自分から歩き出すのを待っている。やがて晴星は自宅の玄関まで行き、鍵を開けた。

 

「ただいま」

 

 誰かに聞かせるためではなく、自分の家へ帰ってきたら、ずっと言いたかった。靴を脱いで中へ入れば、家具も本棚もテーブルも、ほとんど事件の日の朝のままだった。入院中に美月やマネージャーが必要な物を取りに来ているから完全に同じではない。それでも、自分がここで暮らしていた時間はちゃんと残っている。

 晴星は部屋の中をゆっくり見回し、ようやく肩から力を抜いた。

 

「……やっぱり家がいいな」

「そりゃそうでしょ。あと――おかえり、晴星」

「うん。ただいま、母さん」

 

 当たり前の挨拶だったが、随分久しぶりな感じがした。

 

     ◇

 

 晴星が病院にいた間、隣の部屋でも、以前とまったく同じ生活が続いていたわけではなかった。アイとアクア、ルビーがこのマンションへ戻ってきたのは、晴星より少し前のことだ。もちろん、事件の翌日に何事もなかったように帰宅したわけではない。アイ自身、最初こそ帰ることを怖がった。玄関を見ればリョースケを思い出す。自分が扉を開けたことも、その直後に晴星が自分と刃物の間へ入ったことも思い出す。それ以上に、リョースケがこの住所を知っていたという事実そのものが、以前と同じ生活へ戻ることを難しくしていた。斎藤壱護も、すぐに戻ることには強く反対した。

 

 犯人が捕まったから終わり、とは考えなかった。リョースケがどこから住所を知ったのか、その全容はまだ捜査中であり、事件によってアイの生活圏へ世間の目が向いたことも無視できない。そのため事件後しばらくの間、アイと双子は事務所が用意した別の場所で過ごし、その間に壱護は警察やマンションの管理側と相談を重ねていた。

 もともと、アイがようやく空きを見つけて購入したこのマンションは、セキュリティの低い建物ではない。それでも今回、リョースケは住人の後ろについてエントランスへ入り、先に認証を済ませた住人と一緒にそのまま内部へ通り抜ける、いわゆる「共連れ」で侵入した可能性が高かった。オートロックがあっても、一度開いた扉を無関係な人間まで一緒に通ってしまえば、その内側まで入れてしまう。

 管理側は事件を受け、知らない人間を自分と一緒に入館させないこと、後ろから続いて入ろうとする者がいれば個別に認証してもらうことを住人へ改めて周知した。エントランスへの出入りの確認も徹底し、当面は警備会社とも連携して巡回や監視を強化する。事務所側でもアイの出入りについて、以前より慎重な運用を取ることになった。

 

 報道への対応も壱護が中心になって行った。事件現場が都内のマンションであることまでは報じられているものの、部屋番号はもちろん、アイの生活拠点を特定できる情報を事務所から出すことはない。警察も被害関係者の具体的な居住情報を公表していない。それでも取材やファンによる特定の可能性まで消えるわけではないため、周辺に不審な人間がいないことを確認しながら、出入りの時間や方法にも注意を払う。

 

 そこまで対策を整えても、壱護はすぐには首を縦に振らなかった。それでも、アイは戻りたかった。

 引っ越せばいいと言われれば、理屈ではその通りだった。もう一度家を探すだけの金はあるし、事務所が安全な物件を用意することだってできる。

 けれど、アイにとってあの部屋は、条件のいいマンションを一つ選んだだけのものではなかった。空きがないと言われても諦められず、何度も問い合わせて、ようやく売りに出された部屋を手に入れた。東京ドームを目前にしてまで引っ越しを強行し、壱護に散々怒られながら、それでも住みたかった家だった。

 

 何より、あそこは三人で暮らすために選んだ家だ。

 

 仕事のために用意された部屋でも、事務所に住ませてもらっている場所でもない。アイドルの「アイ」が仕事を終えて寝に帰るための場所ではなく、アクアとルビーの母親である自分が、子供たちと一緒に暮らすために、自分で選び、自分のお金で買った家。

 引っ越したばかりだから、そこで積み重ねた思い出はまだ多くない。むしろアイが楽しみにしていたのは、これからだった。三人で食事をして、ルビーが騒いで、アクアが呆れて、朝になれば仕事へ出て、夜になればまた帰ってくる。休みの日には三人でだらだらしてもいい。子供たちがもう少し大きくなれば、今とは違う喧嘩もするかもしれない。その全部を、この家でやっていくつもりだった。

 

 あの男が来たから――あそこで事件が起きたから――だからもう、自分たちの家ではない。そうなってしまうことが、アイは嫌だった。

 怖くなくなったわけではない。玄関を見れば、きっとしばらくは思い出す。もう二度と何も起こらないという保証だってない。それでも、ここがよかった。

 また新しい場所を選べばいいのではなく、自分が三人のために選んだ、この家へ帰りたかったのだ。

 

「……本当に戻るんだな?」

 

 最後まで渋っていた壱護にそう聞かれたとき、アイは少しだけ迷って、それでも「うん」と答えた。壱護は長い溜息をついた。戻る以上は、以前と同じ生活の仕方を認めるつもりはない。玄関のモニターで必ず相手を確認すること、不審なことがあれば自分で対処しようとせず事務所へ連絡すること。知っている顔が映っていたからといって、それだけで安全だと思うなとも念を押した。

 

「知り合いでも不用意に開けるな。相手がまともな奴でも、玄関開けてアクアとルビーを見られたら、それでアウトなんだぞ。お前一人の問題じゃねえんだ」

 

 その言葉には、アイもすぐには返事をしなかった。自分一人なら、どこかで「まあ大丈夫」と考えてしまうところがあることを、壱護はよく知っている。けれど今は、アクアとルビーがいる。

 

「……分かった」

「本当に分かったか?」

「分かったってば! 佐藤さんいい加減しつこいんだけど!?」

「しつこくもなるわ! それに俺は『斎藤だ』!!」

 

 最後は結局いつものように言い合いになったが、それでもアイは約束を守った。だから晴星が退院した日、隣の部屋にはすでに三人の生活が戻っていた。

 以前なら何気なくしていた動作の一つ一つに、今は少しだけ意識が向く。玄関の向こうに誰がいるのかを確認すること。廊下へ出る前に周囲へ気を配ること。それでも部屋の中ではアクアとルビーがいて、食事をして、話をして、眠る。

 アイは少しずつ、あの部屋をもう一度「事件が起きた場所」ではなく、「三人の家」へ戻そうと心を砕いていた。

 そして晴星の家でも、呼び鈴が鳴ると、美月は普段通りモニターへ目を向けた。もともと警戒心の強い彼女にとって、相手を確認してから玄関を開けるのは事件以前からの習慣だったが、今はそこへ、以前より僅かに長い確認の時間が加わっている。

 画面に映っていたのはアイで、その後ろからアクアとルビーも覗いていた。晴星は反射的に立ち上がろうとして、美月から「ゆっくり」と言われて動きを止めた。分かっていると答えても、「分かってる人は今みたいに勢いよく立とうとしないの」と返されれば何も言えない。美月が玄関を開けると、最初に聞こえてきたのはアイの声だった。

 

「退院おめでとう、晴星くん」

「おかえり、晴星くん!」

 

 すぐにルビーの声が重なり、その横ではアクアが「廊下なんだから、もう少し声抑えろ」と注意している。晴星はその三人を見て笑い、「ただいま」と返した。病院では何度も会った相手なのに、自分の家と隣の家、その二つの玄関の間で顔を合わせると少し違って見える。アイも同じだったのだろう。笑ってはいるものの、その視線は一度だけ晴星の腹の辺りへ落ち、それからすぐに顔へ戻った。

 

「……帰ってこられたね」

「うん」

 

 晴星も隣の玄関へ視線を向けた。

 

「アイちゃんたちも」

 

 ほんの一瞬、アイの表情が止まった。この場所で、あの日のことを思い出さないはずがない。けれど今、隣にはアクアとルビーがいる。自分たちの家の前に立っている。

 

「うん。……私たちも」

 

 今度は少しだけ自然に笑ったアイを見て、晴星もそれ以上は聞かなかった。怖くなくなったから帰ってきたのではないのだろう。それでも帰ってきた。

 

 今は、それでよかった。

 

     ◇

 

 スターライトエンターテインメント――月城美月と、その息子である晴星が所属する芸能事務所へ退院の挨拶に行ったのは、それから数日後だった。

 退院した勢いのまま出歩こうとすることは美月に止められたので、最初の数日は自宅で過ごした。短い散歩をし、疲れたら休み、食事をして、傷の状態を見る。本人としては退院した時点でもう少し動けるつもりだったのだが、実際に生活してみれば、午前中に少し外へ出ただけで午後には眠くなることもあり、体力が戻るにはまだ時間が必要なのだと嫌でも分かった。

 それでも数日経つ頃には少しずつ動ける時間も長くなり、美月自身も事務所へ用事がある日に合わせて、親子でスターライトを訪れた。

 

 応接室には、すでに社長と美月のマネージャー、それから晴星自身のマネージャーが待っていた。晴星は部屋へ入るとまず三人へ向き直り、入院中に仕事の調整から身の回りのことまで世話になった礼と、心配をかけたことへの詫びをきちんと伝えた。

 

「この度は、ご心配とご迷惑をおかけしました。仕事の調整もしてもらって、本当にありがとうございました」

「退院おめでとうございます、晴星くん。こうして元気な顔を見られて安心しました」

 

 七十を越えた女性社長は椅子から立ち、晴星の前まで歩いてきた。夫の死後に事務所を引き継ぎ、長い年月をかけてスターライトを育ててきた人である。背筋は今も真っ直ぐで、普段は穏やかに話し、所属する役者やタレントを名字ではなく名前で呼ぶ。声を荒らげることは滅多にないが、本気で怒ったときには怒鳴られるより怖いことを、晴星は幼い頃からよく知っていた。その社長が、少し痩せた晴星の顔を心配そうに見上げる。

 

「ちゃんと食べられていますか?」

「うん。病院でもちゃんと食べてたし、今も食欲あるよ」

 

 芸能事務所の社長に対する十六歳の所属俳優としては、随分と身内じみた話し方だった。

 けれど晴星にとって、彼女は最初から「偉い社長」だったわけではない。晴星が物心つくより前から美月を知り、幼い晴星が事務所へ来ればお菓子をくれ、初めて仕事をした頃から成長を見守ってきた人だった。彼女にとっても晴星は、今では事務所の看板の一人になった人気俳優であると同時に、長い時間を見てきた「晴星くん」でもある。

 だから仕事の場で必要な礼儀は守る。それでも、こうして身内だけで話すときまで堅苦しい敬語を使うような関係ではなかった。

 

 全員が席へ着いたところで、晴星のマネージャーが当面の予定をまとめた紙を差し出した。受け取った晴星がまず気づいたのは、余白の多さだった。事件前なら仕事で埋まっていたはずの場所が、見事なくらい白い。

 

「……白いね」

「頑張ったんだよ、これでも」

 

 マネージャーは苦笑しながら、入院中に行った調整を説明した。延期できるものは先方へ事情を話して日程を動かし、難しいものについては事務所と相談して別の対応を取った。ララライの予定についても金田一と話を通してあり、晴星の回復がどの程度まで進めば何を再開できるのか、その目処が立ったところで改めて全体を組み直すつもりらしい。

 さらりと言っているが、それは決して簡単な仕事ではない。晴星ほど売れている俳優になれば、一つの撮影日を動かすだけでも、共演者、監督、撮影スタッフ、スタジオ、ロケ地、衣装、広告、放送や公開の予定まで影響が広がる。まして今回は、いつ復帰できるのかさえ当初は分からなかった。延期する仕事、代役を立てる仕事、晴星の復帰を待つ仕事を一つずつ分け、各所へ事情を説明し、相手の予定と今後の回復見込みを照らし合わせながら組み直していかなければならない。

 それを事務所の各部署と連携しながら整理し、本人の目の前には「今は何もしなくていい」と言える一枚の予定表として出して、実際にそう告げた。普段は美月とそのマネージャーに振り回されて苦労している姿ばかりが目につくが、晴星が彼を信頼しているのは、こういうところだった。

 

「先に言われた」

「君、絶対に『何かできる仕事ない?』って聞くと思ったからね」

 

 図星だった。晴星が予定表から顔を上げると、向かいに座るマネージャーは「やっぱり」とでも言いたげに笑っている。晴星自身には仕事人間という自覚はない。ただ芝居が好きで、撮影が好きで、現場にいるのが好きなだけなのだが、それを口にすると彼からは毎回のように「それを仕事人間っていうんじゃないかなあ」と返されるので、今日は言わないことにした。

 

「……何?」

「いや。今、何か言おうとしてやめたでしょ」

「別に」

 

 誤魔化しても無駄だったらしい。「絶対『芝居が好きなだけ』とか思ってたよね?」と当てられてしまい、晴星がどうして分かったのかと聞けば、返ってきたのは「何年担当してると思ってるの?」という答えだった。

 仕事の予定だけではない。晴星がどういう現場を好み、どんな役を渡されるとのめり込み、休みを与えれば何日目あたりから何かしたくなるのかまで、この人には随分知られている。

 

「でも、本当にありがとう。これだけ動かすの、大変だったでしょ」

「まあ、それなりにはね。でも、それは僕の仕事だから。晴星は僕に任せて、今はちゃんと治してよ」

「うん」

 

 晴星はもう一度、予定表へ視線を落とした。

 

 (びっくりするくらい白いな…。こんなスケジュール表見るの何時ぶりだろ?)

 

 けれど、仕事がなくなったから白いのではない。自分が戻ってきたときにもう一度始められるよう、誰かがあちこちへ頭を下げ、交渉し、予定を動かして作ってくれた空白だった。そう思えばありがたいと同時に、申し訳なくもなる。自分がいなくなったことで予定を変更した人もいれば、代役や延期で迷惑をかけた現場もある。

 

「でも、仕事の方は本当に――」

「晴星くん」

 

 社長に名前を呼ばれ、晴星は顔を上げた。

 

「もちろん、現場へ戻ったら予定を変更してくださった方々へ改めてご挨拶はしましょう。それは仕事をする人間として大切なことです。でも、今回起きたことについてまで、あなたが自分の責任のように背負う必要はありません」

 

 その言葉を聞いた瞬間、晴星は何かを思い出しかけて、すぐに気づいた。自分も似たようなことを言った事を。

 病室でアイに、自分が刺されたのはアイのせいではないと伝えた。あのとき身体を動かしたのは自分で、自分がそうすると決めたのだから、アイが全部を背負うことではない、と。人が抱え込んでいるものは気になるくせに、自分のことになると案外同じことをしているらしい。

 

「……俺も、人のこと言えないな」

「何か?」

「ううん。ちょっと思い出しただけ」

 

 晴星が苦笑すると、社長もそれ以上は聞かなかった。

 

「分かりました。ちゃんと治す」

「はい。それが今の晴星くんのお仕事です」

 

 そこでようやく張っていた空気が緩んだ。美月のマネージャーは晴星の予定表を覗き込み、これだけの仕事をよくここまで整理したものだと年下の同業者を素直に評価している。ただし褒め方は相変わらずで、「見事に白くしたわね」「僕が頑張って白くしたんですよ」「偉い偉い」と続けば、晴星のマネージャーも「その言い方、絶対褒めてないですよね」と苦笑するしかない。

 今日は自分自身の用事もあって一緒に来ていた美月は、ここまでは息子と事務所の話だからとほとんど口を挟まずにいた。けれど、そのやり取りを横で聞いていたところで、ふと思い出したように晴星へ顔を向けた。

 

「そういえば晴星。暇だからって、ララライで稽古しようとか考えないでよ?」

 

 晴星は一拍だけ黙った。その沈黙だけで十分だったらしく、マネージャーが「ああ……」と苦笑し、美月のマネージャーは呆れたように額へ手を当てる。

 

「顔を出すだけならいいでしょ?」

「ほら、考えてた」

「顔を出すだけだって!」

 

 最後には社長まで笑い、「それなら金田一さんにも晴星くんを止めるお仕事をお願いしましょうか」と言い出した。自分より金田一の方が効くだろうと言われてしまえば、晴星にも否定はできなかった。

 

     ◇

 

 そして数日後、スターライトの社長から密かに期待された役目を、金田一敏郎は完璧に果たした。

 

「退院したばっかの奴が来る場所じゃねえだろ」

 

 劇団ララライの稽古場へ顔を出した晴星を見つけるなり、金田一は開口一番そう言った。晴星としてはもう退院してから何日か経っているし、本当に今日は顔を見せに来ただけなのだが、「お前の『顔見せだけ』は信用ならねえ」と返されてしまえば、それ以上の抗弁は難しい。

 

「何もしませんって」

「その台詞も信用ならねえ」

 

 周囲にいた団員たちから笑いが漏れたが、その笑い方にも少しずつ違いがあった。晴星が四、五歳でララライへ入った頃から知っている古参の団員たちにとっては、昔から何度も見てきた光景だった。子供の頃から興味を持ったらすぐ稽古へ混ざろうとする晴星と、それを叱ったり止めたりする金田一。その関係は十年以上経った今も大して変わっていない。

 一方、晴星より後からララライへ入った者たちには、少し違って見える。十六歳という年齢だけなら自分より年下でも、劇団歴では遥かに先輩という者は珍しくなく、芸歴まで含めればなおさらだった。普段から晴星へ敬語を使う団員もいれば、「晴星さん」と呼ぶ年上の役者までいる。外へ出れば天才俳優と呼ばれ、この場所でも十分に古参として扱われる少年が、金田一の前では年相応に「動くな」と叱られている。その妙な落差まで含めて、今のララライにとっては見慣れた月城晴星だった。

 

 結局、晴星は壁際の椅子へ座らされた。顔を見せに来ただけという主張そのものは金田一も疑っていないらしいが、それと晴星が目の前で稽古を始めないことを信用するかは別問題らしい。歩き方に不自然なところがないか、顔色は悪くないかと一通り確認したうえで、今日の晴星に許されたのは見学だけ。稽古への参加も発声も禁止され、重い物には触らず、疲れを感じたらすぐ帰るよう念を押された。

 

「俺、本当に見学しに来ただけなんですけど?」

「なら問題ねえだろ。座って見てろ」

「……はい」

 

 完全に負けた。それでも晴星は、少し嬉しかった。

床を踏む音がする。役者の台詞が飛び交い、それを金田一の声が止める。壁際には小道具が並び、使い込まれた台本が積まれ、休憩中の団員たちは次の場面について小声で話している。病院で寝ている間にも、ここでは毎日こうして芝居が作られていたのだろう。十日余り離れていただけなのに、その空気まで妙に懐かしい。

 所属事務所はスターライトエンターテインメントだ。けれど、役者としての月城晴星が育った場所を一つ選べと言われれば、迷わずここを挙げる。四、五歳の頃から通い、何度も叱られ、何度も褒められ、台本に書かれた人間をどう考えればいいのか、相手の芝居をどう受け取ればいいのか、そもそも芝居について考えることがなぜこんなに面白いのかを覚えた場所だった。

 

「……来た」

 

 そんな稽古場の音に混じって聞こえた小さな声に振り向くと、大輝が立っていた。七歳の少年はいつものように妙に落ち着いた顔をしていたが、晴星を見つけてからこちらへ来るまでの足取りが普段より少し速かったことには、晴星も気づいている。

 

「来たよ」

「……そっか」

 

 大輝はそれだけ確かめると、晴星の隣へ座った。病院で交わした「ちゃんと来る」という約束について、二人ともわざわざ口にはしない。晴星の部屋には今、大輝からもらった怪獣の兄がいて、大輝の手元には弟が残っている。

 

「兄ちゃんの方、家に置いてきたよ。大輝のヤツは?」

 

 聞かれた大輝はポケットを軽く叩いた。

 

「いる」

「今日も持ってきたんだ」

「うん」

 

 そこで会話は自然に途切れたが、気まずさはなかった。晴星と大輝の間では、昔からそれで困らない。何かを話していなくても同じ場所にいることができるし、晴星も無理に話題を探したりはしない。大輝にとっても、病院のベッドではなく、いつもの稽古場の椅子に晴星が座っている。それを自分の目で確かめられたことの方が、今は言葉より大事だった。

 

 やがて休憩が終わり、稽古が再開される。晴星は椅子へ身体を預けたまま舞台上の役者たちを眺めた。自分もあそこへ入りたいという気持ちは当然ある。それでも、見ているだけで退屈することはなかった。誰かが台詞の調子を変えれば、なぜ変えたのかを考える。立ち位置が変われば、相手との関係がどう見えるようになったのかを考える。演技を止めた金田一が何かを指摘するより先に、自分ならどこが気になっただろうと考えてみる。

 

「違う。自分の台詞だけ喋るな。相手見ろ。そいつが何考えて、何でその台詞を言ったのか受け取ってから返せ」

 

 注意された役者が頷き、同じ場面がもう一度始まる。その変化を追いながら、晴星は小さく笑った。昔も、同じようなことを何度も聞いた。自分も言われたし、隣にいる大輝も、これから嫌というほど言われるのだろう。

 

 そして――あの人も、ここで芝居をしていた。そう思った途端、晴星の視線は自然と壁へ向かった。

 ララライの稽古場には、過去の公演写真が何枚も飾られている。最近のものから、晴星自身がまだ幼かった頃のものまであり、その中の一枚に、今よりずっと小さな自分と、少し離れたところで穏やかに笑っている一人の少年が写っていた。

 

 当時の晴星より三つ年上。神木光。

 けれど、幼い晴星が彼をそんなふうに呼んだことは一度もない。晴星にとって彼は、昔から「ヒカル兄ちゃん」だった。

 

     ◇

 

「晴星、また見てるの?」

 

 昔のヒカルの事は今でもよく思い出せる。まだ幼かった晴星が稽古場の端に座り、同じ場面を繰り返している役者たちを飽きもせず眺めていると、ヒカルはときどき隣へやってきた。この日も「さっきからずっと同じところ見てるじゃん」と笑われたが、晴星にとっては同じではない。

 

「さっきと違うよ」

「何が?」

 

 聞かれた晴星は少し考えてから舞台の上を指した。

 

「さっきは、あの人、言われる前から怒ってた。今は言われてから怒った。だから次の人の言い方も変わった」

 

 ヒカルはすぐに答えず、晴星が見ていた場面をしばらく眺めた。それからもう一度こちらを見る。

 

「晴星って、人のことよく見てるよね」

「ヒカル兄ちゃんも見るでしょ?」

「見るよ」

「じゃあ同じ」

 

 幼い晴星が迷いなくそう結論づけると、ヒカルは少し意外そうに目を細めてから、「……同じかなあ」と笑った。

 晴星の記憶にいるヒカルは、よく笑う人だった。芝居が上手く、年下の晴星が話しかけても嫌な顔をせず、知らないことを聞けばちゃんと教えてくれた。子供だからと適当にあしらうこともない。三歳しか違わないのだから当然と言えばそうなのかもしれないが、幼い晴星にとって三年は十分に大きく、少し先を歩いているヒカルは自然と「兄ちゃん」と呼びたくなる相手だった。

 だから、晴星はヒカル兄ちゃんが好きだった。ただ、ときどき気になることもあった。

 

 (ヒカル兄ちゃんは、今どうして笑ったんだろう…?)

 

 楽しいから笑う。嬉しいから笑う。面白ければ笑う。それくらいなら幼い晴星にも分かる。けれどヒカルは、ときどき自分が笑いたいからではなく、『目の前の相手が笑ってほしそうだから笑っている』ように見えることがあった。相手が何を望んでいるのかを先に見つけて、その人が安心する表情を自然に返しているような瞬間がある。

 晴星は、それを悪いことだとは思わなかった。笑いたくないときに笑うなら、笑わなければならない何かがあるのかもしれない。嘘をつく人には、嘘をつく理由がある。美月から人の表情や行動について心理学的な面から教わるようになっていた晴星にとって、分からないものは怖いものというより、理由を知りたくなるものだった。

 

 そんなことを考えながらヒカルの顔を見ていたせいで、「何?」と本人から聞かれてしまった。どうやら随分長いこと見つめていたらしい。

 

「考えてたんだ」

「何を?」

「ヒカル兄ちゃんのこと」

 

 あまりにもそのまま答えたせいか、ヒカルは一瞬きょとんとしてから吹き出した。

 

「それ、本人に言う?」

「ダメだった?」

「ダメじゃないけど……晴星は面白いね」

 

 今度の笑顔は、誰かに求められて作ったものではなく、本当に少し可笑しかったらしい。少なくとも晴星にはそう見えたので、自分も嬉しくなって笑った。

 そんな頃だ。劇団ララライへ、一人の少女がワークショップのために顔を出すようになったのは。

 

 アイ――B小町のアイドル。

 

 当時の晴星は彼女の名字を知らなかった。ただ、黒い髪に大きな目をした、自分とは違う意味で人の顔を見るのが上手い子だとは、かなり早い段階で気づいていた。

 ある日の休憩中、アイから「晴星くんって、ずっと人のこと見てるよね」と言われたときには、むしろ晴星の方が不思議だった。アイだって同じように人を見ているからだ。

 

「私? 見てないよ?」

「見てるでしょ? 顔。その人が何してほしいか考えてる」

 

 その瞬間だけ、アイの笑顔が止まった。ほんの僅かな変化だった。次にはもういつもの笑顔へ戻って、「晴星くん、怖いね」と冗談めかして言われたので、晴星が理由を聞いても「なんとなく」としか返ってこなかった。

 

 それでも、晴星はその一瞬を覚えていた。

 

 ヒカルもよく笑う。アイもよく笑う。けれど二人の笑い方は同じではない。ヒカルは相手が求めるものを見つけて、それを返しているように見えることがある。アイはもっと速い。顔や声、その場の空気から「今ここで自分に何を求められているのか」を瞬間的に拾い、その期待へ合わせて自分を変えているように見えた。

 もちろん、当時の晴星がそこまで綺麗な言葉で理解していたわけではない。ただ、似ているようで違う二人を見るのが面白かった。

 

 そして、いつからだったのか。二人が互いを見るときだけ、他の人を見るときとは少し違う顔をするようになった。

 

「ヒカルくん、これどう思う?」

 

 アイが一冊の台本を持ってヒカルの隣へ座ると、二人は自然に同じページを覗き込んだ。ヒカルが何かを説明し、それを聞いたアイが柔らかく笑う。いつものアイの笑顔にも見えるのに、晴星には少しだけ違って見える。何が違うのかまでは分からない。それでも、その違いをもう少し見ていたくて目で追っていると、「晴星! ぼさっとすんな、次お前だぞ!」と金田一の声が飛んできた。

 

「あ、はい!」

 

 慌てて立ち上がった晴星の後ろで、アイが「晴星くん頑張って~!」と声をかける。その頃の晴星には、二人の関係に名前をつけようという発想などなかった。ヒカル兄ちゃんとアイちゃんは、他の人と話しているときとは少し違う。それだけを、子供なりに覚えていた。

 

 そして同じ頃、もう一つだけ、晴星の記憶に残ったヒカルの顔がある。

 

別の日、稽古場の入口から「ヒカル」と呼ぶ女性の声がした。姫川愛梨――ヒカルよりずっと年上で、当時すでに役者として名の知られていた女性であり、晴星も当然その顔を知っていた――から「ちょっと来て」と呼ばれたヒカルは短く返事をしたが、その瞬間、表情が僅かに変わった。

 笑顔が大きく消えたわけではない。怯えたわけでも、露骨に嫌そうな顔をしたわけでもない。ただ、それまで晴星の前にあったものが、すっと奥へ引っ込んだように見えた。

 

「ヒカル兄ちゃん?」

 

 思わず呼ぶと、ヒカルは振り返った。そのときにはもう、いつもの顔へ戻っている。

 

「ん?」

「……どうしたの?」

「何が? 別になんでもないよ」

 

 そう答えて、ヒカルは愛梨の方へ歩いていった。晴星はその背中をしばらく目で追っていた。どうしてあんな顔をしたのだろうとは思った。でも、分からなかった。当時の晴星には、どれだけ人を見ても分からないことがまだたくさんあったし、本人が「なんでもない」と言ったものを追いかけてまで聞こうとも思わなかった。

 

 だけど、その顔を覚えていた。理由を知らないまま、ただ記憶のどこかに残していた。

 

     ◇

 

「晴星兄ちゃん」

 

 隣から呼ばれて、晴星の意識は昔の稽古場から現在へ戻った。

 

「ん?」

「ずっと写真見てる」

「ああ……ちょっと懐かしくて」

 

 大輝も晴星の視線を追い、壁の写真を見上げた。そこには幼い晴星と、今はもうララライにいない少年がいる。大輝はまず「晴星兄ちゃん、小さい」と当たり前の感想を口にし、「大輝も小さいよ」と返されると、「俺はまだ七歳だから」と妙に真面目な顔で反論した。

 

「俺もこの頃はそれくらいだよ」

「ふーん」

 

 どうやらそこは大輝にとって重要ではなかったらしい。しばらく写真を眺めたあと、今度は光を指した。

 

「この人、誰?」

「ヒカル兄ちゃん。俺より三つ上で、昔ここにいたんだ。本当の兄弟じゃないけどね」

 

 大輝が真っ先に気にしたのは、やはり芝居だった。上手かったのかと聞かれ、晴星は迷わず頷く。すると今度は「晴星兄ちゃんより?」と尋ねられた。

 

「どうだろう…? 芝居って、何でも一番と二番にできるわけじゃないからね。ヒカル兄ちゃんには、ヒカル兄ちゃんにしかできない芝居があったよ」

 

 大輝にはまだ完全には納得できない答えだったらしく、少しだけ眉を寄せたものの、それ以上は聞かなかった。

 晴星はもう一度写真へ目を向けた。最後に光と会ったのは、いつだっただろう。彼がララライを離れてから、もう長いこと会っていない。アイもワークショップが終わればそのままララライを離れ、それから顔を出すことはなかった。

 

 写真を見れば、今でも名前を呼べる人がいる。今も稽古場で顔を合わせる人もいるし、いつの間にか会わなくなった人もいる。子供だった晴星には、誰かがここからいなくなる理由まで分からないことも多かった。ただ、気づけば顔ぶれは少しずつ変わっていて、それでもララライという場所だけは、晴星が四、五歳だった頃からずっとここにあった。

 だからこそ、写真の中のヒカルを見ていると、今どうしているのだろうと素直に思った。ちょうど稽古を止めた金田一がこちらへ歩いてきたので、晴星は写真から視線を外した。

 

「金田一さん。ヒカル兄ちゃんって、ララライ辞めてからどうしてるんですか?」

 

 その名前を聞いた瞬間、金田一の足が僅かに止まる。数日前、この稽古場には警察が来ていた。事件について確認したいことがある。刑事たちはそう前置きして、現在の劇団についてではなく、かつてここに所属していた神木光について尋ねた。所属していた時期や当時の人間関係に始まり、質問はやがて五、六年前、B小町のアイがワークショップへ参加していた頃へ移っていった。

 神木光とアイに接点はあったか。二人はどの程度親しかったのか。金田一が覚えている範囲で答えても、刑事たちはなぜそんなことを調べているのかまでは話さなかった。捜査に関わることだと言われれば、それ以上聞くこともできない。それでも、五、六年前の劇団員とワークショップ参加者の関係を、今起きた事件の刑事がわざわざ訪ねてくる。その意味を何も考えるなという方が無理だった。

 そして今、そんな事情を何も知らない晴星が、昔と変わらない呼び方で同じ男について尋ねている。金田一は晴星を見て答えた。

 

「……さあな。辞めてからは俺も全然会ってねえよ」

「そっか」

 

 晴星は少し残念そうではあったが、それ以上追及することもなく、もう一度写真へ目を向けた。その横顔には疑いらしい疑いなどない。ただ古い写真を見つけ、懐かしくなって、昔の知り合いが今どうしているのか気になった。それだけなのだろう。

 晴星にとって神木光は、警察が事情を調べに来るような男ではない。芝居が上手くて、年下の自分にも優しく、知らないことを聞けば教えてくれた。よく笑っていて、そのくせ、ときどき笑顔の奥に何かを隠しているように見えた人。それでも晴星は、その「何か」を悪意だと思ったことなど一度もなかった。月城晴星の記憶の中にいる神木光は、今もまだ、優しくて、少し寂しそうな――ヒカル兄ちゃんだった。

 

 その男について警察が調べ始めていることを、晴星はまだ知らない。

 

 

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