【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
「明けましておめでとう!」
玄関の扉が開かれた瞬間、晴星の視界いっぱいにアイの笑顔が飛び込んできた。新年最初の挨拶にしては随分と勢いがいい。晴星は反射的に上体を引きかけたものの、まだ腹部に傷の残る身体でそんな動きをしようとすれば――すぐ隣にいる美月が見逃すはずもなく、彼女は晴星の背に咄嗟に片手を当てて支えながら言う。
「晴星、急に動かないで」
「いや、今のはアイちゃんが――」
「あ、ごめん!」
アイは一瞬だけ申し訳なさそうな顔をしたが、新年最初の挨拶をやり直すつもりはないらしく、すぐにまた笑顔へ戻った。
「晴星くん、美月さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!」
「明けましておめでとう、アイちゃん。今年もよろしく」
「明けましておめでとう。今年もよろしくね」
晴星と美月がそれぞれ返したところで、アイの後ろからルビーが飛び出してきた。こちらも母親に負けない勢いで「あけましておめでとう!」と晴星へ笑いかけ、その後ろから歩いてきたアクアは、対照的に落ち着いて頭を下げる。
「明けましておめでとう、晴星。美月さんも。今年もよろしくお願いします」
「明けましておめでとう、アクアくん。こちらこそよろしく。……アクアくん、正月から真面目だね?」
「普通に挨拶しただけだよ」
「いや……ルビーちゃんとの差がすごいから」
「ルビーを基準にしないでよ」
「なにそれー!?」
早くも始まった双子のやり取りを晴星が眺めていると、奥からミヤコが顔を出し、「ほらほら皆、いつまで玄関で騒いでるの? 晴星くんを立たせっぱなしにしないの」と声をかけた。それを聞いたアイが「あ」と晴星を見る。
「ごめん、晴星くん」
「別にこれくらいなら――」
「晴星」
「……座りたいです」
美月から名前を呼ばれただけで即座に訂正した晴星に、ミヤコが苦笑する。退院してから半月ほどが経ち、日常生活の大半はもう晴星自身でこなせるようになっていた。普通に歩けるし、家の中でいちいち無駄に横になっている必要もない。ただ、本人の感覚が「もう大丈夫」に近づいている一方で、身体の中にはまだ治りきっていない部分がある。急な動作をすれば傷の周囲が引きつることもあれば、長く起きていれば疲れも早く出る。元気になったからこそ、自分でできることと医者から許されていることの境目が曖昧になり始める時期でもあり、美月は以前にも増して息子の「平気」を信用しなくなっていた。
「おう、晴星。来たか」
部屋へ入ると、壱護がリビングの奥から片手を上げる。正月だからといって特別に着飾る男ではないし、普段より多少くつろいだ格好をしている程度だったが、その手元にはしっかり携帯電話が置かれている。
「斎藤さん、明けましておめでとうございます」
「おう。今年もよろしくな。身体はどうだ?」
「だいぶいいですよ」
「お前の『だいぶいい』は信用ならねえな」
「ひどいな~」と、晴星は言うが、声には怒りや悲しみなど全く乗っていない。
「病院で何回俺に『平気です』って言ったと思ってんだ? どう見ても大丈夫じゃないときも言ったろうが」
「『そういう感じ』で話してくださいって頼んだの俺ですけど、雑に扱っていいとは言ってませんよ?」
「…それだけ言い返せりゃ、大丈夫そうだな。信じよう」
壱護が笑い、晴星も苦笑する。事件の直後、壱護は晴星を前にするとどうしても言葉が硬くなっていた。自分が守るべきアイドルを庇って死にかけた少年に対する「恩」も「後ろめたさ」もあったのだろうが、いつまでも腫れ物のように扱われるのを先に嫌がったのは晴星の方で、一度「もうそんな畏まらずに、なんもない十六歳のガキだと思って話してくださいよ」と言って以来、壱護も必要以上に距離を取ることをやめている。
ただし、晴星の隣にいる美月へ向き直れば話は別だった。それまでソファーに座ったまま晴星と軽口を叩いていた壱護は、すぐに立ち上がって背筋を伸ばした。美月はアイの友人の母親であると同時に、他事務所に所属し、長く第一線で活動してきた女優でもある。そこを混同するような男ではなく、きちんと腰を折って頭を下げた。
「月城さん、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」
美月も同じように一礼する。
「明けましておめでとうございます。こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします」
互いに頭を上げてしまえば、そこまで堅苦しくする必要もない。壱護は少しだけ仕事の顔を緩め、晴星を指した。
「晴星、ちゃんと無理してませんか?」
「してますよ。斎藤さんもお分かりでしょうに」
「…母さん」
「ほらな?」
「斎藤さんまで乗らないでくださいよ」
晴星が不満そうな顔をすると、美月と壱護の両方から笑われた。
今年の正月をみんなで過ごそうと言い出したのはアイだった。場所も「ウチがいい」と譲らず、壱護とミヤコ、美月と晴星を招くことになった。初詣や遠出はまだ晴星の身体に負担が大きいので昼前から集まって食事をし、家の中でのんびり過ごすだけ。それでも提案したアイだけでなく、ルビーも朝から随分楽しみにしていたらしい。
もともと晴星には好意的だったが、事件以来、その好意は誰の目にも分かるほど大きくなっていた。大好きなアイを守ってくれた人であり、病院へ会いに行けば子供扱いして適当にあしらうこともなく話を聞いてくれた人であり、何より「また遊ぼう」という約束どおり、ちゃんと病院から帰ってきてくれた人でもある。今のルビーにとって晴星は、見つければ自然と傍へ寄っていきたくなる相手になっていた。
その証拠に、晴星が来るよりずっと前からリビングの自分の隣の席を確保し、そこへ「お腹が痛くならないように」とクッションまで置いている。
「これ使ってね。お腹痛くなったらすぐ言うんだよ? あと無理しちゃダメだからね?」
「はい。ありがとうございます。ルビーさん」と、晴星もその真摯な心遣いに思わず敬語で返事をする。
「ルビー、いつから晴星の看護師になったの?」とアクアが呆れたように言うと、ルビーは胸を張った。
「私は病院のこと詳しいから!」
一瞬だけアクアの目が妹へ向き、ルビー自身も口にしてから気づいたらしく、わずかに視線を泳がせる。
「……テレビとかで見たし!?」
「そんな番組あるんだ?」
「あるの!」
「そっか」
明らかにそれ以上追及する気のない返事だった。晴星も笑っただけで、ルビーは何とか誤魔化せたと思ったのか、ほっとした顔でクッションを晴星の背中へグイグイと押し込んでいる。
程なくして食卓にはミヤコが用意したおせちが並び、キッチンの鍋からは雑煮の湯気が上がっていた。聞けば全部を一から作ったわけではないらしく、「私だって正月くらい楽したいのよ」とミヤコは笑っていた――が、買ってきたものにもきちんと手が加えられており、見た目は十分すぎるほど華やかだった。
「ミヤコさん、すごいですね。これだけ用意するの、大変だったでしょう?」
美月が感心したように言うと、ミヤコは「出来合いのものも多いですよ。そんなに大したものじゃありません」と笑った。
「それでもこれだけ種類を揃えるのは大変ですよ…。私、お正月料理はここまできちんと作りませんから」
「母さん、普通の煮物とかは作るのにね」
「普段食べるものなら作ります。おせちは手間が違うでしょう?」
答える美月に、晴星はふと昔に聞いた母の過去を思い出して尋ねる。
「アメリカにいた頃は作ってたの?」
「日本食が食べたくなったらね。向こうにいたからって毎日ハンバーガーを食べていたわけじゃないのよ」
「それはそうか~」
十代半ばから芸能界で生きてきた美月に、いわゆる家庭的な暮らしを長く経験する機会があったわけではない。それでもアメリカで大学生活を送っていた頃には自分で身の回りのことをしていたし、日本食が恋しくなれば自分で作った。凝った料理を趣味にするほどではないものの、煮物や焼き物、味噌汁といった普段の食卓に並ぶものなら一通り作れる。晴星も幼い頃から母の料理を食べてきたから、料理のできない母親という認識はなかった。
そんな母子の会話をしながら、晴星は料理の並んだテーブルを見渡すと、呟くように問いかける。
「肉はあります?」
「新年一発目がそれ?」
ミヤコがすぐさま反応する。
「いや、純和風のおせちも好きですよ? でも肉もあるのかな…って」
「あるわよ。あとで出すから、まずこっち食べなさい」
「晴星くん、病院でもずっと焼肉食べたいって言ってたもんね~?」
アイが笑えば、晴星は悪びれる様子もなく頷いた。
「ずっと食べたかったから」
「退院してからもう食べたでしょう?」
「食べたけど、焼肉って一回食べたら満足して一生いらないものじゃないでしょ」
「何を当然みたいに言ってるのよ……」
「十六歳の男子なんだから肉くらい食わせてやればいいでしょう?」
美月との掛け合いを聞いていた壱護から助け舟が出た途端、晴星は真顔で「斎藤さん、ありがとうございます」と頭を下げ、美月から「そこで妙な結束を作らないの」と呆れられる。そのやり取りがおかしかったのか、アイが声を上げて笑い、つられるようにルビーも笑い出した。アクアだけが「正月から何の話してるんだろ」と小さく呟いていた。
◇
ダイニングに全員が移動し、席について食事が始まってしばらくすると、つけっぱなしにしていたテレビでは新年の特別番組が始まり、去年一年を振り返る映像が次々と流れていた。食事をしながらでも見れる位置に置かれているため、みんなは自然にテレビに目を遣る。事件より前に収録された番組で、B小町の映像をそのまま使っていいかという確認も事前に苺プロへ来ていたらしい。新しい出演や取材はまだ絞っている壱護も、事件そのものを扱う内容ではなく、すでに収録された通常の歌唱映像ならと了承していた。
やがて画面の中にB小町が映った瞬間、真っ先に気づいたルビーが「あ、アイ!」とテレビを指差した。
「あ。私だね」
皆で囲んだテーブルで雑煮の餅を伸ばしている本人と、画面の中で完璧な笑顔を浮かべて歌っているアイを交互に見比べ、ルビーは何がそんなに面白いのか楽しそうに笑う。
「テレビのアイと全然違う!」
「どこが?」と、アイは心底不思議そうだ。
「今、お餅すっごい伸びてる!」
「アイドルだってお餅くらい伸ばすよ?」
「そこはアイドルでも同じなんだ」と、アクアが可笑しそうに言う。
晴星もテレビへ目を向けた。画面の中のアイは、カメラがどこにあるのか、どの角度から見られているのか、その瞬間に何を求められているのかを全部理解したうえで、一つも外さず「アイ」を作っている。昔から上手かった。ララライのワークショップに来た頃から、人に見られているときの自分を作ることに長けていて、ただ当時の晴星には、その技術を今ほど言葉にすることはできなかった。
そして今、その本人は目の前で餅と格闘している。晴星が思わず笑うと、気づいたアイが「何?」と首を傾げた。晴星は自分の手元に一度目を落としてから問いかけた。
「いや。俺たち一緒にご飯食べるの、何気に初めてじゃない?」
「…あ~。確かにそうかも。稽古場で一緒にジュース飲んだりはあったけどそれくらいだね」
「でしょ? だからモグモグしてるアイちゃんは新鮮」
「なにそれ~?!」
アイはその感想に笑う。その横でアクアは、食卓全体をぼんやりと眺めていた。事件からまだ一か月も経っていない。晴星の腹には傷が残り、家の安全については以前より厳しい決まりが増え、壱護の仕事には中止になった東京ドーム公演の後始末が残っている。警察が今も事件を調べていることも知っているのだから、何一つ、なかったことになったわけではない。
それでもアイは笑っていた。無理をして明るくしている顔くらい、アクアにも分かる。少なくとも今の笑いは違った。晴星と壱護が肉を巡ってくだらない連帯を作り、美月とミヤコがそれを呆れて眺め、ルビーが何でも楽しそうに笑っている。その光景が本当に面白いから笑っているだけだった。
「アクア、食べないの?」
アイに声をかけられて我に返ると、目の前の「自分用に」と取り分けられた小皿には黒豆がほとんど手つかずで残っていた。
「食べてるよ」
「黒豆、全然減ってないよ」
「……甘い豆って、なんか変な感じしない?」
「そう?」
アクア――生前の雨宮五郎――としては、ご飯のおかずに甘いものは合わない的な感想だったが、おせちはそもそもご飯のおかずではないので、これは単純に嗜好に合わなかったのだろう。よく思い出してみれば、そもそも男の一人暮らしが長く、おせちの黒豆など殆ど食べた記憶もなかった。アクアは続けてアイに尋ねる。
「アイは好き?」
「好きだよ」
「じゃあ僕の分も食べていいよ」
「やった!」
「それ、教育としていいの?」
美月がアイへ笑いかけると、アイはアクアから黒豆をもらいながら「今日くらいはいいんじゃないですか?」と悪びれずに答え、ミヤコも「まあ、お正月ですしね」と苦笑した。その間に晴星が自分の横で黒豆をつまんでいるのを見つけたルビーが、自分の分もあげると言い出したものの、「ルビーちゃんはちゃんと食べようね」と晴星に断られ、アクアだけずるいと抗議を始める。ルビーも甘い豆は苦手なのかと思いきや、あんこは大好きなので単純にこちらはビジュアルが嫌なのだろう。食事が始まってからずっと賑やかだったが、その騒がしさを止めようとする者はいなかった。
◇
食事が一段落してからは、各々が移動して寛いでいる。壱護の携帯電話が一度鳴り、仕事だと分かると本人だけが少し離れた場所へ移動する。美月とミヤコはリビングのソファーで美容の話を始め、ルビーは動かない晴星に何かして遊ぼうとせがんだ。
「んじゃあ…――――トランプ!」
「それならできる」
「じゃあやろ!」
「待って。俺まだ栗きんとん食べてる」
テーブルの上の残った料理を――しかも自分の好物ばかり――選んで食べる晴星。
「さっきから食べすぎじゃない?」
「正月だから」
「便利な言葉だね」
アクアが呟いたところで、カードを取ってきたルビーがリビングの床へ座ろうとする。それにつられて晴星もテーブルから離れて腰を下ろそうとしたが、途中で美月から「椅子でやりなさい」と止められた。
「平気だよ」
「立ち上がるときにお腹へ力が入るでしょう?」
「じゃあ僕たちもテーブルでやろう」
アクアが近寄りあっさりルビーのカードを持ち上げると、最初は「えー」と不満そうだったルビーも、「晴星が痛くなったら遊び自体終わるよ」と言われた途端、「じゃあテーブル!」と笑顔で走ってくる。
晴星は苦笑しながら椅子へ戻った。自分の体調の為に即座に意見を変えて合わせてくれる…。まだ幼い子供たちなのに、随分と相手の為に心を砕けるようだ。自分も双子に合わせる積もりだったのに、いつの間にか年上の自分が甘やかされている。
(ほんとに優しい子たちだな)
椅子の背もたれに体重を預けながら思う晴星。もちろん、目の前にいる二人が本当の意味で四歳児ではないことなど知らない。ただ、四歳にしては妙に物分かりがよく、時々驚くほど大人びたことを言う二人だとは思っていたし、それも含めて晴星にとっては、少し変わっているけれど優しい子供たちだった。
アイは、そんな三人をソファー――美月とミヤコの向かい側――に座り眺めていた。何日も前から今日言おうと決めていたわけではない。新しい年になったから何かを変えようと意気込んでいたわけでもなければ、壱護やミヤコに相談していたわけでもなかった。ただ、自分の子供たちと遊んでいる晴星と、その晴星が無茶をしないよう当たり前のように見ている美月を眺めているうちに、「二人は知らないのだ」という事実が、ふと意識へ引っかかった。
今までなら、それで終わっていただろう。知らない方がいいし、言わない方がいい。秘密は秘密のままの方が安全で、自分が嘘をついていれば余計なことは起こらない。アイドルに子供がいると知られれば困るし、まして十六歳で産んだと知れば、相手がどう思うのかも分からない。その考え自体は今でも変わっておらず、世間に話すつもりなどない。
それなのに、晴星と美月に対してだけは――別の気持ちが出てきた。
警察へ話したときとは違う。あのときは事件を調べるために必要だと判断し、ヒカルへ住所を教えたことも、アクアとルビーが自分の子供であることも、その父親が誰なのかも、隠したままではいけないと思った。壱護とミヤコにも、その後で自分から話した。二人が四年間一緒に守ってきた秘密を、相談もせず警察へ明かした以上、自分から伝えなければならなかった。
でも、晴星と美月へ話す義務はない。二人が知らないままでも、明日から同じように会えるはずだ。だからこそ、自分が今、言わなければならないではなく――『知っていてほしい』と思っていること――が、アイには少し不思議だった。
「アイ?」
ミヤコの声で顔を上げる。どうやら少し長く黙っていたらしい。
「どうしたの?」
「……ううん」
そう答えながらアイはミヤコを見た。つい先日、自分はこの人に教えられたばかりだった。秘密はもうアイ一人だけのものではなく、アクアとルビーの人生にも、壱護やミヤコにも、仕事で関わる人間にも影響する。必要だからといって、一人で何もかも決めていいわけではない。その言葉を忘れたわけではない。今からすることだって、本当なら先に相談した方がいいのかもしれない。
少し迷った末、アイは視線だけでアクアとルビーを示し、それから晴星と美月を見た。意味を察したミヤコの目がわずかに見開かれ、しばらくアイを見つめたあと、それでも止めることはせず、小さく頷く。
アイは息を吸って――言う。
「美月さん。晴星くん」
「ん?」
晴星が手元のカードから顔を上げてアイを見る。美月も改めて向かいに座る彼女を見た。
「ちょっと、話してもいいですか?」
声に出した途端、思っていたより緊張していることに気づいた。晴星もそれを感じたのか、手にしていたカードをテーブルへ伏せる。
「いいよ」
「どうしたの、アイちゃん?」
美月に尋ねられても、アイはすぐには答えられない。アクアとルビーを見ると、二人もこちらを見ている。この子たちにも相談していない。でも、四歳の子供に「あなたたちが私の子供だと人に言っていい?」と許可を求めるのも違う気がしていた。二人には二人の人生がある。それでも、母親として決めなければならないことまで子供に背負わせたくはない。
「アクアとルビーのことなんですけど――」
アクアの眉がわずかに動く。それを見て、アイは一息に言った。
「――二人、ミヤコさんの子じゃないんです」
「え?」と、最初に声を出したのは晴星だった。
アイはそこで一度アクアとルビーを見てから、晴星と美月へ順に目を向ける。
「……私の子供なんです」
テレビからは正月らしい賑やかな音が流れ続けているのに、食卓の周囲だけが切り離されたように静かになる。晴星はアイを見た。それからアクアを見て、ルビーを見て、なぜかもう一度アイを見た。視線が忙しい。晴星の頭の中で、それまで当然だと思っていた家族構成がものすごい勢いで崩れている。
「……え?」
「うん」
「……は??」
もう一度、双子を見る。アクアもルビーも固まっている。その様子まで含めて冗談ではないらしいと理解したところで、晴星は今度こそミヤコを振り返った。
「俺、ずっとミヤコさんの子だと思ってたんですけど???」
「いや、そう勘違いしてたことを都合がいいからって訂正しなかったのは私だけどね!?」
「ですよね!? 普通にそういう前提で話してましたよね!?」
「だってその方がこっちとしてはよかったのよ!」
「じゃあ俺、会うたびずっとミヤコさんに騙されてたってことですか!?」
「言い方ぁぁぁ!!」
思わずミヤコの声が大きくなり、アイは緊張していたはずなのに吹き出した。ルビーまでつられて笑いそうになったところで、ようやく自分たちが今まさに正体を明かされた側でもあることを思い出したらしく、慌てて両手で口を閉じる。美月はそんな彼らを見ながらも笑わなかった。
そしてアクアは、ほとんど動かなかった。意味が分からないのではない――意味が分かりすぎた。十六歳で妊娠し、世間から身を隠して子供を産み、アイドルへ復帰してからも四年間、一度も表へ出さなかった秘密だった。アクア自身――雨宮五郎として――も、それがどれほど危険な秘密なのかを知っている。知られればアイドルとしてのアイが終わるかもしれないし、自分たちまで世間の目に晒されるかもしれない。だから隠す。それはこの家族にとって、わざわざ確認する必要すらない前提だった。
――そのアイが、自分から言った。
「……母さん」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。その呼び方を聞いた瞬間、晴星と美月の視線が自然にアクアへ向いたが、本人にはそれを気にする余裕などない。
「……本当に言ったの?」
責めるためではなく、確認しなければ頭が先へ進まない。アイは少し困ったように笑う。
「うん。言った」
アクアが再び黙り込む横で、今度はルビーの思考が追いついたらしい。
「ママ、言っちゃったの!?」
「言っちゃった」
「えっ、いいの!?」
「うん。……『言いたい』って思ったから」
ルビーはアイを見たまま、また言葉を失った。ついさっきまで晴星と美月の前では「アイ」と呼んでいた。四年間ずっとそうしてきたし、それが当たり前だった。それなのに、アイ自身が「私の子供」と言った途端、反射的に出てきたのは「ママ」だった。
そして驚きが少しずつ収まるにつれて、その事実が別の意味を持ってルビーの中へ入ってきた。アイが、自分たちを「私の子供」と人に言った。誰かがいる場所では隠さなければならなかった関係を、アイ自身が口にした。そのことが、ルビーには思っていたよりもずっと大きかったのだ。
美月は双子の様子を見ながら、ゆっくりと状況を整理していた。アイは二十歳で、アクアとルビーは四歳。ならば、二人を産んだときのアイは十六歳――晴星と同じ歳だったことになる。そこまで考えた瞬間、美月の胸に浮かんだものは、決して綺麗な感情だけではなかった。この秘密があった。子供たちの父親がいて、そこから何かが漏れ、アイの家へ男が来て、晴星が刺された。もし、この秘密がなかったら――ほんの一瞬、そう考えた。息子を失いかけた母親として、考えてしまった。
けれど、その感情が浮かんだことと、そこから誰を責めるかは別だった。秘密がなければ晴星は刺されなかったかもしれない。だから秘密を抱えていたアイが悪いのかと己に問うが、その答えは変わらない。晴星を刺したのは、晴星を刺した人間だ。病院でアイに言ったことを、真実を一つ知ったからといっても覆すつもりはなかった。
美月はもう一度アイを見る。胸の奥に浮かんだものが消えたわけではない。それでも、それをアイへ向ける理由はもう彼女の中にはなかった。そうして改めて目の前の少女を見れば、今度は別のことが気にかかった。
(この子はこの年でもう『お母さん』なのね……)
今度は目の前にいる二十歳のアイだけではなく、その向こうに隠されていた「母としてのアイ」を想像する。二人を産んでからの夜泣きや子育ての大変さを思うと、その苦労が手に取るように分かった。――実際はそうではないのだが、美月は知る由もない。
「……そうだったのね」
ようやく美月が口を開くと、アイは「はい」と答えて笑った。いつもの笑い方に見えたが、美月には少しだけ固く見えた。
「……美月さん、怒ってます?」
その問いを聞いて、晴星もアクアもルビーも美月を見る。アイはまだ笑っていたが、わざわざ尋ねたこと自体が答えを怖がっている証拠だった。
「――驚いてる。それに、いろんなことも考えてるわ。晴星のことも含めて」
美月が正直に答えると、アイの笑顔がわずかに強張った。何も考えなかったふりをすれば安心させることはできるかもしれない。それでも、美月はそうしなかった。
「でも、病院であなたに言ったことを撤回するつもりはないわ。晴星が刺されたのは、アイちゃんのせいじゃない」
アイが瞬く。美月は少し間を置いてから、今度は柔らかい目で続けた。
「それと……怖かったでしょう? 今、私たちに言うの」
アイの目がほんの少しだけ大きくなり「……ちょっと」と、呟く。
「ちょっと?」
「……結構、かな?」
美月が小さく笑うと、アイもつられるように笑った。今度の笑い方は、さっきまでより少しだけ自然だった。
「それに、子育ての苦労なんか私も凄く経験してるからね。私には夫が傍にいたけど、アイちゃんは一人で――しかも双子でしょう? 貴女の大変さは想像できる。これから何か困ったこととかあったら、遠慮せずに私に相談なさい」
「はい! ありがとうございます!」
美月の言葉にアイは本当に嬉しそうに頭を下げた。
晴星は二人のやり取りを聞きながら、まだ完全には立て直せていない頭でもう一度アクアとルビーを見る。さっきまで「ミヤコさんの双子」だった二人が、顔を見直したところで急に別人になるわけではない。それでも、今まで知っていた情報を全部並べ直してみれば、目の前の光景が少しだけ違って見える。
「……そっか。じゃあ、アイちゃんがお母さんなんだ?」
「そうだよ」
その返事には、どこか照れたような響きがあった。
「教えてくれてありがとう」
晴星はそれ以上、何も聞かなかった。どうして黙っていたのかとも、なぜ今まで教えてくれなかったのかとも言わない。十六歳で子供を産んだアイドルが、それを世間へ隠しながら四年間活動してきたのだから、事情を全部知らなくても簡単に人へ話せることではなかったくらい分かる。だから晴星が受け取ったのは、隠していた過去ではなく、今、自分に話してくれたことだけだった。
「……うん」
少し遅れて、アイが答える。アクアはまだ混乱していたが、晴星と美月の反応を見ているうちに、ようやく別の違和感へ気づいたらしい。壱護とミヤコが――アイが話せば間違いなく詰め寄るに違いない――この出来事そのものには驚いていない。
「……社長。ミヤコさん」
「ん?」
「何?」
「二人とも、なんで怒らないの?」
その瞬間、アイが「あ」と小さく漏らしたのをアクアは聞き逃さなかった。
「母さん?」
「……二人はね。知ってる。」
「いつから?」
「この前」
「どうして…?」
問い詰めるような口調ではなかったし、単純な疑問だけで本気で理解が追いついていないのが傍目で聞いていてもよく分かる。アイは一瞬だけミヤコを見たが、ミヤコは助け舟を出さず、「自分で話しなさい」とでもいうように見返した。
「……警察にね? ……話したから。だから二人にも報告した」
「…………え?」
アクアの表情が止まる。今日二度目だった。
「警察にも言ったの!?」
今度はルビーまで目を丸くする。
「うん」
「いつ!?」
「晴星くんが入院してたとき」
アクアは額へ手を当てた。四歳児がするには妙に疲れた仕草だったが、今は誰もそこへ突っ込む余裕がない。
「待って。ちょっと整理させて。母さんは、僕たちが母さんの子供だって警察に話した。それを後から社長とミヤコさんにも話して、今日、晴星と美月さんにも話した。……僕たちは今知った――んだよね?」
「……そうです」
「なんで最後だけ敬語なの?」
アクアに「怒ってる?」と恐々聞くアイ。
「怒る前に頭が追いついてないよ……」
アクアは本気でそう言っていた。警察に話したのなら、事件との関係で何か必要があったのだろう。しかし、何をどこまで話したのか。そもそも、なぜ自分たちのことまで話す必要があったのか。疑問が次々に立ち上がる。それを見たミヤコが、ここで初めて口を挟んだ。
「アクア。全部を今ここで一気に話さなくてもいいでしょう。アイが警察に二人のことを話したのは、事件について必要だと自分で判断したから。その後、私たちにも自分から話しに来た。そこまでは本当よ」
「……母さん一人で決めたの?」
「うん」
アイは今度こそミヤコを見ずに答えた。
「相談しないで話したのは、ごめん。でも、警察に話したこと自体は間違ってなかったと思ってる」
アクアは母親を見た。少し前までの自分なら、どうしていただろう。アイが「秘密」と言えば、それでよかった気がする。推しが隠したいものなら暴かない。アイが笑っているなら、その笑顔を守る。疑問が残っていても自分の中へ押し込めて、これまでと同じようにアイの息子であり、同時に最古参のファンでいればよかった。
けれど今、目の前にいるのはそれだけの存在ではなかった。
アイであり――「母さん」だった。
警察へ何を話したのか。なぜ自分たちのことまで話したのか。知らないままでいたくないと思った。そして、それを尋ねたとしても、今の母なら笑って誤魔化すのではなく、きちんと話してくれるような気がした。そんなことを自分が望んでいると気づいたことに、アクア自身が少し驚く。
「……あとで、ちゃんと話して」
「うん」
「僕も、ちゃんと聞くから」
アイは一瞬だけ目を丸くして、それから笑った。
「うん。ちゃんと話す」
それでこの場では終わった。父親の名前までは出なかったし、アクアも今ここで聞こうとはしなかった。自分が知らないところで母親がすでに何かを話し、何かを決めていたという事実だけで、今は充分すぎるほど頭がいっぱいだったのだ。
少し残った沈黙の中、晴星が伏せていたカードへ手を伸ばすと「じゃあ、トランプ続きやる?」と聞く。ルビーがその大きな目をさらに開いて瞬かせながら返す。
「え? ……やるの?」
「やらないの?」
「やる!」
返事は早かった。
「なんでそんなに切り替え早いの?」
「だって途中だもん。アクアもやるでしょ?」
「……やる」
晴星がカードを配り直し、美月はそれを見ながらお茶を飲み、ミヤコは席を立って空いた皿を片づけ始めた。壱護も「俺も混ぜろ」と入ってきたものの、途中から参加したくせにルールを確認していなかったせいでグダグダになりルビーに怒られた。
何も変わらなかったわけではない。晴星と美月は今まで知らなかったことを知り、アクアとルビーも、母親が自分たちの知らないところですでに秘密を外へ出していたことを知った。明日になれば、改めて話さなければならないことも増えるだろう。それでも今、食卓の上には食べかけのおせちが僅かに残り、その隣にはトランプのカードが広がっている。
「やったー!」
ルビーが大声を上げ、晴星が手札を見たまま本気で驚いた。
「え、また負けたんだけど…」
「晴星くん、顔読むの得意なんじゃなかったの?」
ルビーに言われ、晴星は手札から顔を上げた。
「少なくともババ抜きのためじゃないんですけど?」
至極真面目に言った。それだけならまだよかったのだが、なぜかアクアとしっかり目を合わせたうえ、役者らしく無駄に決まった顔まで作ってみせる。アクアは唐突に始まった晴星とのにらめっこに二秒ほど耐えた。
「……ふっ」
「アクア笑った!」
「いや、今のはずるいよ!」
「何が?」
「その顔で言う必要なかったでしょ?!」
アクアはルビーのツッコミに返しながら元凶の晴星を責める。
「アクアにちゃんと伝えようと思って」
「何を?! ――ってその顔やめろ!」
晴星はまた決め顔で言った。それが余計におかしくて、アクアはもう一度吹き出した。
アイはその声を聞きながら、自分の手元にある湯呑みへ目を落とした。美月が何を考えるのかも、晴星が自分を見る目を変えるのかも分からないまま、本当のことを話した。実際、美月の中には晴星のことを思う気持ちもあったし、アクアには完全な不意打ちを食らわせてしまった。それでも話し終えたあと、晴星はまだそこにいて、美月もいる。アクアとルビーも、壱護もミヤコも、誰一人席を立たなかった。
「アイちゃん」
晴星に呼ばれて顔を上げると、カードを示される。
「やる?」
「やる!」
アイは笑って席を立つ。本当のことを言ったあとにも、その先があったのがただ今は嬉しかった。
◇
午後も遅くなる頃には、晴星の疲れが目に見えて分かるようになっていた。本人はまだ平気だと言い張るかと思われたが、返事の間が少し長くなり、椅子へ座ったまま背もたれへ身体を預ける時間も増えている。最初に気づいたのは美月だったが、ほぼ同時にアクアも気づき、ルビーまで晴星の顔を覗き込んだ。
「眠い?」
「ちょっと疲れたかも」
以前なら「平気」と答えていたところで素直に認めた息子を、美月が少し意外そうに見る。
「……何?」
「ううん。ちゃんと言えるようになったなと思って」
「俺だって学習するよ~」
「そうね。偉い偉い」と、頭をなでる美月。
「実の母親に他人の前でやられるのはマジで恥ずかしい!」
「十六歳のガキとして扱ってほしいんでしょう?」
「それ斎藤さんに言ったやつだし、斎藤さんによしよしされたくない!!」
晴星が顔を赤くしながら言う。言い返す元気はまだあるらしい。晴星の発言を聞いて壱護は爆笑していた。それでも今日はここまでにしようということになり、帰り支度を始めた晴星に、ルビーは明らかに不満そうな顔をした。
「もう帰っちゃうの?」
「また来るよ。ってかお隣なんだから、今度は二人がウチにおいでよ」
「ちゃんと休んでからね。無理しないでね。それからまた遊ぼうね」
「はいはい。分かりました」
「返事は一回!」
それを聞いていた美月が堪えきれずに笑った。
「晴星、もうルビーちゃんの言うことを聞いていた方が安心ね」
「母さんまで!?」
「だって正しいことしか言ってないもの」
「ルビーちゃんがどんどん味方増やしてるんだけど…」
「私の言うこと聞けばいいの!」
「はい……」
ふんす、と胸を張るルビーにしょんぼりと素直に返事をする晴星。今度はアイとミヤコまで笑い出した。
その途中で、食卓に置かれていた壱護の携帯電話がまた鳴った。画面を確認した壱護が、正月くらい勘弁してくれと言いたげな顔をしたところで、美月がくすりと笑う。
「斎藤さん、正月からお忙しいんですね?」
壱護は顔を上げ、一瞬だけ美月を見た。それだけで、この業界に自分より長くいる女優が本気でそんなことを言っているはずがないと分かったらしく、苦笑しながら携帯電話を持ち上げる。
「月城さん、分かってて言ってるでしょう?」
「ええ、まあ」
「勘弁してくださいよ。こっちは本当に正月も何もないんですから」
「でしょうね」
そこまでは美月も笑っていたが、次に口を開いたときには、からかうような響きが消えていた。事件からこちら、壱護が何を抱えて走り回っているのか、美月にもおおよその想像はついている。中止になった東京ドーム公演への対応だけでも簡単な話ではないのに、アイと双子の安全、所属タレントやスタッフへの説明、警察への協力、殺到する取材への対応まで重なっている。病院でも何度か顔を合わせたが、そのたびに、この男はいったいいつ寝ているのだろうと思ったくらいだった。
「でも、本当に無理はなさらないでくださいね。私たちにも手伝えることがあったら、遠慮なく言ってください。うちの社長からも言質はいただいてますので」
壱護が少し目を見開いた。
「……月城さんのところの社長から?」
「ええ。『必要ならできる限り協力するように』、と。晴星のこともありますから、事務所としても今回の件を他人事とは思っていません」
「それは……助かります」
今度の返事には冗談が混じらなかった。
「ただし、私と晴星をどう使うかは仕事内容を聞いてからですけど…ね?」
「そこまで好きに使ったら、俺がそっちの事務所に怒られますよ」
「ふふ。それなら大丈夫そうですね」
美月が笑い、壱護も苦笑する。その横で話を聞いていたアイが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ。今年、ドームどうなるの?」
壱護がゆっくりとアイを見る。
「……お前、今の話聞いてた?」
「聞いてたよ?」
「じゃあなんで今それ聞くんだよ!?」
「気になったから」
「お前なぁ……!」
額を押さえる壱護を見て、ミヤコが吹き出した。
「でも、やるんでしょ?」
アイの声から、今度は冗談が消えていた。中止になった東京ドーム公演。あの日のために何年も積み重ねてきた時間があり、事件が起きたからといって同じ日へ戻ることはできない。あの日の公演は、もうない。それでも、東京ドームそのものまでなくなったわけではなかった。アイはあの「すべてを失うかも知れなかった日」をもう一度やり直したいと心のどこかで考えていたのかもしれない。そうなれば――――きっと。
「やりたい。今度はちゃんと、最後まで」
事件以降に見られなかった、アイのその瞳に光輝く星を見てミヤコが少しだけ笑う。
「それは壱護に言いなさい」
「言ってるよ。何回も」
「なら待ちなさい。あの人だって動いてるんだから」
それを聞いて壱護は大きく息を吐き、アイへ向き直った。
「簡単に言うな。ドーム一個押さえるのにどれだけの人間と金が動くと思ってんだ。中止した公演をもう一回やりますで、はいどうぞって同じ条件が転がってくるわけじゃねえ。メンバーのスケジュールも組み直し、スタッフも会場もスポンサーも警備も全部だ。今回の件があった以上、安全面は前より厳しくするし、お前の状態も見なきゃならねえ」
「うん」
「だから――」
「やらないの?」
壱護が黙った。アイは不敵に笑っている。しばらく睨み合った末、壱護が根負けしたように頭を掻いた。
「……やらねえとは言ってねえ」
「じゃあやるんじゃん!」
「時期はまだ言えねえぞ!」
「はーい」
「その返事、絶対分かってねえだろ!」
晴星が笑い、美月とミヤコもつられて笑った。ルビーは東京ドームという言葉だけで目を輝かせ、アクアはそんなアイを黙って見ている。事件前と同じ夢を口にしているようで、少し違うようにも見えた。あの日へ戻りたいのではないのだろう。終わらなかったものを今度こそ終わらせたい。それもあるのだろうが、アイが見ているのは東京ドームだけではないようにも思えた。
「晴星くんも早く仕事戻れるといいね」
「うん。でも医者と事務所と母さんが三方向から止めてくるんだ…」
「当然よ」と、美月が即答する。
「分かってるよ~…」
「学校は?」とアイが聞く。
「もうすぐ少しずつ戻るつもり」
「じゃあ今年やりたいこと、いっぱいあるね」
「アイちゃんもでしょ?」
「うん。あるよ」
「何?」
聞かれたアイは、指を折りながら考え始めた。
「ドームでしょ? 新しい曲も歌いたいし~、もっとテレビも出たいし…、アクアとルビーとも遊びに行きたい! 旅行とかもしたいな。あと――」
「多いね」
傍で聞いていたアクアが少し呆れたように笑う。
「今年一年あるんだよ? それに出来なかったら来年の楽しみに出来るでしょ。いっぱいできるじゃん」
アイは当然のように返す。アクアは一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「……そうだね。母さん。ルビーも一緒に皆でやろう」
◇
晴星と美月が帰り、壱護とミヤコもそれぞれの家へ戻ると、昼間あれだけ賑やかだった部屋は三人だけの静けさを取り戻した。正月の一日はゆっくりと夜へ向かい、朝からはしゃいでいたルビーは早々に眠気に負けた。アクアもまだ起きていられると言い張ったものの、欠伸を一度見られた時点で説得力を失い、結局、二人ともいつもの時間より早い段階で布団へ入れられた。
アイはその後もしばらく起きていた。
昼間アクアに「あとで、ちゃんと話して」と言われたことは忘れていない。警察に何を話したのか、そして父親のことまで含めて、二人へどこまでどう話すのかは、アイ自身も一度きちんと考えなければならなかった。以前なら、そういうことを考えること自体、もう少し先へ延ばしたかもしれない。答えを出さなければ何も変わらないし、笑っていれば今日を越えられるのなら、それでいいと思っていたかもしれない。
でも今は、ちゃんと考えようと思っている。
寝室を覗くと、ルビーはすでに眠っていた。布団から片腕だけが飛び出している。アクアも目を閉じているが、こちらは本当に眠っているのか少し怪しい。アイがルビーの腕を布団の中へ戻し、掛け直したところで、小さな声がした。
「……母さん」
「…やっぱり起きてたの?」
「今寝るよ」
「うん」
アイはアクアの隣へ腰を下ろした。何か聞かれるかと思ったが、アクアは目を閉じたまますぐには何も言わない。しばらくしてから、眠りに落ちる直前のような小さな声で言った。
「……今日のこと、明日ちゃんと聞くから。警察に何を話したのかも」
「うん」
「隠さないでね……?」
その言葉に、アイは反射的に「大丈夫だよ」と答えそうになった。何が大丈夫なのかも分からないのに、相手を安心させるための言葉だけなら、今まで何度でも口にしてきた。
「……話すよ」
代わりにそう答えると、アクアは目を開けないまま「…ありがとう」とだけ返した。
「おやすみ、アクア」
「おやすみ、母さん」
今度こそ眠るつもりらしい。アイは立ち上がろうとして、ふと隣のルビーを見た。昼間、自分が「私の子供なんです」と言ったときの顔を思い出す。自分で言った。「言ってしまった」、ではなく、「自分で言った」のだ。
美月が何を思うのかも、晴星がどう思うのかも分からなかったし、実際、美月は晴星のことも考えたと言った。それでも話して、晴星は帰り際にいつもと変わらず「またね」と言い、美月も「今度遊びにいらっしゃい」と双子に笑っていた。
明日になれば、また会える――今日話したことを知ったまま。
窓の外は暗い。新しい年になったからといって、街の景色が昨日までと大きく変わるわけではない。事件はまだ終わっていないし、警察は今も調べているだろう。晴星の傷も完全には治っておらず、東京ドームの日程だって決まっていない。それでも、今年やりたいことを考えればいくらでも出てきた。歌いたいし、仕事もしたい。東京ドームにも立ちたい。アクアとルビーと遊びに行って、できれば旅行もしてみたい。まだ思いついていないことだって、きっとこれから増えていく。絶対に。
去年の続きをするだけでは、一年では足りないくらいに。二人の子供と年を重ねていくごとにイベントや楽しいこと辛いことも増えていくのだろう――しかし、それを考えることの出来る幸せをアイは確かに感じ取っていた。罪悪感や、事件の後で自分が助かったことによる安堵はある。でも「起きてしまったことを悔やむよりも、今を生きている自分を大事にした方がいい」ということをアイは周りのみんなに「言葉にはせずとも行動で」教えてもらっていた。
アイは眠っている二人の愛し子をみてから布団をもう一度だけ確かめ、それから小さく笑った。
「今年もよろしくね。アクアマリン、ルビー」