【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
東京ドーム公演まで、あと一日。まぁ俺がその舞台に立つわけじゃないんだけど、どうしても意識してしまう。
そんな朝、洗面台の鏡に映った自分を見て最初に思ったのは、今日の寝癖はなかなか手強そうだな、だった。
「……なんで右だけこうなるんだよ」
耳の上あたりから一房だけ、黒い髪が見事に外へ跳ねている。水で濡らして手櫛で押さえてみたけれど、少し待つとまた浮いてくるから、仕方なく今度は櫛を使って根元から直すことにした。
俺の髪は父さん譲りの黒で、癖も少なく真っ直ぐな方だ。男にしては少し長めで、前髪も放っておけば目にかかるけれど、役によって長さを変えることもあるから完全に自分の好きにはできない。まあ、それも仕事のうちだと思っている。
ようやく寝癖を押さえて顔を上げると、鏡の中の金色の瞳と目が合った。こっちは母さん譲り。
正確には母さんの瞳より少し金色が強い気もするけれど、光の当たり方によって琥珀にも見える色はよく似ている。虹彩の中に星みたいに見える模様があるせいで、昔から目を褒められることは多かった。役者を始めてからはカメラマンや監督にも「目が強い」と言われるし、顔立ちそのものも母さんに似ているらしい。
自分の顔なんて毎日見ているから、正直「似ている」って評価には納得している。ただ、線が細くて中性的だと言われる度に、喜んでいいのかもっと男として意識されたいのかわからなくなる。小さい頃なんて女の子に間違われることもあったし――でも十六歳になって身長が伸びた今では、役によってはそれが武器になる。
そう考えるなら――別に悪くない。
最後に前髪を整えて制服に着替え、鞄を持ってリビングへ向かうと、扉を開けたところで聞き慣れた名前がテレビから聞こえてきた。
『――いよいよ明日に迫ったB小町初の東京ドーム公演。中でも注目を集めているのは、絶対的センターとしてグループを牽引してきたアイ――』
「お、アイちゃん」
足を止めてテレビを見ると、ちょうど画面いっぱいにアイちゃんが映っていた。
「やっぱり気になる?」
先に朝食を済ませかけていた母さんが、コーヒーカップを手にこっちを見る。
「そりゃ気になるよ。知ってる人が東京ドームに立つんだよ?」
「知ってる人、ねえ」
「何、その言い方」
「別に?」
母さん――月城美月は、何でもないような顔でコーヒーを飲む。朝から妙に絵になる人だ。
父さんとは違う明るめの髪は長く、緩く波打つように肩から流れている。俺が受け継いだ琥珀色の瞳もそうだけれど、四十三歳になった今でも十代の頃から芸能界の第一線にいる女優だけあって、家で薄く化粧をしているだけでも目を引く。
俺にとっては、そんなことより朝っぱらから「晴星、早く起きなさい!」と遠慮なく怒鳴ってくる母さんなんだけど。
「母さんもアイちゃんのことは知ってるでしょ?」
「もちろん。直接話したことはほとんどないけど、今のアイちゃんを知らない芸能関係者の方が少ないんじゃない?」
「だよね」
自分の席に座って朝食を取りながらテレビへ視線を戻すと、アイちゃんがカメラに向かって笑っていた。
昔から、笑うのが上手い。初めて会った頃にはもうアイドルをしていたし、俺より四つ上だから、当時の俺にはずいぶん大人に見えた。でも今考えれば、向こうだってまだ子供だったはずだ。それが今では東京ドーム。
「すごいよなぁ」
「何が?」
「だってドームだよ。何万人も自分たちを見るために集まるんだろ?」
母さんもテレビへ視線を向けながら、「晴星だって大勢の前に立つことくらいあるでしょう」と言う。
「あるけど、それとは違うよ。舞台だって俺一人を見るためにお客さんが来てるわけじゃないし、何万人の真ん中で歌って踊るんだよ? 俺には想像つかない」
「そういうもの?」
「そういうもの。少なくとも俺の中では」
母さんは「ふーん」と、それ以上は追及せずコーヒーを飲み干した。
「晴星は行かないの?」
「明日? 仕事なんだよぉ……」
思わず情けない声が出る。
「本当は行きたかったんだけどさ。どうしてもスケジュール動かせなくて」
「あら、残念」
「本当にね。チケットだって普通に取ろうとしたら大変だっただろうし」
スマホを手に取ってSNSを開いてみれば、こっちでもB小町の話題がかなり流れている。チケットが取れたとか、取れなかったとか、グッズを買ったとか、明日は何時に現地へ行くとか、そんな投稿が次々に目へ入った。
俺だって自分と関係のない芸能ニュースを全部追っているわけじゃないけれど、同じ業界にいる人が何をしているのかは普通に気になる。面白そうな映画やドラマは見るし、好きな役者の芝居なら参考にもする。SNSだって普通に使うし、知っている人が大きな仕事をするならなおさらだ。
「……すご。やっぱトレンド、B小町だらけじゃん」
「まあ、そうなるでしょうね」
「明日はもっとすごそう」
しばらく眺めてから時間を確認する。
「やば。そろそろ出ないと」
そう言って椅子から腰を上げかけた俺に、「忘れ物は?」と母さんが返した。
「ない……と思う」
そう答えた俺を、母さんがじっと見る。
「思う、じゃなくて確認しなさい」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
笑いながら立ち上がる。
こういうところは、海外の映画に出ようが大きな賞を取ろうが普通の母親だ。
そんな母さんの『女優』じゃない『月城美月』を出せる場所は家だけなのかな? なんてふと一瞬だけ考えた。
◇
陽東高校の芸能科に着いてみれば、こっちでも話題はB小町だった。
「いや、マジでチケット取れなかったんだけど!!」
「お前、一般販売まで粘ったの?」
「先行全部外れたんだから仕方ないだろ」
「明日仕事のやつもいるしな。俺なんて最初から無理」
昼休み、少し離れた席から聞こえてきた会話に思わず笑う。
芸能科といっても、学校へ来れば芸能界の難しい話ばかりしているわけじゃない。誰かの新曲が良かったとか、あの映画が面白かったとか、ライブのチケットが取れなかったとか、そんなことで盛り上がるのは普通の高校生と変わらない。
むしろ仕事で芸能人と会うことがあるからといって、好きなアイドルを目の前にして平然としていられるかといえば、それとこれとは別らしい。
「晴星は明日どうすんの?」
近くの友達に聞かれて、「俺も仕事」と答える。
「うわ、もったいねえ。東京ドームだぞ?」
「分かってるよ。俺だって行きたかったんだから」
「じゃあ一緒に配信でも見る?」
「だから仕事だって」
「使えねえなぁ」
「何で俺が責められるんだ?!」
くだらないやり取りをして、午後の授業へ向かう。
こいつらにアイちゃんと昔会ったことまで話した記憶はないし、まして最近隣に越してきたなんて絶対に言わない。アイちゃんが誰とどこで暮らしているかなんて、俺が勝手に喋っていいことじゃない。
午後の授業までいつも通り受けて、危うく忘れかけていた課題も今日はちゃんと提出した。提出箱にプリントを入れた瞬間だけは、失敗を繰り返さない自分を褒めたい気分になった。
ほら、ちゃんと出せるじゃん、俺。な~んて、ね。
放課後になり、鞄を持って席を立つと、友達の一人が振り返った。
「晴星、今日一緒に遊べる?」
「あー……マジでごめん。今日これから仕事」
「そっか。売れっ子俳優様はやっぱ違うねえ」
おどけたように大げさな表情で言うものだから、俺はすぐに笑った。
「そんな顔で言うなよ! 絶対からかってんだろ!」
「バレた?」
「バレるわ」
また今度な、と手を振られたから、「うん、今度は行く」と返して教室を出る。
こういうときは少しだけ惜しい。でも、自分でやりたくて始めた仕事だ。
迎えに来てくれたマネージャーの車の中で台本を開けば、頭は自然とそっちへ切り替わる。
今日撮るのは、俺が演じる少年と父親が口論する場面だった。台本には『怒りを露わにする』と書かれている。
怒る。それは分かる。問題は、なんで怒るのかだ。
父親が嫌いだからなのか、本当は認めてもらいたいのに認めてもらえないから腹が立つのか、分かってほしいことがあるのに素直に言えないから声を荒らげるのか。同じ怒鳴るにしても、理由が違えば相手を見る目も、声も、身体の動きも変わる。
そんなことを考えているうちに現場へ着いた。
◇
ドラマの撮影は、現場に入っていきなりカメラを回して本番、というわけじゃない。まず役者同士で芝居の段取りを確認して、それを見ながら監督やスタッフがカメラ割りを決め、それからカメリハをやって、ようやく本番。もちろん作品や現場によって多少違うけれど、大体そんな流れだ。
今日はこれからカメリハ。
時計を見る。……時間、押さなかったら本番までいけるかな?
明日も朝から仕事だから、できればあまり遅くならない方がありがたい。
「晴星、準備いい?」
父親役の俳優に声を掛けられた。
「はい。大丈夫です」
「今日、怖い顔するんだろ?」
「そっちが怒らせるんじゃないですか」
そう返すと、「俺のせいかよ」と笑われる。
「台本上は」
「逃げたな?」
「役のせいにしました」
二人で笑っているところへ助監督から声が掛かり、俺たちはセットへ入った。
カメリハが始まれば、さっきまで笑っていた相手を睨む。
父親が嫌いなんじゃない。むしろ好きだから腹が立つ。認めてほしい相手だから、その言葉が刺さる。そこだけは忘れない。
台詞を交わし、感情が上がっていくところで声を荒らげる。最後の言葉を吐き出したところで監督の声が掛かり、一度芝居を止めた。
「晴星、最後ちょっとだけ抑えてみようか」
「最後ですか?」
「うん。怒り切るっていうより、言ったあとに自分でも傷ついてる感じが欲しい」
「ああ……なるほど。やってみます」
自分が言った言葉で、自分も傷つく。
それなら最後まで父親を睨み続けるのは違うかもしれない。
もう一度やってみる。
今度は最後の台詞を吐いたあと、一瞬だけ父親の顔を見て、すぐに視線を外した。
「うん。そっちでいこう」
「はい」
楽しい。
こうやって、自分一人では思いつかなかった人物の一面が増えていく瞬間が気持ちいい。
そのあとも撮影は順調に進んだ。途中でメイクさんに髪を直してもらい、待ち時間には共演者とくだらない話をして、スタッフが準備をしている間は邪魔にならない場所で台本を確認する。
母さんには子供の頃から何度も言われた。
カメラの前にいる役者だけで作品を作っていると思うな。
照明を作る人も、音を録る人も、衣装を用意する人も、自分よりずっと早く現場へ来て準備している人もいる。だから挨拶をしなさい、名前を覚えなさい、何かしてもらったらちゃんとお礼を言いなさい。
芝居以前の話だ、と。
「晴星君、明日も朝早いんだって?」
待ち時間に顔馴染みのスタッフから声を掛けられ、「そうなんですよ。だから今日押したら泣きます」と返すと、「じゃあ巻いてやらないとな」と笑われた。
「お願いします。本当に」
「そこはお前も頑張れよ」
「もちろんです」
近くにいた共演者まで笑う。
結局、大きく時間が押すこともなく、その日の撮影を終えることができた。
「お疲れ様でした!」
共演者やスタッフへ挨拶をして現場を出る。
疲れたけど、楽しかった。
やっぱり俺……この仕事が好きだ。
◇
マンションへ着く頃には、外はすっかり暗くなっていた。
エレベーターを降りると、今日も廊下には誰もいない。
このマンションはかなり人気があるらしく、空室が出てもすぐに次の人が決まるらしい。それなのに住人と廊下で顔を合わせることは案外少なく、生活時間が違うのか建物の造りや動線がうまくできているのか、住んでいるだけの俺には分からない。
ただ、静かなのは気に入っている。もっとも、一週間ほど前から隣の部屋だけは少し事情が変わったけれど。
その隣室の前まで来たところで、ちょうど部屋へ入ろうとしていた人と目が合った。
「「あ」」
綺麗にハモった。
「お疲れ」
「お疲れー、晴星くん」
帽子を被ったアイちゃんが笑っている……でも、疲れてるなぁ。
目元に少し重さがあるし、声もいつもよりわずかに低い。明日が本番なんだから当然か。俺とは比べものにならないくらい忙しい一日だっただろう。
「遅かったね」
「そっちも」
そう返すと、アイちゃんは持っていた荷物を少し持ち直した。
「私は明日の準備。晴星くんは?」
「学校行って、そのまま撮影」
「うわぁ……高校生なのに大変だねぇ」
「アイちゃんにだけは言われたくないよ。明日ドームでしょ」
「あ、そっか」
自分の方が大変だったことを忘れていたみたいに笑うから、俺もつられて笑った。
「いよいよだね」
「うん!」
返ってきた笑顔は、さっきまでと少し違った。疲れているのは変わらないけれど、それ以上に楽しみなんだろう。
「緊張してる?」
「全然!」
それを聞いて自分の感覚だけで断言する。「嘘だ」って。
「なんで!?」
「いや、するでしょ。東京ドームだよ?5万人だよ?」
不満そうに口を尖らせたアイちゃんが、「晴星くんだって大きい舞台とか立ってるじゃん」と言うけど…
「あはは! 母さんと同じこと言ってる!」
「え?」
「今朝も言われたんだよ。でも芝居とライブは違うじゃん。それに俺だって舞台の前は普通に緊張するよ」
アイちゃんが妙な顔をした。
「……私、晴星くんのお母さんと同じこと言ったの?」
「うん」
「なんか嫌だなぁ。二十歳なのに」
「そこ気にするの?」
「だって私、まだお母さんじゃないし」
そりゃそうだ。
俺が笑うと、アイちゃんも何がおかしかったのか一緒になって笑った。
こういうところを見ると、テレビの中で何万人ものファンに笑いかける星野アイと、昔会ったアイちゃんが同じ人なんだと妙に納得する。
少し間を置いて、アイちゃんがこっちを見る。
「晴星くん、明日来る?」
「仕事なんだよぉ……」
今朝と同じような情けない声が出た。
「えー!?」
「俺はマジで行きたかったんだけど、スケジュールどうしても動かせなかったんだよ。俺だけの仕事じゃないからさ」
ドラマなら監督も共演者もスタッフもいて、俺がライブに行きたいから休みます、で済むわけがない。
アイちゃんは少し残念そうな顔をした。
「生で見てほしかったな」
「ニュースでも見るし、ライブDVD出たら絶対買うから」
「生で見た方が絶対いいのに」
「じゃあ次もドームやってよ。そのときは仕事入れないで見に行くから」
「簡単に言うねえ」
「できるでしょ」
何気なく言っただけだった。
でも、アイちゃんは一瞬だけ黙って俺を見る。
「……そう思う?」
「え?」
「次もできるって」
「うん」
なんでそんなことを聞くんだろう。
「だって明日で終わるつもりじゃないでしょ? だったらまたやればいいじゃん。明日成功させて、次はもっとすごいのやればいい」
言ってから、自分でも簡単に言ったなとは思う。でも、できないとは思わなかった。
少なくとも、目の前にいる人は明日の東京ドームまで来た人なんだから。
「……そっか」
アイちゃんが笑った。
その笑顔を見て、少しだけ引っ掛かる。
何だろう。
嬉しい?
安心した?
それとも――。
……分からない。昔からそうだ。
人の表情を見るのは好きだし、母さんから心理学の話を教えてもらうこともある。もちろんそれで人の心が読めるなんて思ってないけど、表情や仕草を見ていれば「もしかしたらこうなのかな」くらいは考えられることが多い。
でも、アイちゃんは違う。初めて会った頃から、笑顔の奥に何かあるような気がするのに、その「何か」が何なのか、一度もちゃんと推測できたことがない。
今もそう。
「何?」
見すぎたらしい。
「いや。何でもない」
「変なの」
「アイちゃんに言われたくないなぁ」
「どういう意味!?」
まあ、分からないなら分からないでいい。本人が話したくなったら、そのとき聞けばいい。
「じゃあ、次は来てね」
「うん。そのときは絶対行く」
「約束ね」
「分かった」
アイちゃんが部屋の鍵を開ける。
俺も自分の部屋へ入ろうとして、もう一度声を掛けた。
「あ、アイちゃん」
「ん?」
振り返ったアイちゃんへ笑う。
「明日、頑張って。応援してるから!」
一瞬だけ目を丸くして、それからアイちゃんは嬉しそうに言った。
「うん。ありがと!」
扉が閉まる。
俺も自分の部屋へ入り、夕食を食べて風呂に入り、明日の台本を少し確認した。帰ってきた母さんとは今日の撮影について話して、監督からもらった演出の話をしたら、「へえ、面白いじゃない」と少し食いついてきた。
そのまま芝居の話をしていたら思ったより遅くなってしまい、時計を見て慌ててベッドへ入る。明日も早い。
もう少し早く寝ればよかったな、と思いながら目を閉じた。
◇
翌朝。鏡を見て、ちょっと得した気分になった。
「お。今日は寝癖ない」
昨日あれだけ苦労したのが嘘みたいに、黒い髪は素直に下りている。顔を洗って簡単に整えるだけで済んだ。
朝食を取りながら今日の予定を確認する。外での撮影があるけれど天気予報は快晴で、雨の心配はなさそうだ。
今日の現場には昔から知っているスタッフも多いし、共演者も何度か一緒に仕事をした人ばかりで、みんな俺が子供の頃から知っている。未だに昔の失敗を持ち出してからかわれるのは勘弁してほしいけど、気を張らずにいられる現場なのはありがたい。
体調もいい。
寝不足なのは、ちょっとだけ。
「なんか今日、いい一日になりそうだな」
自分しかいないのに口に出してみたのは、朝から小さな幸運がいくつも重なったからなのかもしれない。
スマホにはマネージャーから集合時刻の連絡が来ていたから、『了解です。時間通り出ます』と返信する。
そういえば母さんは、とリビングを見るけれど、もういない。
「ああ、今日早いって言ってたな」
俺より早く出なきゃいけない現場だったはずだ。相変わらず忙しい人だ……俺も人のこと言えないけど。
食器を片付けて、忘れ物を確認する。スマホに財布、台本も鍵も持ってるから忘れ物なし。鞄を持って玄関へ行き、靴を履いた。
「行ってきます」
誰もいないけど、いつもの癖で言う。ドアノブへ手を掛け、扉を少し押した。
その瞬間、廊下から声が聞こえた。
アイちゃん?
手が止まる。
少し開いた扉の向こうから聞こえている。すぐ隣、アイちゃんの部屋の玄関先で誰かと話しているみたいだ。
でも。
何だ?
いつもの声じゃない。
扉をほんの少しだけ開ける。
隣の玄関が見える。
開いている。
アイちゃん。
その前に、男。俺の知らない人。
花束。
誰だ? 仕事の人?
いや。こんな時間に?
アイちゃんの顔を見る。
笑ってる。
でも。違う。
困ってる?
怖がってる?
分からない。
男。
目。
顔。
花束を握る手に力が入ってる。
もう片方の手が動いた。
何か――。
マズい!
「アイちゃん!」
扉を蹴るように押し開けた。鞄が落ちる。
走る。
男がこっちを見る。
アイちゃんも。
「晴星く――」
アイちゃんの腕を掴む。
引く。
俺が前へ。
腹にドンッと、殴られたような重い衝撃。
「……え?」
痛くない。
間近にあった男の顔を見ると、驚いてる。
なんで?
視線を落とす。
銀色
腹に
刺さって――
「っ――!」
痛い
熱い
痛い
何
これ
「晴星くん!?」
アイちゃん
痛みの中心から金属が抜かれる
「ぁ――!」
痛い
体を支えていられない
床に手を
温かい
赤い
俺の?
「晴星くん!」
息
吸えない
痛い
「……アイ、ちゃん」
声
アイちゃん
「動かないで!」
刺されたところを押さえられる
刺された
俺
ナイフで
痛い
寒い
なんで
さっきまで熱かった
誰か喋ってる
アイちゃん?
「晴星くん、ねえ! 晴星くん!」
「……うん」
「喋って! お願い、何でもいいから!」
何
何を
「……今日」
「うん!」
「ドーム……」
顔
アイちゃんの顔
歪んでる
「そんなのどうでもいい!」
「よく……ないだろ」
「どうでもいいよ!」
泣いてる
なんで
俺が
刺された
俺
死ぬ?
嫌だ
嫌だ
「……母さん」
母さん
泣く
絶対
ごめん
母さん
ザッ――
父さん
……ザザッ……
白い
廊下
母さんが泣いてる
ザッ……
父さん
眠って――
ザザッ――
「晴星くん!」
アイちゃん
顔
泣いてる
「……ごめん」
「なんで謝るの!?」
分からない
母さん
ごめん
痛い
怖い
死にたくない
「……死にたく、ない」
「死なない!」
手
握られてる
「死なないから! 救急車来るから! すぐ来るから!」
温かい
アイちゃんの手
「目閉じないで!」
「閉じて……ない」
「閉じてる!」
「……眠い」
「駄目!」
眠い
昨日
もうちょっと
寝れば
よかった
眠い
すごく
音
遠い
アイちゃん
遠い
寒い
手だけ
温かい
アイちゃん
「……アイちゃん」
「いるよ! ここにいる!」
「怪我……」
「してない! 私は何ともない!」
よかった
よかった
目
開かない
「晴星くん!」
聞こえる
「晴星くん! ねえ!」
返事
「晴星くん!」
母さん
ごめん
父さん
ザッ――
俺――
そこで、何も分からなくなった。