【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
自分で選んで、自分のお金で買った、初めての家。だから引っ越しの日くらい、私が一番忙しく動き回るものだと思っていた。あれをこっちに運んで、これはそこに置いて、アクアとルビーの物だって私が二人に聞きながら決める。何なら重たい段ボールを抱えて「よいしょ!」なんてやっている自分まで、ちょっと想像していた……んだけど、実際にはそんなこと一つもさせてもらえてなかった。
「すみません、それはリビングです。そっちの箱は――あ、子供部屋ですね。はい、廊下の奥です」
玄関の方からミヤコさんの声が聞こえ、返事をした引っ越し業者の人が大きな段ボールを抱えて私の横を通り過ぎていく。その向こうでも何人かが家具や荷物を運んでいて、廊下から部屋の中まで――床が傷つかないようになのかな?――なんかタオルみたいなのがずっと敷かれていた。開け放された玄関からは人が何度も出入りしている。
そんな中で私が何をしているかというと――
「アイ、邪魔しちゃ駄目だよ」
「してないよぉ~…」
――四歳の息子に注意されていた。
アクアは呆れたような顔をしているけれど、本当に何もしていない。正確には、自分から動くことを禁じられていた。
少し離れたところではルビーが自分の荷物らしい段ボールの周りをうろうろしながら、「これ私の! こっちも!」と楽しそうに主張している。そっちの方が邪魔なんじゃないかなと思ったけれど、業者の人たちは慣れたもので、「じゃあ大事に運びますね」と笑ってくれていた。
約束を破るつもりなんて、もちろんない。でも、あまりにやることがなさすぎると、他人任せだった今までと何が違うんだろう? なんて考えが一瞬だけ頭を過ってしまい――ちょうど目の前を通った小さめの箱なら大丈夫そうだ、なんて、無意識に手が伸びていたみたいだ。
「アイ?」
背中から飛んできた、ちょっと咎めるようなミヤコさんの声に、ぴたりと手を止める。
「……まだ何もしてないよ?」
「今しようとしたでしょう」
振り返ると、ミヤコさんが笑っていない。
「これくらい持てるって」
「駄目。壱護との約束でしょ?」
「社長、ここにいないじゃん」
「私がいるわよ」
駄目かぁ。
社長が引っ越しを認める際に出した条件の一つで、私は全部守ると約束したんだから、ここで破るわけにもいかない。仕方なく手を引っ込めると、ミヤコさんはまだ疑わしそうに私を見ていたけれど、玄関から業者の人に呼ばれてそちらへ向かっていった。
「流石に、この忙しいタイミングで『全部私だけでやりたい』なんて、無茶だってわかってるよぉ……」
誰に聞かせるでもなく呟いて、改めて部屋の中を見渡す。
まだ家具も全部は入っていないし、あちこちに段ボールが置かれて人もたくさんいるから、普段生活している部屋とはまるで違う。それでも、ここにある物のほとんどがこれから私たちの生活に使われるものだと思うと――
「……えへへ」
さっきの、ちょっと落ち込んだ気分はどこへやら。思わず顔がにやけてしまった。
ここが、私とアクアとルビーの家になる。
窓の向こうに広がる東京の街を眺めていると、初めてこのマンションを知った日のことを思い出した。
◇
「これ、いい」
何か月か前、ミヤコさんが持ってきてくれた物件資料を何枚もテーブルへ広げていた私は、一枚の写真を見つけて手を止めた。
「どれ?」と、隣から覗き込んできたミヤコさんにその資料を見せる。
高層階の窓から撮られた写真だった。眼下には小さく見える建物や道路が広がり、遠くへ行くほど街並みが霞んで、その先で空と溶け合っている。
「東京って、上から見るとこんななんだ。ここから見てみたい」
そう言うと、ミヤコさんは写真を覗き込みながら「景色が気に入ったのね。でも景色だけで家を決めないでよ?」と少し呆れたように笑った。
「まだ決めてないって」
そう言いながらも、その資料だけは他のものと分けて自分の前へ置いた。
最初は本当にそれだけだった。なんとなく気になって、この窓から自分の目で景色を見てみたいと思っただけ。でも、詳しく読んでいくうちに、それだけじゃなくなった。
「あ、セキュリティすごい」
「そこはかなりいいと思う。アイが出した条件にも合ってるわね」
今暮らしているところと比べても、こっちの方がずっと安全そうだった。私一人ならまだしも、アクアとルビーもいるし、仕事で私が家にいない時間だってある。だったら、安全すぎて困ることなんてない。
資料をめくっていると、今度は近くにある大きなスーパーが目に入った。
「ここ、買い物も便利そう」
「そうね。日常的に使う店が近いのは大事よ」
「あ、病院も近い。こっちは何?」
私が写真を指差すと、ミヤコさんは「居住者用の共用スペースね」と説明してくれた。そんなものまであるんだと感心しながらさらに資料を眺めてみれば、仕事へ行くにも困らないし、買い物にも便利で、何かあったときにすぐ行けそうな大きな病院もある。アクアとルビーと暮らす場所として考えても、見れば見るほど気に入った。
もちろん、値段は安くない。でも、これまでの貯金や今の収入、これからの仕事、それに買ったあとにも掛かるお金までミヤコさんと一緒に考えてみると、絶対に無理という金額ではなかった。
「これ、私でも買える?」
「買えるか買えないかなら、買えると思うわ。ただし、かなり大きな買い物よ。そこは分かってる?」
「分かってる」とすぐ答えると、ミヤコさんが疑うような目を向けてくる。
「本当に?」
「……たぶん」
「アイ」
「分かってるって!」
人生で一番高い買い物になる。それくらいは分かってる。でも、欲しい。
「ここ、見に行きたい」
もう一度資料を見る。写真で気になって、条件を読んだらもっと気に入った。
「ここがいいかも」
「まだ内見もしてないでしょう」
「だから見に行きたいの!」
ミヤコさんが何か言おうとして、ふと資料の端へ視線を落とした。そこで動きが止まり、見ただけで「私、失敗しました」と言いそうな顔になった。
「……あぁ~…」
「何?」
「ごめん、アイ。ここ、今空いてないわ」
「え?」
一瞬、言われた意味が分からなかった。
でも続けて「満室なの」と言われた瞬間、意味が頭に入ってくる。
「…………え?」
慌てて資料を両手で持ち、顔のすぐ近くまで寄せる。どこかに「空室あり」とか、それに近いことが書いてないか必死に探しながら、疑問だけはミヤコさんへ向けた。
「空いてないのに何で持ってきたの?!」
「条件に合いそうなマンションをまとめたのよ。空室があるものだけとは言ってないでしょう?」
「でも私、新しい家を探してるんだけど!」
「だから他にも候補はあるわよ」
簡単にそう言うミヤコさんに、自分でも分かるほどテンションの下がった声で「そうだけど……」と返した。
そもそも新しい家を探し始めた理由は、アクアとルビーが大きくなってきたからだった。
二人を産んでからずっと暮らしてきた今の家には、四年分のアクアとルビーと過ごした、忙しくも幸せだった思い出がいっぱいある。でも二人はもうすぐ幼稚園に行くだろうし、身体も大きくなれば物だって増えていく。私の仕事も昔とは変わって収入も増えたから、三人でもっと安心して暮らせるところを探してもいいんじゃないか、という話になった。
だから、今すぐに引っ越さなければ困るわけじゃない。
「……じゃあ、ここが空くまで待つ」
「いつ空くか分からないわよ?」
「どれくらい?」
私が尋ねると、ミヤコさんは困ったように眉を下げた。
「だから、それが分からないの。一か月後かもしれないし、一年後かもしれない。それ以上だってあり得るわ」
「そんなに……?」
誰かが出ていかなければ空かない。言われてみれば当たり前だ。
「じゃあ予約しとく」
「ホテルじゃないのよ」
「空いたら私に一番に教えて!」
身を乗り出す私を見て、ミヤコさんは少し呆れたように息を吐いた。
「そういう対応をしてもらえるかは確認してみるけど、期待はしないこと」
「うん!」
「……今の返事、絶対期待してるわね」
していた。
ものすごく。
それでも、いつ空くか分からないマンションだけを待っているわけにもいかないから、その後も家探しは続いた。
◇
「広いわね」
「うん」
「セキュリティも問題なし」
「…うん」
「駅も近いし」
「……うん」
何件目かの内見で、ミヤコさんが隣から私の顔を覗き込んできた。
「……気に入らない?」
「悪くないよ?」
「その言い方は気に入ってない人の言い方なのよ」
そう言われても、本当に悪くない。
その日見たところも、その前に見たところも、どこだって今より条件は良かったし、アクアとルビーと暮らすには十分だった。でも、ここに決めるのかと聞かれると、どうしても頷けない。
「……やっぱり、あそこがよかったなぁ」
「また?」
「だってよかったんだもん」と少し頬を膨らませて、不満を伝えてみる。
「まだ実物見てもいないでしょうに…」
「だから余計に気になるの」
自分でも、どうしてそこまで譲れないのかはうまく説明できなかった。セキュリティも場所も設備も値段も、全部がちょうどいい。でも、たぶんそれだけじゃない。
今まで私は、誰かから与えられた場所で暮らしてきた。施設もそうだったし、アイドルになるにあたって社長が用意してくれた家もそうだった。だから今度は、自分で探して、自分で納得して、自分で決めた場所がよかった。
しかも、一人で暮らすためじゃない。
アクアとルビーと一緒に暮らす場所だから。
「……妥協したくないなぁ」
気付いたら、そんな言葉が出ていた。
「家?」
「うん。ちゃんと納得して、自分でここって決めたところがいい」
ミヤコさんはしばらく私を見ていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。あのマンションについては、何か動きがあったら連絡をもらえるように改めてお願いしておく」
「ほんと!?」
「ただし、他の物件も探す。それから期待しすぎない」
「うん!」
「……やっぱり聞いてないわね」
聞いてるよ? 守れるかは別だけど。
◇
それから何週間経っても連絡は来なかった。
その間にもB小町の東京ドーム公演はどんどん近づいてくる。レッスン、収録、取材、打ち合わせ、衣装合わせ。やることも覚えることも増えていって、家探しを続ける時間さえ取りづらくなった。家のことを忘れたわけじゃない。
でも今はドーム。
苺プロのみんなと一丸になって目指してきた大きな舞台なんだから、家探しはいったん後でもいいかな? そう思い始めた頃だった。
◇
「アイ。前に言ってたマンション、覚えてる?」
「え?」
さっきまでの仕事と次の仕事の間に、思いがけず取れた短い休憩時間。事務所へ戻ってきた私は、社長室のソファに身体を預けて休んでいた。
そこでミヤコさんにそう話しかけられて、一瞬何のことか分からなかった。でもすぐに思い出す。
「空いた!?」
「正確には、売りに出ることになった、ね」
勢いよく身体を起こした私を手で制しながら、ミヤコさんが説明してくれる。
その部屋の所有者は、自分で住むためではなく資産として持っていたらしい。それを何か事情があって手放すことになった。だから家具なんかは何も入っていないけれど、誰かがそこで暮らしていたわけではないから、室内に生活感など残っていない。傷みもほぼなく、状態はかなりいいらしい。
そして以前から私たちが熱心に問い合わせていたことを管理側も覚えていた。
「だから一般に話を広げる前に、こちらへ連絡をくれたの。ただし、いつまでも待ってもらえるわけじゃないわ。条件のいい物件だから、こっちが動かないなら別の人へ話を持っていくって―「買う!!」―待ちなさい!」
ミヤコさんが言い終わる前に言葉をかぶせる。
「じゃあ見に行く!」
「それはそうなんだけど、時期を考えて――」
「何の話だ?」
ガチャッと扉の開く音が聞こえてすぐ、後ろから聞こえた声に振り返る。
社長だった。
「部屋の外まで声が聞こえてたぞ? 気をつけろ。……んで、何だって?」
嫌な予感がした。
ミヤコさんが頭を抱えながら、今聞いたばかりの話を社長にも説明する。
私がずっと気に入っていたマンションの一室が売りに出ること。以前から希望していたから先に連絡をもらえたこと。そして、こちらがすぐに決断しないなら他へ話が回ること。
全部聞き終わるより少し前に、社長の表情が変わった。サングラスの奥で視線がほんの少し動く。
あ。絶対、今日の日付を確認した。
そこからドームまであと何日あるか数えて、私の残ってるスケジュールを頭の中で並べてる……多分。
「駄目だ」
やっぱり!
すぐ否定してきた!
「なんで!?」
「なんでじゃねえ! お前、何日前だと思ってんだ!」
「ドームの前!」
「分かってんなら、何でこの時期に引っ越しの話してんだよ!」
「だって今じゃなきゃ買えないんだもん!」
「子供か!」
「まだ二十歳だよ!」
「それでも二児の母親だろうが!」
思わず次の言葉を飲み込む――それを言われるとは思ってなかった。
だって社長は、私が二人を産むことに最後まで反対してた人だから。
もちろん、今は違う。それくらい私にも分かってるし、アクアとルビーのことを気にしてくれているのも知っている。でも、社長の口から当たり前みたいに『二児の母親』なんて言葉が出てきたことが、なんだか少しだけ不思議だった。
「……何だよ」
「何でもない」
「だったらその顔やめろ」
よっぽど社長からすれば見たことのない私の表情だったんだろうな。でも、そんなこと言われたって鏡もないんだから、自分が今どんな顔をしているのかなんて分からない。
「どんな顔?」
「知らねぇよ」
答えることをはぐらかすためなのか、それとも単純に苛立っているのか、社長は乱暴に頭を掻いた。
「とにかく駄目だ。他のところにしろ。ドームが終わってからゆっくり探せばいい」
「嫌」
「アイ」
「嫌だ」
「何でそこまでそのマンションにこだわるんだ?」
何で? ずっと自分でもうまく説明できなかった。でも、今なら多分…伝えられる――。
「私、自分で決めたいの」
社長が黙った。
「今まで住んできたところって、全部誰かが用意してくれたところだったでしょ? でも今度は、私が働いたお金で買える。自分で探して、自分で選んで、ここがいいって決められる」
「だからって今じゃなくても――」
「今じゃなきゃ、ここは買えないんでしょ?」
社長が口を閉じた。そこだけは、どうしようもない。
私一人が住む家なら、もしかしたらここまで意地にならなかったのかもしれない。でも、そうじゃない。
「三人で――家族で住む家なの」
口にした瞬間、その言葉が自分の中に妙に残った。
『家族』――私と、アクアと、ルビー。
当たり前のことを言っただけのはずなのに、胸の奥が少しだけ変な感じがする。それが何なのかまでは、私には分からなかった。
「だから、ちゃんと納得して、自分で決めたところがいい」
社長は何も言わなかった。
怒ってるかな? 怒ってるよね。でも、ここだけは引きたくない。
しばらく私を見ていた社長が、大きく息を吐いた。
「……当日までのスケジュールは変えねえぞ?」
「うん!」
「まだ終わってねえ」
怒られたので口を閉じる。
「お前は荷物を運ばない。家具も運ばない。引っ越し作業は全部業者に任せる。手配はミヤコ中心でやる。睡眠時間も削らない。少しでも仕事に影響が出るなら、その時点で中止だ」
「うん」
「今約束させたことは、ドーム本番に万全の状態でお前を立たせるためだ。そこんとこ、本当に分かってんのか?」
「分かってる!」
社長はまだ疑わしそうに私を見ていたけれど、最後にはものすごく嫌そうな顔で、
「……なら、全部守れるなら好きにしろ」
「やった!」
「まだそのマンションを買う契約も済んでねえんだ! 内見もこれからだろうが! 引っ越せるって決まったわけじゃねえからな!」
また怒られた。でも……なんでだろう?
自分でも分からないけど、昔、お母さんに怒られたときとは違って――怖くない。
◇
「アイ」
「ん?」
「何ニヤニヤしてるの?」
声を掛けられて、私は我に返った。
目の前には、今日から私たちが暮らす新しい家。ミヤコさんが呆れた顔で私を見ている。
「別にー」
「気持ち悪いわよ」
「ひどっ!?」
あの時のことを思い出してただけなのに。
でも、喧嘩してでも――あれ、喧嘩かな? いや、喧嘩とか私、したことあったっけ? 言い合いすれば喧嘩……だよね? まあ、とにかく。ちゃんと私の意思は伝えられた。
だからこそ、今ここにいる。
「アイー! 見てー!」
ルビーの声に呼ばれて子供部屋へ行くと、部屋の真ん中で両手をいっぱいに広げていた。
「ここ、私の部屋!」
その隣でアクアが少しだけ眉を寄せる。
「……僕もいるんだけど?」
「じゃあアクアの部屋でもある!」
何のためらいもなく言い直すルビーと、何とも言えない顔をするアクア。その掛け合いがおかしくて、思わず笑ってしまった。
「ベッド、どこに置く?」
聞いた途端、ルビーが部屋の奥を指差した。
「こっち!」
「そこだと他の家具置きにくくない?」
アクアに言われたルビーは、少しだけ考えてから今度は反対側を指差した。
「じゃあこっち!」
変えるの早っ。
「あはは!」
さっきよりも大きな声を出して笑ってしまった。
この後の荷解きを考えると、その大変さにはちょっと憂鬱になる。でも今夜から二人はここで眠って、明日からこの部屋で起きる。ベッドや大きな家具は今日中に置かれるけれど、ここで暮らしていくうちに、二人が新しく欲しがった物や好きになった物は少しずつ増えていくんだろう。
学校に行くようになったら、教科書とかランドセルとかも置くのかな。散らかすんだろうなぁ。そしたら私が、「片付けなさーい!」って怒る。……怒るかな? 私、ちゃんと二人を怒れるのかな…。
まあ、そのときはミヤコさんが――
「アイ」
「はい」
――いつの間にか、騒いでいる私たちを注意しに来たのか、玄関で業者の人たちに指示を出していたミヤコさんが子供部屋の入口に立っていた。
「今、私に何か押しつけようとしなかった?」
「してないよ?」
「顔に出てたわよ」
怖い。私が笑って誤魔化していると、ルビーが突然「探検だー!」と部屋を飛び出していった。
「走ったら転ぶぞ?」
すぐ後を追うアクアは、口では呆れているけれど、ちゃんと妹が怪我をしないように近くを歩いている。私も二人の後をゆっくり追いかけた。
子供部屋を出て、廊下を抜ける。ルビーは途中にある扉を一つずつ覗いては「ここ何ー?」と聞き、アクアが知っているものだけ答えている。
そんな二人を見ながら歩いているうちに、いつの間にか玄関の近くまで戻ってきていた。
だからこそ、その小さな音に気付けたんだと思う。
視線をそちらへ向けると、引っ越し作業のために開け放された玄関。その先の共用廊下で、一人の男の子が足を止めて、こっちを見ていた。目が合う。
黒い髪は昔よりずっと伸びていて、背も高くなった。子供の頃から綺麗な顔をしていたけれど、その面影を残したまま大人に近づいていて、それでも金色の瞳だけは昔とほとんど変わらない。知っている顔だ。
というか。
「……晴星くん?」
「……アイちゃん?」
月城晴星。
昔、ララライのワークショップに参加していた頃に知り合った、私より年下の男の子。初めて会った時から知名度はあったけど、今ではテレビや映画、雑誌などでも見かけない時期の方が珍しいくらいの俳優だ。その晴星くんが、なぜか私の新しい家の前にいる。
「何してるの?」
「いや、それ俺の台詞なんだけど」
「え?」
晴星くんが私の部屋の隣にある扉を指差した。
「俺、ここ住んでる」
「…………え?」
晴星くんを見る。隣の扉を見る。自分の家を見る――もう一回、晴星くん。
「隣?」
「隣」
「晴星くんが?」
「うん」
「私の?」
「たぶん?」
そんなことある?
「うそ!」
「そんな嘘つかないけど!?」
その返しがおかしくて、思わず笑った。
「だって知らなかった!」
「俺も知らないよ。誰が越してくるとか教えてもらわないし」
「え、じゃあこれから隣人!?」
「そうなるね」
「すご!」
なんでだろう。さっきまでだって十分楽しかったのに、急にもっと嬉しくなった。
私たちの新しい家。その隣に、たまたま昔から知っている人が住んでいた。そんなの、物件資料でも内見でも分からなかった。当たり前だけど。
でも、私がここを選んでよかったと思える理由が、引っ越してきた初日に一個増えたみたいだった。
「何が?」
「分かんない!」
「分かんないのかよ」
晴星くんが笑うから、私もまた笑った。
二人で話していると、その声を聞いたのか、子供たちの後に付いてくれていたミヤコさんが顔を出した。
「あら、晴星君」
「あ、お疲れ様です」
ミヤコさんが普通に声をかけると、晴星くんが軽く頭を下げる。
二人があまりにも自然に話している。
「……知り合い?」
私だけ分かっていない気がして聞いてみると、ミヤコさんがこちらを見た。
「前に来たとき、廊下で会ったのよ。それから何度かね」
「そうなんだ」
家具の確認や業者さんとの打ち合わせで、ミヤコさんは私より先に何度もここへ来てくれていた。そういえばアクアとルビーを連れてきてもらった日もあった。
「じゃあ、ミヤコさんと一緒にいた双子にも会ったことある?」
「うん。何回か見かけたよ。自己紹介すらできなかったけど……」
「そうなの?」
「この前なんてミヤコさんと廊下で話してたら、部屋から二人が顔だけ出して『遅いよ、早く来て!』って呼んで、そのままミヤコさん行っちゃったから」
「ああ……」
なんとなく想像できる。絶対にルビーだ。
その話をしていたからなのか、少し先まで探検に行っていた二人が戻ってきた。ルビーが私の横から晴星くんを見上げ、その少し後ろにアクアも立つ。二人も晴星くんを見たことはある。でも、まだ名前も知らない。
「じゃあ、ちゃんと紹介するね!」
私は二人を抱き寄せ、それぞれの肩へ手を置いた。
「こっちがアクアで、こっちがルビー! 二人とも私のことが大好きで、よく遊びに来てくれるの!」
一瞬だけ、アクアの顔が何とも言えないものになった
ルビーも何か言いたそうに私を見上げている。
変なこと言った?
でも私も、どんなに自慢したくても二人を「私の子供」って言えないんだよぉ……。
私の隠したかったことはしっかり守れたみたいで、晴星くんは何の疑問も持たず、二人に合わせるように膝を曲げ腰を落とした。
「アクア君とルビーちゃんね。よろしく。俺は月城晴星」
アクアは晴星くんをじっと見てから「……よろしく」と答え、ルビーも一拍遅れて「よろしくー!」と笑う。
二人ともちゃんと挨拶できた。偉い偉い!
なんだか私までちょっと得意な気分になって、二人の肩に置いた手でそれぞれを軽く撫でた。生まれて初めて、自分で決めた『家族との居場所』。
今日からここで、アクアとルビーと暮らしていく。しかも隣には、昔から知っている晴星くんまでいる。
「じゃあ、これからよろしくね。お隣さん!」
そう言うと、晴星くんもいつもの柔らかい顔で笑った。
「うん。よろしく、アイちゃん」
新しい家での最初の日は、私が想像していたよりずっと賑やかになった。