【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
というか、プロローグから前回までが特殊だったとお考えください。
救急車のサイレンが鳴り続けている。酸素マスクをつけられた晴星の顔を見つめるアイは、(早く! 早く病院に着いて!)と、ただそれだけを祈っていた。
救急隊員たちは絶えず何かを確認し、処置を続けている。その言葉の意味も、何をしているのかも彼女には分からない。だから晴星が助かるのか、それとも危険なのかも判断がつかない。その事実が、余計に彼女に焦燥を募らせる。
「……晴星くん」
思わず漏れた声は小さすぎて誰にも届かなかったようだ。何かしたかったが、医療従事者でもないアイに出来ることなどあるはずもない。そもそも晴星の傍を離れたくなかったから、無理を言って乗り込んだだけなのだから。救急隊員の一人に「付き添いの方」と声を掛けられ、顔を上げる。
「もうすぐ病院に到着します。到着後、患者さんはすぐ救急外来で診察と処置に入ります。私たちや病院のスタッフから案内がありますので、それに従ってください」
「……はい」
間もなく速度が落ち、救急車が止まる。後ろの扉が開いた途端、外から何人もの声が飛び込んできた。晴星を乗せたストレッチャーが動き出し、病院の中へ運ばれていく。
思わずなのか、そもそも話を理解できずに返事をしたのか、アイは隊員に言われたことも忘れて慌てて追いかけようとした。しかし立ち上がった瞬間に足が縺れ、近くにいた隊員に腕を支えられる。
「危ない! 大丈夫ですか?」
「大丈夫……です。晴星くん……」
自動扉を抜け、白い廊下を進んでいく晴星の姿を見失わないようにアイはそのあとを追った。やがてストレッチャーが救急外来の処置区域へ向かい、そのまま続こうとした彼女の前へ看護師が出た。
「付き添いの方はこちらでお待ちください」
「でも……!」
「患者さんはこれからすぐに処置を行います。こちらでお待ちください」
晴星を囲んだ医療スタッフたちは足を止めることなく、そのまま処置区域の奥へ消えていく。玄関先で晴星が倒れてから、救急車の中までずっと傍にいた。それなのに突然、自分だけが取り残された。しかしもう追いかけることはできない。
「……お願いします」
誰に向けたのかも分からないまま、アイはそれだけを口にした。
◇
救急外来側の家族待機スペースへ案内されてから、どれほど時間が経ったのか。病院の人からいくつか質問をされ、怪我がないことも確認された。手や服に大量の血がついていたため、洗えるところだけでも洗うように言われたアイは、そのとき初めて自分の両手をちゃんと見る――赤かった――掌も指の間も、爪の周りまで血に汚れている。
(血……私、どこか怪我――いや)
未だ混乱を続ける頭で考えてから、すぐに『違う』と気づいた。
「これ……晴星くんの……」
腹部を押さえろと誰か――いや、アクアに言われて、救急車が来るまでずっと晴星の傷口を押さえていた。そんな少し前のことさえ、思い出すまでに時間がかかる。
蛇口から流れる水に赤いものが混じって落ちていく。洗っても、洗っても、まだ残っているような気がした。
(私より年下だったのに……)
晴星は十六歳。今日二十歳になったアイより四つも年下の男の子が、自分の身代わりになった。ただ――再会して一週間ほどしか経っていない『青年へと成長した晴星』よりも、初めて会った時の『十一歳のまだまだ幼い少年の晴星』の方が、未だアイのイメージとして強く残っていた――その事で余計に疑問と罪悪感を募らせているのだとは、彼女は気づかない。
「どうして……?」
アイ本人にも気づかないうちに口に出していたようで、自分の声を聞いて初めて言葉にしたことに気づいた。どうして晴星が自分を庇ったのか。本当なら、刺されていたのは自分だったのに――答えなんて出なかった。
血のついた服のまま待たせるわけにもいかないと病院側が用意してくれた簡素な病院着へ着替え、彼女は再び待機場所へ戻る。しばらくして医師から晴星には緊急手術が必要だと伝えられたが、アイはただ頷くことしかできなかった。
◇
その頃、ミヤコはまだアイたちのマンションにいた。
玄関には警察と救急隊員が出入りし、開いたままの扉の向こうには、ついさっきまで晴星が倒れていた場所がある。アイは晴星とともに救急車で病院へ向かった。残されたアクアとルビーを連れて自分もすぐに追わなければならないが、それでも車へ乗り込む前にまず壱護へ電話を掛けた。
『どうした?』
「壱護、落ち着いて聞いて」
自分でそう言いながら、ミヤコ自身の声も震えていた。
「アイが襲われた」
『……何?』
「男が自宅まで来たの。刃物を持ってて……でも、アイは怪我してない」
『じゃあ誰が――』
「晴星くんよ。アイを庇って刺された。今、アイも一緒に救急車で病院へ向かってる」
電話の向こうが一瞬静かになった。
『……分かった。お前は病院に着いたら、そのままアイの傍にいてやれ』
「うん」
状況と病院の名前などの重要事項だけを伝えて通話を切ると、ミヤコはアクアとルビーを乗せて車を走らせる。到着し二人を連れて待機場所へ入ったミヤコは、アイを見つけた瞬間に言葉を失った。
朝、自分が迎えに行けば、そこにいるはずだったいつものアイとはまるで違う。
華やかな衣装でも私服でもなく、病院から借りた簡素な服を着て椅子に座り、普段なら嫌でも人の目を引く大きな瞳は虚ろに床へ落とされている。怪我がないことはアクアから聞いていた。それでも、一目見ただけで『大丈夫』などとは到底思えなかった。
「アイ」
「……ミヤコさん」
その声を聞いた途端、アイの表情がほんの少しだけ緩んだ。
「ママ…!」と、ルビーが駆け寄る。大きな目には涙がいっぱい溜まっていて、アイが「ルビー……」と抱き締めると、堪えていたものがとうとう頬を伝った。
「ママ、怪我してない?」
「……してないよ。大丈夫」
娘を安心させるための言葉であったからか、それとも自分でも再認識したためなのか――その言葉は深く長いため息と一緒に漏れた。ミヤコは最初に声をかけた時から動かずにアイを見つめている。
また、その少し後ろでアクアも黙ってアイを見ていたが、考えていたのは少し周りと違う事だった。玄関先で自分が取った行動が、四歳児として明らかにあり得ないものだったこと思い返す。それでもあの場で自分の異常性を隠すことを優先する選択肢などなかった、と。晴星を死なせないことの方が、遥かに重要だったのだ――と。
「……晴星は?」
「手術だって。今、手術してるって……」
「そう」
アクアはそれ以上何も言わなかったが、自分のあの行動が、少しでも彼の助けになっていれば…そう願っていた。
◇
今すぐ病院へ行きたかった。刺された晴星は勿論、何よりアイが心配だった壱護だが、彼にはまだやることが残っている。
今日という日は、B小町が東京ドームに立つ予定の日だ。何万人もの観客だけではなく、会場、舞台、照明、音響、警備、運営をはじめ、数え切れないほどの人間が今日のために動いている。何も知らせず、自分まで衝動のまま病院へ飛び出すわけにはいかない。
そして、それより先に晴星の家族へ知らせなければならない。
まず壱護は月城美月の所属事務所へ連絡し、月城晴星が刺傷を負って救急搬送されたこと、母親である美月へ一刻も早く伝えてほしいこと、そして搬送先の病院名を告げた。緊急性を理解した先方が対応を引き継いだことを確認してから、今度は東京ドーム公演の関係各所へ第一報を入れていく。まだ中止を決定することはできない。最終的にはアイ本人の意思も確認するつもりだったが、B小町のセンターが事件に巻き込まれた以上、予定通り開催できない可能性だけは今すぐ共有しておく必要がある。
一通りの連絡を終え、必要な指示を残したところで、壱護もようやく病院へ向かった。
◇
その頃、月城美月は自宅から遠く離れた撮影現場にいた。
「美月さん、次お願いします」
「はい」
呼ばれて立ち上がったところで、スタッフの一人が慌ただしく近づいてきた。仕事中の彼女へ私用の連絡を取り次ぐことなど滅多にない。それも撮影を止めてまで呼びに来ることなど、長くこの仕事をしてきた美月にもほとんど経験がなかった。だから、その顔を見た瞬間、理由もなく嫌な予感がした。
「月城さん」
「……何?」
「マネージャーさんから、至急お話があるそうです」
すぐ近くまで来ていたマネージャーの顔を見て、美月の胸の奥で嫌な予感がさらに膨らんだ。
「どうしたの?」
「美月さん、落ち着いて聞いてください」
その前置きを聞いた瞬間、美月の表情が消えた。
「先ほど事務所に、苺プロダクションから緊急の連絡が入りました。晴星くんが――刃物で刺されて、救急搬送されたそうです」
「……え?」
「現在、東都大学医学部附属病院に搬送されています。詳しい容体については、まだ――」
そこから先、美月は何を聞いていたのかほとんど覚えていなかった。『刃物で刺された』『救急搬送された』『詳しい容体は分からない』。意味を繋げることを拒むように言葉だけが頭の中へ落ちてくる。
「……もう一度」
「え?」
「病院の名前。もう一度お願い」
震えそうになる声を必死に抑え、美月はそれだけを聞き直した。
「東都大学医学部附属病院です」
「……分かったわ」
「月城さん……?」
ただ事ではない雰囲気を感じ取ったのだろうか、周りにスタッフや監督、共演者たちも集まり始めた。美月が手にしていた台本が指から滑り落ち、その乾いた音とともに、六年前にも同じような知らせを受けた記憶が蘇った。
月城真昼が刺された。救急搬送された。すぐに病院へ来てほしい。
あのときも車の中で何度も時計を見た。信号が赤になるたびに焦り、病院へ着いてからは人目も気にせず廊下を走った。お願いだから間に合って、死なないで、何でもするからと、普段は信じてもいない神様にまで祈った。それでも――夫は帰ってこなかった。
「……いや」
美月の唇から、小さな声が漏れた。
「月城さん?」
「……いや……」
真昼を失ったあの時の情景が浮かんだ。薬品の匂いに満ちた白い廊下も、医師の顔も、聞きたくなかった言葉も覚えている。そのあと何をどうして家へ帰ったのかは今でも曖昧なのに、帰った家にいた十歳の晴星だけは忘れられない。
父親がもう帰ってこない現実を理解しきれないまま、それでも母の前で泣くことを我慢しようとしていた小さな息子を抱き締めて、美月は泣いた。晴星がいた――二人だったから生きられた。
なのに今、その最愛の息子まで――。
「晴星が……」
ようやく出た声は、普段の彼女を知る者なら誰も聞いたことがないほど弱かった。
「息子が刺されたの……」
その一言で現場の空気が変わった。監督がすぐに撮影を止め、落ちた台本を拾う者がいて、別のスタッフは美月の荷物をまとめ始める。事情を詳しく聞こうとする者は誰もいなかった。
『月城美月』という女優を、この現場の人間たちは知っている。多少の体調不良なら顔にも出さず、撮影が押しても文句一つ言わない。自分の都合で大勢の仕事を止めることを何より嫌い、カメラが回れば何があろうと要求された芝居を返す。その月城美月が、落とした台本を拾うことすらできずに立ち尽くしている。それだけで十分だった。
「美月さん」
マネージャーが傍へ寄る。
「車はすぐ出せます。病院へ行きましょう」
その言葉を聞いた瞬間、どうにか保っていたものが崩れた。
「お願い……」
『女優』の声ではなかった。
一人の『母親』の声だった。
「お願いだから……早く連れていって……!」
◇
撮影所を飛び出し、すでに用意されていた車の後部座席へ転がり込むように乗り込むと、マネージャーもすぐ運転席へ回った。行き先を確認する必要はない。二人とも、どこへ向かうのかは分かっている。車が走り出し、窓の外の景色が後ろへ飛ぶように流れていく。それでも美月には、病院までの距離があまりにも遠く感じられた。
後部座席で震える両手を強く握り締めると、今朝見た晴星の寝顔が浮かんだ。いつもと何も変わらなかった。「明日は早朝からロケなんだぁ…。なじみのスタッフさんばかりだからさ。そこは気楽なんだけど」なんて、寝る前に話していたことも思い出す。そんな普通の一日になるはずだった息子の顔へ、いつの間にか夫の顔が重なっていた。
(やめて。重ならないで)
美月は強く目を閉じる。
晴星は真昼ではない。あの日とは違う。今度は間に合う。医者が助けてくれる。晴星は帰ってくる――何度そう言い聞かせても、『あの時』の記憶は容赦なくその言葉を否定する。あの日だって同じように、大丈夫、間に合う、真昼は帰ってくると信じ続けて、それでも夫は帰ってこなかった。
怖かった。
世界中の人が見るであろうカメラの前に立てる。何万人もの観客の前にも立てる。どんな役でも演じられるし、人の心理を学び、感情がどう動くのかも理解している。けれど、そんなものは今の彼女には何の役にも立たなかった。母親である自分には、息子のためにできることが何一つない。車をこれ以上速く走らせることすらできず、ただ後部座席に座って病院へ着くのを待つしかない。
美月は俯き、固く組んだ両手を額へ押し当てた。そしてとうとう、もう一度どれだけ願っても夫を助けてくれなかった神様へ祈った。
(神様……)
真昼を失ったあの日、家に帰れば晴星がいた。あの子がいたから立っていられた。あの子がいたから、次の日も生きようと思えた。
だから。
(お願い……あの人だけじゃなく――晴星まで私から奪わないで……!)
◇
壱護が病院へ到着した頃には、晴星の手術はすでに始まっていた。
病院の待機場所にはミヤコと双子、そしてアイがいた。ルビーは母親の無事を確認して緊張が切れたのか、泣き疲れてミヤコの隣で眠っている。アクアはその傍で起きたまま、ほとんど口を開かなかった。アイだけが俯いている。
「アイ」
壱護が呼ぶと、ゆっくり顔を上げた。
「……社長」
「大丈夫か?」
「うん」
反射的に答えたあと、アイは少し迷って首を横へ振った。
「……分かんない」
「そうか」
壱護はそれ以上聞かなかったが、いつまでも避けてはいられない話が一つだけ残っていた。
「アイ。今日のドームだが――」
言い終わる前に、アイの顔が悲痛に歪む。
「無理……」
掠れた声だった。
「晴星くんがあんなことになってるのに……わたし、『嘘』でも笑えないよぉ……!」
その言葉を聞いた壱護は、しばらくアイを見つめた。普段なら何があっても笑う。それこそがアイというアイドルだった。嬉しくても、悲しくても、相手に求められる笑顔を作り、『愛してるという嘘』を『愛』として差し出してきた。そのアイが、嘘でも笑えないと言った。
「分かった」
それ以上確認する必要はなかった。
「中止にする」
「……ごめんなさい」
「謝るな」
短く言い残し、壱護は正式な中止決定を関係各所へ伝えるため、その場を離れた。
◇
それからしばらくして、待機場所へ続く廊下の向こうから駆けてくる足音が聞こえた。
「晴星は!?」
その声にアイが顔を上げる。月城美月だった。
撮影現場からそのまま駆けつけたのだろう、普段なら人前で乱れることのない髪も服も今はどこか崩れ、息を切らしながら周囲を見回している。その視線が壱護たちを捉えると、一直線に近づいてきた。
「晴星はどこ!?」
「手術中です」
壱護が立ち上がる。
「腹部を刺されて――」
「それは聞いた! 容体は!?」
「詳しいことはまだ――」
その答えを聞いた美月の顔が歪んだ。急いでここまで来たのに、間に合ったのか、間に合わなかったのか、それすらまだ誰にも分からない。何かを言おうとした美月の視線が、少し離れたところで立ち上がったアイに止まった。
病院から借りた服を着たアイは、いつものように笑ってはいなかった。顔色を失い、泣いた跡を残したまま、自分を見つめている。
「……美月さん」
声が震えた。
「私……晴星くんが……私を庇って……」
美月は黙ってゆっくりとアイの前まで歩いた。その一歩ごとに、アイの表情へ怯えが浮かんでいく。美月が自分を責めるかもしれないと思っているのだろう。あるいは、責められて当然だとさえ思っているのかもしれない。
「私のせいで……」
「違う」
美月は即座に否定した。
「でも……私……」
その先を言わせる前に、美月はアイの身体を優しく抱き締めた。
自分の息子が今、生死の境で手術を受けている。その原因となった事件の中心にいた少女を前にして、それでも美月には責めるという選択肢はなかった。腕の中にいるのは、息子より四つ年上なだけの二十歳の女の子だった。
突然自宅へ押しかけてきた男に命を狙われ、目の前で自分を庇った人間が刺された。その知人の体から、今まで見たこともないような大量の血が流れ続ける光景を見たのだ。怖くなかったはずがない。それなのにこの子は、自分が怖かったことより先に晴星のことを考え、自分を責めている。
だから美月は、言葉だけではなく、自分の腕で伝えたかった。あなたを責めていない――と。
「怖かったでしょう?」
「……え?」
「怖かったでしょう、アイちゃん」
背中へ回した腕に少しだけ力を込める。
「あなたは悪くない」
「でも晴星くんが……」
「晴星が自分で決めてやったことよ。だからその行動の責任はあの子にある。アイちゃんが自分を悪者にする必要はないの」
「でも……私がいなかったら……」
「そんなこと言わないで」
今度は少しだけ強く言い、美月は腕の中にいるアイの背中をゆっくり撫でた。
「それを言い始めたら、あなたはこれからずっと自分を責めることになる」
アイの目から再び涙が落ちた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「ごめんなさい……!」
「うん」
もう美月は止めなかった。今は泣けばいい。
自分も本当なら泣きたい。それでも、息子がどうなったのか分からない今はまだ泣くことすら怖かった。だからせめて腕の中にいるアイが泣いている間だけ、美月は母親が子供にするように、その背中をゆっくり撫で続けた。
◇
どれほど待ったのか。誰も今の時刻を気にする余裕などなくなった頃、ようやく医師から晴星の手術が終了したことを告げられた。
腹部の刺創に対する処置は無事に終わった。ただし、術後も慎重な経過観察が必要であり、しばらくは集中治療室で管理することになる。医師の説明を聞きながら美月は何度も頷き、その内容を理解しようとしていたが、胸の内ではたった一つの事実だけが何度も繰り返されていた。
助かった。
まだ安心しきっていいわけではない。それでも晴星は生きている。
その後、術後の状態が落ち着き、短時間であれば母親だけ面会できると医療スタッフから告げられた美月は、一人で集中治療室へ案内された。機械の作動音が規則的に響き、消毒薬の匂いが鼻につく。案内されたベッドまで歩いていった美月は、白い寝具の中にいる息子を目にした瞬間、足を止めた。
生きている――。
顔色は悪く、身体はいくつもの管や機器につながれている。それでも胸は規則正しく上下し、機械の表示も彼が今ここで生きていることを示していた。その事実を自分の目で確かめた瞬間、美月の膝から力が抜けそうになった。
「……晴星」
ベッドの傍まで歩き、そっと名前を呼ぶ。返事を求めたわけではなかった。ただ、息子の名前を自分の声で呼びたかっただけだ。それでも少しして、晴星の瞼が僅かに動いた。
「晴星?」
ゆっくりと目が開き、焦点が合うまで少し時間がかかる。
「……母さん」
弱い。けれど間違いなく、息子の声だった。
「うん」
それだけで泣きそうになるのを堪えながら、美月は晴星の手へ自分の手を重ねた。
「ここにいるわよ」
「……そっか」
「喋らなくていい。今は休みなさい」
「……うん」
晴星は素直に目を閉じかけた。しかし、その直前だった。
「……アイちゃんは?」
美月の呼吸が一瞬止まった。真昼が刺されたあの日。最期まで夫の傍にいた同僚から、彼が死の間際に何を話したのかを美月はあとになって聞いた。
自分自身が死にかけていたのに、真昼が最初に気にしたのは自分が庇った女性の安否だったという。そしてそのあとで初めて、自分は死にたくない、美月と晴星を愛していると口にした。美月は、その言葉を真昼本人から聞くことすらできなかった。
それなのに今、目の前で生きている息子が、目を覚まして最初に自分を庇わせた相手の無事を尋ねている。
「……馬鹿」
声が震えた。
「……母さん?」
「似なくていいところまで……あの人に似なくていいのよ……」
本当なら怒りたかった。どうして自分の命をもっと大事にしなかったのかと怒鳴りたかった。十六歳の息子が隣の部屋に住む知人とはいえ、身代わりになって刺されて。死にかけて。それでも…目を覚まして最初に心配するのが晴星自身ではないことに腹が立った。
真昼にも、晴星にも、同じ恐怖を二度も味わわされている自分自身の人生にさえ腹が立った。けれど、その怒りを覆い尽くすほど大きなものが、今の美月の胸にはあった。
晴星がいる。生きている。こうして声を聞くことができる。
「……アイちゃんは無事よ。怪我もしてない。ちゃんとここにいるから」
「……よかった」
その答えを聞いた晴星の顔から僅かに力が抜けた。そんなところまで夫に似ていることも腹立たしく、それと同時に、どうしようもなく愛しかった。
「だからもう何も心配しないで。今はゆっくり眠りなさい」
「……うん」
「おやすみ、晴星」
今度は返事がなかった。安心したように目を閉じた息子の寝顔を、美月は黙って見つめた。
人生に絶望したあの日、もう二度と目を開けることのない夫の顔を見た。病院へ向かう車の中で、今日もまた同じものを見るのではないかと何度も想像した。晴星まで失ったら、自分は今度こそ生きていけないと思った。
でも、違った。この子は生きている。
また目を開ける。また声を聞ける。また自分を「母さん」と呼んで笑ってくれる。
そう確信した瞬間、それまで必死に堪えていたものがようやく崩れた。美月の頬を一筋の涙が流れる。今度は我慢しようとは思わなかった。もうその必要はない。震える両手で息子の手を包み、美月はその温もりを確かめながら泣き続けた。