【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
多分、この「ストーリーにがっつり絡んでくる系オリキャラ」はこれで最後だと思います
救急車のサイレンが遠ざかってからも、マンションの廊下には事件の痕跡が生々しく残されていた。
規制線の内側では制服警官や鑑識の人間が慌ただしく行き交い、開いたままになっている玄関の周囲では、白い手袋をつけた捜査員が床や壁を確認している。騒ぎを聞いて部屋から出てきた住人たちはすでに室内へ戻るよう促されていたが、何が起きたのかと不安そうにこちらを窺う顔が、閉じかけた扉の隙間からいくつも覗いていた。
玄関先に残された血の量だけを見ても、ここで起きたことがただの揉め事ではないことくらい、事情を知らない人間にも分かる。
被害者は十六歳の少年、月城晴星。若手を代表する人気俳優だ。腹部を刃物で刺され、意識不明の状態で救急搬送されている。そして本来狙われたと思われるのは、この部屋に住む女性――アイ。人気アイドルグループ『B小町』のセンター。
犯人は、まだ逃走している。
マンションの外では周辺の捜索と聞き込みが始まり、現場では防犯カメラの確認も進められていた。事件発生からまだそれほど時間は経っていない。だからこそ、一つでも多くの情報を、一分でも早く集める必要があった。そんな現場へ、一人の男が姿を見せた。
三十代半ば頃。細身の身体は明るいグレーのスーツを隙なく着こなし、黒髪は清潔感を感じさせるよう綺麗に整えられている。細いフレームの眼鏡越しに周囲へ向けられる視線は鋭く、一見すれば冷たい印象すら与える風貌だった。年齢だけを見れば、この場にいる刑事たちの中でも若い。しかし、彼の姿を認めた捜査員の方から近づいてくる。
「課長代理」
「状況は?」
警視庁刑事部捜査第一課、課長代理――佐伯圭一。階級は警視。
警察庁のキャリア官僚でありながら、現在は強行犯捜査を担当する捜査一課で指揮を執っている。現場の刑事たちに混じって一軒ずつ聞き込みをする立場ではない。各所から上がってくる情報を集約し、何を優先し、どこへ人員を振り向けるのかを判断する側の人間だった。
だからこそ、事件の第一報で被害者の名前を聞いた佐伯が自ら現場へ向かったことを、普段の彼を知る者なら不思議に思ったかもしれない。
月城晴星。
その父親を、佐伯はよく知っていた。
「被害者は腹部を一か所刺されています。救急搬送済み。現在の容体については、まだ詳しい情報が入っていません」
報告を聞きながら、佐伯の視線は現場を動いていた。血の残る玄関、開いた扉、廊下の位置関係、鑑識の動き。一通り確認してから、再び捜査員へ目を向ける。
「凶器は?」
「現場には残っていません。犯人が持ったまま逃走した可能性が高いかと」
「目撃者は」
「複数います。直接犯行を見たのは、この部屋にいた女性と、昨夜から遊びに来てそのまま泊まっていた四歳の男児。それから騒ぎを聞いて部屋から出てきた住人が、逃げていく男を目撃しています」
「四歳?」と、ここで佐伯は捜査員の言葉を拾う。
「はい。それと男児には双子の妹もおり、同じく昨夜から泊まっていたそうですが、こちらは犯人が逃走してから現場を見たらしく、今はパニックでまともに証言も取れそうにありません」
佐伯が僅かに眉を寄せる。四歳の幼児からどこまで正確な証言を得られるかは慎重に判断しなければならない。それに双子の妹については、今の状態で無理に話を聞く意味もないだろう。
「晴星は、どういう状況で刺された」
「目撃証言では、犯人がこの部屋の女性へ刃物を向けたところに、ちょうど隣室から出てきた月城晴星が割って入ったそうです。二人は隣人だったと」
「……庇ったのか」
「そのようです」
佐伯は唇を強く引き結んだ。偶然そこに居合わせた。襲われそうになっている人間を見た。そして考えるより先に、その間へ身体を入れた。それだけで、十二年前から知っている一人の男の顔が脳裏に浮かぶ。
月城真昼。
佐伯がまだ二十三歳だった頃、刑事としてのイロハを叩き込んだ十歳年上の刑事。六年前、その男もまた、自分とは何の関係もない女性を庇って刺された。そして帰ってこなかったのだ。佐伯は僅かに俯き、誰に聞かせるつもりもなく呟いた。
「……真昼さん」
「……課長代理?」
「何でもない」
顔を上げたときには、私情は消えている。晴星は、かつての相棒の息子だ。だからこそ、自分が捜査を歪めることだけは許されない。
「犯人について分かっていることは」
「若い男。二十歳前後と思われます。深くフードを被っていたとのことです。犯行後は階段を使って逃走。現在、周辺を捜索しています」
「マンションの防犯カメラは?」
「確認を始めています。出入口と共用部、それから周辺店舗にも協力を要請しています」
佐伯が頷き、玄関周辺へ目を向ける。鑑識が置いた番号札の先には血痕が続き、少し離れた場所には踏み荒らされないよう保全された白い花が散らばっていた。
「あれは?」
「犯人が持ってきたものと思われます。目撃者の話では、最初は花束を抱えていたそうです」
「花束を持ってきて、刃物も持っていた」
「はい」
偶発的な口論の末に、その場にあった物で刺した事件ではない。少なくとも刃物は、ここへ来る前から用意されていた可能性が高い――が、それも現時点では可能性に過ぎない。
「花の購入先を当たってくれ。包装から店が分かるかもしれない」
「分かりました」
「防犯映像はマンションだけじゃなく周辺まで。駅、コンビニ、交差点。ここへ来たなら必ずどこかを通っている」
「はい」
指示を出していた佐伯のもとへ、別の捜査員が近づいてきた。
「課長代理。先ほどの男児から聞き取った内容です」と差し出されたメモを受け取り、佐伯が目を通す。
男が玄関先で女性と話していたこと。途中から声を荒らげたこと。刃物を取り出したこと。晴星が間へ入ったこと。そして犯人が逃げていった方向。四歳児から聞き取ったものとは思えないほど、内容が整理されていた。
「……本当に本人がこう話したのか?」
「はい。母親が迎えに来たんですが、被害者が搬送された病院へ一刻も早く行きたがっていまして。連絡先を控えて、必要になれば改めて話を聞かせてもらうことを伝えたうえで許可しました」
「そうか」
妙な子供だとは思った。しかし今は、それを掘り下げるときではない。
犯人は逃走中で、凶器を所持している可能性も高い。次の被害を防ぐためにも、まずは身柄の確保が最優先だ。そのためには、追うべき人間を一刻も早く特定しなければならない。
◇
捜査本部には、時間の経過とともに各所から情報が集まり始めた。
現場に残った捜査員は鑑識作業と住人への聞き込みを続け、別の班はマンションと周辺の防犯映像を回収する。さらに逃走方向を中心に捜索が進められ、得られた情報は順次、佐伯たち指揮側へ集約されていった。
彼はその中心で、一つずつ事実を整理していた。まだ断片ばかりだからこそ、それらを勝手に繋いではならない。
昼前、現場近くの防犯カメラから犯人と思われる男の姿が確認された。
深く被ったフード。若い男。犯行前と思われる映像では手に白い花束を持ち、事件後には同じ服装の男が走ってマンションから離れていく姿が、別のカメラにも残されている。
「こいつでほぼ間違いないっすね」
画像を見ながら呟く捜査員の言葉に、佐伯は眼鏡越しの視線だけを向ける。
「目撃証言との照合は?」
「今進めています」
「可能性が高いのと、確認が取れたのは別だ。そこを混ぜるな」
「……はい」
短く言って、佐伯は再び映像へ目を戻した。可能性が高いことと、確認された事実は違う。それは刑事なら当たり前のことだったが、若い頃の佐伯は頭では分かっていても、本当の意味では理解していなかった。
――お前は頭がいい。だから自分で作った筋書きに証拠を当てはめるな。証拠から筋書きを作れ。
かつてそう教えた男はもういない。それでも教えられたものは十二年経った今も佐伯の中に残っており、午後になって病院へ向かっていた捜査員から連絡が入ったときにも、その言葉は彼の判断の根底にあった。
「課長代理。被害に遭った女性が、犯人について一つ思い出したそうです」
佐伯が顔を上げる。
「何を」
「玄関で男の顔を見たときから、以前にもどこかで会ったような気がしていたそうです。病院へ着いて少し落ち着いてから記憶を辿ったところ、過去にファンとして会ったことのある男ではないかと」
「名前は?」
「苗字までは知らないそうですが、以前会ったときに本人が『リョースケ』と名乗っていたと」
リョースケ。それだけでは、まだ何も決まらない。漢字も分からなければ本名かどうかも分からず、記憶そのものが正確である保証もない。
「本人の状態は?」
「かなり動揺しています。詳しい聴取は状態を見ながら改めて行う予定です」
「それでいい。無理に聞くな。ただし名前は名前として洗え。過去のイベント参加者、ファンレター、事務所に記録が残っているもの。照合できるものは全部だ」
「はい」
その一つの名前をきっかけに、捜査は少しずつ形を持ち始めた。アイドルとファンの間には、完全な他人同士には残らない接点がある。握手会、イベント、ファンレター、プレゼント。そのすべてから個人を特定できるわけではないが、防犯映像や目撃証言と組み合わせれば候補を絞る材料にはなる。
さらに周辺の防犯映像から追っていた男の移動経路も少しずつ繋がり、いくつもの情報が一人の男へ収束し始めたのは、午後もかなり過ぎてからだった。
「課長代理。一人、該当する可能性があります」
捜査員が机の上へ資料を置く。そこには若い男の顔写真があった。
「名前は?」
「菅野良介。二十二歳です」
佐伯の視線が名前へ落ちる。
良介――リョースケ。
「住所は」
「確認が取れました。ただ、自宅にはいません」
「家族関係は?」
「現在確認中です」
今まで影でしかなかった男の輪郭が、徐々に鮮明になってくる。
「写真は病院へ。本人に確認してもらえ。ただし誘導するな」
「分かりました」
まだ菅野良介が犯人だと確定したわけではない。だが年齢が合う。体格も防犯映像の男と大きく外れておらず、何より被害に遭った女性が記憶の中から拾い上げた名前とも一致する。
佐伯はしばらく黙った。菅野良介が犯人だと仮定すれば、彼女のファンだった男が何らかの理由で強い恨みを持ち、刃物を準備したうえで花束まで抱えて自宅を訪れた、というところまでは一つの筋として成立する。だが、その前にはどうしても説明しなければならないことがあった。
「……一週間?」
「何ですか?」
近くにいた捜査員が振り向く。
「この女性が、あのマンションに越したのは一週間前なのか」
「はい。そのようです」
「住所は公表していた?」
「いえ。人気アイドルの自宅ですから、当然非公開だったはずです」
佐伯はもう一度資料へ目を落とした。
「……住所だ」
「え?」
「本人が誰かに話したことがないか。事務所から漏れた可能性。出待ちや尾行で突き止められた可能性も含めて、最初から全部洗え」
「情報漏洩を疑ってるんですか?」と、事態の深刻さを感じた捜査員が尋ねるが、
「決めるな」という静かな佐伯の一言で口を閉じた。
「漏れたのかもしれない。自分で突き止めたのかもしれない。誰かを尾行したのかもしれない。まだ何も分からない。だから調べるんだ」
佐伯は事件現場の住所を指先で軽く叩いた。
「どうやって、こいつはここを知った?」
答えられる者はいない。そのとき、少し離れた場所から「課長代理!」と声が上がった。端末を手にした一人の捜査員が立ち上がっている。
「菅野良介と思われる人物、事件後の足取りが出ました!」
「どこだ?」
「現場から南へ逃走したあと、駅方向へ向かっています。複数の防犯カメラで追えます。現在、その先を繋いでいます」
「人を回してくれ。映像も切らすな」
「はい!」
その報告を境に、捜査本部の空気が明らかに変わった。これまで点でしかなかった情報が、ようやく一本の線になり始めたからだ。菅野良介が犯人だと断定されたわけではなく、現在地もまだ分からない。それでも追えるところまでは来た。
事件発生から、まだ半日も経っていない。
男の足取りは追えている。ならば――まだ間に合う。
◇
佐伯たちが逃げた男の足取りを追い始めた頃、病院では朝から張り詰め続けていた空気に、ようやく僅かな変化が訪れようとしていた。
晴星の手術は無事に終わった――その事実だけでも、待機場所にいる人間たちにとっては大きなものだった。
ルビーは少し前に一度目を覚ましたものの、長くはもたなかった。目を覚ますなり晴星のことを聞き、まだ会えないと分かると再び大きな瞳に涙を溜めたが、朝から泣き続けていた四歳の身体にはもう起きているだけの体力が残っていなかったのだろう。今はまたミヤコの腕の中で眠り、小さな手だけが彼女の服を掴んでいる。
その隣ではアクアもとうとう眠っていた。椅子の背へ身体を預け、腕を組んだまま俯いている。眠ろうと思って眠ったわけではなかったのか、眉間には僅かに皺が寄っている。どれほど精神が大人びていても、身体までそれに付き合ってくれるわけではない。事件から何時間も緊張を切らさずにいた四歳の身体は、とっくに限界を迎えていたのだろう。
少し離れた場所では壱護が立ったまま携帯電話を確認していた。今日予定されていた東京ドーム公演はすでに中止となり、その対応に追われ続けている。病院へ来てからも連絡は途切れず、それでも通話を終えるたびに必ず一度、アイたちの方を確認していた。
そしてアイは一人で椅子に座ったまま、美月が消えていった廊下の先を見続けていた。手術は無事に終わったと医師から聞き、その言葉が「助かった」という意味なのも理解している。それでも彼女の記憶の中にいる晴星は、まだあの玄関先にいた。
『……死にたく、ない』
『死なない!』
『怪我……』
『してない! 私は何ともない!』
弱々しい晴星の声と、それに必死で返した自分の声。そして最後には握っていた手から少しずつ力が抜けていった感触まで、今も鮮明に残っている。そこから先の晴星をアイは知らないため、手術が無事に終わったと聞かされても、その記憶だけは簡単には上書きされない。そのためだろうか。美月だけが晴星のもとへ行ってから、アイは何度も彼女が案内されていった先を見ていた。会いたかった。ちゃんと生きている晴星を、自分の目で見たかった。それが今はできないことも分かっているから、何も言わずにただ待つしかなかった…。
やがて廊下の向こうから美月が戻ってくると、最初に気づいたアイが椅子から立ち上がった。壱護も携帯電話から顔を上げる。ミヤコは眠っているルビーを起こさないよう身体を動かさずに視線だけを彼女に向けるが、すぐにアクアに目を遣る。まだ眠っていることを確認して、無理に起こす必要はないと判断したのだろうか――そのまま彼女を待った。
美月は病院へ駆け込んできたときには乱れていた髪を軽く直し、今は背筋も伸びている。それでも赤くなった目元までは隠せていなかった。
「美月さん……」
アイの声には、聞きたいという気持ちと、聞くことへの恐怖が同時に滲んでいた。
そんな彼女を見て、美月はほんの少しだけ表情を緩めた。
「晴星、目を覚ましたわよ」
一瞬、誰も声を出さなかった。その言葉の意味が全員の中へ落ちるまで、ほんの僅かな時間が必要だった。
「……本当ですか?」
「ええ」
「喋ったんですか……?」
「少しだけね」
アイの顔が歪んだ。笑おうとしたのか、泣きそうになったのか、自分でも分からなかった。いつも『嘘で周りに合わせた自分でいられる』彼女が、今はそれすら出来ていない。ただ胸の奥で朝から固まり続けていたものが一気に崩れ、膝から力が抜けそうになる。
「よかったぁ……」
口から漏れた声は、ひどく頼りなかった。
「よかった……晴星くん……」
目からぽろぽろと安堵による涙をこぼしながら、何度も同じ言葉を繰り返すアイを、美月は黙って見つめていた。
ほんの少し前まで、自分も同じだった。胸が上下している。それだけでよかった。声を聞けた。それだけで、どれだけ願っても真昼を助けてくれなかった神様に、今度だけは礼を言ってもいいと思えるほど嬉しかった。だから今のアイがどれほど安心したのかも、美月には分かる。ただ――もう一つ伝えておきたいことが彼女にはあった。
「それでね、アイちゃん」
「……はい?」
「あの子、目を覚まして最初になんて言ったと思う?」
きょとん、と涙に濡れた瞳が美月を映す。
美月は一瞬だけ迷う。息子が目を覚ましたという事実だけを伝えてもよかったのかもしれない。それでも、晴星が自分より先に心配した相手には、あの言葉を聞く権利があるように思えたから――
「『アイちゃんは?』って」
アイの表情が止まった。
「……え?」
「あなたが無事なのかって聞いたのよ。だから怪我もしてないし、ここにいるわよって伝えたら、『よかった』って」
アイは何も言えなかった。玄関先で晴星が自分の前へ飛び出したことも、血を流しながら自分の怪我を気にしていたことも覚えている。それなのに、やっと目を覚まして、そこでもまた自分だった。
「……なんで?」
ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。
「なんで晴星くん……」
美月は答えなかった――いや、答えられなかった。どうして晴星がアイを庇ったのか、その理由を本人から聞いていない以上、母親だからといって勝手に息子の気持ちを決めることはできない。ただ一つ分かっているのは、あの子は自分でそうすることを選んだということだけだ。
「……私も聞きたいわよ」と美月が困ったように笑った。
「目を覚ましたと思ったら、自分や私のことよりアイちゃんなんだもの」
「……怒ってるんですか?」
「ものすごく」
即答だった。アイが僅かに目を見開く。
「今すぐもう一度起こして説教してやりたいくらいよ。後先考えずに何してるの! って」
そう口にしながらも、美月の声は穏やかだ。
「でも……怒れるのも、生きててくれたからなのよね」
最後の方だけ、僅かに声が震えた。
アイには何も言えなかった。晴星が助かったことは嬉しい。本当に嬉しい。それでも、どうして自分を庇ったのかは分からない。どうして死にかけてまで自分を気にしたのかも分からない。美月から「あなたは悪くない」と言われても、自分の中から罪悪感が消えたわけでもなかった。
ただ一つだけ、晴星は生きている。
あの玄関先で止まっていた時間が、ようやく少しだけ先へ進んだ。その事実だけは、今のアイにも信じることができた。
◇
それからしばらくして、壱護は全員を一度病院から離れさせることにした。
晴星はICUで管理されており、今すぐ家族以外が面会できる状態ではない。医師からも今夜は慎重に経過を見る必要があると説明されている。それだけでなく、事件に巻き込まれてからここまで、誰一人としてまともに休めていなかったのだ。大人でさえ朝から極度のストレスとそれに伴う疲労に晒され続けて今にも倒れそうになっている。ましてアクアとルビーはまだ四歳だ。このまま病院に残り続けるより、一度きちんと身体を休ませるべきだと壱護は判断した。
「アイ」
壱護に声を掛けられ、アイが顔を上げた。
「今日はうちに来い」
「……社長の家?」
「ああ」
アイは少しだけ考えてから、晴星のこととは別の問題にようやく思い至ったようだった。
「……家は?」
「戻れるわけねえだろ。あそこは事件現場だ。警察もまだ調べてる。それに、犯人だって捕まってねえんだぞ」
その言葉で、アイの表情から僅かに血の気が引いた。
犯人。
そうだった。晴星のことばかり考えていたせいで、自分を刺そうとした男が今どこにいるのかさえ、ほとんど考えていなかった。
「しばらくお前ら三人だけにはしねえ。いいな」
「……うん」
今度は反論しなかった。帰る場所だったはずの自宅が、今は帰ることのできない場所になっている。一週間前、自分で欲しいと言って手に入れたばかりの部屋だった。アイはそのことを考えかけて、やめた。今はまだ、あの玄関を思い出したくなかった。
「……私もここに残っちゃ駄目ですか?」
美月に尋ねたアイだったが、
「駄目」とすぐに返された。
「……即答」
「当たり前でしょう」
美月は少しだけ呆れたように笑いながら、アイへ近づいた。
「今日はもう晴星には会えないわ。それにアイちゃんだって、朝からずっと大変だったんだから、ちゃんと休みなさい」
「でも……」
「晴星なら私がいるから」
その一言には、母親としての揺るぎない強さがあった。アイが晴星を心配していることを、美月は疑っていない。だからこそ、自分に任せて休んでほしいと思えた。
「何かあったら連絡するわ」
「……本当ですか?」
「ええ」
「絶対?」
「絶対」と言い切る美月とお互いのプライベートアドレスを交換して、ようやくアイが小さく頷いた。そのやり取りを見届けていた壱護が、少し間を置いて口を開く。
「それと、アイ」
「……うん?」
「ドームの件だ」
一瞬だけ、アイの表情が強張る。朝までなら、その言葉を聞けば今日のステージを思い浮かべたはずだった。
今は違う。東京ドームと聞いて最初に浮かんだのは、血に濡れた晴星だった。
その変化を表情から感じ取った壱護は、少しだけ言葉を選んだ。
「今日の公演は中止だ。そこはもう変わらねえ」
「……うん」
「でもな、これで終わりにはしねえ」
アイが顔を上げる。
「……え?」
「延期だ」
「延期……?」
「ああ」
もちろん、簡単な話ではない。東京ドームほどの会場を改めて押さえることも、出演者やスタッフの予定を組み直すことも、今日のために動いていた数え切れないほどの関係者へ頭を下げることも必要になる。費用の問題だってある。
それでも壱護にとって、今日できなかったから終わりで済ませられる場所ではなかった。
「いつになるかはまだ分からん。今すぐどうこうできる話でもねえ。だが俺は、まだ諦めてねえぞ」
その横顔を、ミヤコが静かに見つめていた。長い間、隣で同じ夢を見てきた彼女には、壱護がどうしてそこまで言い切るのか説明されなくても分かっている。
アイはしばらく何も言わなかった。
「延期……」
もう一度、小さく繰り返す。
今日なくなったものが、全部なくなったわけではない。それ以上のことは、まだ考えられなかった。
「……分かった」と彼女は頷く。
「よし。じゃあ行くぞ。お前も今日は寝ろ」
「社長って、たまにお父さんみたいなこと言うよね」
「お父さんってなんだ、お父さんって」
いつもなら、ここからもう一つくらい余計なことを言って壱護を怒らせる。
でも今日はそれで終わった。
ミヤコが眠っているルビーを抱え直したところで、隣の椅子で眠っていたアクアも周囲の気配に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げた。まだ眠気の残る目で辺りを見回し、状況を思い出すまでにほんの数秒を要する。
「帰るわよ、アクア」
「……晴星は?」
「美月さんが傍に居るって。今日はもう私たちがここにいても会えないの」
「……そっか」
ミヤコの返答にアクアはそれ以上何も言わず、椅子から降りた。
「アクア」
「何?」
アイに呼ばれて振り返る。
「……ありがとね」
何に対する礼なのかまでは言わなかったし、アクアも聞かなかった。
「別に」と短く答えただけで、眠っている妹の方へ視線を向けた。その仕草が妙に大人びて見えたことを、今のアイは深く考える余裕がなかった。
「アイ」
今度はミヤコに呼ばれた。
「はい?」
眠っているルビーを抱いたまま、ミヤコは少し言いづらそうにアイを見る。
「……そういえば、今日だったわよね」
「何が?」
「誕生日」
「あ」
アイの口が開いた。本当に忘れていた。
「……私、今日で二十歳だった」
自分のことなのに、どこか他人事のような言い方になり、ミヤコもすぐには何も言わなかった。今日という日に「おめでとう」と明るく笑うことが正しいのか、彼女にも分からなかったのだろう。だから代わりに、腕の中で眠るルビーを抱き直しながら優しく言った。
「帰りましょう。今日はうちでゆっくり休んで」
「……うん」
今度は素直に頷いた。病院の出口へ向かいながらも、アイは一度だけ振り返った。当然そこから晴星の姿が見えるはずはなく、白い廊下と、その先に続くいくつもの扉があるだけだった。それでも少しだけ立ち止まる。
「アイ?」
壱護に呼ばれ、ようやく前を向いた。
「……今行く」
ミヤコの腕の中ではルビーが眠り、その隣をまだ眠そうなアクアが歩いている。壱護が先に出口へ向かい、アイもそのあとを追った。
一週間前に手に入れた家には今日は帰れない。東京ドームに立つはずだった予定もなくなり、二十歳になった誕生日さえ本人が忘れていた。朝まで思い描いていたものは、一日のうちに何もかも予定とは違い、『悲劇』と言ってしまっていい形になってしまった。それでも晴星は生きている。目を覚まし、声を出し、そして最初に自分のことを聞いた。
そこまで考えたところで、アイの中にはまた同じ疑問が浮かんだ。
(……なんで?)
晴星が自分の前へ飛び出した理由も、あれほど血を流しながら自分が怪我をしていないか確かめた理由も、目を覚ましてまた自分のことを心配した理由も、何一つ分からない。だから今度会えたら聞こうと、アイは思った。ちゃんと自分の目で晴星が生きているところを見て、本人の声を聞いて――どうして私を庇ったの、と。
病院の自動扉が開き、十二月の冷たい空気が頬に触れた。アイは一度だけ目を閉じ、それから壱護たちの後を追って外へ出る。
何もかも変わってしまった一日だった。それでも、失いたくなかった命だけは――まだ、ここに残っていた。
よろしければ、感想・評価などいただけましたら、私のモチベが上がります。
淡々と投稿してても、無反応だとこのまま続けていいのかわかんないんすよね(読んでお気に入りしてくれてる人がいるのは分かるのでそこは素直に嬉しいです)