【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
アイが目を覚ましたとき、最初に見えたのは知らない天井だった。
自分の部屋とは違う匂いがして、身体の下にある布団の感触も違う。カーテンの隙間から差し込む朝の光をぼんやりと眺めながら何度か瞬きをしているうちに、昨日から途切れていた記憶が少しずつ繋がり、ここが『斎藤』――壱護とミヤコの――家なのだと思い出したところで、それよりずっと重要なことが一気に蘇った。
「晴星くん……!」
勢いよく身体を起こした拍子に掛け布団が膝まで落ちた。玄関を開けたときに見えた白い花、深く被られたフード、その男の手元で光った刃物。自分の腕を強く引いた晴星が目の前へ入り、次に見たときには腹部から血を流していた。
『……死にたく、ない』
あの弱々しい声まで鮮明に思い出し、アイは布団の上で両手を握った。しかし、昨日の記憶はそこで終わっていない。晴星は病院へ運ばれ、手術を受け――成功した。集中治療室へ入り、そのあと一度は目を覚ましたという。自分のことまで聞いたのだと美月から教えてもらった。
順番に思い出していくうちに、強張っていた肩から少しだけ力が抜ける。
「……大丈夫」
昨日、血まみれになった晴星へ何度も繰り返した言葉とは違い、今度は少なくとも根拠があった。手術の成功に加えて、医師からも「直ちに命が危険な状態は脱した」と説明を受けている。それでも、そう口に出して確認しなければならない程度には、昨日見たものがアイの中に強く残っていた。それはそうだろう。あんなショッキングな場面、現実でそうそうお目にかかるものではない。
枕元に置いていた時計を見ると、普段ならとっくに起きている時刻を過ぎている。これほど長く眠ったのがいつ以来なのか思い出せなかったが、昨日一日のことを考えれば無理もなかった。
病院を離れたあと、アイたちはそのまま斉藤家へ来ていた。壱護は最初から三人をあのマンションへ戻すつもりがなかったらしく、病院まで聞き取りに来ていた刑事へ現場の状況を確認していた。マンションではまだ捜査が続いていると聞かされ、その場で自宅へ連れて帰ると決めたようだ。仮に捜査が終わっていたとしても、数時間前に晴星が刺された場所でアイと幼い双子を眠らせるという選択を、壱護もミヤコもするつもりはなかった。
部屋を出ると、リビングの方から食器の触れ合う小さな音が聞こえてきた。
「あ、アイ。起きた?」
キッチンにいたミヤコが振り返った。その向こうではルビーが椅子に座って朝食を食べ、アクアも隣で黙々と箸を動かしている。二人とも昨日より顔色が戻っているのを見て、アイはようやく少し笑った。
「おはよ」
「おはよう。よく眠れた?」
「うん。……びっくりするくらい」
「そりゃそうよ。昨日あれだけのことがあったんだから。何か食べられそう?」
聞かれて初めて空腹に気づき、アイが頷くと、ミヤコはそれ以上昨日のことには触れず、用意していた朝食を取りに戻った。昨日は泣き疲れて眠ってしまったルビーも、此処へ来るまで妙に気丈に振る舞っていたアクアも、まだ幼い身体には疲労が残っているのだろう。普段に比べれば二人とも静かだったが、少なくとも食事は取れている。それだけで今は十分だった。
アイが席につくのを待っていたように、ルビーが箸を置いた。
「ママ」
「ん?」
「晴星くん、もう大丈夫?」
昨日から何度聞いたか分からない質問だったが、今度はアイも少し強く頷くことができた。
「うん。手術もちゃんと終わったし、目も覚ましたって。美月さんが教えてくれたでしょ?」
「……うん」
「だから大丈夫」
ルビーはまだ完全には安心できないらしく、しばらくアイの顔を見ていた。それでも昨日のように泣き出すことはなく、小さく頷いて再び朝食へ戻る。その隣でアクアは何も言わなかったが、止まっていた箸が再び動き始めた。
昨日の病院では、三人とも晴星の無事が分かるまでほとんどまともに食事を取っていない。ミヤコはまず朝食を食べさせることを優先し、自分も席についた。
食卓に壱護の姿はなかった。
昨夜はアイたちを自宅へ連れて帰ったあとも遅くまで電話を続けていたが、今朝は三人が起き出すより前に家を出ている。昨日の東京ドーム公演は中止された。しかし、壱護はそれをそのまま「中止」で終わらせるつもりはなかった。同じ会場をもう一度押さえられるのか。関係各所の予定を組み直し、出演者やスタッフを再び集められるのか。何より、事件に遭ったアイの安全と今後の活動を考えたうえで、いつなら公演を実現できるのか。会場側や関係各社との調整だけでも容易ではなく、昨日失われた東京ドーム公演を「延期」へ変えるため、壱護は朝から動いていた。
もっとも、そのことをアイにはまだ詳しく話していない。今の彼女に新しい予定まで背負わせる必要はないと判断したのだろう。
昨日、自分たちはそこで歌うはずだった。ずっと目標にしてきた東京ドームだった。
けれどアイにとって、そのことは今、不思議なほど遠く感じられた。
目の前に置かれた朝食へ箸を伸ばしかけたところで、昨夜から頭の隅に残っていたもう一つの記憶が浮かび上がる。晴星がまだ手術を受けている間、病院までやって来た刑事から話を聞かれたときのことだった。
◇
「玄関に来た男性に、見覚えはありましたか?」
長時間の事情聴取ではなかった。目の前で知人が刺され、その血を浴びるほど近くにいたアイの状態を考慮したのだろう。質問する刑事の口調は穏やかで、答えられないことを無理に思い出す必要はないと最初に断ったうえで、犯人を追うために急いで確認する必要があることだけを尋ねていた。
「……分かりません。でも、見たことあるような気はしたんです」
「以前、会ったことがありますか?」
「たぶん……」
玄関を開けた瞬間から引っ掛かっていた。初めて見る人ではない気がした。けれど、どこで見たのかまでは分からない…。アイはもともと、人の顔と名前を結びつけることが得意ではない。仕事を始めてからはライブや握手会、撮影、取材と数え切れないほどの人間に会ってきた。ファンだけに限っても、一度や二度顔を合わせただけの人間まで覚えている方が難しい。
「ファンだとは思いました。私を見たときの顔で……なんとなく」
「イベントなどで会った可能性は?」
「……ある、と思います」
そこでアイは黙り込んだ。刑事も答えを急かさず、手元のペンを止めたまま、思い出そうとしているアイを待っている。
男の顔そのものではなかった。
もっと別の何かが、記憶に引っ掛かっている。
昔、どこかで――。
「あ……」
浮かんだのは、小さな瓶だった。その中でさらさらと動く、星の砂。
引っ越しの日にルビーが段ボールから見つけたもの。そして事件の前日の夜に見た星の砂と、今朝、玄関の前に立っていた男の顔。その二つの記憶が、そこで初めて一本に繋がった。
「……リョースケ」
刑事の目が細くなる。
「リョースケ?」
「はい。昔、ファンの人からプレゼントをもらったことがあって。その人……リョースケって名乗ってました」
「苗字は分かりますか?」
アイは首を横へ振った。
「知らないです。でも……たぶん、あの人」
口にしてから、自分でも少し驚いた。人の名前を覚えることが苦手な自分が、ずっと昔に会ったファンの名前を覚えていた。
正確には、忘れていたのだろう。――けれど、なくなってはいなかった。
前日の夜に星の砂を見たことで、記憶の奥に沈んでいた何かが浮かび上がっていた。それが今朝の男の顔と結びつき、ようやく名前まで辿り着いたのだ。
「ありがとうございます。もう一つだけ。その男性に、この住所を教えたことはありますか?」
「ないです」
そこだけは考える時間さえ必要なかった。それまで曖昧な記憶を探るたびに泳いでいたアイの目が、ここで初めて刑事を真っ直ぐに捉えた。
「私、ファンの人と個人的に連絡を取り合うとか、一切ないので」
言葉にも迷いがない。
刑事はすぐには次の質問へ移らず、僅かな間を置いてから頷いた。先ほどまでのアイは、見覚えがあるのか、どこで会ったのか、男が本当にリョースケなのか、一つひとつ自分の記憶を疑いながら答えていた。それが今の質問にだけは即答し、こちらから目を逸らすこともなかった。
(少なくとも、彼女自身が認識している範囲では嘘をついていない…)
刑事にはそう思えた。
聞こうと思えば、まだ聞けることはあった。最近誰かにつけられていると感じなかったか。この住所を知っている人間は誰なのか。引っ越したこと自体を誰かに話したことはないのか。事件の全容を調べるなら、いずれ確認しなければならないことだった。
しかし、今はその時ではない。ほんの数時間前、自分を狙った男を目の前にして、その直後には知人が代わりに刺されている。大量の血を目にし、救急車が到着するまで傷口を押さえ続けた二十歳の女性に対して、今ここで記憶の隅々まで掘り返させる必要はない。捜査本部からも、現段階では被疑者の特定と早期確保に必要な事項を優先し、被害関係者へ無理に踏み込んだ聴取を続けないよう指示されている。
「分かりました。ありがとうございます。今日はここまでにしましょう」
「……もういいんですか?」
「はい。また改めてお話を伺うことはあると思います」
事件を解決したいという気持ちはアイにもあった。知っていることなら全部話したかったし、自分を庇って刺された晴星のためにも、隠し事などするつもりはない。
だからこそ、このときのアイは気づいていなかった。
答えなかったのではない。まだ、『思い出すための問い』を向けられていなかったことに。
◇
「アイ?」
ミヤコに呼ばれ、意識が朝の食卓へ戻った。
「どうしたの? 全然食べてないじゃない」
「あ、ごめん。昨日、警察の人と話したこと思い出してた」
アイはようやく箸を動かし始めた。ミヤコはそれ以上聞かなかったものの、話を聞いていて一つだけ引っ掛かったことがあった。
リョースケ。
人の顔と名前を覚えることが得意ではないアイを、ミヤコは長く近くで見てきた。そのアイが、大勢いるファンの中から昔会った一人の名前を思い出したという。
ミヤコ自身が知る範囲で、アイとファンがプライベートなやり取りをしていることはない。それとも、アイ自身が忘れているだけで、過去に何か別のやり取りがあったのか。
ミヤコの視線が僅かに細くなった。
だが、向かい側では当のアイが何事もなかったように朝食を口へ運んでいる。今ここで素人が推理を始めても仕方がない。ミヤコは手元のカップへ視線を戻したものの、しばらくすると別のことに気づいた。アイの視線が、食卓の端に置かれた携帯電話へ何度も向かっている。
「……連絡したいなら、すれば?」
「え?」
「美月さんに」
図星だったらしく、アイの目が少し大きくなった。
「よくわかったね…。今日、晴星くんのお見舞い行けるかな?」
「まだ集中治療室でしょう? 面会できるかは美月さんに聞いてみないと分からないわね」
「そっか……」
声だけでなく肩まで落ちる。その分かりやすさにミヤコは何か言おうとして、結局やめた。昨日からお得意の『嘘の仮面』が外れやすくなっており、本当に『年相応の若い女の子』なのだ。いくつもの欲望が渦巻く芸能界を『嘘と笑顔で渡り歩いてきたアイ』の本調子にはまだ遠そうだ。
(……このままマスコミの前に出すのだけは避けなくちゃね。壱護とも相談しておきましょう)
心の中で呟き、しかしそれを一切表に出さずに彼女は返す。
「昨日、連絡先交換したんでしょう?」
「うん」
「だったら聞いてみたら? ただし、無理は言わないこと」
「分かってるよぉ」
アイはすぐに携帯電話を手に取った。昨日登録したばかりの『月城美月』という名前を開き、電話では迷惑かもしれないとメッセージを選ぶ。晴星の具合はどうか。今日、会いに行っても大丈夫か。書いては消し、少し言い方を変えてまた消す姿を、ミヤコは朝食を食べながら黙って見ていた。ようやく送信したあとも、アイは携帯電話を手元へ置いたままにしている。
ほどなく、着信を知らせる音が鳴った。
「来たっ」とさっきまでとは明らかに違う速さで携帯電話を手にしたアイを見て、ルビーまで身を乗り出した。
「なんて?」
「えっと……昨夜から大きな変化はなくて、安定してるって」
「よかったぁ……」
ルビーが胸の前で小さく息を吐いた。アクアは何も言わなかったが、アイが続きへ目を移すのを待っている。
「でも、まだ集中治療室だから、今は家族以外のお見舞いは難しいって。一般病棟に移れて、会えるようになったら美月さんから連絡してくれるって」
「じゃあ、それまで待ちなさい」
「うん……」
正論なのは分かっているらしく、アイは反論しなかった。ただ、携帯電話をすぐには置かず、美月から届いた文章をもう一度最初から読み直す。
晴星は生きている。手術は成功した。目も覚ました。容体も安定している。それだけのことを何度確認しても、アイの中に残っているものは消えなかった。
十六歳なのだ。昨日から、なぜかそのことが何度も頭に浮かんだ。自分より四つも年下で、まだ高校生の男の子が、自分を後ろへ引いて代わりに刺された。美月は「晴星が自分で決めてやったこと」だと言ってくれた。それでも、晴星があの瞬間にほとんど何も考える暇もなく身体を動かしたのなら、なおさらアイには理解できなかった。
なぜ、自分だったのだろう?
晴星は誰に対しても同じことをしたのだろうか。それならそれで、どうして死にかけるほどの怪我を負ったあと、目を覚まして最初に自分のことを聞いたのか。
救急車へ乗せてほしいと頼んだときは、そんなことを考える余裕などなかった。手術室の前から離れられなかったのも、晴星が自分の代わりに刺されたからだと思っていた。手術が成功したと聞けば安心できると思ったし、目を覚ましたと聞けば、今度こそ大丈夫だと思えるはずだった。
それなのに、一晩眠って朝になり、最初に思い出したのも晴星だった。
アイ自身、その理由をまだうまく言葉にできない。ただ一度、自分の目で確かめたかった。血まみれで床に倒れている晴星ではなく、ちゃんと生きている晴星を見て、いつもの声を聞きたかった。そして会えたなら、聞いてみたいことがあった。
どうして、私を助けたの?
「早く会いたいなぁ……」
画面を見たまま漏らした声は、自分で思っていたより素直だった。
向かい側でアクアの箸が一度だけ止まった。アイは気づかない。ルビーも美月からの返事に安心して再び食事へ戻っている。ミヤコだけがアクアへ一瞬視線を向けたが、何も尋ねず、そのまま自分のカップへ手を伸ばした。
◇
アイが斉藤家で目を覚ますより、少し前のことだった。
夜と朝との境目は、冬の街に長く残る。
十二月の空はまだ夜の青を手放しきれず、東の低い場所から滲み始めた淡い光だけが、橋の欄干や道路の輪郭を少しずつ闇の中から拾い上げていた。街灯もまだ役目を終えておらず、冷え切った路面へ淡い光を落としている。夜ではない。しかし朝と呼ぶには、まだ光が足りない。あと一、二時間も経てば、昨日事件が起きた時刻になる、という頃――。
マンションの内廊下では照明が点いていたため、アイも晴星も目の前に立つ男の顔や手元を判別することができた。しかし、一歩建物の外へ出れば、昨日も街はこの薄闇の中にあったはずだ。しかも十二月の冷え込む早朝である。夜勤帰りや通勤のために動き始める人間はいても、日中のような人通りはない。
事件直後の足取りを直接見た者が少なかった一方で、それは防犯カメラの映像を追う警察にとって必ずしも不利にだけ働いたわけではなかった。映像の中を行き交う人間そのものが少なく、良介が一人で映っている箇所も多かったため、同一人物を追うことは日中の雑踏より容易だったのだ。
マンション周辺から始まり、駅、道路、店舗へと、防犯映像に残された姿を一つずつ繋いでいく。映像が途切れれば周辺へ捜査員を出し、別のカメラを探す。そうして前日から続けられていた追跡は夜を越え、徐々に一人の男との距離を縮めていた。
その最中、佐伯の姿は捜査本部にはなかった。
捜査一課の課長代理である佐伯の本来の仕事は、自ら被疑者を追って街を走り回ることではない。捜査本部へ集まる情報を把握し、人員を動かし、どの情報を優先して追うのかを判断する指揮側の人間である。だから追跡が始まった当初、佐伯自身が現場へ出る必要はなかった筈。そうもいかなくなったのは、日付が変わってからだった。
足取りは追えている。しかし、時間が経つほど良介の行動からは明確な目的地が見えなくなっていた。自宅へ戻ろうとしている様子はない。知人を頼った形跡もなく、遠方へ逃げるために駅や幹線道路へ向かっているとも言い切れない。
(…逃げているホシが、最後まで逃げ続けるとは限らない)
長く刑事事件に関わってきた経験から、佐伯の中に一つの嫌な可能性が浮かんだ。追い詰められたと自覚した人間が、逮捕される前に自ら終わらせようとすることはある。
良介が自殺をほのめかしたわけではない。遺書が見つかったわけでもなく、現時点では佐伯の経験から生じた可能性に過ぎなかった。それでも、その可能性を裏づける報告が届くまで捜査本部の椅子に座って待つ必要はない。佐伯は追跡班から逐次位置情報を受け取れるように指示すると、自らも車を出させた。
その判断が、結果として間に合った。
追跡班が菅野良介本人の姿を確認したとき、佐伯はすでにその周辺まで移動していた。
◇
良介は橋の欄干の傍に立ち、下を流れる川を眺めていた。
最初に姿を確認した警察官は、すぐには近づかなかった。犯行に使用されたと思われる刃物は依然として発見されておらず、本人が所持している可能性を捨てられない。もっとも、この寒さと時刻では橋を渡る一般人も多くなく、大人数を慌ただしく避難させるような状況ではなかった。橋へ近づこうとする僅かな通行人だけを手前で静かに迂回させ、応援に到着した捜査員たちもサイレンを鳴らさず、赤色灯で良介を刺激することも避けた。離れた場所で車を止め、橋の両側から少しずつ人員を配置していく。
その静けさのおかげで、警察はある程度まで良介との距離を縮めることができた。しかし、夜明けへ向かう空は刻々と明るさを増している。いつまでも気づかれずに包囲を続けられるはずはなかった。
川を見ていた良介が、ふと顔を上げた。
何かを感じたのかもしれない。背後を振り返ると、少し離れた場所に制服姿の警察官が立っている。その向こうには私服の捜査員たちがいた。反対側へ目を向ければ、そちらにも人影がある。偶然ではないと悟った良介の右手が上着の内側へ入った。
「待て!」
警察官の制止より早く、引き抜かれた手には刃物が握られていた。犯行に使われたものと同一かどうかを確認できる状況ではない。ただ、それが人を傷つけられるものであることだけは、離れた位置からでも分かった。
しかし良介は、それを警察官へ向けず、刃先を自分の首筋へ押し当てる。
「来るな!!」
静まり返っていた冬の橋に叫び声が響き、距離を詰めていた捜査員たちの足が一斉に止まった。報告はすぐに佐伯のもとへ届いた。
嫌な予感が当たったことを喜ぶ刑事はいない。だが、間に合った――少なくとも、まだ生きているうちに。
佐伯を乗せた車はすでに遠くにはなく、ほどなくして橋の手前で停まった。昨日と同じスーツの上に黒のコートを羽織った佐伯が車から降り、足早に現場へ向かう。前日から続く捜査で普段は整えられている黒髪には僅かな乱れが残っていたが、細いフレームの眼鏡越しの視線は、橋の中央にいる良介から動かなかった。
「状況は?」
「本人でほぼ間違いありません。こちらに気づいたあと刃物を取り出し、自分の首に当てています。警察官へ向けて振り回す様子はありませんが、近づけば切ると」
報告を受けながら、佐伯は配置された捜査員と良介との位置関係を確認した。距離はまだある。正面から一斉に詰めれば確保できる可能性はあるものの、その前に首を切られれば意味がない。
「声を掛ける人間は一人にする」
「誰が行きます?」
「俺が行く」
「課長代理が?」
「何人も同時に怒鳴るよりいい」
部下は一瞬だけ佐伯を見たが、止めはしなかった。
「俺が注意を引く。その間に左右から少しずつ距離を詰めろ。ただし、あいつに包囲が狭まってると意識させるな。飛び込める位置まで行っても、俺の合図までは動くな」
「了解」
完全な暗闇なら身を隠すこともできただろうが、空はもう白み始めている。街灯も残っている以上、大きく動けば良介にも分かる。佐伯が真正面から歩み寄るのに合わせ、捜査員たちは照明柱や欄干の構造を利用しながら良介の視界へ入りにくい角度を選び、ゆっくりと距離を縮めていった。
佐伯は両手を見える位置へ置いたまま歩き、良介が明らかに警戒を強めるより先に足を止めた。
「菅野良介」
名前を呼ばれた良介の肩が揺れた。
「……誰だよ」
「警察だ」
「見れば分かるよ……!」
「そうか。なら話が早い。その刃物、まず首から離そう」
「来るな!」と、良介は目に明らかな怯えを浮かべ、震える声で怒鳴る。
「行かない。だからお前も切るな」
佐伯は言葉どおり一歩も動かなかった。正面にいる自分へ良介の視線を引きつけておく必要がある。左右の捜査員たちはその間にも少しずつ距離を詰めているが、佐伯はそちらへ目を向けなかった。
「もう……いいだろ……」
「何がいいんだ?」
「俺はもう……」
言葉は続かない――が、佐伯は急かさなかった。相手が興奮状態から少し落ち着きを取り戻す程度の時間を、彼の首へ当てられた刃先とその右手の動きを見ながら待つ。「ハァッ…!ハァッ……!」と過呼吸気味だった良介の呼吸が収まってきたころ、佐伯は言葉に一切の感情を乗せず、機械的に一言だけ告げた。
「昨日、アイの家へ行ったな」
良介の顔が歪んだ。
「月城晴星を刺した」
「違う……! あいつじゃない……あいつを刺すつもりじゃなかった……!」
それまでとは明らかに違う反応だったが、佐伯は食いつかなかった。
今の一言だけでも、晴星が本来の標的ではなかった可能性は高くなった。しかし、それを確かめるのは取調室でもできる。ここで問いを重ね、良介を興奮させる方が危険だった。
「分かった」
「……え?」
「今はそれでいい。詳しいことはあとで聞く」
「あとなんかないよ……」
「ある」と佐伯は間を置かなかった。
「お前が何を考えてアイの家へ行ったのか、俺はまだ知らない。なぜ刃物を持っていたのかも、どうして晴星を刺したのかも知らない。だから今ここで勝手な筋書きを作るつもりもない。でも、お前が人を刺したことは消えない。お前がここで死んでも消えない」
良介の手が僅かに震えた。
「だから、生きて話せ」
「何を……」
「全部だ。どうしてアイのところへ行った。何を言いたかった。住所をどうやって知った。昨日の朝、あの時間にアイが家にいるとどうして分かった。お前が知ってることを全部だ」
問いを並べた途中、良介の目が一度だけ揺れたのを佐伯は見逃さなかった。しかし、それが住所に反応したのか、時間に反応したのか、それとも別の何かを思い出しただけなのかは分からない。
――自分で作った筋書きに証拠を当てはめるな。証拠から筋書きを作れ――。
昔、月城真昼から何度も叩き込まれた言葉を、こんな場所で改めて思い返す必要すらなかった。今の佐伯がすることは、見た事実だけを覚えておくことだった。
「刃物を置け、菅野。勝手にここで終わらせるな。お前がやったことも、知っていることも、生きて全部話せ」
良介は何も答えなかった。橋の下を流れる川の音に、遠くを走る車の音が混じる。朝が近づいている。佐伯の正面では、首筋へ刃物を押し当てていた良介の右手から少しずつ力が抜け始め、やがて刃先が皮膚から離れた。
「そうだ。そのまま。ゆっくり地面に置け」
良介の腕が下がっていく。佐伯の視界の端には、左右から接近した捜査員の姿がある。あと数歩。飛び込める距離には来ているが、誰も動かない。刃物を完全に手放させる方が安全だった。
あと少しだった。
「……アイ……」
良介が呟いた。
「アイは……俺のこと、覚えてたのかな……?」
佐伯には、なぜ今そんなことを聞くのか分からない。けれど良介にとって、それは事件を起こすよりずっと前から抱えていた問いだった。
何年もアイを見てきた。何度も会いに行った。彼女がまだ今ほど有名ではなかった頃から応援して、自分なりに言葉を送り、贈り物もした。アイドルとファンである以上、自分だけが特別ではないことくらい良介にも分かっていた。それでも、自分が積み重ねてきた時間のどこか一つくらいは、アイの中にも残っているのではないかと思いたかった。
星の砂を渡した日のことも、その一つだった。だから昨日、玄関の扉が開いたとき、本当は期待していた。自分の顔を見たアイが、名前を呼んでくれることを。
『だが、アイは呼ばなかった。』
佐伯はそんな良介の事情を知らない。ただ、本人から話を聞いたという事実を伝えただけだった。
「本人から話は聞いてる」
「名前……言った?」
「それがどうした」
佐伯にとっては、それ以上でもそれ以下でもない質問だったが、良介は違った。佐伯は「言った」と答えなかった。昨日、玄関で向き合ったアイも、自分の名前を呼ばなかった。
その二つだけで十分だった。
(ああ――――やっぱり……。
ファンの一人の――俺の事なんて――――)
何年も通った。何度も会った。ずっと自分はアイを見ていた。ずっと『愛してるって言われて自分も愛してきた』。それなのにアイにとって自分は、名前すら残らない程度の人間だったのだ。
「……そうか」
良介が笑った。
笑ったはずなのに、目から涙が落ちた。
「覚えてなかったんだ……」
佐伯の眉が僅かに動いた。
次の瞬間、下がりかけていた良介の右腕が跳ね上がった。
「菅野!!」
刃先が再び首筋へ向かうのを見た佐伯は、もう待たなかった。
「確保!!」
左右から距離を詰めていた捜査員が一斉に飛び込んだ。一人が刃物を握る右腕を外側から押さえ、もう一人が肩から上体へ組みつく。良介の手首が首へ届く前に腕を引き離し、さらに別の捜査員が身体を欄干から遠ざけた。
「離せよ!!」
「刃物を離せ! 菅野!」
「もういいだろ!?」
「動くな!」
揉み合いの中で良介の手から刃物が落ち、路面へ硬い音を立てた。別の警察官がすぐにそれを良介から遠ざけ、その間に良介は地面へ押さえ込まれる。数秒間は身体を激しく捩って抵抗したものの、複数の捜査員に制圧されると、やがてその力も抜けていった。
良介の首筋に致命的な傷がないこと、確保に入った捜査員にも大きな負傷がないこと、そして刃物が確実に押収されたことが次々と確認されていく。その報告を一つずつ聞き終えてから、佐伯はその場に立ったまま、ようやくゆっくりと息を吐いた。
最悪の結果だけは避けられた。
必要な手続きが進められ、菅野良介は月城晴星に対する殺人未遂事件の被疑者として身柄を確保された。逃走していた重要被疑者を発見し、凶器と思われる刃物を押収したうえ、本人にも警察官にも致命的な負傷を出さずに確保できたことは、夜を徹して続けられた捜査にとって大きな前進だった。
佐伯は、捜査員に挟まれて連行されていく良介の背中を見送った。
生きている。それだけでも意味は大きい。良介は晴星を刺した実行犯であり、事件の中心にいた人間でもある。ここで死なれていれば、残された防犯映像や証言、物証だけを頼りに捜査を続けるしかなく、本人にしか答えられないことの多くが永遠に失われるところだった。だが、捕まえたからといって、事件が終わったわけではない。
アイがあの部屋へ引っ越してから、まだ一週間しか経っていない。良介はその住所を知り、東京ドーム公演当日の朝にアイがそこにいることまで知ったうえで現れた。橋の上でその入手経路を尋ねたときに見せた、あの僅かな目の動きも佐伯は覚えている。
良介一人でそこまで調べた可能性はある。誰かから聞いた可能性もある。今の段階で、どちらかに決める材料はない。
だから調べる。生きて捕まえた以上、今度は本人の口から一つずつ確かめることができる。佐伯は白みきった東の空へ一度目を向け、すぐに視線を戻した。
事件の捜査は、一歩進んだ。それでも、月城晴星はまだ集中治療室にいる。
昨日から佐伯のもとへ入ってくるのは、手術が成功した、意識が戻った、容体は安定している――そんな報告ばかりだった。どれも必要な情報であり、無事を知らせるには十分な言葉のはずなのに、佐伯にはどうにも足りなかった。
自分の目で見ていない。真昼の息子が、本当に生きているところを。
それに、晴星が助かったからといって、これから先も安全だとは限らない。良介が本来狙っていたアイについても同じだった。事件の全容が分からない以上、実行犯を一人拘束したという事実だけを、安全の保証へすり替えることはできない。
(もし、この事件が良介一人で完結していないのなら――)
そこまで考えたところで、佐伯は自分の思考を止めた。まだ仮説に過ぎない。
(――自分で作った筋書きに証拠を当てはめるな)
さっき橋の上でも頭をよぎった言葉を、今度は意識して自分自身へ向ける。疑うことと、決めつけることは違う。今ある違和感を捨てず、それでも答えを先に作らない。それが真昼から教わった捜査のやり方であり、今も佐伯が守っているものだった。
良介を乗せた車が、ゆっくりと橋を離れていく。
佐伯はそれを最後まで見送ってから、傍にいた部下へ振り返った。
「戻るぞ。菅野から全部聞く」
そう告げて歩き出し、数歩進んだところで一度だけ足を止めた。
捜査は前へ進める。だが、その前に一つだけ確かめておきたいことがあった。
「……病院へ連絡を入れてくれ」
ファンの心理としては「推しに自分の事を認知していてほしい」ってあると思うんですよね。でも相手も人間なんだから。何万人のファンを全部覚えてられないでしょ?
今回は「思い出したアイ」と「覚えてもらえてないんだ!と絶望するリョースケくん」のすれ違いでしたが、この物語は結構「すれ違いによる悲劇」があったりするので、それを前提に読んでいただくのも、楽しみの一つになるかもしれません。