【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて―   作:horizontal line

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第七話

 

 

 事件から二日後の朝、東都大学病院の集中治療室で、月城晴星はこれまでよりもはっきりとした意識を取り戻していた。

 

 手術を終えてから一度も目を覚まさなかったわけではない。術後にも短い覚醒は何度かあり、そのうちの一度には傍にいた美月と言葉まで交わしている。ただ、そのときの晴星は意識が戻ったというより、深い眠りの底から一時だけ浮かび上がったような状態に近かったらしく、本人にはほとんど記憶が残っていなかった。目を開けたと思えばまた眠り、次に気づけば知らないうちに時間が進んでいる――そんな曖昧な時間を繰り返していた晴星にとって、ここへ運ばれてからどれほど経ったのかさえ、まだ実感の伴わない話だった。

 

 それでも、自分の身体に何か大きなことが起きたのだという事実だけは嫌でも分かる。腹部には、じっとしていても消えない鈍い痛みが居座っていた。少し身体の向きを変えようとすれば傷の周囲が内側から引っ張られるように痛み、普段なら考える必要さえない寝返り一つに「どう動けば痛くないだろう」と頭を使わなければならない。試しに腰を浮かせようとして――やめた。

 

 (痛い…これは無理だ――)

 

 素直に諦めて天井へ視線を戻したところで、すぐ傍から、ぱらり、と紙をめくる音が聞こえた。

 ベッドの横に置かれた椅子では、美月が病院から渡された冊子と何枚かの書類を読んでいる。一般病棟へ移ったあと、いつ頃から身体を起こし、歩くことを始めるのか。食事はどのように戻していくのか。その先、退院へ向けて何を確認していくのか。医師からすでに聞いた説明も多かったが、美月は同じ箇所を何度も読み返していた。

 考えてみれば、これほど身近な人間の入院に付き添うのは、彼女が晴星を産んだとき以来だった。あのときは自分がベッドに寝かされる側で、真昼が傍にいた。そういえば彼も、病院から渡された冊子を妙に真剣な顔で読んでいたような気がする。初めての出産を控えた妻より緊張しているんじゃないかと笑ったら、「だって俺が代わってやれること何もねえじゃん」と、少し情けない顔で返された。

 

 (今なら、あのときのあの人の気持ちが少し分かる気がする)

 

 医師から「経過は順調です」と聞けば、もちろん安心する。けれど母親が知りたいのは、その言葉のさらに先だった。いつ起きられる。いつ歩ける。いつ家へ帰れる。医師にもまだ断言できないことまで知りたくなってしまうのだから、何度同じ文章を読んだところで答えが増えるはずもない。それでも目を離せずにいた美月が、ふと顔を上げると晴星と目が合った。

 

「おはよう」

「……おはよう」

 

 晴星は自分でも分かるくらい声は弱かったが、返事はきちんと言葉になった。それだけで、美月の目元に二日間居座り続けていた緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。

 事件の日から、彼女は一度も自宅へ帰っていない。だからといって二日間ずっとICUのベッド脇にいられたわけではなく、治療や処置のため離れなければならない時間には院内で待ち、着替えや洗面用品はマネージャーに届けてもらった。帰ろうと思えば帰ることはできたし、晴星の容体が安定している時間なら病院側も引き止めはしなかった。それでも、ICUにいる息子を置いて自宅へ戻る気にはなれなかったのだ。

 少し前まで元気だった息子が突然刺され、大量に血を失い、緊急手術を受けたのだ。「今は安定しています」と何度説明されても、次に呼ばれたときも同じ言葉を聞けると信じ切るには、美月が過去に経験したことは今になっても重かった。だからこそ、こうして焦点の合った目で自分を見て、「おはよう」と返してくれるだけでも、昨日までとはまるで違う朝だった。

 

「……母さん」

「なに?」

「今日、何日?」

 

 美月は一度瞬きをした。

 

「そこから?」

「……うん」

 

 本気だったようだ。「事件から二日経った朝よ」と教えられた晴星は、驚くというより、自分の中に残っている記憶と聞かされた時間を照らし合わせるように黙り込んだ。途中で何度か目を覚ましていることも聞かされたが、本人には手術を受けたらしいと誰かから説明されたような、されていないような、その程度の曖昧なものしか残っていない。

 刺されたことなら、もう少し覚えている。自宅を出ようとしていたこと。隣の部屋の玄関前にアイと知らない男がいたこと。何かがおかしいと感じたこと。アイの腕を掴んで後ろへ引いたこと。

 

 (その先は――駄目だ、うまく繋がらないな…)

 

 花を持った男。腹へ受けた重い衝撃。あとから見えた銀色。そして今そこにある痛み。順番をつけようとすると、記憶の輪郭がぐにゃりと崩れた。無意識に腹部へ向かいかけた晴星の手を、美月がすぐに止める。

 

「触らないで」

「……はい」

「思い出せないところは、無理に思い出さなくていいから」

 

 素直に手を戻した晴星は小さく頷き、それからしばらく天井を見ていた。美月は、自分に何が起きたのか整理しているのだろうと思っていた。けれど、やがてこちらへ向いた息子の顔を見た瞬間、次に何を聞かれるのか、なぜか先に分かった。

 

「……アイちゃんは?」

 

 (やっぱり……)と内心つぶやき、美月は小さく息を吐いた。

 

「それ、目を覚ましたときにも聞いたわよ?」

 

 晴星には覚えがなかった。最初に意識を取り戻して美月と言葉を交わしたときにも、自分がどうなったのかを尋ねるより先に「アイちゃんは?」と聞いたらしい。そう説明されても記憶は戻らず、しばらく探した末に諦めた晴星は、結局もう一度同じことを尋ねた。

 

「で、無事なんだよね?」

「無事よ。怪我もしてない」

「そっか」と呟いて、ふう、と晴星の肩から力が抜ける。

 

 その顔に、美月は一瞬だけ真昼を重ねた。自分のことより先に、守った相手の無事を確かめる――そこまで似なくてもいいのに。

 もっとも晴星は、父が刑事として仕事中に事件に遭い、そのまま命を落としたことしか知らない。美月が何に腹を立てたのかなど、分かるはずもなかった。

 

「晴星」

「ん?」

「あとで説教するから」

「……なんで?!」

「それも自分で考えなさい」

 

「えぇ……」と困った顔になった。当然である。答えを導くための材料を、美月本人が教えていないのだから。それでも今の彼女は、夫の悪いところまで受け継いだような息子に腹を立ててやりたかったし、二日間も散々心配させられた仕返しに、少しくらい理不尽な母親になってやってもいいと思っていた。

 

 何より、こんなくだらないやり取りができる。

 晴星が生きているからできることだった。

 

 ほどなくして医師と看護師が状態の確認に訪れた。意識や全身状態、腹部の傷、術後の経過を順に確認されるあいだ、晴星は言われるまま身体を動かし、そのたびに「痛っ」と顔を顰める。大きな出血を伴う腹部の刺創だった以上、すぐ元の生活へ戻れるわけではないものの、現時点で警戒していた大きな術後合併症はなく、状態も安定しているという。

 そして今日、ICUを出て一般病棟へ移ることになった。それを聞いた晴星の顔が明らかに明るくなったため、医師はすかさず釘を刺した。一般病棟へ移れることと、治療が終わったことはまったく別である。傷はまだ治癒の途中で、これから身体を起こし、歩くことも少しずつ始めなければならない。

 

 晴星は神妙な顔で頷いた――ところまではよかった。

「退院って、いつくらいですか?」――医師が答える。

「仕事は?」――今度は美月の眉が動いた。が、医師は答えてくれる。

「学校は――「晴星」」と美月に三つ目で止められた。

 

「……聞いただけじゃん」

 

 ぼそりと抵抗した息子に、医師まで苦笑する。今は治すことを仕事だと思ってください、と諭されれば、晴星も「はい」と返事をするしかなかった。返事だけは立派だったが、美月にはまったく納得していない顔に見えた。

 医師たちが離れたあと、美月も一度ICUの外へ出た。一般病棟へ移って面会できる状態になったら知らせると約束していたアイへ連絡を入れるためだった。晴星の状態が安定し、今日中に一般病棟へ移ることになったと送る。返事はすぐに届いた。

 それだけで、アイがこの知らせをどれほど待っていたのかは十分に分かって、彼女は淡く微笑んだ。

 

 その後、一般病棟へ移ってからの面会について確認していると、看護師からもう一つ話があるという。警察からも、晴星の体調が許せば今日、短時間だけ話を聞きたいという申し入れが来ているらしい。重傷を負ったばかりの未成年者である以上、長時間の事情聴取は認められず、本人に負担を掛けない範囲に限るという条件で、主治医からも許可が出ている――と。

 警察、と聞いた瞬間、美月には来る人間の見当がついた。確証があるわけではない。けれど、真昼の息子が刺されたと知って、あの男が部下だけを寄越して済ませるとは思えなかった。

 

     ◇

 

 一般病棟への移動そのものは問題なく終わったものの、ICUを出られるほど状態が安定したことと、身体が元気であることは別の話だった。病室を移り、身体の向きを変えられ、医療スタッフと何度か言葉を交わしただけでも晴星には十分な負担になったらしく、個室へ落ち着いた頃には朝より疲労が濃くなっている。

 しばらく休ませたあと、美月はそこで初めて自宅へ戻ることにした。今なら少し離れても大丈夫だと、ようやく思えた。

 

「家から持ってきてほしいものある?」

 

 そう尋ねると、晴星は少し考えてからスマートフォンを挙げたが、それも充電器もすでに美月の手元にあった。自分より母親の方が持ち物を把握していることに晴星が呆れると、「誰が二日間あんたの荷物の面倒見てたと思ってるの」と返され、これは勝てないと早々に諦める。

 それから学校の鞄に入っている本と、部屋にあるイヤホン。最後に仕事で使っていた台本、と口にした瞬間、美月の顔が変わった。

 

「それは駄目」

「なんで?」

「仕事する気でしょう」

「読むだけだよ」

 

 読むだけ? そんなわけがあるか。十六年間この息子を育ててきた母親を舐めてもらっては困る。台本を開けば役を考える。役を考えれば芝居をしたくなる。芝居をしたくなれば、そのうち「ちょっと立ってみてもいい?」などと言い出すに決まっている。

 

「駄目。暇なら寝てなさい」

「横暴だなぁ……」

 

 横暴で結構。生きて帰ってきた息子を叱れるのなら、今の美月は喜んで横暴な母親になるつもりだった。

 

     ◇

 

 自宅へ戻るのは、たった二日ぶりだった。仕事柄、それ以上家を空けることなど珍しくもないはずなのに、鍵を開けて玄関へ足を踏み入れた途端、美月にはずいぶん長く帰っていなかったように感じられた。

 感傷に浸るために戻ってきたわけではない。晴星が病院で困らないよう、まずは着替えと下着を数日分、洗面用具も必要そうなものを選んで鞄へ詰めていく。頼まれていた本は学校の鞄から見つかり、イヤホンもいつもの場所にあった。その近くには晴星が仕事で使っていた台本もあったが、そちらは無視した。

 

 荷物の目処がついたところで、美月はようやく、この二日間ほとんど人に任せきりにしていた仕事へ向き合った。事務所の社長にも、自分のマネージャーにも、晴星のマネージャーにも、事件当日に事情を満足に説明する余裕さえないまま飛び出した撮影現場にも、伝えるべきことがある。

 代わりに連絡を取り続けてくれた人たちがいたからこそ、美月は晴星だけを見ていられた。そのことを分かっているから、電話が繋がるたび、まず自分の口から謝った。突然仕事に穴を空けたこと。この二日間、ほとんど何も返せなかったこと。そして何より、心配を掛けたこと。

 けれど返ってきた言葉に、美月を責めるものは一つもなかった。晴星が一般病棟へ移れるまで回復したと伝えれば、電話の向こうからまず安堵され、今度は美月まで倒れてしまわないよう休めと逆に心配される。もう少しだけ息子の傍にいさせてほしい――仕事に関して自分からそんな頼みを口にすることの少ない美月にとって、それは十分すぎるほど我儘な願いだったが、それさえ誰も咎めず、むしろ当然のこととして受け入れてくれた。

 

 ありがたい。それと同じくらい――申し訳ない。けれど、だからといって「もう大丈夫だから」と仕事へ戻れば、それは責任感ではなく自分の意地を優先しているだけだということも分かっていた。今は甘えればいい。晴星がもう少し元気になったら、そのとき返せるものを返せばいいのだから。

 

 電話を終えた頃になって、美月はようやく自分の身体にも意識を向けた。病院にいる間も、マネージャーが届けてくれた服へ着替え、顔を洗い、身だしなみくらいは整えていた。それでも事件の日の朝から、シャワーを浴びて髪まできちんと洗うような時間を過ごしてはいない。浴室へ入り、温かい湯を頭から浴びたところで、はぁ――と、自分でも驚くほど長い息が漏れた。

 だからといって、張りつめていたものが一気に消えるわけではない。晴星が一般病棟へ移ったからといって傷が治ったわけでも、退院したわけでもなかった。それでも二日前までとは違う。少なくとも今は、シャワーを浴びている数十分のあいだに病院から電話が来るのではないかと怯え続けなくてもいいところまで、息子は戻ってきた。

 髪も洗い終え、浴室から出た彼女は鏡の前で乾かしながら、久しぶりに自分の顔をまともに見た。疲れている。女優としてなら、人前へ出る前にもう少しどうにかしたいと思う顔だったが、今日は撮影へ向かうわけではない。化粧も最低限で済ませ、動きやすい服へ着替えると、晴星の荷物を入れた鞄を持ち上げた。

 

 仕事へ戻るために身支度を整えたのではない。今の美月が戻る場所は、晴星のいる病院だった。

 

 愛する息子のためだ。この程度の苦労、なんてことはない。

 

     ◇

 

 同じ日の昼前、警視庁では、前夜に身柄を確保された菅野良介の取調べが続いていた。

 取調室の椅子に座った良介は、橋の上で自分の首へ刃物を当てていたときの興奮が嘘のように俯いている。その様子を別室から確認していた佐伯は、自分で取調室へ入って怒鳴りつけようとはしなかった。本人が話したことを、そのまま真実として受け取るつもりもない。供述は供述。事実は事実。話を聞き、その裏を取る――それだけだった。

 

「最初から全部聞いてくれ」

 

 取調べを担当する捜査員へ、佐伯は確認事項を渡していた。アイとの関係。事件当日、何を目的として自宅へ向かったのか。刃物を用意した時期と理由。何が起きて晴星を刺したのか。

 

「それから住所。あと時間だ」

「時間?」

「夜明け前にいきなり訪ねてる。寝てるかもしれないし、呼び鈴を鳴らしても出てこないかもしれない。それなのに、こいつは花まで持ってアイ本人と話すつもりで行った。何で、その時間ならアイが起きていて玄関まで出てくると思った?」

 

 佐伯は現場資料へ視線を落とした。花を持っていたことも、佐伯は軽く見ていなかった。早朝の住宅街を花束らしきものを抱えた男が歩いていれば、たとえ人通りが少なくても、目撃者がいれば印象には残りやすい。訪問目的を取り繕うためのカモフラージュだった可能性もあるが、単に目立たず接近したいだけなら、むしろ余計なリスクを増やす荷物でもある。それでも――良介は花を用意した。

 ならば本人の中には、あの時間に訪ねれば一度でアイ本人に会えるという見込みがあったはずだ。花を手渡すことそのものが目的だったのか、あるいはそれを口実に玄関を開けさせ、会話へ持ち込めると考えたのか。どちらにせよ、「いるかどうか分からないが、とりあえず行ってみた」という行動には見えない。

 住所だけでは足りない。佐伯が知りたいのは、そこだった。

 

「ただし、最初から誰かに教えられた前提で聞くな。自分で調べた可能性もある。自然に話させろ」

「分かりました」

 

 取調べが進むにつれ、良介は途切れ途切れながらも、自分とB小町について話していった。

 

 最初に推していたのはニノだ。まだ今ほどB小町の知名度が高くなかった頃からライブへ足を運び、何度も、何度も通った。そのうちに顔を覚えられ、言葉を交わすようになり、やがてファンとアイドルという関係を越えて交際するようになった。

 それでもライブへ通うことをやめなかった良介の視線は、いつしか別の少女へ向かうようになる。

 

 『センターで笑うアイ』

 

 自分たちへ「愛してる」と言うアイを、良介は信じていた。そして四年前、ライブ会場で知り合った友人から、アイが妊娠しているかもしれないと聞いた。

 良介はその真偽を確かめるため宮崎まで行ったものの、結局は何も分からないまま東京へ戻っている。それでも疑いだけは消えず、四年間抱え続けた末に、事件の日、本人へ確かめるため自宅を訪ねた。そこで玄関に小さな子供用の靴を何足も見つけた――ここまでの事を、良介は全てを警察に話したわけではない。特にニノと交際していたことは隠して伝えていた。

 

「見た瞬間、分かったんです。ああ、本当だったんだって……」

 

 もちろん、子供用の靴が置かれていることだけで、それがアイ自身の子供のものだと証明できるわけではない。警察にとっても、事件当時あの部屋にいた幼い双子は、アイの部屋へ泊まりに来ていた子供として把握しているに過ぎず、良介の供述と結びつける理由はまだなかった。けれど良介本人にとっては違った。四年間抱え続けた疑惑へ、自分で答えを与えるには十分だったのだ。

 刃物については、最初から殺害するために持参したのではないと供述している。怖がらせれば逃げずに話を聞き、本当のことを答えると思った。晴星については面識も恨みもなく、突然アイとの間へ割って入ってきたため、頭に血が上った状態で刺したという。

 

 それらがどこまで事実なのかは、これから裏を取ればいい。供述された動機と、実際に現場で起きたことが同じである保証など、どこにもない。

やがて話は、佐伯が特に確認したかった部分へ移った。

 

「菅野さん。アイさんの住所は、どうやって知ったんですか?」

 

 少しの沈黙を置いて、良介は「…友達から」と、ぼそっと答えた。それは先ほどから供述に出ている、ライブ会場で知り合った男だった。

 

「名前は?」

「……ヒカル」

 

 別室にいる佐伯の視線が鋭くなる。名字は知らないという。何度も会っていたにもかかわらず、それ以上の素性もほとんど知らなかった。ただ、それ自体が直ちに不自然とは限らない。学校や職場で知り合ったわけではなく、好きなアイドルを追いかけていた先で顔を合わせ、同じものを好きだというだけで意気投合した関係である。イベントへ行けばどちらからともなく相手を見つけ、終わればライブの感想を言い合い、新しいグッズが出ればどちらが手に入れたかで盛り上がる。

 良介にとって重要だったのは、相手の名字でも住所でも職業でもなかった。同じアイドルについていくら話しても飽きない相手。それで十分だった。

 現在の住所についても、ヒカルから一方的に教えられたわけではないらしい。ライブのあとでいつものように話していると、ヒカルからアイが引っ越したらしいという話題が出た。良介自身が場所を知っているのかと尋ね、知っていると答えた相手へ、今度は自分から教えてほしいと頼んだ。ヒカルは最初、拒んだ。住所まで教えるのはまずい。それでも良介が何度も頼みこみ、最終的には教えた。

 

 取調官は、自宅へ行くよう言われたのか、襲うよう指示されたことはなかったのかと順に確認したが、良介はどちらも否定した。むしろ最後に言われた言葉として覚えていたのは、行動を促すものとは反対だった。

 

「……絶対、迷惑かけんなよって」

 

 佐伯は黙って聞いていた。供述だけを見るなら、ヒカルという人物は住所を教えた。しかし、自宅へ行けとも、襲えとも言っていない。むしろ最後には迷惑を掛けるなと釘を刺している。少なくとも現時点で、それ以上の意味を付けることはできない。ただし、四年前にアイの妊娠疑惑を良介へ伝えたのも、そのヒカルという男だった。そして四年後には、アイが引っ越したことを知り、現在の住所まで把握していた。

 名字も知らない。仕事も知らない。どこに住んでいるのかも知らない。それなのに、アイについては妙に詳しい。

 

 引っかかる。だが、引っかかるだけだ。真昼なら、こういうとき何と言うか。

 その教えを思い出した佐伯は無意識に組み立てかけた仮説を、そこで止めた。違和感は証拠ではない。ならば調べればいい。

 住所を聞いた時期や状況について必要な確認を終えた取調官は、もう一つの問題へ移った。

 

「では、事件当日の朝、どうしてあの時間に行ったんですか?」

 

 良介の動きが止まった。

 

「まだ暗い時間です。寝ていてもおかしくない。呼び鈴を鳴らしても出てこないかもしれない。それでも、あなたは花まで用意して、アイさん本人と話すつもりで行った。あの時間なら会えると知っていたんですか?」

 

 返事がない。

 壁掛け時計の秒針が、カチ、カチ、と取調室の沈黙を刻んでいた。

 

「ヒカルさんから聞きましたか?」

「違います」

 

 そこだけ、返事が早かった。

 別室にいる佐伯の目が細くなる。取調官もその反応を拾い、自分で調べたのか、ほかの誰かから聞いたのかと問いを変えた。それでも良介は再び黙り込み、その人物について話したくない理由があるのかと尋ねられると、さらに深く俯いた。

 

 良介の頭の中に蘇っていたのは、数年ぶりに聞いた声だった。

 まだ自分が彼女だけを見ていた頃。ステージの上にいるニノを追いかけ、何度も何度もライブへ通っていた頃。やがてお互いに好きになり、付き合うようになってからは、ライブが終わったあとに二人でくだらない話をした。まだB小町の人気も知名度も今ほどではなかったとはいえ、彼女はアイドルだったから、人目を避ける必要はあった。変装して、身元がばれないよう気をつけながら、こっそり出掛けたこともある。

 

 自分のファンだった男と、ステージの上にいたアイドル。少し歪なところから始まったはずなのに、二人でいるときだけは、そんな始まり方さえ忘れて笑っていられた。

 

 好きだった。

 愛していた。

 

 それなのに、自分はいつしかアイばかりを見るようになった。ステージにアイが立てば目で追い、アイが笑えば喜び、ニノの隣にいながら別の少女の話をする。傷つけた。裏切った。

 

 (それをしたのは……俺だ…)

 

 数年ぶりに、電話越しとはいえ彼女の声を聞いたからなのか。あの頃なら当たり前だった声が耳へ届いた瞬間、とうに終わったはずの交際当時の感情まで、引きずられるように戻ってきた。

 

 だから――これだけは言いたくなかった。

 

 良介は刑事ドラマで何度か聞いた言葉を思い出した。法律に詳しいわけではなく、それが正確にはどんな権利で、どこまで何を答えなくていいのかも知らない。ただ、言いたくないことを聞かれた人間が使っていた言葉だけは覚えていた。

 

「……黙秘権を行使します」

 

 取調官が僅かに目を上げた。

 被疑者には、自分の意思に反して供述を強制されず、答えたくない質問には答えない権利がある。もちろん、本人が口を閉ざしたからといって捜査そのものまで止まるわけではなく、警察は別の証拠から同じ事実を調べることができる。

 

「分かりました」

 

 取調官は無理に名前を吐かせようとはしなかった。別室の佐伯も表情を変えず、手元の紙へ二つの言葉を書く。

 

 場所――ヒカル。名字不明。

 その下へ、 時間――黙秘。

 

 しばらく二行を眺めたところで、傍にいた捜査員の携帯端末が震えた。短いやり取りのあと、男が佐伯へ顔を向ける。

 

「課長代理。病院からです。月城晴星さん、一般病棟へ移ったそうです。主治医からも、短時間なら面会して構わないと」

「分かった」

 

 晴星が生きていることは報告で知っていた。手術が成功したことも、意識を取り戻したことも知っている。

 会える――そう分かった瞬間に病院へ向かいたくなる自分がいることも、佐伯は否定しなかった。だが、まだ仕事がある。

 

「……通信記録」

 

 考えながら零れた呟きを、傍の捜査員は聞き逃さなかった。

 

「菅野のですか?」

「ああ。事件当日を中心に通話履歴を確認する。必要な手続きを取ってくれ」

「ヒカルとの連絡を?」

「それもだ。でも、こいつが今隠したのはヒカルじゃない」

 

 住所については話した。四年前の妊娠疑惑についても話した。ヒカルが自宅へ行けとも、襲えとも言っていないことまで自分から説明している。それなのに、時間の出所だけは「黙秘権」という言葉まで持ち出して拒んだ。

 

「場所は出た。でも――時間はどこから出た?」

 

 名字すら分からない「ヒカル」という男。良介が口を閉ざした、もう一人の誰か。そして事件当日の通信記録。今はまだ、それぞれが別々の点にしか見えない。だからこそ佐伯は、より慎重になる。そうあるように自制する。一つずつ確かめればいい。本当に繋がったとき、初めて事実として扱えばいい。

 ただ、良介の供述によって、アイ本人へ確認すべきことは増えた。四年前、良介が「アイが妊娠しているかもしれない」と聞いたという話に、本人は何か心当たりがあるのか。そもそも、その情報自体が事実に基づいたものだったのか。

 そして現在の住所。アイは事件直後の聴取で、良介本人へ住所を教えたことはないと答えている。しかし良介の供述によれば、ヒカルという男は、つい一週間ほど前に転居したばかりのアイの新しい住所を知っていた。引っ越してから事件までの短い間に、アイ自身が新しい住所を誰かへ伝えたことはなかったのか。あるなら、誰に?

 

 (本人へ聞けばいい)

 

佐伯は腕時計を確認すると立ち上がった。

 

「病院へ行く。車を回してくれ。二人くらい連れて行くから、手の空いてる者の手配も頼む」

「分かりました」

 

     ◇

 

 美月が病院へ戻ってしばらくした頃、コン、コン、と控えめなノックが病室の扉を叩いた。彼女が「はい」と返すと、すぐには扉が開かなかった。ほんの一呼吸置いてから、「……アイです」と、向こう側から聞き慣れた声がする。その名前に晴星が顔を上げるのを見ながら、美月は「入っておいで」と答えた。

 普段なら、「入ってらっしゃい」と言ったかもしれない。アイは息子の仕事仲間でもなければ、美月自身と親しかったわけでもない。事件が起きるまでは、晴星が昔から顔を知っているアイドルで、偶然隣へ越してきた少女。それくらいの認識だった。

 でも今は、少し違う。血まみれの晴星を前に取り乱し、病院では自分を責め、それでも晴星の無事を誰より気にしていた。帰るように言われても、ここに残ってはいけないかと尋ね、一般病棟へ移ったら知らせてほしいと願っていた。

 娘のように思うには、まだ何も知らなさすぎる。けれど完全な他人として扱うには、美月はもうアイの泣いた顔を知りすぎていた。

 

 扉がゆっくり開く。病室へ入ろうとしたアイの足が、そこで止まった。

 晴星はベッドの背を少し起こしてもらい、枕に身体を預けている。顔色はまだ悪く、病衣から覗く腕にも普段のような力はない。腹部の傷は布団に隠れて見えないのに、そこへ負担を掛けないよう身体を動かしているだけで、いつもの晴星とは違うことが分かった。

 

 けれど、『生きている』晴星だった。

 

「アイちゃん」と彼に名前を呼ばれる。

 その声を聞いた瞬間、アイが病院へ向かう途中で考えていた言葉は、一つ残らず役に立たなくなった。何を最初に言うか、ちゃんと考えてきたはずだった。晴星はまだ怪我人なのだから、自分が取り乱してどうする。会えたらまず笑おう。それから――。

 

「……晴星、くん」

 

 無理だった。名前を呼んだ途端、声が震えた。

 自分でも「あ」と思ったときには、視界まで滲んでいた。

 

「え、アイちゃん?」

 

 晴星の方が慌てた。そんな顔をされるとは思っていなかったらしく、身体を起こそうとして腹に響いたのか、「痛っ」と顔を顰める。

 

「ちょっと! 動かないで!」

「いや、だって――」

「動かない!」

「……はい」

 

 思わず強い声を出したあとで、アイ自身が驚いたように口を閉じた。美月は何も言わなかった。今の「動かない!」に、アイドルとして作ったものなど何一つなかったからだ。

 アイは泣くつもりで来たわけではない。晴星を困らせたいわけでもない。それなのに涙は勝手に溢れ、慌てて袖で目元を擦ろうとする。

 

「女の子なんだから、袖で目をこすらないの。これ、使いなさい」

 

 横から差し出されたハンカチに、アイが涙で濡れた目を瞬かせた。

 

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。ほら、座って。晴星がまた動こうとするから」

「俺のせい?」

「今は黙ってなさい」

「…はい」

 

 アイは美月に促されるままベッド脇の椅子へ腰を下ろした。晴星の顔を近くで見ると、さっき拭いたばかりなのにまた涙が滲む。

 

「……なに、その顔」

「え?」

「もっと……元気そうな顔してよ……」

 

 晴星は困った。

 

「いや、刺されたから……」

「知ってるよ!」

「ごめん」

「なんで晴星くんが謝るの!?」

 

 声を上げてから、アイは自分で何を言っているのか分からなくなったらしい。泣きながら怒っている。しかも相手は重傷を負って入院している本人だ。美月の口元が僅かに緩んだ。その無遠慮さが――少し嬉しかったようだ。

 相手がどう受け取るかを考え、どう振る舞えば嫌われないかを選び抜いた言葉ではない。泣いて、腹を立てて、困って、そのまま晴星へぶつけている。少なくとも今この瞬間のアイは、美月がテレビで見てきた「B小町のアイ」とは違っていた。

 晴星も困り果てたように母親へ助けを求める視線を送ったが、美月は助けなかった。

 

「……でも、元気にはなってるよ。今日、ここに移ってきたし」

「そういうことじゃないの」

「難しいなぁ……」

 

 アイの肩が僅かに揺れた。泣いているのかと思った晴星が心配そうに顔を覗き込もうとしたところで、今度は小さな笑い声が漏れる。泣きながら、笑っていた。

 

「……何それ」

「俺も分かんない」

「晴星くん、さっきから分かんないばっかり」

「今日起きたばっかりみたいなもんだから許してよ」

 

 少しだけ、空気が緩んだ。晴星はそこで初めて、病室へ入ってきたときからアイが鞄の持ち手を両手で握り締めていたことに気づいた。指先が白くなるほど力が入っている。笑ってはいるけれど、まだ普段のアイではない。もっとも、晴星が知っている「普段のアイ」が、彼女のどこまでなのかは分からない。だからこそ、決めつけるより先に尋ねた。

 

「アイちゃん、本当に怪我してない?」

 

 アイの笑みが止まった。

 

「……それ、また聞くの?」

「また?」

「美月さんに聞いた。目を覚ましたときも、最初に私のこと聞いたって」

「ああ……それ、俺覚えてないんだよ」

「もう……!」

 

 怒ったような声だったのに、その奥に先ほどまでとは違うものが混じった。

 美月は二人の会話へ割って入らず、少し離れたところから見ていた。自分がアイへ「あなたのせいじゃない」と言ったことが無意味だったとは思っていない。あの日のアイには、まず誰かがそう言わなければならなかった。けれど、美月は晴星の母親だ。アイが本当に聞かなければならなかった言葉を、代わりに言うことはできない。だから今は、黙っていた。

 

「……してないよ」

 

 やがてアイが答えた。

 

「怪我。本当に何にもしてない」

「そっか」

 

 晴星は、それだけで明らかに安心した。アイはその顔を見ていた。自分の腹には大きな傷がある。仕事にも学校にもすぐには戻れない。それなのに、自分が怪我をしていないと知っただけで、どうしてそんな顔をするのか。

 ずっと聞きたかったことが、また胸の中へ浮かんだ。

 

「……ねえ、晴星くん」

「ん?」

「一個だけ、ずっと聞きたかったんだけど」

 

 さっきまでとは違う声だった。晴星もそれを感じたのか、笑みを引っ込めてアイを見る。

 

「どうして、私を助けたの?」

 

 晴星はすぐには答えなかった。格好のいい理由を探していたわけではない。その問いを向けられて初めて、自分がなぜあのとき走ったのかを、言葉にしようとしていた。

 

 危ないと思った。だから身体が動いた。

 

 その間に、自分が刺される可能性を考えた記憶はない。助ければアイがどう思うかも、そのあと自分がどうなるかも考えていなかった。行動には結果があるのに、その前に「理由」と呼べるほど整った思考が見つからない。

 

 一方のアイは、その返答を黙って待っていた。昔から知っていたから。アイドルとして好きだったから。特別だったから。あるいは助けたことで、何かを求めているから。

 命を失いかけるほどのことをしたのなら、それに見合う理由があるはずだと、どこかで思っていた。理由が分かれば、その人が自分へ何を求めているのかも分かる。相手が望むものが分かれば、それに合わせられる。アイは、『晴星が求めた自分で彼にこれから接することが恩返し、もしくは罪滅ぼしになる』と半ば本気で考えていた。今まではその理由を自分で考えても答えが出なかったのでどうしようもなかったが、本人の口から理由がわかれば大丈夫だ、と。

 

晴星はしばらく考えた末、眉を寄せた。

 

「……危ないと思ったから?」

「なんで晴星くんが聞くの?」

「いや、俺もよく分かんないんだよ。考えてやったわけじゃないから」

「分かんないの?」

「うん」

 

 アイは晴星を見つめた。信じられなかった。

 

「でも……死んでたかもしれないんだよ?」

「うん」

 

 今度は晴星も軽く流さなかった。

 

「怖くなかったの?」

「怖かったよ」と、その返事だけはすぐに出てきた。「俺、死にたくないし」とも続く。

 

 アイの目が揺れた。

 あの日、自分の腕の中で聞いた言葉と同じだった。晴星は死ぬことを恐れない人間ではない。自分の命を軽く扱っているわけでもない。だからこそ、余計に分からない。

 

「じゃあ、なんで……」

「だから、それが俺も分かんないんだって」

 

 晴星は困ったように笑った。

 

「ただ、アイちゃんが危ないと思って、気づいたら動いてた。それだけ」

 

 『それだけ』で、人は他人の為に命を投げ出せるのだろうか。アイには分からない。

 けれど少なくとも、晴星が自分へ何かを求めて命を張ったわけではないことだけは、なんとなく分かった。

 

「……私のせいで刺されたって、思わないの?」

「思わない」と今度も即答だった。

「でも、私を庇わなかったら――」

「俺が刺されなかったかもしれない。それはそうだと思う」

 

 晴星はそこを否定しなかった。

 

「でも、俺が勝手に飛び出したのと、あの人が俺を刺したのと、アイちゃんが悪いかどうかは別でしょ?」

 

 アイは黙った。そんなふうに分けて考えたことがなかった。自分があの扉を開けた。良介が来た。晴星が飛び出した。晴星が刺された。ならば自分が扉を開けなければ――ずっと、そこまで一本に繋げて考えていた。

 

 彼の中では違う。美月はその横顔を見ながら、やはり晴星らしいと思った。

 晴星が幼い頃、テレビに映る自分を見て「母さんみたいになりたい」と言ったことを、美月は今でも覚えている。女優としての自分に憧れ、同じ世界を目指してくれた。それは母親として素直に嬉しかったし、今では誇らしくさえある。

 

 けれど真昼は違った。あれほど晴星を可愛がり、事あるごとに抱き上げ、遊び、話を聞き、息子を愛していたくせに、「父さんみたいになれ」と言ったことは一度もない。「男なら人に優しくしろ」だとか、「困っている人間を助けろ」だとか、そんな生き方を押しつけたこともなかった。

 晴星が何かをしたとき、何でも正しいと褒める父親でもなかった。否定から入ることもない。まず本人にどうしてそう思ったのかを聞き、自分で考えさせ、それから真昼自身の考えを話す。刑事としてどんな事件を解決したのかも、どんな危険な現場へ行ったのかも、家庭ではほとんど口にしなかった。晴星が父親の仕事姿を見る機会など、美月に比べればずっと少なかったはずだ。晴星自身だって、「父さんみたいになりたい」と口にしたことはない。

 

 (それなのに――嫌になるほど似ているわ…)

 

 苦笑しながら美月は思う。父親の背中というものは、息子にここまで影響を与えるものなのだろうか?

 美月には少し不公平にさえ思える。自分などテレビにも映画にも散々映って、分かりやすいほど息子へ背中を見せてきたというのに、真昼は何も見せず、何も教え込まず、それでも晴星の奥深いところへこんなものを残していった。

 

 もちろん、似ているから正しいわけではない。晴星には晴星の危うさがある。だから母親として、止めなければならないところでは止める。それもまた、真昼ならきっとそうしたはずだった。

 

「じゃあ……」と躊躇いがちにアイが少し迷ってから、また口を開いた。

「もう一回、同じことがあったら?」

 

 美月の表情が変わった。アイに悪意はない。ただ晴星という人間を理解するため、その先を知りたかっただけだ。けれど美月には、その質問を最後まで考えさせたくなかった。答えを聞いてしまえば、たぶんまた腹が立つ。

 

「アイちゃん、その質問はやめて」

「え――?」

「晴星も答えなくていいから」

「まだ何も言ってないけど…」

「今、答えようとしたでしょう?」

 

 晴星が一瞬黙ったあと「……したけど」と小さく呟く。

「ほら!」と、思わず美月の声が大きくなった。

 

「ご、ごめんなさい」

「アイちゃんが謝ることじゃないの。こいつが問題なの」

「『こいつ』!? 母さん、さっきからアタリが強くない?!」

「誰のせいよ!」

「だからそれが分かんないんだって!」

 

 晴星が本気で納得できない顔をする。その顔を見た瞬間、アイの口から、ふっ、と思わず笑いが漏れた。アイは自分でも驚く。泣いていたはずなのに、と。

 晴星も気づいたらしい。何も言わなかったが、さっきまで困ったようにアイを見ていた目から、少しだけ心配が消えた。美月はもっと早く気づいていたようだ。病室へ入ってきたとき、アイは鞄の持ち手を両手で握り締めていた。それが今は片手だけになり、もう片方は膝の上に置かれている。肩にも、先ほどまで入っていた力がない。

 

 たったそれだけの変化だった。けれど、美月にはそれで十分だった。

 二日前の朝を忘れたわけではない。晴星の傷が消えたわけでもなければ、アイの中にある疑問へすべて答えが出たわけでもない。晴星がなぜあの瞬間に自分を助けたのか、その答えさえ結局は「よく分からない」ままだ。

 それでも、その分からなさは、病室へ来る前までアイの胸を締めつけていたものとは少し違っていた。答えが分からないから怖いのではない。

 

 晴星が生きている。こうして母親に怒られている。自分も、それを見て笑えた。

 アイ自身はまだ、その小さな変化に名前をつけられない。ただ、二日前からずっと心のどこかで続いていた「あの朝」が、ようやく今日へ繋がった。美月には、それが分かった。

 

 なら、少しずつでいい――あの朝の続きを、生きていけばいい。

 

     ◇

 

 それから少し経った頃、病室の扉が再びノックされた。

 

 美月が返事をすると、病院の職員に案内されて数人の男が入ってきた。その先頭にいたのは、明るい色の――着替える時間すら惜しんだのだろう、少しよれたように見える――スーツを着た細身の男だった。普段なら乱れなく整えられている黒髪にも疲労の跡があり、細いフレームの眼鏡の奥には、一晩を跨いで捜査を続けてきた者特有の眠気とは違う重さが残っていた。晴星も美月も、その男をよく知っている。

 

「……佐伯さん?」

 

 晴星に呼ばれた佐伯は、すぐには答えなかった。

 手術成功。意識あり。状態安定。一般病棟へ転棟――報告はすべて受けている。

 けれど、紙や電話の向こうにある「生存」と、目の前で自分の名前を呼んだ少年の姿は、佐伯にとって同じものではなかった。

 顔色はまだ悪い。腹には大きな傷を抱え、自由に起き上がることもできない。それでも目を開けている。こちらを見ている。声が出ている。――――あぁ、生きている。

 

「佐伯さん?」

 

 返事がないことを不思議に思った晴星がもう一度呼ぶと、佐伯はようやく眼鏡の奥の目を細めた。

 

「……似なくていいところまで似やがって、馬鹿野郎」

「え?」

 

 当然、晴星には意味が分からない。美月には分かった。理由を求めるように息子から視線を向けられたが、美月は知らない顔をする。

 

「母さん、何?」

「知らない」

「絶対知ってるでしょ」

「朝から言ってるでしょう。自分で考えなさい」

「情報なしで考えろって無理じゃない?」

 

 少なくとも、これだけ喋れるなら意識については心配しなくてよさそうだった。佐伯の肩から、傍目に見てわかるほど力が抜ける。

 そこでようやく、病室にいるもう一人へ視線を向け、少し驚いた。

 

 アイ。彼女までここにいるとは思っていなかった。

 

 一方のアイは、晴星と美月が親しげに話すその男を知らない。病院の職員と一緒に入ってきた以上、何か用事があるのだろうと考え、長居して邪魔をするより、ちょうど帰る頃合いだろうと椅子から腰を上げた。

 

「じゃあ私、そろそろ――」

「アイさん」

 

 呼び止められて振り返ると、佐伯は懐から警察手帳を取り出し、アイに見えるよう提示した。

 

「警視庁の佐伯と申します。このあと、お時間はありますか?」

「……警察の人?」

「はい。今日のうちに、もう一度お聞きしておきたいことがあります。少し待っていてもらえますか」

 

 事件当日にも事情を聞かれているため、アイには何を改めて確認されるのか分からない。それでも捜査が進んだことで、新しく聞く必要が生まれたのだろうとは理解できた。

 

「分かりました」

「ありがとうございます」

 

 佐伯はそこで、同行してきた二人の捜査員のうち一人へ視線を向けた。それだけだった。

 だが男はすぐに小さく頷き、何も言わず病室を出ていく。佐伯がこのあとアイからも話を聞くつもりでいること、病室では晴星を休ませられないこと、ならば病院側へ頼んで人目のない一室を短時間借りられないか確認してこい――そこまで指示されたのだと、普段から佐伯の下で動いている捜査員には口にされるまでもなかった。

 

 佐伯は残った一人とともに晴星へ向き直る。

 

「晴星。病院から長く話すなって言われてる。しんどくなったらすぐ言え」

「うん」

「菅野良介を確保した」

「菅野……?」

「お前を刺した男だ」

 

 晴星の表情が変わる。

 

「捕まったの?」

「ああ。生きてる」

 

 その言葉には、美月だけでなくアイも反応した。

 晴星はしばらく佐伯を見てから、ほっとしたように息を吐く。

 

「……よかった」

「何がだ。お前を刺した男だぞ」

「それは分かってる。でも、死んだら、なんであんなことしたのか聞けないじゃん」

 

 晴星にとっては、犯人を許したという話ではなかった。人を刺すまでに何があったのか。なぜアイのところへ来たのか。本人に聞ける可能性が残った。だから「よかった」と言っただけだった。

 佐伯は一瞬だけ真昼を思い出しかけ――やめた。何でも父親へ結びつけるのは違う。

 今ここにいるのは、月城晴星という一人の人間だ。

 

「その『なんで』を調べるために、こっちも捜査してる。そのために、お前が覚えてることも確認させてくれ」

 

 佐伯は事件当日の朝について、晴星が覚えている範囲を順に確認していった。自宅を出ようとしていたこと。隣の部屋から人の声が聞こえたこと。扉を少し開けると、アイと見知らぬ男がいたこと。男が花を持っていたこと。

 

「最初から危ないと思ったのか?」

「最初からじゃないよ」

「じゃあ、何が気になった?」

 

 晴星はすぐには答えなかった。記憶を探しているだけではない。あの瞬間に自分が何を見て、何を感じたのかを、他人へ伝えられる言葉へ直そうとしている。

 

「……アイちゃんの顔」

 

 「え?」と思わずアイが晴星を見るが口をはさむことはしなかった。

 

「最初は普通に喋ってたと思う。でも……知ってる人と話してる感じじゃなかった」

「男のことを知らないように見えた?」

「たぶん。それに、あの人の方も変だった。花を渡しに来た人っていうより…アイちゃんがどうするか見てる感じがして……」

 

 佐伯は黙って聞いた。晴星の言葉は刑事が作る供述調書のように整理されているわけではない。それでも、ほんの短い時間の中で相手の表情や視線、身体の動きをかなり細かく拾っていたことは分かる。

 

「刃物は?」

「……ちゃんと見えたのは、たぶん飛び出したあと」

 

 佐伯が僅かに眉を上げた。

 

「刃物を見たから動いたわけじゃないのか?」

「うん。何か……マズいって思った。危ないって。それで気づいたらドア開けて走ってた」

「誰が危ないと思った?」

「アイちゃん」

 

 迷いのない答えだった。

 

「男の手に何か見えたとか、そういうのは?」

「そこまで分かってなかったと思う。アイちゃん引っ張って……そのあと、こっちの手が動いたのが見えて――」

 

 そういいながら右手を動かすジェスチャーを入れて、晴星が自分の腹へ視線を落とした。

 

「何かぶつかったと思った。痛いって思ったのは、そのあと」

 

 佐伯はそれ以上、その瞬間を無理に辿らせなかった。

 凶器を認識して危険だと判断したのではない。晴星はその前に、アイの表情と良介の様子から何かを感じ取っていた。理由を言語化するより早く身体が動き、結果として刃物を受けた。それは先ほどアイへ答えた「危ないと思ったから」という言葉とも矛盾しない。

 その後もいくつか必要なことを尋ねたが、晴星の記憶は刺された直後から急激に曖昧になっている。医師からも無理に記憶を辿らせたり、長時間話させたりしないよう求められている以上、今日すべてを聞く必要はなかった。

 

「今日はここまでだ。ゆっくり休め」

 

 佐伯が立ち上がると、美月も椅子から腰を上げた。

 

「佐伯くん」

 

 呼ばれて振り向いた佐伯へ、美月はほんの少しだけ頭を下げる。

 

「……ありがとう」

 

 何に対する礼なのかは言わなかった。良介を死なせず確保したこと。晴星のために病院へ来てくれたこと。あるいは、もっと昔から続いている何か、か。佐伯も尋ねなかった。

 

「……はい」

 

 それだけで、二人には十分だった。

 

     ◇

 

 病室を出ると、先ほど佐伯の意図を察して離れた捜査員が待っていた。病院側が短時間なら使って構わないとした小さな面談室を確保したらしい。佐伯はアイと記録担当の捜査員を連れてそちらへ向かい、もう一人には「念のため、お前は外にいてくれ」と告げた。

 

 室内へ入ったのは三人。扉が閉じると、外側にはもう一人の捜査員が残った。

 アイは勧められた椅子へ腰を下ろした。先ほどまで泣いていた目にはまだ少し赤みが残っている。それでも病院へ来たときより、呼吸はずっと楽になっていた。

 晴星は生きていた。自分の目で見た。声を聞いた。話をして、最後には笑えた。

 それだけで、この二日間ずっと胸の奥を塞いでいたもののすべてが消えたわけではない。玄関に広がった血も、腕の中で「死にたくない」と言った晴星の声も、簡単に忘れられるはずがなかった。けれど今なら、家へ帰れる。アクアとルビーの顔を見て、ご飯を食べて、眠って、朝になったら「おはよう」と言う。無理に何もなかったふりをしなくても、そんな毎日へ少しずつ戻っていける気がしていた。その感覚を胸に残したまま、アイは向かいに座った佐伯を見る。

 

「何か分かったんですか?」

「いくつか…ですが」

「犯人……捕まったんですよね」

「ええ。菅野良介。本人も晴星を刺したことは認めています」

「……良介」

 

 その名前を小さく繰り返してから、アイは「名字は知らなかったです。でも名前は思い出しました」と続けた。星の砂のことは、事件当日の事情聴取ですでに話している。

 佐伯は手元の資料へ一度視線を落とした。

 

「今日は、事件当日にアイさんが答えたことを疑って呼んだわけじゃありません。こちらの聞き方が足りなかった可能性がありました」

 

 アイの表情が僅かに変わった。

 

「前回、菅野本人に今の住所を教えたことがあるか、お聞きしましたね?」

「はい。ないです」

 

 返事は今回も早かった。

 

「そこを疑ってるわけじゃありません。ただ、取り調べの中で菅野が住所を知った経緯について話し始めました」

 

 佐伯は一度そこで言葉を切る。

 

「菅野は『ある人物からアイが引っ越した。その住所を自分は知ってる。と聞いてその人物から住所を聞いた』と供述しています。」

「……その人の、名前は?」

 

 佐伯は、その声の変化を聞き逃さなかった。

 

「名字は分からないそうです」

 

 一拍。

 

「菅野は、その人物を――『ヒカル』と呼んでいます」

 

 アイの目が、大きく見開かれた。

 

 

 

 

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