【推しの子】―晴れた夜に星を見つけて― 作:horizontal line
読みづらいかもしれませんが、ご容赦ください。
「菅野は、その人物を――『ヒカル』と呼んでいます」
「……え?」
何を言われたのか分からなかった、というのが一番近いと思う。
「アイさんは、『ヒカル』という人物に心当たりがあるんですね?」
佐伯さんの声で、私はようやく目の前の人を見た。
「……あります」
「お名前を伺えますか」
「カミキヒカル。私の一つ下です。昔、劇団ララライにいた男の子で、私がワークショップに参加したときに知り合いました」
口に出した途端、ずいぶん昔のことを話しているような気がした。実際には四年ほどしか経っていない。二十歳の私にとって四年は決して短くないけれど、それでも「昔」と呼ぶには近すぎるような気もする。けれど、あの頃と今ではあまりにも色々なことが変わった。私は二人の子供を産み、B小町は大きくなり、つい数日前まで東京ドームへ立とうとしていた。だから十四、十五歳だった頃の自分は、同じ私なのに、もうずいぶん遠いところにいるように感じる。
「どういうご関係でしたか?」
その質問には、少しだけ答えるまでに時間がかかった。
「……昔、少しだけ付き合ってました」
結局、口から出たのはそれだけだった。
たった一言で説明できるなら、人と人との関係なんてずいぶん簡単だと思う。恋人だった。それは事実だ。でも私の中にいるヒカルくんは、その言葉だけでは収まらない。
最初に気になったのは、あの子の中に自分と似たものを感じたからだったと思う。人の顔をよく見て、声を聞いて、相手が何を求めているのかを探す。優しくできるのに、その優しさがどこか自然ではなくて、どうすれば相手が喜ぶのかを知っているからそうしているようにも見えた。愛されたがっているのに、愛されるということが何なのか自分でもよく分かっていない。今振り返れば、そんなところに私は自分を重ねていたのかもしれない。
私も愛を知らなかった。それでも知りたかったから、アイドルになって「愛してる」と嘘をついた。嘘でも何度も言っていれば、いつか本当になるかもしれないと思った。ヒカルくんも同じ方法で生きていたわけではないけれど、何か大切なものが欠けていて、それが何なのか知りたがっているように見えた。だから話してみたいと思い、話せばもっと知りたくなり、気づけば他の人へ向けるものとは違う感情を持つようになっていた。向こうも同じだったんじゃないかな…。少なくとも当時の私は、そう感じていたから付き合った。
好きだったのか、と今の私に訊かれたら、たぶん「好きだった」と答える。けれど愛していたのか、と訊かれれば、やっぱり分からない。何千人を相手に「愛してる」と言うことはできるのに、一人の人間に向けた自分の感情には、今でも名前をつけられない。
それでも、どうでもいい人では決してなかった。
「現在も交際されていますか?」
「してません。別れたのは四年くらい前です」
「その後も会ったりしていましたか?」
「全く会ってないです。……連絡も、ずっとしてませんでした」
「『でした』ということは、最近は?」
自分で口にした過去形を拾われて、私はほんの少しだけ息を詰めた。責められているわけではない。佐伯さんは声色さえ変えていない。ただ、私の答えの中にあった小さな違いを聞き逃さなかっただけだ。
「……最近、私から電話しました」
「カミキさんへ?」
「はい」
佐伯さんは少し間を置いてから、今度は住所について確認した。
「カミキヒカルさんは、アイさんの今のお住まいをご存じなんでしょうか」
「……知ってます」
「どのようにして?」
「私が教えました。電話したときに」
自分で答えているのに、まだ変な感じがした。
私がヒカルくんに住所を教えた。そして良介は、ヒカルという人から住所を教えてもらったと言っている。言葉だけを並べれば繋がる。なのに、私の中では繋がらない。
電話の向こうにいたヒカルくんと、あの朝、玄関に立っていた良介。その二人が私の知らないところで知り合っていて、私が伝えた住所まで二人の間を渡っていた。その事実を理解しようとするたびに、どこかで「なんで?」が引っかかって先へ進めなくなる。
「いつ頃のことですか?」
「ドームの少し前です」
「では、ごく最近ですね」
「はい」
「何のために、数年間ほとんど連絡を取っていなかったカミキさんへ電話を?」
――とうとう、そこへ来た。
今までの質問には全部答えられた。昔付き合っていたことも、最近私から電話したことも、住所を教えたことも、隠したところで何の意味もない。むしろ、ヒカルくんから良介へ住所が渡ったというなら、警察には知っておいてもらわなければ困る。
でも、なぜ電話したのか。本当の理由を説明しようとすれば、その先には必ずアクアとルビーがいる。
すぐに答えなかった私を見て、佐伯さんも黙った。斜め後ろでは記録を担当する捜査員がペンを止めている。病院の面談室は、誰かの人生を大きく変える話をするには拍子抜けするほど普通の部屋だった。白い壁に、事務用の机と椅子。閉じた扉の向こうからは人が行き来する気配がして、遠くで何かを載せたワゴンの車輪が床を転がっている。ほんの少し前まで晴星くんの病室にいて、そのさらに向こうでは医師も看護師も普段通り仕事をしている。同じ建物の中で、私だけが四年間閉じていたものの前に座っていた。
嘘をつけばいい、と最初に思った。
それは何かを企んだというより、ほとんど反射に近かった。久しぶりに会いたくなったからでもいい。昔の知り合いだから、引っ越したことを教えただけでもいい。何か相談したかったと言えば、それ以上詳しく聞かれたところで別の嘘を重ねればいい。相手が何を知りたがっているのかを見て、納得しやすい答えを選び、表情と声まで合わせて渡す。私はそういうことをずっとやってきた。
みんなが好きな『アイドル』アイは、そうやってできている。
明るくて、可愛くて、ファンのみんなを愛していて、恋愛なんかしたこともなければ、もちろん子供なんていない。その嘘の一番奥に、アクアとルビーを隠してきた。
四年前、私が子供を産みたいと言ったとき、社長は本気で怒った。今なら、どうしてあれほど怒ったのかも分かる。十六歳の所属アイドルが、本当の愛を知りたいから子供を産みたいと言い出したのだ。私にとっては自分の人生でも、社長からすれば事務所に所属するタレントでもある。知られれば仕事を失うのが私一人で済むはずもなく、B小町の他のメンバーも、事務所も、そこに仕事を出している人たちまで巻き込まれる。それでも産むと言うなら絶対にバレるな、と言われ、私はそれを受け入れた。私が産みたいと言ったのだから、それは当然の条件だと思っていた。
でも――そのときの私は、自分たちの事情とは何の関係もないところで、大人の勝手な都合によって「隠されることになった二人の子供」がどう感じるのかなんて、ほとんど考えていなかった。
誰かがいるところでは、私を「ママ」と呼べない。甘えたくても、母親のところへ真っ直ぐ走ってくることができない。外へ出ればミヤコさんの子供として振る舞わなければならなくて、私が一緒にいても本当の親子みたいには歩けない。四歳になった今では、それを二人とも理解している――いや、『理解させてしまった』。
アクアはあまり何も言わないけれど、本当はどう思っているんだろう。ルビーだって、家の中なら何度でも「ママ」と呼んでくれるのに、外では――。
鼻の奥がつんとした。
(……ダメ。今、それじゃない)
自分で驚いた。少し前まで警察に何を話すか考えていたはずなのに、一つの思い出から別の記憶へ繋がって、気づけば今ここで考えても仕方のないことまで掘り返している。泣きそうになっていることまで自覚して、私は一度ゆっくり息を吸った。
今考えるべきなのは、四年前の自分が良い母親だったかどうかじゃない。良介が、どうして私の家まで来られたのか。それを調べてもらうために、どこまで話すか――そこへ意識を戻した。
秘密を守る理由は、もう私がアイドルを続けるためだけではない。アクアとルビーの今とこれからがある。ミヤコさんは二人の母親として外へ連れ出してくれて、あれほど反対していた社長だって、いつの間にか二人を守る側にいる。私の勝手な願いから始まった秘密なのに、今では私以外の人たちまで一緒に守ってくれている。
だから私一人の判断で話すことが怖かった。
けれど、その怖さにしがみつこうとすると、今度は別の光景が浮かぶ。
玄関を開けたときの良介。花束を持った手。星の砂。話しているうちに少しずつおかしくなっていった目。そして、何かが動いたと思った次の瞬間、私の前へ飛び込んできた晴星くん。床へ倒れた身体から血が流れた。私の手に付いて、押さえても止まらなかった。あのときの晴星くんの声を、私はたぶん一生忘れない。
『……死にたく、ない』
あの言葉を聞いたとき、私は怖かった。今だって思い出せば怖い。でも、病室で本人と話して、ようやく少しだけ分かったこともある。
晴星くんは、死んでもいいから私を庇ったわけじゃない。死にたくなかったんだ。そんなの、人間なら当たり前だ。それでもあの瞬間、私が危ないと思ったから身体が動いた。それだけだったのだと彼は言った。
もし晴星くんがいなかったら、あの刃物は私に刺さっていた。そしてあの日は、アクアとルビーも家にいた。もし二人が玄関へ出てきていたら。良介が私を刺したあとも止まらなかったら…――そこまで考えたところで、今度は別の意味で身体が冷たくなった。
良介は捕まった。でも、良介は私の住所を知っていた。誰かが教えた。そして今、その誰かとしてヒカルくんの名前が出ている。
どうして教えたのかは分からない。良介が何をするつもりだったのか知っていたのかも分からない。そもそも本当に良介の言う通りなのか、それさえまだ確かめられていない。
だから、調べてもらわなければならない。
私が知っていることを隠したままでは、警察だって調べられない。
秘密を守れば、アクアとルビーの今の生活を守れるかもしれない。でも、そのせいで事件の全体が分からないままになったら、それは本当に二人を守ったことになるんだろうか。また誰かが家へ来たら。今度は晴星くんが隣にいなかったら。
同じ二人を守りたいと思っているはずなのに、どちらを選んでも何かを危険に晒す気がした。
私は答えられないまま、膝の上で指を組んだ。強く握ったつもりはなかったのに、爪が指へ食い込んでいる。
そのとき、ほんの少し前までいた病室が頭に浮かんだ。
晴星くんはこの人を「佐伯さん」と呼んでいた。佐伯さんは晴星くんにだけ敬語を使わず、美月さんも彼を「佐伯くん」と呼んでいた。詳しい関係は聞いていない。でも、美月さんが息子のいる病室で警戒していなかったことも、晴星くんが昔から知っている人に向ける声で話していたことも見ている。
だから、この人なら何を話しても大丈夫――そんなふうには思えなかった。私はそこまで簡単に人を信じられないし、簡単に信じられないからこそ、相手が欲しがる自分を作って、嘘で関係を繋いできた。
それでも、判断する材料にはなった。
晴星くんと美月さんが信頼している人が、晴星くんを刺した事件を調べている。少なくとも、私がこれから話すことを面白い芸能人の秘密として聞いている人ではない。
「……佐伯さん」
「はい」
「今から話すこと、たぶん……私だけの秘密じゃないんです」
声にすると、それまで黙って待っていた佐伯さんの目が少しだけ変わった。
「警察に話したら、他の人にも知られますか?」
佐伯さんは簡単に「大丈夫です」とは言わなかった。捜査に必要な情報であれば、担当する捜査員や、この先事件を扱う検察官などへ共有される可能性はある。その一方で、警察官には職務上知り得た秘密を正当な理由なく外部へ漏らしてはならない義務があり、私生活上の情報を捜査と関係なく第三者へ話すようなことはない。報道機関へ捜査員が個人的に漏らすことも当然許されないし、事件について警察として公表する場合にも、被害者のプライバシーや捜査への影響を考慮して扱う――佐伯さんは、私が何を怖がっているのかを分かった上で、できることと、できないことを分けて説明した。
「じゃあ……絶対に秘密にできます、とは言えないんですね」
「はい。それはお約束できません」
欲しかった答えではない。でも、たぶん信用できる答えだった。
私は嘘をつく。相手を安心させたいとき、相手が欲しがっている言葉を見つけて渡すことができる。だから分かる。今の私が欲しいのは「絶対に大丈夫」という言葉だ。もし佐伯さんがそれを言ってくれたら、私はずっと楽になれる。
それでも言わない。
できない約束だから。
そのことだけでこの人を信じられるわけではない。それでも、さっき晴星くんと美月さんが見せていた距離と重なって、もう少しだけ前へ進む理由にはなった。
社長には怒られるかもしれない。ミヤコさんにも相談せずに話したことを謝らなければならない。アクアはたぶんものすごく嫌な顔をする。ルビーはどうだろう。そこまで考えて、私は少しだけ困った。今ここで全員の反応を想像していても、答えは出ない。
でも、何も言わずにここを出て、あとからまた誰かが傷ついたら。そのとき私はきっと、「秘密を守りたかったから」とは言えない。
「……分かりました。話します。でも、本当に必要な人以外には……できるだけ、知られないようにしてください」
「承知しました」
佐伯さんは、それ以上のことを約束しなかった。それでよかった。
「あの部屋にいた子供たち、覚えてますか?」
「アクアくんとルビーちゃんですね」
「はい。あの子たち……」
そこで、また声が止まった。
四年間、一度も外で言ったことがない。言えないから隠していたし、隠すためにたくさん嘘をついた。ステージの上なら「愛してる」なんて何度でも言えるのに、たったこれだけの本当のことが、どうしてこんなに怖いんだろう?
言った瞬間、何かが変わる気がした。
それでも、私はもう一度息を吸った。
「……私の子供なんです」
言ってしまった――なのに、何も起きなかった。
目の前にある机も、白い壁も、閉じた扉もそのままだった。廊下では誰かが歩いているし、遠くから看護師の声も聞こえる。当然ながら世界は、私が四年間隠してきたことを口にしたくらいでは止まってくれない。
ただ、斜め後ろにいた捜査員のペンが止まり、佐伯さんの表情にも初めてはっきりした驚きが浮かんだ。
(……言っちゃった)
その顔を見て、ようやく実感した。
怖い。
でも、不思議と後悔はまだなかった。
佐伯さんはすぐには質問を続けなかった。少しだけ間を置き、それから、それまでと変わらない声で確認した。
「アクアくんとルビーちゃん、お二人ともアイさんのお子さんということで間違いありませんか?」
「……はい」
「分かりました」
それだけだった。いつ産んだのかも、どうやって隠していたのかも訊かなかった。今の事件を調べるために必要なことだけを聞こうとしている。その態度に、私はまたほんの少しだけ息を吐けた。でも、ここまで話しただけでは、まだ最初の質問には答えていない。
「先ほど、数年ぶりにカミキさんへ連絡した理由を伺いました。その理由と、お子さんたちは関係していますか?」
「……はい」
頷いてしまえば、もう次の言葉は決まっていた。
「ヒカルくんが、二人のお父さんだからです」
口にしてから、私は佐伯さんの顔を見た。
今度の驚きは、さっきより小さかった。それでも、聞いたことを頭の中で確かめるような短い沈黙があった。
「……カミキさんが、アクアくんとルビーちゃんの実のお父様なんですね?」
「はい」
「今回カミキさんへ電話されたのは、お二人のことで?」
「……子供たちに、会ってみない? って言いました」
そこまで話して、ようやく最初の質問に答え終えた。数年間、会ってもいなかった昔の恋人へ、なぜ私から電話したのか。どうして自宅の住所まで教えたのか。「アクアとルビーの父親」だったから。
私はただ、一度くらい子供たちに会ってみないかとヒカルくんへ言った。そのために、今住んでいる場所を教えた。その住所がどうして良介へ渡ったのかは、私には分からない。
ヒカルくんがどんな気持ちで教えたのかも、良介とどういう関係なのかも、私は知らない。そこから先について、私が今ここで考えても答えは出なかった。
だから私は――自分が知っているところだけを話した。
◇
同じ頃、東都大学病院の正面玄関から少し離れた歩道には、朝から何台ものテレビカメラが並んでいた。
病院の小さな面談室で、星野アイが四年間守り続けてきた秘密の一部を警察へ明かしたことなど、当然ながら外にいる人間は誰も知らない。ましてや、菅野良介が口にした「ヒカル」という名前が、アイの過去とどのように繋がっているのかを知る者もいなかった。報道陣が知っているのは、事件から二日が経った現在までに警察や関係者から公にされた、ごく限られた事実だけだった。
B小町が目標としてきた東京ドーム公演は、開催当日の朝になって急遽延期された。その原因となった事件は都内のマンションで発生し、現場にはB小町のセンターであるアイがいた。そして、同じマンションに住む人気俳優・月城晴星が刃物で刺され、救急搬送されて緊急手術を受けた。現場から逃走していた男についても、すでに警察が身柄を確保している。
それだけでも、世間が放っておくには十分すぎる事件だった。東京ドーム公演を目前にしていた人気アイドルと、十六歳にしてすでに数々の作品へ出演している若手俳優。しかも晴星の母親は、日本だけでなく海外作品への出演歴まで持つ女優・月城美月である。事件当日の午後には芸能ニュースの一つとして扱われていたものが、翌朝には朝から情報番組を埋め、二日目になる頃には芸能界の出来事という枠だけでは収まらなくなっていた。
もっとも、事件の大きさに反して、関係者から出てくる情報は驚くほど少ない。病院は患者に関する取材には応じず、晴星と美月の所属事務所「スターライトエンターテインメント」が発表したのも、晴星が緊急手術を受け、現在は容体が安定していることと、家族への直接取材や病院周辺での過度な取材を控えるよう求める内容に限られている。苺プロダクションもまた、アイを含むB小町メンバーの安全を最優先して東京ドーム公演を延期すると発表した以上には、事件そのものについて詳しく語ろうとはしなかった。
情報が少なければ、人は黙る――とは限らない。むしろ空白が大きければ大きいほど、その中へ自分なりの答えを入れたくなる人間は増えていく。
『では改めて、現在までに分かっている情報を整理します』
午前の情報番組では、画面中央に現場となったマンション周辺の地図が映し出され、その横にはアイと晴星、それぞれ宣材用に撮影された笑顔の写真が並んでいた。司会者の隣に座るアナウンサーは、確認されている事実とそうでないものを区別するよう慎重に言葉を選んでいる。
『事件が発生したのは、B小町が東京ドーム公演を予定していた当日の早朝です。現場となったマンションにはB小町のアイさんが住んでおり、そこで何らかのトラブルが発生したものとみられています。そして同じマンションに居住していた俳優の月城晴星さんが事件に巻き込まれ、刃物で刺されました』
『晴星さんは、アイさんを庇って刺されたという情報も出ていますよね?』
『そうですね。ただし、事件当時の詳しい状況について警察から正式な発表はまだありませんので、その点については慎重に見る必要があります』
そこまでは事実と未確認情報を分けようとしていた。ところが番組が進み、事件そのものから出演者たちの「見解」へ話題が移っていくと、その境界は少しずつ曖昧になった。同じマンションに住む二人の芸能人が、早朝に起きた同じ事件の現場にいて、一方がもう一方を庇って刺されたらしい。それぞれを単独で見れば説明できる事実や情報であっても、ひとまとめに並べれば、そこに何か特別な関係があるようにも見えてしまう。
『でも、偶然にしてはちょっと出来すぎているようにも感じますよね』
コメンテーターの一人が腕を組み、もっともらしい顔で二人の写真を見比べた。
『同じマンションに住んでいたというだけなら分かりますよ。ただ、朝のかなり早い時間でしょう? そこで事件が起きて、たまたま隣人の有名俳優が出てきて、しかも庇って刺された。もちろん勇気のある行動だったと思いますけど、そもそもお二人が以前から親しかった可能性というのはないんでしょうか』
『現時点では、そのような事実は確認されていませんね』
『ですよね。ただ、お二人とも芸能人ですからね~。僕らが知らないところで以前から面識があったとしても、それ自体は不思議じゃないでしょう?』
確認されていないと断った直後から、確認されていないことを材料に話が膨らんでいく。もちろん出演者たちも、自分たちが事件の真相を知っていると主張しているわけではない。ただ、限られた放送時間の中で何かを語ることを求められ、視聴者もまた「まだ分からない」という答えだけで何十分も画面を眺めてくれるとは限らない。その積み重ねによって、事実の周囲には少しずつ推測がまとわりついていった。
別の番組では、晴星の行動そのものへ話題が移っていた。
『仮にアイさんを庇ったという情報が事実だったとしても、刃物を持った相手へ素手で飛び込む行動そのものを推奨することはできません。結果として命が助かったからこそ美談として受け取られている部分もありますが、場合によっては二人とも命を落としていた可能性だってあるわけですよ』
『十六歳という年齢を考えると、危険性を十分に判断する前に身体が動いてしまった可能性もあるんでしょうか?』
『それも考えられるでしょうねぇ。もちろん、その場にいなかった我々が本人の判断を断定することはできませんが――』
その場にいなかったから分からない、と前置きしながら、人は分からないものに理由を与える。話している者たちは晴星に会ったことがなく、あの朝、玄関先で彼が何を見て、何を考えるより先に身体を動かしたのかも知らない。晴星自身が病室でアイへ話した、「刃物が見えたから飛び込んだんじゃない。アイちゃんが危ないと思ったから」という言葉など、知るはずもなかった。それでも放送が続くうちに、テレビの中には少しずつ異なる「月城晴星」が生まれていった。
勇敢な少年だと称賛する者がいれば、危険を顧みない無鉄砲な高校生だと心配する者もいる。人気女優・月城美月の息子という経歴まで持ち出して、幼い頃から芸能界という特殊な環境で育ったことが行動に影響したのではないかと論じる者もいた。そして当然のように、アイとの間には世間へ公表できないほど親しい関係があったのではないか、という憶測まで現れる。
どれも、『晴星本人が一言も語っていないところで作られた晴星』だった。
しかし、テレビの向こう側にいる人々までが、面白半分で事件を眺めていたわけではない。
『月城晴星さんが刺された事件について、街の皆さんはどう感じているのでしょうか』
午後の情報番組では、繁華街へ出たリポーターが通行人へマイクを向けていた。声をかけられた大学生くらいの女性二人は、互いに顔を見合わせてから、そのうち一人が少し緊張した様子で口を開いた。
『私、晴星くんずっと好きだったんです。だから最初にニュース見たとき、本当に死んじゃうのかと思って……。事務所から手術は成功したって出るまで、ずっと友達と連絡取ってました』
隣の友人も頷きながら、「助かったって分かったとき、この子ほんとに泣いてました」と付け加えた。
『アイさんを庇ったという話については、どう思いますか?』
『すごいとは思います。私だったら絶対できないし。でも……もうやらないでほしいです』
答えた女性は、そこで初めて少し困ったような顔をした。
『誰かを助けるのはすごいことだと思うんですけど、それで晴星くんが死んじゃったら嫌だから。ファンだから余計にそう思うのかもしれないですけど……助けたことを褒めたいのに、もう絶対こんなことしないでって思うの、変ですかね?』
賞賛と心配は、必ずしも綺麗に分かれるものではなかった。
少し離れた場所で取材を受けた会社員の男性は、事件が報道されるまで晴星の名前をよく知らなかったという。それでも母親が月城美月だと聞けばすぐに分かったらしく、「ああ、あの女優さんの息子さんなんですね」と頷いたあと、自分なら刃物を見た時点で逃げていると思う、と苦笑した。
『勇気のある行動だと思われますか?』
『そりゃ思いますよ。ただ、自分の息子が同じことしたら……どうでしょうね。助けた相手が無事だったら、よくやったって言いたい気持ちもあるでしょうけど、たぶん先に怒るんじゃないですか? 「なんでそんな危ないことしたんだ!」って。生きて帰ってきてくれなきゃ、親としてはたまらないでしょう?』
その言葉を、病院にいる美月が聞くことはなかった。
別の場所では制服姿の女子高校生二人が晴星の名前を出された途端、「めちゃくちゃ有名ですよ!」と揃って声を上げた。同世代にとっては、月城美月の息子だから知っている俳優ではなく、晴星本人の出演作を先に知っている。陽東高校の芸能科へ通っていることまで知っていた二人はしばらく好きな作品について話し、やがて片方が思い出したように表情を曇らせた。
『でも、アイちゃんもめちゃくちゃ怖かったですよね。自分を狙って来た人なんでしょ?』
『その点については、警察から正式には――』
『え、そうなんですか? テレビでそう言ってたから、もう分かってるのかと思ってました』
リポーターに訂正され、少女は本気で驚いていた。悪意があって事実を捻じ曲げたわけではない。どこかで聞いた話を事実だと思い、その記憶を別の誰かへ渡しただけだった。
情報はそうやって、人から人へ渡るたびに少しずつ形を変えていく。「アイを庇ったらしい」は、いつの間にか「アイを庇った」になり、「アイが現場にいた」は「アイが襲われた」に変わる。そこへ「晴星が助けた」が加われば、事件の始まりから終わりまで見ていたかのような筋書きが出来上がる。その一方で、延期された東京ドーム公演のチケットを持ったまま、「いつでもいいから、アイちゃんが元気になってからやってほしい」と話すB小町のファンもいれば、晴星の所属事務所には病院へ直接押しかけるのは迷惑になるからと、事務所宛てに送られた見舞いの手紙が届き始めていた。
一つの事件を見ているはずなのに、そこから見えているものは人によって違う。アイの無事を喜ぶ者、晴星の回復を祈る者、延期された公演を残念がる者、二人の関係を面白半分に詮索する者。その無数の視線の中で、事件からわずか二日しか経っていないにもかかわらず、「星野アイを救った月城晴星」という分かりやすい物語だけが、本人たちより先に世間を歩き始めていた。
その影響は、晴星が普段生活している場所にも届いていた。
陽東高校では事件翌日から校門の外に取材陣の姿が現れ、学校側が敷地内への立ち入りを拒否すると、今度は登下校する生徒へ声をかける者が出始めた。「月城晴星さんとは同じクラスですか?」「学校ではどんな生徒ですか?」「星野アイさんとの関係について何か聞いたことはありませんか?」…などと未成年のプライバシーなど知ったことかと言わんばかりのものだ。学校は生徒へ取材に応じないよう伝えていたものの、見慣れないカメラや記者が校門の向こうに立っているだけで、いつもの登下校がいつも通りではなくなる。
「……俺も一応、芸能人なんだけどなぁ」
休み時間、窓際にいた男子生徒が校門の外に並ぶカメラを見下ろしながら、なんとも言えない顔で呟いた。
「知ってるよ。先月、駅で一回だけ声かけられたって自慢してたじゃん」
近くにいた女子生徒が笑うと、男子はすぐに振り返った。
「一回じゃねえよ、三回だよ!」
「誤差っしょ」
「三倍だぞ!?」
くだらない言い争いに周囲から小さな笑いが起きたが、男子はもう一度窓の外へ目を向けると、今度は少し真面目な顔になった。
「……でも、こういうの見るとさ。同じ芸能科でも全然違うよな」
その言葉には、誰もすぐに茶々を入れなかった。
教室には、ドラマで名前のある役をもらい始めた者もいれば、雑誌の専属モデルとして同世代にはそれなりに顔を知られている者もいる。子役から仕事を続けている者、舞台を中心に活動している者、オーディションを受け続けながら端役を積み重ねている者もいた。売れている者とそうでない者の差はあっても、この教室にいるほとんどの生徒が、「自分の顔や名前を知らない誰かから見られる」という経験を持っている。
だからこそ、分かることもあった。自分が何かをしたわけでもないのに、学校の門前へこれだけのカメラが並び、クラスメイトへまで取材の手が伸びる。それは単に「人気がある」という言葉だけでは片づけられない。
「俺、この前ネットの記事に名前出たとき、母ちゃんから三回電話きただけで面倒くせえって思ったもんな」
「比べる相手が悪いでしょ。晴星くんなんて、普段から週刊誌に写真撮られても『またか』で終わってたじゃん」
「そうなんだよな。あいつ、学校だと普通だから忘れるんだよ」
男子が顎で示した先には、今日も使われていない席がある。朝になれば晴星が登校してきて、仕事で帰りが遅かった翌日には眠そうに鞄を置く。撮影がなければ最後まで授業を受け、仕事があれば途中で抜けるし、忙しい時期には休み時間をほとんど睡眠に使うこともあった。
「宿題忘れて一緒に怒られてるときなんか、天才俳優もクソもないしな」
「それ晴星に言ったら怒られるぞ?」
「生きてたらな」
「ちょっと! 縁起でもないこと言わないでよ!」
すぐ横にいた女子生徒に強めに叱られ、口を滑らせた男子は「あ、悪い」と表情を変えた。
手術は成功した。容体も安定している。そのことは学校にも伝えられている。それでも、二日前まで同じ教室にいた友人が刃物で刺され、一時は命に関わる状態だったという事実を、同級生たちはまだうまく日常の中へ置き直せずにいた。彼らも芸能界にいるからこそ、テレビの中で人間が分かりやすい言葉へ置き換えられていくことを多少は知っている。今、画面の向こうで「若手天才俳優」「月城美月の息子」「星野アイを救った英雄」と呼ばれている少年は、ここでは授業中に教師から当てられれば普通に答え、休み時間には友人とくだらない話をし、ときには宿題を忘れて叱られる同級生だった。
「……見舞い、行けないのかな?」
誰かがそう口にすると、それまで窓の外や空いた席を見ていた何人かが同時に振り返った。事件によって初めて月城晴星という名前を知った人間が増えていく一方で、事件が起きるよりずっと前から晴星を知っていた者たちも、それぞれの場所で彼の無事を自分の目で確かめたがっていた。
ただし、その全員がすぐに病室へ入れるわけではなかった。
◇
集中治療室を出て一般病棟へ移ったとはいえ、手術からまだ二日しか経っていない晴星に、好きなだけ人と会える体力が戻っているはずもない。前日と比べれば会話はかなり楽になり、ベッドの上で身体を起こしていられる時間も長くなっていたが、本人が「大丈夫」と言うことと、身体が本当に回復していることは別である。医師から許された面会は短時間に限られ、病院側と事務所が相談した結果、家族以外で誰を通すかについても当面はかなり絞られることになった。
その条件で、一般病棟へ移った晴星のもとを最初に訪れたのは、スターライトエンターテインメントで月城親子をそれぞれ担当する二人のマネージャーだった。
病室の前にある椅子で待っていた美月は、廊下の向こうから歩いてくる二人を見つけると立ち上がった。
「遅かったわね」
それを聞いた美月のマネージャーは、歩みを止めることなく笑った。ただし、その笑顔とは裏腹にこめかみがわずかに引きつっている。
「どこの親子の所為なのかしらねぇ……?」
「私だって好きでこんなことしてる訳じゃないわよ」
「はぁ…それは分かってるわ」
美月が悪びれずに答えると、女性は盛大なため息をついた。
肩にかからない程度で整えられた黒髪に、すらりとした長身。切れ長の目と整った顔立ちは、黙っていれば知的で落ち着いた印象を与える。実際、仕事の場では滅多なことでは動じず、長く芸能界にいる人間からも信頼されている女性だった。ただし、月城美月を担当しているときに限って、その「滅多なこと」が妙に多い。
美月がグラビアから女優へ転身し、本格的に演技の道へ進み始めた頃に専属となって以来、二人はずっと一緒にいる。ようやく女優として仕事が軌道に乗ったと思えば、本人が突然「アメリカの大学に行く」と言い出したこともあった。それでも隣に立ち続け、帰国した美月が再び女優として仕事を始めてからも、その関係は変わっていない。
その長い付き合いの中でも、今回ほど予定表を見ながら頭を抱えた二日間はそう多くなかった。晴星が刺された以上、美月が仕事へ行けるはずがない。晴星側の仕事がすべて止まっただけではなく、美月の予定まで同時に崩れ、そこへ事件に関する問い合わせまで殺到した。
「それより美月、ちゃんと寝た?」
「寝たわよ」
「何時間?」
美月が何気なく視線を逸らしたため、マネージャーの目が細くなる。
「昔からそうだけど、都合が悪くなると急に目を合わせなくなるのやめなさい」
「細かい女は嫌われるわよ」
「あなたにだけは言われたくないわ」
二日前に息子を失いかけた母親と、その母親を長年支えてきた友人でもある。だからこそ、ただ「休んでください」と遠慮するのではなく、必要なら本人が嫌がっても寝かせるつもりでいた。
そんな二人の横で、晴星のマネージャーはいつものように苦笑しかけたものの、病室の扉へ視線が移った途端、その表情を保てなくなった。
二十代後半。短く整えた黒髪にスーツという、芸能事務所の人間としては目立たない外見をしており、表情にもどこか人の良さが滲む。現場で声を荒らげることは滅多になく、晴星が無茶を言えば困ったように眉を下げながら、それでも可能な範囲を探してくれる。ただし担当タレントの言いなりになるわけではなく、学校と仕事の両立や体調管理についてはきちんと線を引き、スタッフとの間に立つ必要があれば年下の相手にも頭を下げる。晴星にとっては現在の仕事を最も近くで支えるマネージャーであると同時に、年齢の離れた兄に近い距離で付き合える相手でもあった。
事件当日の朝も、彼はいつもと同じように晴星を迎えに行くはずだった。
晴星ほど名前の知られた俳優となれば、自宅マンションの正面へ毎回事務所の車を横づけするようなことはしない。車種やナンバー、乗り降りする場所を繰り返し見られれば、それだけで住居を特定する手掛かりになる。そのため普段からマンションから少し離れた場所を待ち合わせに使い、晴星がそこまで自分で歩いてくることになっていた。
事件が起きた朝も、一時間ほど前には晴星からメールの返信が来ていた。だから最初の数分は、さほど気にしなかった。信号に引っかかったのかもしれない。忘れ物を取りに戻ったのかもしれない。ところが五分が過ぎ、十分が過ぎても姿を見せず、予定時刻から三十分を越えたところで、胸の中にあった小さな違和感がはっきりとした異常へ変わった。
晴星は、早朝の仕事だからという理由で連絡もなく遅れてくるような人間ではない。寝坊なら寝坊で、気づいた時点で必ず連絡する。それにサイレンを鳴らしながら傍を通過していった幾台かのパトカーがいたことが急に気になり始める。
おかしい。
もう一度電話しようとスマートフォンへ手を伸ばした、まさにそのときだった。画面に表示されたのは晴星の名前ではなく、事務所からの着信だった。電話口で最初に聞いた「刺された」という言葉を、彼は理解できなかった。
誰が? と聞き返した。
晴星が。
どこで?
自宅マンションで。
救急搬送された。かなり出血している。これから緊急手術になる可能性が高い。説明されるたびに言葉の意味は分かるのに、それらが少し前までメールを返していた晴星へ結びつかない。電話が終わってもしばらくハンドルを握ったまま動けず、それでも次に何をしなければならないのかを考えたとき、真っ先に美月のマネージャーへ連絡した。
彼女はすでに事務所から一報を受け、美月を病院まで送った直後だという。
『いい? まず落ち着いて聞いて』
電話の向こうの声は普段と変わらなかった。あとになって聞けば、本人もその時点では手が震えていたらしい。
『あなたは晴星くんの今日の撮影先と学校、それから今日明日で直接影響が出る仕事先に連絡して。先の予定にはまだ勝手に触らない。状態が分からないうちから復帰時期なんて決められないから』
「でも、美月さんの方は――」
『美月は私がやる。あの子が今仕事なんてできるわけないでしょう? 事務所と広報もこっちで話を通すから、あなたは晴星くんの現場を止めなさい!』
「……はい!」
『今どこ?』
「いつもの待ち合わせ場所です」
『なら車はそのまま。運転しながら電話しようなんて考えないでよ。まず一本ずつ連絡して、それが終わったらまた私に電話しなさい』
言われるがままに電話をかけ始めた。本当なら病院へ行きたかった。晴星がどんな状態なのか、自分の目で確かめたかった。それでも担当マネージャーだからこそ、晴星が動けなくなった瞬間から、代わりに止めなければならないものがいくつもあった。撮影現場へ事情を伝え、学校へ欠席の連絡を入れ、直近の仕事先へ頭を下げる。その間にも問い合わせは増え、事件が報道されれば事務所の電話は鳴り続けた。
二日間、晴星の状態については何度も報告を受けた。手術は成功した。意識が戻った。前日には短い会話もできた。美月とも連絡を取っている。それでも、自分の目ではまだ一度も見ていない。
もしあの日、待ち合わせを十五分早くしていたら。もし自分がマンションの近くまで迎えに行っていたら。そんなことを考えたところで、事件が起きる時刻を誰も知るはずがなかったのだから意味はない。それでも、理屈で意味がないと分かることほど、頭の中から消えてくれないことがある。
「入る?」と、美月に声をかけられ、彼は我に返った。
「……はい」
扉が開く。窓際のベッドで、晴星は上半身を少し起こしていた。いつもなら人前へ出られる程度には整えている黒髪はそのまま下ろされ、肌にはまだ普段ほどの血色が戻っていない。病衣から出た腕も、二日前まで撮影現場で見ていたときより細くなったように感じた。それでも扉の音に気づいた晴星が顔を上げ、金色の瞳がこちらを向く。
(……生きてる)
何度報告を受けても埋まらなかった二日間が、その姿を見た瞬間にようやく現実へ追いついた。
「……やっと来た」
晴星の顔に、ほっとしたような笑みが浮かんだ。
「遅いよ。ずっと待ってたのに」
責めるような口調ではなかった。だからこそ、胸に刺さった。
晴星は美月から、自分が仕事の処理をしていることくらい聞いていただろう。それでも、意識が戻ってから会いに来ない担当マネージャーを待っていた。その一言だけで、普段はあまり誰かへ「来てほしい」と口にしない少年が、自分をどれほど身近な人間として置いているのかが分かってしまう。
何か言わなければならないと思った。体調はどうだと訊けばいいし、無事でよかったと伝えてもいい。仕事については全部こちらで処理しているから心配するなと、マネージャーらしいことならいくらでも言えるはずだった。
「……お前さあ」
なのに、口から出たのはそれだけだった。
「ん?」
「……本当に、お前……」
続きが出てこない。
晴星はしばらく彼の顔を見ていた。昔から人の表情をよく見る少年だったが、今くらいは鈍くてもいいのに、目元から頬へ視線が動いたところで首を傾げる。
「もしかして、寝てない?」
「お前に言われたくない!」
思わず声が大きくなり、晴星が目を丸くした。
「なんで刺されて入院してるお前が俺の体調気にしてんだよ! 今は自分の心配しろ!」
「いや、だってすごい顔してるから」
「誰のせいだ!」
「俺?」
「お前以外に誰がいるんだよ!」
そこまで言ってから、ようやく病室だと思い出したらしい。晴星のマネージャーは廊下の方を気にして声を落とし、「……すみません」と誰にともなく謝った。
「病院なんだから静かにしなさいよ」
美月が呆れたように言うと、その隣から冷たい声が飛んだ。
「美月。あなたは人のこと言えないからね」
「え、なんで私まで?」
「あなたも寝てないでしょうが」
「俺も母さんに寝ろって言った」
「ほら、晴星くんもこう言ってる」
「ちょっと、二対一は卑怯じゃない?」
「三対一ですよ?」
晴星のマネージャーまで加わると、美月が「裏切ったわね」と睨み、病室にようやく小さな笑いが生まれた。晴星のマネージャーは、そのやり取りを見ながら肩に入りっぱなしだった力が少しずつ抜けていくのを感じていた。目の前にいる晴星はまだ患者で、傷が治ったわけでもない。それでも、人の顔を見て余計なところまで気づき、母親へ遠慮なく口を挟み、自分が心配されている状況で逆に他人の体調を気にする。そこにいるのは、二日前まで彼が知っていた晴星と同じ少年だった。
「……よかった」
自然に零れた声は、さっきまでよりずっと小さかった。晴星がそちらを見る。
「本当に、よかった」
笑おうとしたが、うまくいかなかった。晴星もそれを見て、今度はすぐに軽口を返さなかった。
「俺、死んでないよ」
「見れば分かるよ」
「手術も成功したし、先生も大丈夫だって」
「それも聞いてる」
「じゃあ――」
「そういう話じゃないんだよ」
声を荒らげたわけではなかった。それでも、その一言で晴星は口を閉じた。
「俺、あの日お前を迎えに行く予定だっただろ。いつもの場所で待ってた。三十分経っても来なくて、おかしいと思って電話しようとしたら事務所から連絡が来た。だから……ずっと考えてたんだよ。もし待ち合わせをもっと早くしてたら、とか。俺がマンションの方まで迎えに行ってたら、とか」
「それは違うよ」と、晴星はほとんど間を置かずに答えた。
「俺が勝手に外へ出たんだし、あの人が来る時間なんて誰にも分からなかったでしょ。マネージャーさんが――」
「分かってるよ。頭ではな」
そこで晴星の言葉が止まった。
人の感情は、正しい理屈を教えれば消えるわけではない。晴星自身、人のことを考えるときにそれを何度も見てきた。だから相手の罪悪感を否定し続ける代わりに、少し考えてから枕へ身体を預けた。
「……そっか。じゃあ、もうちょっとだけ気にしてていいよ」
「なんだそれ」
「でも俺が退院するまでね。それ過ぎたらしつこいから」
あまりに晴星らしい線引きに、美月のマネージャーがとうとう吹き出した。
「相変わらずね、晴星くん」
「褒めてる?」
「全然」
晴星のマネージャーも、今度は素直に笑えた。
そのあと晴星が仕事の状況を訊き始めると、病室にいる三人から同時に止められた。今日の撮影はどうなったのか、延期した仕事はいつ頃戻せそうなのか、せめて台本くらい持ってきてくれないかと食い下がる晴星に対し、「今のお前の仕事は治すこと」「読むだけでも仕事のこと考えるでしょう」「暇なら寝なさい」と次々返され、最後には本人だけが納得のいかない顔をする。
病院の外では、月城晴星を「星野アイを救った英雄」と呼ぶ人間が増え始めている。だが彼を事件より前から知っている者たちにとって、ベッドの上にいるのは英雄という言葉だけでは到底収まらない。心配をかけたくせに自分より先に他人の顔色を気にし、少し元気になれば仕事へ戻ろうとして周囲から止められる、いつもの月城晴星だった。
◇
二人が帰ったあと、晴星は一時間ほど眠った。本人はまだ大丈夫だと言っていたが、面会中ずっと会話を続けていれば身体は正直に疲れる。目を覚ました頃には窓から入る冬の日差しもかなり低くなっており、美月から水を受け取って少しずつ飲んでいるところへ、病室の扉を控えめに叩く音がした。美月は反射的に扉へ目を向けた。
「……どなたですか?」
『苺プロの斎藤です。妻と……子供たちも一緒です』
扉越しに聞こえた声を確認してから、美月はようやく表情を緩めた。
「どうぞ」
扉を開けて最初に入ってきた斎藤壱護は、病室へ一歩足を踏み入れたところで動きを止めた。その後ろにはミヤコがおり、さらに二人の間からアクアとルビーが顔を覗かせている。
「……失礼します」
壱護の声は、普段より少し硬かった。事件が起きるまで、壱護と晴星の間に個人的な付き合いと呼べるほどのものはほとんどない。互いに顔も名前も知ってはいたが、晴星にとって壱護はアイが所属する苺プロダクションの社長であり、壱護にとって晴星は月城美月の息子で、若くして売れている俳優。そして最近、アイが引っ越したマンションの隣室に偶然住んでいた少年だった。
それが二日前の朝を境に、どう接すればいいのか分からないほど重い関係へ変わってしまった。
「斎藤さん」
晴星が挨拶しようと身体を起こしかけた途端、壱護は反射的に片手を上げた。
「いや、そのままで! 起きなくていい。頼むからそのままでいてくれ」
「……はい」
あまりの勢いに晴星が素直に枕へ戻る。その間にミヤコも病室へ入り、ベッドの上の晴星を見たところで足を止めた。ミヤコは、晴星が刺された瞬間を見ていない。
あの朝、いつもより早い時間に鳴った電話の相手はアクアだった。幼い子供の声でありながら、妙に要領よく話すことには以前から慣れていた。それでも、その日の声はいつもと違った。
晴星が刺された。救急車を呼んだ。アイも一緒に病院へ行く。
救急隊員から晴星の家族へ連絡できないか訊かれたが、自分たちは連絡先を知らない。社長かミヤコなら何か分かるかもしれない――と。
電話を切ったあと、自分が何を持って家を出たのか、ミヤコはほとんど覚えていない。中身を確認もせずにいつも持ち歩いている鞄を掴み、車を走らせてマンションへ急いだ頃には晴星もアイもすでに搬送されたあとだった。ここでようやく壱護に連絡を取り、残っていた双子を連れてそのまま病院へ向かい、そこで初めて晴星が大量に出血し、緊急手術を受けるほどの重傷だと知った。
血まみれで倒れている晴星を直接見たわけではない。それでも、「刺された」というアクアの声と、病院で聞かされた「危険な状態」という言葉は、この二日間ずっと頭から離れなかった。
だから今、ベッドの上からこちらを見ている晴星の姿を目にしても、すぐにはいつもの調子で話せなかった。
「晴星くん……」
「ミヤコさん」
「……本当に、よかった」
ようやく出た言葉の最後が少し震えた。事件前から、隣人として廊下ですれ違えば立ち話をするくらいの付き合いはあった。晴星がアクアとルビーを自分の子供だと思っていることには後ろめたさがあるものの、芸能人によく見る妙な構えもなく、年齢のわりに話しやすい少年だと思っていた。
「ご迷惑おかけしました」
「あなたがそれ言うの?」
思わず返してから、ミヤコは少しだけ笑った。
「こっちはあなたに迷惑かけた側でしょう」
「でも、色々動いてくれたって聞いたので…」
「それは大人がやること。十六歳の怪我人が気にしなくていいの」
「みんなそれ言うんですけど」
「みんなが言うなら聞きなさい」
いつものミヤコらしい返しが戻ってきたことで、晴星も少し嬉しそうに笑った。
そのやり取りの間、ルビーは大人たちの後ろから晴星を見ていた。病室へ入った瞬間から、胸の奥に妙な息苦しさがある。白い壁、白いシーツ、点滴の管、消毒薬の匂い。今の自分にとっては、母親と一緒に誰かのお見舞いへ来ただけの場所であるはずなのに、身体のどこかがそう受け取ってくれない。
かつて、あまりにも長い時間をこういう場所で過ごしたから――。窓の外を眺めるしかない日もあった。今日は何をするでもなく終わったと思いながら眠った夜もあった。元気になったらやりたいことをいくつも考えて、そのうちいくつを本当にできるのか、自分でも分からなくなったこともある。病院は、ルビーにとって前世のさりなが生きた場所であり、同時に死んだ場所でもあった。
しかし今は違う。自分はベッドの外に立っている。そこに寝ているのは自分ではない。
それなのに、晴星の腕から伸びる点滴の管を見た途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「ルビーちゃん」
晴星に名前を呼ばれる。いつもの声だった。
廊下ですれ違ったときや、家の前で顔を合わせたときと同じように、自分を「ルビーちゃん」と呼ぶ声。その一言で、白い病室に重なっていた遠い記憶が少しだけ現在から離れた。
「……晴星くん」
ルビーは小さく呼び返し、それからようやく笑った。
「起きてる」
「起きてるよ」
「喋ってる」
「喋るくらいできるよ」
返事までいつも通りだったことが嬉しくて、気づけば足が前へ出ていた。最初は歩いていたはずなのに、途中から速くなり――。
「ルビー、走らない!」
ミヤコの声にびくっとして、その場で止まる。
「……あ」
「病院なんだから静かにね」
「分かってるもん」
そう言いながら、残り数歩だけは妙に慎重に歩く。その姿がおかしくて晴星が笑い、次の瞬間、腹部へ響いた痛みに小さく顔をしかめた。
「っ……」
ルビーの顔から笑みが消えた。
「晴星くん!?」
「大丈夫、大丈夫。笑うとまだちょっと痛いだけ」
「私、何もしてないよ!?」
「今のはルビーちゃんのせい」
「なんで!?」
「こら晴星、四歳児からかわわないの」
美月に叱られ、晴星が「からかってないよ」と抗議する。ルビーも一瞬だけ頬を膨らませたものの、晴星が本当に大丈夫そうだと分かると、すぐに表情を緩めた。
そんな中、アクアだけはすぐにベッドへ近づかなかった。入口に近いところから晴星を見ている。まだ普段ほど血色の戻っていない顔も、腕から伸びる点滴の管も気になったが、それ以上に目についたのは、身体を動かすたびに一瞬だけ腹部を庇うように力が入ることだった。さっきルビーに笑わされたときもそうだ。本人は大丈夫だと言い、周囲の大人たちもその言葉に安堵している。それでも、かつて医師だったアクアには、目の前の少年が「助かった」という結果へ辿り着くまでに、どれほど危うい場所を通ってきたのかが分かってしまう。
腹部への刺創と大量出血、その後の緊急手術。刃の入り方が少し違えば――搬送が遅れていれば――手術中に何か一つでも想定外が起きていれば――今こうして笑っている晴星を見られなかった可能性はいくらでもある。
そして、そこまで考えれば必ず同じ場所へ辿り着いた。
晴星が飛び込まなければ、刺されていたのはアイだったかもしれない。
事件の日から何度も考えた。前世で医者だったからこそ、都合よく「きっと助かっていた」と思うことができない。人間は刃物で刺されれば死ぬ。傷ついた場所や出血量によっては、病院へ運ばれても助からないのだ。
晴星は、本当に死ぬところだった。
アイの代わりに。
「アクアくん?」
突然名前を呼ばれ、アクアは思考を中断した。顔を上げると、晴星がこちらを見ている。
「どうしたの?」
「……別に」
四歳の子供としてはずいぶん素っ気ない答えだったが、晴星は追及しなかった。ただ「そっか」と頷き、一度はルビーの方へ視線を戻したものの、少ししてからまたアクアを見た。
「アクアくんも、大丈夫?」
何を訊かれたのか分からず、アクアは相手を見返した。
「……俺?」
「うん。怖かったでしょ」
その問いかけが、アクアにはすぐ理解できなかった。怪我をしたのは晴星であり、腹を刺されて大量の血を失い、手術を受けたのも晴星である。自分には傷一つない。それなのに、どうしてベッドの上にいる人間からこちらの心配をされているのか。
「……晴星の方が、怖かっただろ」
「怖かったよ」
あっさり認められ、アクアはわずかに目を見開いた。
「すっごい怖かった。痛かったし、死ぬかと思ったし」
英雄らしい強がりでもなければ、子供を安心させるための嘘でもない。ただ怖かったから怖かったと、晴星はそれを恥じる様子もなく口にする。
「でも、俺が怖かったのと、アクアくんが怖かったのは別でしょ? だからアクアくんは大丈夫?」
アクアは、絶句した。自分がもっと大変だったからといって、相手の恐怖を小さく扱わない。かといって、自分自身が怖かったことまで綺麗事で消そうともしない。その二つを別々のものとして認めた上で、今は自分ではなくアクアの方を心配している。
前世まで数えれば、自分の方がずっと長く生きている。
医者だった頃の自分なら、怖がっている患者に声をかけることくらいはできただろう。患者の恐怖と自分の感情を分けることも、仕事としてならできたはずだ。けれど、自分自身が死にかけたわずか二日後に、その場にいた誰かの恐怖まで「それはそれ」と切り分け、その人自身のものとして気遣えたかと問われれば――アクアには、すぐに答えが出なかった。
十六歳の少年にできていることを、いい歳まで生きた前世の自分が同じようにできたのか。そんなことを考えている自分に気づいて、少しだけ面白くなかった。
「……大丈夫」
結局、そう答えた。
「そっか。ならよかった」
晴星はそれ以上何も訊かず、素直に笑った。
ほんの短いやり取りだった。それでもアクアの中には、小さな引っかかりが残った。
ミヤコは、事件を目の前で経験した子供が晴星を心配しているのだと思って二人を見ていた。美月はまた自分より他人を先に気にしている息子に小さく息を吐いたが、今度は口を挟まなかった。それぞれが同じ会話を見ながら違うことを考えている中で、壱護だけは病室へ入ってからずっと、自分が何を言うべきなのかを探していた。
来る前から決めていたことはある。
礼を言わなければならない。それだけは必ず、自分の口から伝えるつもりだった。
壱護はアイをスカウトした人間であり、彼女をアイドルにした張本人でもある。妊娠を知ったときには産むことへ猛反対し、それでも本人が意思を変えないと分かれば、秘密を守るために動いた。双子が生まれてからの四年間、危ういところのあるアイを叱り、仕事を取り、B小町をここまで育て、ようやく東京ドームまで連れていこうとしていた。
アイを守るのは、自分たちの役目だ。それなのに、あの朝アイの前に立ったのは、自分の事務所とは何の関係もない隣部屋の少年だった。
「月城くん」
「はい」と、晴星がこちらを向く。
「……アイを助けてくれて、ありがとう。それと――すまなかった」
壱護は深く頭を下げる。それを見て晴星が目を瞬いた。
「何がですか?」
「本来、あいつを守るのは俺たちの仕事だ。それなのに、君がこんな怪我をすることになった。俺はあいつの事務所の社長なのに、あのとき何も――」
「斎藤さん」
晴星は壱護の言葉を遮った。
「俺、斎藤さんに謝られること何もされてないですよ」
「だが――」
「前にもアイちゃんに言ったんですけど、俺が勝手に飛び出したのと、あの人が俺を刺したのと、アイちゃんが悪いかどうかは別なんです。だったら、斎藤さんがあの場にいなかったことと、あの人が俺を刺したことも別でしょ?」
壱護はようやく顔を上げた。晴星は、自分が怪我をしたことまで大したことではないと言っているわけではない。痛かったとも、怖かったとも認めている。刺した男を許すと言っているわけでもない。ただ、一つの出来事に関わった人間すべてへ同じ責任を背負わせることをしない。
「斎藤さんが悪かったなら、俺ちゃんと怒りますよ。でも、今回は違うと思うから」
「……お前な」
「はい」
真顔で返事をされ、壱護は続けようとした言葉を失った。晴星は少し考えてから、今度は表情を緩めた。
「でも、ありがとうはもらっときます。アイちゃんが無事だったのは、俺もよかったと思ってるんで」
そこでほんの少し照れたように視線を逸らし、
「だから……『どういたしまして』」と続けた。
壱護はしばらく何も言えなかった。隣ではミヤコがとうとう目元を指で押さえ、それに気づいた晴星がまた何か言おうとしたため、美月が「今度はミヤコさんの心配まで始めなくていいから」と先回りすると、病室に小さな笑いが生まれた。
その空気が落ち着いた頃、ベッドの脇にいたルビーが晴星の顔を見上げた。
「晴星くん、また帰ってくる?」
「帰るよ」
「いつ?」
「先生がいいよって言ったら」
「明日?」
「それは無理かな」
「じゃあ、あさって?」
「たぶんそれも無理」
ルビーは納得できない顔でしばらく考えたあと、「じゃあ、その次!」と日付ですらない提案をした。
「ルビー、晴星くんを困らせないの」
ミヤコが苦笑したが、晴星は嫌がる様子もなく「ちゃんと帰るから」と答えた。
「ほんと?」
「ほんと」
ルビーはそれでも晴星の顔をじっと見ていた。
前世の自分は、病院から帰れなかった。元気になったらしたいことをたくさん考えたのに、その日は来なかった。
だから「退院したら」という言葉を、頭では理解していても簡単に信じきれない自分がいる。目の前の晴星は医師から回復していると言われているし、実際にこうして喋っている。それでも病室のベッドにいる人が「帰る」と言うだけで、胸の奥がざわつく。
少し迷ってから、ルビーは小指を差し出した。
「……じゃあ、ゆびきり」
「え、そこまで信用ない?」
「ゆびきりしたら帰ってきてね」
晴星は一瞬だけルビーの表情を見た。いつもの子供らしい勢いだけではない何かがそこにあることには気づいたものの、その理由までは分からない。だから訊かずに、点滴の管を引っ張らないよう気をつけながら手を伸ばした。
「分かった。約束」
小さな指と晴星の小指が絡む。ルビーが指切りの歌を口ずさみ始めると、壱護もミヤコも、病室へ入ってきたときよりずっと自然な顔で笑った。その横で、アクアは黙って二人を見ていた。
指切りをしたから人が必ず帰ってくるわけではない。約束したから死ななくなるわけでもない。前世で医師として何人もの患者を見てきたアクアは、そんなことを誰よりよく知っている。
それでも晴星が「約束」と言った瞬間、胸の奥に残っていた何かがほんの少しだけ軽くなったことについては、考えないことにした。
◇
面会時間が終わって四人が帰ると、さっきまでいくつもの声が重なっていた病室は急に静かになった。
晴星は疲れた様子で枕へ身体を沈めながらも、「今日はもう誰も来ないの?」と美月へ訊いた。短い面会を二組こなしただけでも身体にはかなり負担がかかっているはずなのに、本人としてはようやく人と普通に話せるようになったことの方が嬉しいらしい。
「今日はもう終わり。面会時間も終わるし、あなたも休まなきゃダメ」
「学校のみんなとか来ないかな~」
「来たがってるって連絡は来てるわよ」
「ほんと?」
晴星の顔が少し明るくなる。
「金田一さんからも連絡が来てるし、他にも何人かね。ただし、先生と相談してから。全員一度に押しかけてきたら、あなた本当に治らないわよ?」
「大丈夫だって」
「今日だけで二回寝た人が何言ってるの」
「それは……病院って暇だから眠くなるんだよ」
「はいはい」と美月は晴星の掛け布団を整えながら、適当に相槌を返す。
「絶対信じてないでしょ」
「寝なさい」
「またそれ」
晴星は不満そうに言ったものの、身体の方は母親に味方しなかった。話しているうちから瞼が重くなり、本人もそれに気づいたのか、最後には諦めて目を閉じる。美月は、息子の呼吸がゆっくりと一定になっていくまでそばにいた。
この二日間、彼女の耳にも「晴星に会いたい」という連絡はいくつも届いている。それでも今日、家族以外で最初に病室へ入ったのは、現在の晴星の仕事をすぐ隣で支えている二人のマネージャーと、所属タレントを救ってもらったプロダクション社長とその家族だった。
明日以降になれば、また違う人間がここへ来るだろう。学校で机を並べる友人たち。幼い頃から役者としての晴星を知っている人間。仕事で出会い、それぞれの時間を共有してきた者たち。
病院の外では、事件をきっかけに月城晴星という名前を知った人間が、彼を「英雄」という一つの言葉で語り始めている。けれど病室へ来る者たちは、それぞれ別の晴星を知っている。
マネージャーにとっては、幾つもの重賞を取った世代を代表する担当俳優であり、病室に入れば自分の顔色を先に心配してくる困った少年だった。ミヤコにとっては、少し前に隣人になったばかりなのに、廊下で会えば自然に言葉を交わせる少年である。ルビーにとっては、母を救ってくれた恩人になり、アクアの中には、それに加えて、前世まで含めた自分の生き方と比べてもすぐには理解できない考え方をする人間……等々。
同じ『月城晴星』を見ていても、誰一人として同じものを見ているわけではない。それは、病院の外で好き勝手に作られている晴星像とは違う意味で、これから少しずつ増えていく。
美月は眠っている息子の顔を見ながら、そっと起こさないように頭を優しく撫でた。
事件から、まだ二日しか経っていない。それでも、あの朝まで互いの人生にほとんど関わっていなかった人間たちの間には、すでにそれ以前にはなかったものが生まれ始めている。
明日になれば、また誰かがこの病室の扉を叩く。
書き溜めがなくなったので、次話以降は少し投稿速度が遅くなります。
なるべくお待たせするようなことがないように頑張りますので、応援よろしくお願いします!