金がないから屋敷襲ったらよくわかんないガキに執着された。 作:都頃天
金がない。
比喩じゃない。財布をひっくり返したら糸くずが二本出てきた、という意味だ。ちなみに糸くずは売れない。試した。
俺はヴァル。職業は盗賊。腕は悪くない。錠前を開けるのも、屋根を渡るのも、番犬に気に入られるのも得意だ。得意じゃないのは、盗んだ金を三日以上持っていることだけだ。
先月、仲間に捨てられた。理由は「お前は情に流されすぎる」。
心外だ。俺はただ、子連れの女から財布を掏るのをやめただけだ。中身は銅貨三枚。あんなもん盗ったら、こっちの格が下がる。格の問題だ。情じゃない。
まあ、そう言い張っているうちに三日、飯を食っていない。格は腹を膨らませてくれない。
その夜、俺は宿の暖炉の前に座っていた。金は払っていない。温もりを盗むのは、この街で唯一無料の犯罪だ。
そこで噂を拾った。
「ガルバン男爵の屋敷、床下に金貨の樽が並んでるらしいぜ」
「見たのかよ」
「見たやつは帰ってこねえよ」
俺は火を見つめて考えた。
このまま飢え死にするか。屋敷に入って死ぬか。
どうせ死ぬなら腹が膨れるほうがいい。これは思想でもなんでもなく、単なる引き算だ。
三日後、雨が上がった。俺は丘の上を見上げていた。
ーー
ガルバン男爵。この地方の領主。税を絞り、飢饉のときも自分の穀物庫だけ満杯だった男。悪徳という言葉に足が生えて歩いているような奴だ。
つまり、盗んでも良心が痛まない。最高の獲物である。
屋敷は立派だった。石壁、鉄柵、番犬。ただし全部「見せるための守り」だ。本気で守りたいものがある家は、もっと地味で陰湿な守り方をする。
俺は厨房裏から入った。使用人用の錠は十年前の型。針金二本、二十秒。
中は静かだった。静かすぎた。灯りもない。人の気配もない。廊下には妙な香の匂いが漂っている。甘くて重い。教会のとは違う。
書斎の金庫を開けたのは、侵入から十七分後だった。我ながら速い。
中身。書類の束。印章。埃をかぶった銀の燭台が一本。
以上。
「……ふざけんな」
声が出た。盗賊としてあるまじきミスだが、出るものは出る。
三日分の空腹と、命がけの侵入と、成果が燭台一本。売っても宿代三泊分だ。しかも重い。
俺は燭台を握りしめて、しばらく人生を振り返った。だいたい似たようなことばかり起きている人生だった。
しかし、と俺は思い直す。
金庫が空ってことは、中身をどこかに移したってことだ。この屋敷には、金庫より安全な場所がある。
そのとき、足の裏に振動が伝わってきた。
下から。石造りの床の、さらに下から。
何かを引きずる音。
ーー
地下への入り口は酒蔵の奥にあった。一番奥の樽だけ不自然に重い。動かすと床石がずれた。階段が現れた。
例の香の匂いが、下から濃く昇ってきた。
降りた。二十段。三十段。屋敷の基礎より深い。ここまで掘るには相当な金がかかる。つまり、下には金以上のものがある。俺の期待値はこのとき、人生最高値を記録した。
降りきった先は四角い石の部屋だった。
床に白い塗料で幾何学模様。壁に呪符が何十枚も。書かれた文字は読めなかったが、書いた奴の手が震えていたことだけは読めた。
部屋の中央に、鉄の檻があった。
人ひとりが座れるだけの檻だ。
その中に、子供がいた。
……いや。
いま俺は「子供がいた」と、六文字で書いた。実際にはもっと時間がかかった。理解するのに、たっぷり十秒はかかった。
膝を抱えて丸くなった、痩せた背中。手首と足首に鉄輪。鎖は床に打ち付けられている。
髪が、長かった。異様に長い。腰を越えて、床石の上にとぐろのように溜まっている。一度も刃を入れられたことのない髪だ。梳かされたこともない。塊のように絡んで、灯りを当ててもほとんど光を返さない。
誰も、この子の髪を切ってやろうと思わなかった。
それだけの年月が、そこに積もっていた。
少女が、顔を上げた。
目が、黒かった。瞳孔と虹彩の境目がわからないくらい深い黒だ。
黒髪黒目。凶兆。生まれた村が飢えると言われて、赤子のうちに川に流されるやつ。噂には聞いていたが、実物を見たのは初めてだった。
少女は俺を見た。
悲鳴も上げない。助けも求めない。ただ見た。
驚きすら、なかった。
──これが一番、まずかった。
暗闇から知らない男が出てきて、驚かない。つまりこの子にとって、それは日常だということだ。
俺は盗賊だ。人が死ぬのは見慣れている。飢えた子供を見捨てて逃げたこともある。憐れみで飯は食えない。それは真理だ。
なのに、このとき、指が勝手に震えた。
寒かったんだと思う。地下だし。
ーー
「──なあ、お前」
俺はしゃがんだ。目線を合わせるためだ。深い意味はない。
「俺は盗賊だ。金を盗みに来た。だが金庫は空だった」
少女は黙って聞いている。
「ここに閉じ込められてるってことは、この屋敷の秘密を知ってるってことだ。違うか」
黒い目が、わずかに動いた。
「取引しよう」
俺は短刀を抜いた。脅すためだ。それが盗賊の作法だ。
少女は逃げなかった。刃を見ても瞬き一つしない。
まいったな、と思った。脅しが効かない相手ほど厄介なものはない。
俺は刃先を、錠前の隙間に差し込んだ。
「宝の在処を教えろ。そうしたら──」
そこで、言葉に詰まった。
本当は「殺さないでやる」と続けるはずだった。定型文だ。何百回も言った。
だが、口が動かなかった。
この子に「殺さない」は褒美にならない。この子にとって死は罰じゃない。たぶん、ずっと待っていたものだ。
で、代わりに何が出てきたかというと。
「──連れて出てやる。ここから」
……我ながら、何を言っているんだと思った。
連れて出てやる。盗賊が。子供を。目撃者を。
訂正しようと口を開きかけて、やめた。
なぜなら少女の肩が、びくりと跳ねたからだ。
絡んだ髪が滑って、痩せた頬が見えた。黒い目が、大きく開いていた。
「……そと」
掠れた声だった。喉を使っていない人間の音だ。
「外」と俺は繰り返した。「空が見えるとこだ。雨が降ってて、風が吹いてて、地面が土の匂いがする場所」
我ながら詩人みたいなことを言った。腹が減ると人は妙になる。
少女の細い指が、床の一点を指した。
塗料で描かれた模様の、中心。
「……そこ、の、した」
蹴ってみると空洞の音がした。短刀でこじ開ける。麻袋が出てきた。重い。口を開ける。
金貨だ。
しかも一袋じゃない。十以上、隙間なく詰まっている。
俺は笑った。三日ぶりに笑った。これで冬が越せる。三度は越せる。
笑いながら、錠前を叩き壊した。
鉄輪が外れた瞬間、少女は自分の手首を見た。何が起きたのかわからない、という顔だった。赤黒く擦り切れた皮膚を、そっと撫でた。
「立てるか」
立てなかった。
しょうがないので、俺は麻袋を三つ担いで、残った腕で少女を抱え上げた。
なお、袋は十以上あった。俺は三つしか持てなかった。差額の七袋分は、この腕に抱えたものの代金である。
軽すぎた。犬でももうちょっと重い。
こんな軽いもんが七袋分か、と俺は思った。割に合わない。
この「割に合わない」は、以後三日間で二十回くらい繰り返すことになる。
ーー
厨房の裏口から出た。外は、また雨だった。
俺は舌打ちして少女を軒下に降ろし、袋を担ぎ直そうとして──気づいた。
少女がいない。
いや、いた。軒先から一歩出たところで、雨に打たれたまま突っ立っている。
「おい、濡れるぞ」
返事がない。俺は近寄って顔を覗き込んだ。
少女は、空を見上げていた。
雨が長い髪を叩き、絡んだ塊をほどきながら流れていく。埃と灰が洗われて、黒が少しずつ本物の黒になっていった。
「……ひろい」
声が漏れた。
「そらが、ひろい」
空が広い。
まあ、広いだろうな、と俺は思った。空だぞ。
これはあとから考えると、俺の人生で最も間抜けな感想だったかもしれない。
だがそのときの俺は本当にそう思った。空は広い。当たり前だ。当たり前のことに、なんでこいつはこんな声を出すんだ、と。
考えるのが面倒だったので、俺は外套を脱いで少女の頭からかぶせた。
「風邪ひくぞ、馬鹿」
抵抗はされなかった。担ぎ上げると、外套の下から、まだ空を見ていた。
丘を下り、森に入る。追手はまだない。夜明け前、炭焼き小屋跡で火を熾した。
ーー
鍋に雨水を溜め、干し肉と芋の切れ端を放り込んだ。塩は最後のひとつまみを全部使った。それでも足りなかった。パンは硬すぎて石で割った。
少女は火の前で膝を抱えて座っていた。ずっと炎を見ている。
俺は椀を差し出した。動かない。
「食え」
黒い目が俺を見て、椀を見て、また俺を見た。
「……わたしが、たべると、わるいことが、おきる」
「あ?」
「わたしが、さわったもの、たべると、しぬって。だから、わたしのぶんは、ゆかに、なげる」
床に投げる。
俺は少しの間、黙った。
それから椀を自分の口に運んで、一口飲んだ。熱い。やっぱり塩が足りない。
「ほら、死んでねえ」
少女が目を丸くした。
「今度はお前が飲め。俺が死んだら謝れ」
言っておくが、これは優しさではない。俺は腹が減っていて、飯を粗末にされるのが心底いやなだけだ。床に投げるくらいなら俺が食う。それだけの話だ。
少女は震える手で椀を掴んだ。
一口目は舐める程度。二口目で喉が鳴った。三口目からは止まらなかった。両手で椀を抱え込んで、火傷しそうなスープを飲み下していく。芋を噛む音。パンを浸して詰め込む音。
途中で咳き込んだので、背中をさすってやった。骨しかない背中だった。
飲み終わって、椀の底まで舐めて、少女は顔を上げた。
口の周りを汚したまま、俺の顔をじっと見た。何かを確かめるように。
「……しなない」
「死なねえよ」
「なんで」
「なんでって」
俺は火に枝をくべながら、適当に答えた。
「食い物ってのは誰が触っても食い物だ。お前が特別だと思ってんなら、それはお前を檻に入れた奴がそう思わせたかっただけだろ」
適当だ。本当に適当に言った。
少女は、その適当な一言を、ものすごく長い時間かけて飲み込んでいるようだった。
やがて言った。
「……あなたは、へん、だ」
「よく言われる」
ーー
翌朝、俺は櫛を出した。盗品だ。骨の安物だが歯は揃っている。
少女は「何をされるのかわからない」顔をした。
「髪だ。ほどく」
言っておくが、これも優しさではない。実務だ。
その髪はどう見ても虫が湧く。虫が湧いたら俺にも移る。それに、あの絡み方は目立ちすぎる。街に入ったら三歩で通報される。盗賊にとって「目立つ」は死語に近い。
だから梳いた。それだけだ。
絡まりは石みたいに固かった。無理に引けば千切れる。指でほぐしながら、毛先から少しずつ。
途中で、少女が震えているのに気づいた。
「痛いか」
「……ちがう」
「じゃあなんだ」
「あたま、さわられるの、はじめて」
俺は手を止めなかった。
止めたら何か言ってしまいそうだったし、途中でやめると余計に絡む。実務上の判断だ。
半刻かけて髪はほどけた。腰まである黒髪が、朝の光の中で初めてまともに流れた。
切るか、と一瞬思った。短いほうが手入れは楽だ。
やめた。理由は特にない。強いて言えば、面倒だったからだ。
代わりに革紐で結んでやった。少女は自分の髪の束を手に取って、何度も指で撫でた。
「そういや、名前は」
少女は首をかしげた。
「なまえ」
「呼び名だよ」
「……『厄』」
聞き間違いかと思った。
「なんだって?」
「『厄』。おとうさまはそうよんだ。おくさまは『それ』。しつじは『あれ』」
自分のことを話している自覚もなさそうに言った。
「わたし、うまれたとき、むらのむぎが、ぜんぶかれた。だから、わたしは『厄』」
俺は立ち上がった。
自分でも驚くほど乱暴に立ったので、少女がびくりと縮こまった。殴られると思ったらしい。その反射が、また癪に障った。俺自身に。
「──ノア」
口をついて出た。
「え」
「お前の名前だ。今から、ノア」
「なんで」
「昔いた孤児院に、ノアってばあさんがいてな。飯を食わせてくれた唯一の大人だ。麦粥に一匙多く砂糖を入れてくれた」
俺は肩をすくめた。
「一番いい名前を思い出したらそれだった。文句あるか」
言っておくが、これも大した意味はない。犬を拾ったら名前をつけるだろう。あれと同じだ。呼びかけるのに「おい」と「お前」だけでは不便なのだ。
ノアは、答えなかった。
俺が歩き出しても動かない。振り返ると、両手で口を押さえて立っていた。
「どうした」
「……ノア」
自分で自分の名を呼んだ。
「ノア。ノア。わたし、ノア」
繰り返すたびに声が震えて、最後には言葉にならなくなった。
俺は戻って、結んだばかりの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
ノアは一瞬固まってから──掌の下で、猫みたいに頭を押しつけてきた。
その日から、こいつは俺の後ろを一歩も離れなくなった。
まあ、犬でもそうなるだろう。飯をやったんだから。
ーー
三日目に追手が来た。
街道で七人、馬三頭。全員、男爵家の紋章の外套。
「盗賊ヴァルだな」
名を知られていた。手配が回るには早すぎる。つまり屋敷には見張りがいた。俺が気づかなかっただけで。プロとして、これはかなり恥ずかしい。
「金は持っていけ」
男は言った。
「男爵は金には興味がない。返せと仰せなのは、その娘だけだ」
背中で、ノアが服を掴んだ。強く。
「そいつは商品か何かか」
「盾だ。男爵家は代々、厄を背負う器を飼う。病も不作も借財も、すべて器に移す。三年前の飢饉でこの領地の穀物が無事だったのは、その娘が地下で三ヶ月、飲まず食わずで祈らされていたからだ」
「……効いたのか」
「効いた、と男爵は信じておられる」
男は肩をすくめた。信じてないが給料はもらう、という顔だった。俺はこの手の顔が嫌いだ。
「返せ。お前は金を持って消えろ。悪い取引ではあるまい」
悪くない。
実際、悪くなかった。麻袋三つ分の金貨。人生でこれほどの大金を手にしたことはない。ガキ一人渡すだけで、それが全部俺のものになる。
俺は盗賊だ。情に流されて仲間に捨てられた男だ。
服を掴む指が震えていた。
俺は振り返らなかった。振り返ると決心が鈍るから、ではない。単に、背後を取られたくなかっただけだ。プロだからな。
「悪いな」
俺は短刀を抜いた。
「そいつはもう、名前があるんだ。名前のあるやつは、物じゃねえ」
……我ながら、いい台詞だと思った。
その直後に、七人相手に一人で立ち回る羽目になったので、いい台詞というのはだいたい高くつく。
金貨の袋を宙に放り投げた。口が緩んでいたのは計算通りだ。朝日の下に、何百枚もの金貨が雨みたいに散った。
男たちの目が、一瞬逸れた。
その隙にノアの腕を掴んで森へ走った。背後で怒声、馬蹄、矢が耳の横を掠めて木に刺さる。
森なら馬は使えない。俺は根と藪を知り尽くしている。逃げ切れる。
と思った直後、横から来た男に足を払われた。
プロにも転ぶ日はある。
転がりながらノアを突き飛ばして「走れ!」と怒鳴った。
ノアは走らなかった。立ち止まってこっちを見ていた。
剣が振り下ろされた。短刀で受けたが体勢が悪い。刃が滑って脇腹に入った。熱い、と思った。痛みは後から来る。いつもそうだ。
二人目。倒れたまま砂を掴んで投げた。目潰し。怯んだ膝を蹴り抜いて、転んだ首筋に肘。
三人目の剣が肩を裂いた。視界が赤くなった。
それでも立った。
理由はよくわからない。ただ、後ろの小さいのに、これ以上何も見せたくなかった。この三日で見せたのは、火とスープと空だけだ。それでよかったはずなのに。
「おい、ノア」
血を吐きながら言った。
「その茂みの向こう、崖だ。下に川がある。飛び込め。冷たいが死にはしねえ」
「いや、だ」
「聞け」
「いやだ!」
初めて、こいつが叫んだ。
檻の中では一度も出さなかった声だ。悲鳴も助けも求めなかったガキが、初めて何かを拒んだ。
俺は笑った。血が混じって、うまく笑えなかった。
「いい声出せんじゃねえか」
四人目に短刀を投げた。喉に入った。相手が倒れる。俺も倒れる。膝が言うことをきかない。
残った男たちが俺を跨いで、ノアに手を伸ばした。
そのとき、風が止まった。
いや、音が消えた。鳥も、葉擦れも、男たちの息も。
ノアが立っていた。革紐が、ぷつりと切れた。
黒い髪が、重力を忘れたみたいに広がった。
地面のノアの影が、太陽の位置と無関係に、うねりながら伸びた。髪と影の区別がつかなかった。
悲鳴。
薄れる意識の中で、俺はそれを見ていた。影が男たちの足に絡み、引き倒し、引きずり込む。一人、二人。逃げた馬の嘶き。
噂は噂じゃなかったのかもしれない。
ガルバンが地下に閉じ込め、呪符で囲み、鎖で繋いだ理由。
あれは迷信を信じた愚か者の所業じゃなかった。
本気で、恐れていたんだ。
最後に見えたのは、駆け寄ってくる小さな影だった。
やっぱり割に合わねえ、と思いながら、俺は気を失った。
ーー
目が覚めたら天井があった。
炭焼き小屋の板天井だ。脇腹に布、薬草の匂い。窓の外は夕暮れ。何日目かはわからない。
起き上がろうとして、できなかった。右手が押さえられている。
ノアが、俺の手を両手で握って、寝台の脇に座っていた。まばたきもせず俺の顔を見ている。目の下に隈があった。乱れた黒髪が俺の腕の上にまで流れ落ちている。
「……よお」
声を出した瞬間、ノアの顔がぐしゃりと崩れた。
声を上げずに泣いた。声を上げずに泣く訓練をさせられてきた子供の泣き方だった。
「わるい。心配かけた」
「……しぬかと、おもった」
「盗賊はしぶといんだ」
「しんだら、いやだ」
握る力が強くなった。指が白くなるほど。
「わたしのせいで、しにかけた。わたしをつれてこなければ、あなたは、おかねをもって、どこかへいけた」
「まあな」
「なのに、わたしをえらんだ」
選んだ、と言われて、俺は天井を見た。
選んだつもりはない。腹が減って屋敷に入って、金がなくて地下に降りて、そこにお前がいた。それだけだ。順番の問題だ。運の問題だ。
気まぐれってやつだ。
そう言おうとして──やめた。
ノアの目が、もうそういう言葉を受け付ける状態じゃなかったからだ。
黒い目。灯りを吸い込んで何も返さなかった目。
その目に、今、俺だけが映っていた。
夕日も、窓も、部屋も映っていない。俺の顔だけが、その黒の中心にあった。
「ヴァル」
初めて名前を呼ばれた。
「わたし、ずっと、しんでていいとおもってた。うまれたことが、まちがいだって、みんながいったから」
ノアは俺の手を自分の頬に押し当てた。
「でも、あなたは、わたしにごはんをくれた。なまえをくれた。そらをみせてくれた。かみを、といてくれた。わたしのために、ちを、ながした」
……いや、待て。
スープは塩が足りなかった。名前は思いつきだ。空はもともとそこにあった。髪は虫が湧くから梳いただけだ。血は、単に俺が転んだからだ。
全部、大したことじゃない。
「だから、もう、いい」
「……何が」
「わたしのいのちは、あなたのものです」
俺は少し寒気がした。傷のせいだと思う。
「おい、待て。そういうんじゃ──」
「にげてもいいよ」
ノアは微笑んだ。
雨の中で空を見上げたときと同じ、きれいな笑顔だった。
「にげても、わたしは、さがす。よるも、ひるも。あなたがどこにいても、わたしにはわかる。わたしは『厄』だから。ひとを、みつけるのが、じょうずなんだ」
小さな手が、握り直された。
子供の言うことだ、と俺は思った。
大げさなのは子供の特権である。飯をやった犬は三日で懐くし、五日で家についてくるし、十日で人の寝床を占領する。そういうものだ。
「でも、しんぱいしなくていい。わたしは、あなたのじゃまを、しない。ごはんもすこしでいい。ねるばしょも、ゆかでいい。あなたが『いけ』といったら、どこへでもいく。あなたが『ころせ』といったら──」
「言わねえよ」
俺は遮った。
「言わねえし、床で寝かせもしねえ。飯は同じだけ食え」
ノアの目が丸くなって、それから、じわりと細くなった。
嬉しそうに。
俺は溜め息をついて、痛む腕を持ち上げ、乱れた黒髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
「……厄介なもん拾っちまったな」
「うん」
ノアは幸せそうに頷いた。
「わたし、やっかいなんだ」
「そうかよ。だったら櫛持ってこい。ぐちゃぐちゃだぞ、その頭」
三歩で戻ってきて、櫛を押しつけて、床に座って背を向けた。
俺は半身を起こしたまま、その長い黒髪に櫛を入れてやった。腕が痛んだ。血が滲んだ。それでも毛先から順に、ゆっくりと。
窓の外で夕日が沈んでいく。金貨は街道にばらまいた。残ったのは袋二つと、裂けた脇腹と、この妙に懐いたガキだけだ。
割に合わない仕事だった。人生で一番割に合わない仕事だった。
それでも、櫛の下でノアが目を閉じて、舟をこぎ始めるのを見て。
まあ、しばらくは面倒みてやるか、と俺は思った。
しばらくは、な。
──このとき俺は、いくつか勘違いをしていた。
一つ。これは気まぐれだと思っていたこと。
二つ。犬は十日で人の寝床を占領するが、それ以上のことはしないと思っていたこと。
そして三つ目。
このガキが、俺が眠っている夜に、何もしないと思っていたことだ。