金がないから屋敷襲ったらよくわかんないガキに執着された。   作:都頃天

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第二話 かぞえる

 

 地下では、数が数えられなかった。

 

 数えるには、変わるものが要る。朝が来て、夜が来て、それを一つと呼ぶ。そうやって人は日を数えるのだと、あとから知った。

 

 あの部屋には朝も夜もなかった。ずっと同じ暗さだった。灯りが来るのは、食事が運ばれてくるときと、おとうさまが祈りに来るときだけ。でもそれは決まった間隔ではなかった。長く来ないこともあった。三年前の飢饉のときは、灯りが一度も来ないまま、わたしは眠って、起きて、また眠った。何回眠ったかは覚えていない。

 

 覚えていないというより、覚える意味がなかった。

 

 数えられないものは、増えない。増えないものは、終わらない。

 

 だからわたしは、自分が何歳なのかを知らない。

 

 石の壁の傷を数えたことはある。四百八十三本まで数えて、それが誰がつけた傷なのか考えて、わたしより前にも誰かがここにいたのだと気づいて、数えるのをやめた。

 

 わたしはずっと、そういう場所にいた。

 

ーー

 

 その夜、階段のほうから灯りが降りてきた。

 

 食事の時間ではなかった。おとうさまの足音でもなかった。

 

 わたしは顔を上げなかった。上げる理由がなかったから。

 

 ただ、少しだけ、期待した。

 

 これは死かもしれない、と。

 

 誰かがわたしを殺しに来たのなら、それはとてもいいことだ。おとうさまは絶対にわたしを殺さない。器は壊すと困るから。だからわたしは、自分では死ねないし、誰かが来ないかぎり終われない。

 

 灯りが近づいた。人の匂いがした。汗と、雨と、煤の匂い。

 

 わたしは顔を上げた。

 

 男が立っていた。顔を煤で汚した、痩せた男。びしょ濡れの服。手には短刀。目つきは悪い。

 

 殺してくれる、とわたしは思った。

 

 だからわたしは、その人をじっと見た。

 

 瞬きもしなかった。逃げなかった。悲鳴も上げなかった。上げたら、気が変わってしまうかもしれないから。

 

 早く。

 

 そう思って見つめていた。

 

 男は、しばらく動かなかった。

 

 それから──指が、震えた。

 

 わたしは、それを見た。

 

 短刀を持った手が、震えていた。

 

 どうして震えるんだろう、とわたしは思った。わたしを殺すのが怖いのだろうか。わたしが厄だから。触ったら不幸になると思っているから。

 

 みんなそうだった。侍女はわたしに食事を運ぶとき、椀を床に滑らせて置いた。触れないように。目を合わせないように。

 

 この人も同じだ、とわたしは思った。

 

 思って、少しだけ、がっかりした。

 

 なんだ、いつもの人間だ、と。

 

ーー

 

「──なあ、お前」

 

 男はしゃがんだ。

 

 目の高さが、同じになった。

 

 わたしはそれに、うまく反応できなかった。

 

 人がわたしと目の高さを合わせたのは、初めてだった。誰もが上から見下ろすか、そもそも見なかった。目線を下げるというのは、たぶん、相手を人だと思っているときにする動作なのだと思う。

 

 男は喋った。盗賊だと言った。金庫が空だったと言った。取引をしようと言った。

 

 わたしは半分くらいしか聞いていなかった。まだ目の高さのことを考えていたから。

 

 短刀が抜かれた。

 

 やっと、と思った。

 

 でも刃はわたしに向かず、錠前に差し込まれた。

 

「宝の在処を教えろ。そうしたら──」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 男は少し困った顔をした。何かを言おうとしてやめた顔だった。

 

 そして、言った。

 

「連れて出てやる。ここから」

 

 わたしの肩が、勝手に跳ねた。

 

 からだが先に反応して、そのあとで頭が追いついた。

 

 そと。

 

 外。

 

 その音を、わたしは知っていた。侍女たちが話しているのを、鉄格子越しに何度も聞いたことがある。外は寒い。外は雨だ。外の市が立つ日だ。外、外、外。

 

 わたしにとって「そと」は、この世でいちばん遠い言葉だった。

 

 海とか、星とか、そういうものと同じ列にある言葉。存在するらしいけれど、わたしとは関係のない言葉。

 

「……そと」

 

 声が出た。掠れて、割れて、自分の声だと思えなかった。

 

「外」と男は繰り返した。「空が見えるとこだ。雨が降ってて、風が吹いてて、地面が土の匂いがする場所」

 

 わたしは、その一つ一つを頭の中に並べた。

 

 空。雨。風。土。

 

 四つ。

 

 これが、わたしが初めて数えたものだった。

 

 わたしは床を指した。模様の中心。おとうさまが金を隠している場所。ずっと知っていた。誰も、わたしが見ていると思っていなかったから。

 

 男は石を蹴って、こじ開けて、金貨の袋を見て、笑った。

 

 人が笑うところを、わたしは初めて近くで見た。

 

 嘲る笑いでも、恐れる笑いでもない笑い方があるのだと、そのとき知った。

 

 そして男は、笑ったまま、錠前を壊した。

 

 鉄輪が外れた。

 

 わたしは自分の手首を見た。

 

 十一年ぶりに、そこには何もなかった。

 

 擦り切れた皮膚を撫でた。輪がないと、腕が軽すぎて、自分の腕ではないみたいだった。

 

「立てるか」

 

 立てなかった。

 

 男は舌打ちして、金貨の袋を三つ担いで、余った腕でわたしを持ち上げた。

 

 抱えられた。

 

 わたしは、それにも、うまく反応できなかった。

 

 人の体温というものを、わたしは知らなかった。冷たい石と、冷たい鉄と、冷たい水しか知らなかった。

 

 人はこんなに熱いのだ、と思った。

 

 わたしは息を止めた。動いたら、この熱が逃げてしまう気がしたから。

 

ーー

 

 階段を上がった。長かった。上がるにつれて空気が変わった。湿った石の匂いが薄れて、別の匂いが混じってきた。

 

 扉が開いた。

 

 音が、どっと押し寄せた。

 

 雨の音だった。

 

 あんなに大きな音を、わたしは聞いたことがなかった。地下では、自分の呼吸がいちばん大きな音だった。

 

 男が軒下にわたしを降ろした。何か言っていたけれど、聞こえなかった。

 

 わたしは、一歩、外へ出た。

 

 雨が、顔に当たった。

 

 冷たかった。痛いくらい冷たかった。

 

 それから、上を見た。

 

 ──天井が、ない。

 

 わたしは、それをどう理解していいかわからなかった。

 

 部屋には天井がある。廊下にも天井がある。世界には天井がある。そういうものだと思っていた。

 

 なのに、上には何もなかった。

 

 黒くて、けむっていて、どこまでも続いていた。目で追っても終わりがなかった。終わりのないものを、わたしは初めて見た。

 

「……ひろい」

 

 声が出た。

 

「そらが、ひろい」

 

 雨が髪を叩いていた。十一年分の埃と灰が、髪から流れ落ちていくのがわかった。

 

 わたしは泣いていたのかもしれない。雨と区別がつかなかった。

 

 空は広い。

 

 それは、逃げられるという意味だ。

 

 それは、どこへでも行けるという意味だ。

 

 それは──追いかけられる、という意味でもある。

 

 その最後のひとつに気づいたのは、ずっとあとのことだった。

 

「風邪ひくぞ、馬鹿」

 

 男が外套を脱いで、わたしの頭からかぶせた。

 

 自分が濡れることを、この人は気にしなかった。

 

 わたしは、外套の下から空を見続けた。

 

 布ごしに、人の匂いがした。

 

ーー

 

 森の小屋で、男は火を熾した。

 

 火も、わたしは近くで見たことがなかった。あんなに明るくて、あんなに動くものだとは知らなかった。

 

 鍋から湯気が上がった。匂いがした。

 

 その匂いを嗅いだ瞬間、わたしのからだの奥で、何かがぐうっと鳴った。

 

 男が椀を差し出した。

 

 わたしは動けなかった。

 

「食え」

 

 わたしは椀を見た。それから男を見た。

 

 これは罠かもしれない、と思った。

 

 地下でも、たまにこういうことがあった。侍女が新しく入ると、はじめのうちはまともな食事を持ってくる。それを食べると、執事が来て、わたしは罰を受けた。「厄が人並みの食事を摂ると、屋敷に災いが降る」から。

 

 だからわたしは、言った。

 

「……わたしが、たべると、わるいことが、おきる」

 

「あ?」

 

「わたしが、さわったもの、たべると、しぬって。だから、わたしのぶんは、ゆかに、なげる」

 

 これは正しい作法のはずだった。十一年間、そう教わってきた。

 

 男は黙った。

 

 そして──椀を、自分の口に運んだ。

 

 わたしは、息が止まった。

 

 その人は、わたしの分のスープを、一口飲んだ。

 

 わたしが触るはずだったものを。わたしのために作られた、汚れたものを。

 

「ほら、死んでねえ」

 

 わたしは目を見開いた。

 

 この人は、死ななかった。

 

「今度はお前が飲め。俺が死んだら謝れ」

 

 椀が押しつけられた。

 

 わたしの手が震えた。震えたまま、椀を掴んだ。

 

 一口。

 

 舐めるくらいの一口だった。

 

 熱かった。塩の味がした。芋の甘さがした。

 

 二口目で、喉が勝手に鳴った。

 

 三口目からは、もう止まらなかった。両手で椀を抱え込んで、火傷しそうなのに飲み下した。喉が痛かった。それでも飲んだ。パンを浸した。噛んだ。飲んだ。

 

 途中で咳き込んだら、背中をさすられた。

 

 人の掌が、背中にあった。

 

 わたしはそれを、一生忘れないと思った。

 

 実際、忘れていない。

 

 椀の底まで舐めて、顔を上げて、わたしはその人の顔をじっと見た。

 

 まだ死んでいなかった。

 

「……しなない」

 

「死なねえよ」

 

「なんで」

 

「なんでって。食い物ってのは誰が触っても食い物だ。お前が特別だと思ってんなら、それはお前を檻に入れた奴がそう思わせたかっただけだろ」

 

 わたしは、その言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返した。

 

 わたしが特別なんじゃない。

 

 そう思わせたかった人が、いただけ。

 

 ──だとしたら。

 

 わたしが檻にいた十一年は、なんだったんだろう。

 

 母が死んだのも、麦が枯れたのも、飢饉が来たのも、わたしのせいじゃないなら。

 

 わたしは、なんのために、あそこにいたんだろう。

 

 その考えは、あまりに大きすぎて、わたしはうまく飲み込めなかった。

 

 代わりに、こう言った。

 

「……あなたは、へん、だ」

 

「よく言われる」

 

 その人は笑った。

 

 わたしは、この人の言うことのほうが正しければいい、と思った。

 

 いや、違う。

 

 正しくなくてもいい。

 

 この人が言うなら、それが正しいことにする。

 

 たぶん、わたしがおかしくなったのは、この瞬間だ。

 

ーー

 

 翌朝、櫛を出された。

 

 何をされるのかわからなかった。

 

「髪だ。ほどく」

 

 男はわたしの背中に回った。

 

 背中に人が回るのは、殴られるときだけだった。だからわたしは身構えた。

 

 でも、来たのは、髪を引く感触だった。

 

 毛先から、少しずつ。絡んだところで櫛が止まると、その人は指でほぐした。無理に引かなかった。千切れないように、時間をかけて。

 

 わたしは震えた。

 

「痛いか」

 

「……ちがう」

 

「じゃあなんだ」

 

「あたま、さわられるの、はじめて」

 

 それは本当だった。

 

 誰もわたしの髪に触らなかった。触ったら移ると思われていた。伸び放題の髪は、わたしが誰にも触られていないという証拠そのものだった。

 

 その人は、手を止めなかった。

 

 半刻かかった。

 

 髪がほどけていくたびに、頭が軽くなった。軽くなるたびに、わたしの中の何かが、剥がれていった。

 

 この人は、切らなかった。

 

 切ったほうが楽なのに。短いほうが手入れがいらないのに。

 

 切らずに、革紐で結んでくれた。

 

 わたしは自分の髪の束を手に取って、何度も指で撫でた。これは、わたしの髪だ。誰かが手をかけてくれた髪だ。

 

「そういや、名前は」

 

 わたしは首をかしげた。

 

「なまえ」

 

「呼び名だよ」

 

「……『厄』」

 

 言うと、その人は聞き返した。

 

 わたしはもう一度言った。おとうさまは『厄』、おくさまは『それ』、執事は『あれ』。生まれたとき村の麦が枯れたから、わたしは『厄』。

 

 その人は、立ち上がった。

 

 乱暴に立ち上がったので、わたしは縮こまった。殴られると思った。

 

 殴られなかった。

 

「──ノア」

 

「え」

 

「お前の名前だ。今から、ノア」

 

 ……。

 

 わたしは、その音を、頭の中で転がした。

 

 ノ、ア。

 

 二つの音。

 

 たったそれだけ。

 

「なんで」

 

「昔いた孤児院に、ノアってばあさんがいてな。飯を食わせてくれた唯一の大人だ。麦粥に一匙多く砂糖を入れてくれた。一番いい名前を思い出したらそれだった。文句あるか」

 

 一番いい名前。

 

 この人の中で、一番いい名前。

 

 それを、わたしにくれた。

 

 わたしは口を押さえた。押さえないと、変な音が出そうだった。

 

「ノア。ノア。わたし、ノア」

 

 言うたびに、声が震えた。最後には言葉にならなかった。

 

 名前があるということは、呼ばれるということだ。

 

 呼ばれるということは、誰かが、わたしがそこにいると知っているということだ。

 

 わたしはこの日、生まれた。

 

 十一年遅れて。

 

 その人が戻ってきて、結んだばかりの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。

 

 わたしは一瞬固まって、それから、掌の下に頭を押しつけた。

 

 もっと触ってほしかった。

 

 もっと、ここにいると確かめてほしかった。

 

ーー

 

 三日目に、追手が来た。

 

 男たちがヴァルの名を呼んだ。「その娘だけ返せ」と言った。「金は持っていけ」と言った。

 

 わたしはヴァルの服を掴んだ。

 

 同時に、こうも思った。

 

 ──返されるだろうな、と。

 

 当然だ。麻袋三つ分の金貨と、わたし。比べるまでもない。

 

 わたしは、それでもいいと思っていた。三日もらった。空を見た。スープを飲んだ。名前をもらった。十一年分より、ずっと多い。これ以上をねだるのは、欲張りだ。

 

 だから、掴んだ指を、離そうとした。

 

 その前に、ヴァルが言った。

 

「そいつはもう、名前があるんだ。名前のあるやつは、物じゃねえ」

 

 わたしの中で、何かが割れた音がした。

 

 そのあとは、よく覚えていない。

 

 金貨が宙に散った。腕を掴まれて走った。矢が飛んだ。ヴァルが転んだ。

 

 剣が振り下ろされて、ヴァルの脇腹から血が出た。

 

 赤かった。

 

 火よりも赤かった。

 

 わたしは走れと言われた。崖から飛べと言われた。

 

「いや、だ」

 

「聞け」

 

「いやだ!」

 

 叫んだ。

 

 生まれて初めて、叫んだ。

 

 地下では叫ばなかった。叫んでも誰も来ないと知っていたから。声は、誰かが来る場所でしか意味を持たない。

 

 でも今は、来てくれる人がいる。もう来てくれた人がいる。

 

 だから叫べた。

 

 三人目の剣が、ヴァルの肩を裂いた。

 

 ヴァルが倒れた。

 

 男たちが、倒れたヴァルを跨いで、わたしに手を伸ばした。

 

 その瞬間。

 

 わたしの中で、ずっと閉じていた蓋が、外れた。

 

 地下の呪符。床の模様。あれは全部、この蓋を押さえるためのものだった。ここには呪符がない。模様もない。空が広い。影が長い。

 

 革紐が切れた。髪が広がった。

 

 わたしの影が、地面から起き上がった。

 

 わたしは、ただ、こう思っただけだ。

 

 ──この人たちが、いなくなればいい。

 

 それだけで、足りた。

 

 男の足に影が絡んだ。引き倒した。地面の下へ引きずり込んだ。二人目。三人目。悲鳴。馬が逃げる音。

 

 わたしはそれを、遠くから見ているような気持ちで見ていた。

 

 怖くはなかった。

 

 うれしくもなかった。

 

 ただ、道具が正しく動いているのを見る気持ちに似ていた。

 

 全部が終わって、わたしはヴァルに駆け寄った。

 

 ヴァルの目は閉じていた。血が止まらなかった。

 

 わたしは、両手で傷を押さえた。

 

 押さえながら、思った。

 

 この人は、わたしを選んだせいで死ぬ。

 

 わたしのせいで。

 

 わたしは、生まれてから今日まで、一度も「わたしのせいだ」と思ったことがなかった。麦が枯れたのも、飢饉も、母の死も、全部わたしのせいだと言われ続けたけれど、心のどこかで、それは違う気がしていた。

 

 でも、これは、違う。

 

 これは、本当にわたしのせいだ。

 

 わたしは初めて、自分の罪を知った。

 

ーー

 

 ヴァルは三日眠った。

 

 わたしは、その三日を数えた。

 

 夜が三つ。朝が三つ。

 

 数えられた。数えられるということは、変わっていくということだ。よくなるほうにも、悪くなるほうにも。

 

 わたしはヴァルの手を握って、寝床の脇に座っていた。

 

 薬草の使い方は知っていた。屋敷の庭に生えていたのを、鉄格子の隙間から見ていた。侍女たちが摘んでいくのを、何百回も見た。見ることしかできなかったから、よく覚えていた。

 

 傷に貼った。熱が出た。下がった。また出た。

 

 握った手が、たまに冷たくなった。

 

 そのたびに、わたしは息が止まりそうになった。

 

 三日目の夜、わたしは考えていた。

 

 この人が死ななくても、追手はまた来る。

 

 男爵は諦めない。あの人は、わたしがいないと自分に災いが降ると本気で信じている。信じている人間は、諦めない。

 

 次はもっと多く来る。二十人。三十人。

 

 そのたびに、ヴァルは短刀を抜くだろう。

 

 あの人は、そういう人だ。「名前のあるやつは物じゃねえ」なんてことを、七人を前にして言う人だ。

 

 わたしは、その言葉が世界でいちばん好きで、世界でいちばん怖い。

 

 なぜなら、あの言葉は、あの人を必ず殺すからだ。

 

 わたしは、握った手を見つめた。

 

 この手は、わたしにスープをくれた。名前をくれた。髪を梳いた。

 

 この手が冷たくなるのは、いやだ。

 

 絶対に、いやだ。

 

 だったら。

 

 追ってくる人間が、いなくなればいい。

 

 考えは、とても静かにまとまった。怒りはなかった。復讐という言葉も浮かばなかった。

 

 ただの、計算だった。

 

 残っているのは何人か。門番が二人。執事が一人。おくさまが一人。侍女が四人。厨房に三人。庭師が一人。私兵は十四人いて、七人が街道に出て、五人が帰らなかったから、九人。

 

 それに、おとうさま。

 

 全部で、二十二人。

 

 数えられた。

 

 地下では何も数えられなかったのに、今は数えられる。

 

 ヴァルがくれたのは、名前と、スープと、空と、それから、数の概念だった。

 

 わたしは握っていた手を、そっと外した。

 

 指が離れた瞬間、胸の奥が、물理的に痛んだ。こんな痛みは知らなかった。

 

「すぐ、もどるから」

 

 声には出さず、口の形だけ作った。

 

 わたしは裸足のまま、扉を開けた。

 

ーー

 

 夜の森は歩きやすかった。

 

 わたしは暗いところで育った。暗さは壁ではなく、床だ。踏んで進める。

 

 丘の上の屋敷には灯りがついていた。おとうさまが帰っている。器が逃げたと知って、慌てているのだろう。

 

 三年前の飢饉のとき、あの人は毎晩地下に来て、わたしの前で祈った。祈りながら、震えていた。

 

 閉じ込めているのはそっちなのに、どうして震えるんだろうと、ずっと不思議だった。

 

 今はわかる。

 

 鎖でつないだものを、いつか外れると知りながら飼うのは、怖いことだ。

 

 門番が二人、松明の下に立っていた。

 

 わたしは正面から歩いていった。隠れる必要がなかった。

 

 一人がわたしを見て、目を見開いた。

 

「──『厄』」

 

 その名で呼ばれた瞬間、松明の火が揺れた。

 

 揺れた影が、門柱から二人分の足元へ、するりと伸びた。

 

 声は上がらなかった。

 

 わたしは門をくぐった。地面に松明が二本、転がって燃えていた。

 

 ヴァルなら、この人たちにも名前があると言うだろうか。

 

 たぶん、言う。あの人はそういう人だ。

 

 だから、わたしがやる。

 

 あの人に、やらせない。

 

 玄関の広間で、執事に会った。銀の燭台を持って階段を降りてくるところだった。

 

「……あれが、どうしてここに」

 

 あれ。

 

 わたしの名前は、この人の中では十一年間ずっと「あれ」だった。

 

「わたし、ノアっていうの」

 

 初めて、自分から名乗った。

 

 名乗るのは、うれしいことだった。こんな場所で、こんな相手にでも。

 

「捕らえろ! 誰か──」

 

 燭台の火が消えた。広間が真っ暗になった。

 

 暗いところは、わたしの床だ。

 

 二階に上がった。

 

 おくさまは鏡の前にいた。わたしを見て「それ」と呼んだ。

 

 侍女たちは悲鳴を上げた。四人のうち一人が、逃げるときに廊下でつまずいて転んだ。

 

 わたしは、その人の顔を覚えていた。

 

 三年前、地下に食事を運んできたとき、干からびたパンの端に、こっそり蜂蜜を塗ってくれた人だ。一度だけ。ばれたら罰を受けるから、それきりだった。

 

 わたしは、その人の影に触れなかった。

 

「にげて」

 

 侍女は、腰を抜かしたままわたしを見上げていた。

 

「うらぐちから。にわをとおって、もりへ。ふりかえらないで」

 

 女はうなずいて、這うようにして逃げていった。

 

 一度だけの蜂蜜。それだけで、わたしはこの人を選り分けた。

 

 自分の基準の安さに、少し笑った。

 

 でも、ヴァルがくれたスープだって、たった一杯だった。

 

 たった一杯で、わたしの世界は全部ひっくり返った。

 

 人はきっと、そんなに高いものでは動かないのだ。

 

ーー

 

 おとうさまは、地下にいた。

 

 わたしが十一年間いた、あの部屋。呪符を貼り直していた。震える手で、床の模様を描き直していた。

 

 器が逃げたから、また捕まえて戻すつもりだったのだろう。

 

 階段を降りる足音に、おとうさまが振り返った。

 

 そして、笑った。

 

「帰ってきたか」

 

 安堵の笑いだった。

 

「そうだ、お前はここにいるべきだ。ここがお前の場所だ。外は寒かろう。人はお前を嫌うだろう。ここならわしが養ってやる」

 

 両手を広げた。

 

 わたしは、その顔をじっと見た。

 

 この人の中では、これは優しさなのだと思った。

 

 飼い主の優しさ。壊さないように、逃げないように、餌をやる優しさ。

 

 十一年間、わたしはこれを世界の全部だと思っていた。

 

 でも今は、比べるものがある。

 

 スープを一口飲んでみせてから、椀を押しつけてきた手。

 絡まった髪を、半刻かけて、千切れないように梳いた指。

 「名前のあるやつは物じゃねえ」と言って、七人の前に立った背中。

 

 比べてしまえば、こんなものは、優しさですらなかった。

 

「わたし、ノアっていうの」

 

 わたしは言った。

 

 おとうさまの笑みが、固まった。

 

「……なんだと」

 

「なまえ。もらったの。ヴァルに」

 

「名など要らぬ。器に名は要らぬ」

 

「いるよ」

 

 わたしは首を振った。

 

「なまえがないと、しんだとき、だれもかなしまないから」

 

 おとうさまの顔から、血の気が引いた。

 

 やっと理解したらしい。わたしがこれから何をするか。

 

「待て。待つのだ。お前は厄だ。厄そのものだ。人を殺せば、その厄はさらに濃くなる。お前は自分で自分を汚すのだぞ!」

 

「うん」

 

 わたしはうなずいた。

 

「しってる」

 

 呪符が、一斉に剥がれ落ちた。

 

 貼り直したばかりの糊が、湿った音を立てて壁から離れた。床の白い模様が、内側から黒く滲んで消えていった。

 

 この部屋はもう、わたしを閉じ込めない。

 

「わたしがきたなくなっても、いいの」

 

 わたしは静かに言った。

 

「ヴァルが、きれいなままなら」

 

ーー

 

 夜明けまで、まだ間があった。

 

 わたしは井戸で手を洗った。

 

 手にはほとんど何もついていなかった。影は物を汚さない。それでも、何度も洗った。爪の間まで。三度、四度。

 

 髪も洗った。革紐は切れてしまっていたから、ほどけたままだった。

 

 冷たい水に浸すと、黒い髪が水面に広がって、自分が水の底にいるように見えた。

 

 水に映った顔を見た。

 

 黒い目。誰も見たがらなかった目。

 

 変わっていなかった。二十一人を消しても、顔は変わらないのだと知った。

 

 少し、がっかりした。

 

 もっと恐ろしい顔になっていれば、これから先、ヴァルの役に立つかもしれないのに。

 

 わたしは、ヴァルにこれを話すつもりはない。

 

 あの人は優しいから、きっと悲しむ。もしかしたら、わたしを怖がるかもしれない。

 

 怖がられるのは平気だ。慣れている。十一年やってきた。

 

 でも、あの人にだけは、いやだ。

 

 だから隠す。上手に隠す。

 

 あの人が優しさを隠すみたいに、わたしは黒いところを隠す。

 

 それはきっと、公平な取引だ。

 

 わたしは井戸の縁に座って、濡れた髪を絞りながら、少しだけ泣いた。

 

 悲しかったからじゃない。

 

 これから先ずっとこの人に嘘をつき続けるんだと思ったら、なぜか涙が出ただけだ。

 

ーー

 

 小屋に戻ったのは、空が白み始めた頃だった。

 

 音を立てないように扉を開けた。

 

 ヴァルは眠っていた。よかった。

 

 わたしは寝床の脇に戻って、外したときと同じ形に、そっと右手を握った。

 

 指が触れた瞬間、胸の痛みが消えた。

 

 やっぱりだ、と思った。この痛みは、離れているときだけ起きる。

 

 しばらくして、ヴァルが目を覚ました。

 

「……起きてたのか」

 

「うん」

 

「ずっとか」

 

「ずっと」

 

 嘘だ。最初の嘘。

 

 思ったよりずっと簡単に、口から出た。

 

 ヴァルは寝ぼけた目でわたしを見て、それから少し眉を寄せた。

 

「髪、濡れてんぞ」

 

 心臓が跳ねた。

 

「……あらった。いどのみずで」

 

「夜中にか。馬鹿、風邪ひくだろ」

 

 ヴァルは呆れた顔をして、痛む腕を持ち上げ、わたしの頭に手を置いた。

 

 それだけだった。

 

 それ以上、何も聞かれなかった。

 

 この人は盗賊だ。夜中に人が抜け出す音に気づかないはずがない。裸足の足の裏が土で汚れているのに、気づかないはずがない。

 

 気づいていて、聞かない。

 

 わたしはうつむいた。うつむかないと、顔がおかしくなりそうだった。

 

「……ヴァル」

 

「あ?」

 

「わたしのこと、こわくない?」

 

 ヴァルはしばらく黙って、それから、あくびをして言った。

 

「腹が減ってる盗賊のほうが、よっぽど怖ぇよ」

 

 わたしは笑った。

 

 声を出して笑ったのは、生まれて初めてだった。喉が変な音を立てて、途中で咳き込んで、背中を叩かれた。

 

 窓の外で、朝日が昇っていく。

 

 丘の上の屋敷から、まだ煙は上がっていない。数日すれば誰かが見つけるだろう。悪徳領主の屋敷が、一夜にして静まり返っていることに。

 

 人はきっと言う。厄が来たのだ、と。

 

 好きに言えばいい。

 

 わたしは『厄』でいい。

 

 この人がごはんを食べられて、傷が治って、空の下を歩けるなら。

 

 わたしの名前は、この人が呼ぶときだけ、ノアであればいい。

 

「ノア」

 

「なに」

 

「スープ、作れるか。芋切るだけでいい」

 

「うん」

 

 わたしは立ち上がった。

 

 鍋を火にかけて、水を汲んで、芋を切った。手つきは下手だった。指を切って、血が出た。

 

 ヴァルが「不器用だな」と笑って、布を巻いてくれた。

 

 わたしはその布を見つめていた。

 

 昨日の夜、二十一人分の影を引きずり込んだ手に、この人は布を巻いてくれる。

 

 何も知らずに。

 

 これからも、知らないままで。

 

 わたしは、この人が「気まぐれだ」と思っていることを知っている。

 

 三日前、地下でわたしを拾ったのは、偶然だと思っていることも。

 

 スープの塩が足りなかったと悔やんでいたことも、名前を思いつきでつけたと思っていることも、髪を梳いたのは虫が湧くからだと自分に言い聞かせていることも、全部知っている。

 

 あの人にとっては、そうなのだろう。

 

 でも、わたしにとっては、違う。

 

 あの人が軽く投げたものを、わたしは全部、両手で受け止めた。

 

 落とさなかった。一つも。

 

 だから、これはもう、返せない。

 

 返せないものを抱えた人間がどうなるかというと、こうなる。

 

 わたしは芋を切りながら、ヴァルの寝息を数えていた。

 

 一つ、二つ、三つ。

 

 数えられる。

 

 数えられるということは、いつか終わるということだ。

 

 だから、終わらせない。

 

 なにがあっても。

 

 

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