金がないから屋敷襲ったらよくわかんないガキに執着された。 作:都頃天
地下では、数が数えられなかった。
数えるには、変わるものが要る。朝が来て、夜が来て、それを一つと呼ぶ。そうやって人は日を数えるのだと、あとから知った。
あの部屋には朝も夜もなかった。ずっと同じ暗さだった。灯りが来るのは、食事が運ばれてくるときと、おとうさまが祈りに来るときだけ。でもそれは決まった間隔ではなかった。長く来ないこともあった。三年前の飢饉のときは、灯りが一度も来ないまま、わたしは眠って、起きて、また眠った。何回眠ったかは覚えていない。
覚えていないというより、覚える意味がなかった。
数えられないものは、増えない。増えないものは、終わらない。
だからわたしは、自分が何歳なのかを知らない。
石の壁の傷を数えたことはある。四百八十三本まで数えて、それが誰がつけた傷なのか考えて、わたしより前にも誰かがここにいたのだと気づいて、数えるのをやめた。
わたしはずっと、そういう場所にいた。
ーー
その夜、階段のほうから灯りが降りてきた。
食事の時間ではなかった。おとうさまの足音でもなかった。
わたしは顔を上げなかった。上げる理由がなかったから。
ただ、少しだけ、期待した。
これは死かもしれない、と。
誰かがわたしを殺しに来たのなら、それはとてもいいことだ。おとうさまは絶対にわたしを殺さない。器は壊すと困るから。だからわたしは、自分では死ねないし、誰かが来ないかぎり終われない。
灯りが近づいた。人の匂いがした。汗と、雨と、煤の匂い。
わたしは顔を上げた。
男が立っていた。顔を煤で汚した、痩せた男。びしょ濡れの服。手には短刀。目つきは悪い。
殺してくれる、とわたしは思った。
だからわたしは、その人をじっと見た。
瞬きもしなかった。逃げなかった。悲鳴も上げなかった。上げたら、気が変わってしまうかもしれないから。
早く。
そう思って見つめていた。
男は、しばらく動かなかった。
それから──指が、震えた。
わたしは、それを見た。
短刀を持った手が、震えていた。
どうして震えるんだろう、とわたしは思った。わたしを殺すのが怖いのだろうか。わたしが厄だから。触ったら不幸になると思っているから。
みんなそうだった。侍女はわたしに食事を運ぶとき、椀を床に滑らせて置いた。触れないように。目を合わせないように。
この人も同じだ、とわたしは思った。
思って、少しだけ、がっかりした。
なんだ、いつもの人間だ、と。
ーー
「──なあ、お前」
男はしゃがんだ。
目の高さが、同じになった。
わたしはそれに、うまく反応できなかった。
人がわたしと目の高さを合わせたのは、初めてだった。誰もが上から見下ろすか、そもそも見なかった。目線を下げるというのは、たぶん、相手を人だと思っているときにする動作なのだと思う。
男は喋った。盗賊だと言った。金庫が空だったと言った。取引をしようと言った。
わたしは半分くらいしか聞いていなかった。まだ目の高さのことを考えていたから。
短刀が抜かれた。
やっと、と思った。
でも刃はわたしに向かず、錠前に差し込まれた。
「宝の在処を教えろ。そうしたら──」
そこで、言葉が止まった。
男は少し困った顔をした。何かを言おうとしてやめた顔だった。
そして、言った。
「連れて出てやる。ここから」
わたしの肩が、勝手に跳ねた。
からだが先に反応して、そのあとで頭が追いついた。
そと。
外。
その音を、わたしは知っていた。侍女たちが話しているのを、鉄格子越しに何度も聞いたことがある。外は寒い。外は雨だ。外の市が立つ日だ。外、外、外。
わたしにとって「そと」は、この世でいちばん遠い言葉だった。
海とか、星とか、そういうものと同じ列にある言葉。存在するらしいけれど、わたしとは関係のない言葉。
「……そと」
声が出た。掠れて、割れて、自分の声だと思えなかった。
「外」と男は繰り返した。「空が見えるとこだ。雨が降ってて、風が吹いてて、地面が土の匂いがする場所」
わたしは、その一つ一つを頭の中に並べた。
空。雨。風。土。
四つ。
これが、わたしが初めて数えたものだった。
わたしは床を指した。模様の中心。おとうさまが金を隠している場所。ずっと知っていた。誰も、わたしが見ていると思っていなかったから。
男は石を蹴って、こじ開けて、金貨の袋を見て、笑った。
人が笑うところを、わたしは初めて近くで見た。
嘲る笑いでも、恐れる笑いでもない笑い方があるのだと、そのとき知った。
そして男は、笑ったまま、錠前を壊した。
鉄輪が外れた。
わたしは自分の手首を見た。
十一年ぶりに、そこには何もなかった。
擦り切れた皮膚を撫でた。輪がないと、腕が軽すぎて、自分の腕ではないみたいだった。
「立てるか」
立てなかった。
男は舌打ちして、金貨の袋を三つ担いで、余った腕でわたしを持ち上げた。
抱えられた。
わたしは、それにも、うまく反応できなかった。
人の体温というものを、わたしは知らなかった。冷たい石と、冷たい鉄と、冷たい水しか知らなかった。
人はこんなに熱いのだ、と思った。
わたしは息を止めた。動いたら、この熱が逃げてしまう気がしたから。
ーー
階段を上がった。長かった。上がるにつれて空気が変わった。湿った石の匂いが薄れて、別の匂いが混じってきた。
扉が開いた。
音が、どっと押し寄せた。
雨の音だった。
あんなに大きな音を、わたしは聞いたことがなかった。地下では、自分の呼吸がいちばん大きな音だった。
男が軒下にわたしを降ろした。何か言っていたけれど、聞こえなかった。
わたしは、一歩、外へ出た。
雨が、顔に当たった。
冷たかった。痛いくらい冷たかった。
それから、上を見た。
──天井が、ない。
わたしは、それをどう理解していいかわからなかった。
部屋には天井がある。廊下にも天井がある。世界には天井がある。そういうものだと思っていた。
なのに、上には何もなかった。
黒くて、けむっていて、どこまでも続いていた。目で追っても終わりがなかった。終わりのないものを、わたしは初めて見た。
「……ひろい」
声が出た。
「そらが、ひろい」
雨が髪を叩いていた。十一年分の埃と灰が、髪から流れ落ちていくのがわかった。
わたしは泣いていたのかもしれない。雨と区別がつかなかった。
空は広い。
それは、逃げられるという意味だ。
それは、どこへでも行けるという意味だ。
それは──追いかけられる、という意味でもある。
その最後のひとつに気づいたのは、ずっとあとのことだった。
「風邪ひくぞ、馬鹿」
男が外套を脱いで、わたしの頭からかぶせた。
自分が濡れることを、この人は気にしなかった。
わたしは、外套の下から空を見続けた。
布ごしに、人の匂いがした。
ーー
森の小屋で、男は火を熾した。
火も、わたしは近くで見たことがなかった。あんなに明るくて、あんなに動くものだとは知らなかった。
鍋から湯気が上がった。匂いがした。
その匂いを嗅いだ瞬間、わたしのからだの奥で、何かがぐうっと鳴った。
男が椀を差し出した。
わたしは動けなかった。
「食え」
わたしは椀を見た。それから男を見た。
これは罠かもしれない、と思った。
地下でも、たまにこういうことがあった。侍女が新しく入ると、はじめのうちはまともな食事を持ってくる。それを食べると、執事が来て、わたしは罰を受けた。「厄が人並みの食事を摂ると、屋敷に災いが降る」から。
だからわたしは、言った。
「……わたしが、たべると、わるいことが、おきる」
「あ?」
「わたしが、さわったもの、たべると、しぬって。だから、わたしのぶんは、ゆかに、なげる」
これは正しい作法のはずだった。十一年間、そう教わってきた。
男は黙った。
そして──椀を、自分の口に運んだ。
わたしは、息が止まった。
その人は、わたしの分のスープを、一口飲んだ。
わたしが触るはずだったものを。わたしのために作られた、汚れたものを。
「ほら、死んでねえ」
わたしは目を見開いた。
この人は、死ななかった。
「今度はお前が飲め。俺が死んだら謝れ」
椀が押しつけられた。
わたしの手が震えた。震えたまま、椀を掴んだ。
一口。
舐めるくらいの一口だった。
熱かった。塩の味がした。芋の甘さがした。
二口目で、喉が勝手に鳴った。
三口目からは、もう止まらなかった。両手で椀を抱え込んで、火傷しそうなのに飲み下した。喉が痛かった。それでも飲んだ。パンを浸した。噛んだ。飲んだ。
途中で咳き込んだら、背中をさすられた。
人の掌が、背中にあった。
わたしはそれを、一生忘れないと思った。
実際、忘れていない。
椀の底まで舐めて、顔を上げて、わたしはその人の顔をじっと見た。
まだ死んでいなかった。
「……しなない」
「死なねえよ」
「なんで」
「なんでって。食い物ってのは誰が触っても食い物だ。お前が特別だと思ってんなら、それはお前を檻に入れた奴がそう思わせたかっただけだろ」
わたしは、その言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返した。
わたしが特別なんじゃない。
そう思わせたかった人が、いただけ。
──だとしたら。
わたしが檻にいた十一年は、なんだったんだろう。
母が死んだのも、麦が枯れたのも、飢饉が来たのも、わたしのせいじゃないなら。
わたしは、なんのために、あそこにいたんだろう。
その考えは、あまりに大きすぎて、わたしはうまく飲み込めなかった。
代わりに、こう言った。
「……あなたは、へん、だ」
「よく言われる」
その人は笑った。
わたしは、この人の言うことのほうが正しければいい、と思った。
いや、違う。
正しくなくてもいい。
この人が言うなら、それが正しいことにする。
たぶん、わたしがおかしくなったのは、この瞬間だ。
ーー
翌朝、櫛を出された。
何をされるのかわからなかった。
「髪だ。ほどく」
男はわたしの背中に回った。
背中に人が回るのは、殴られるときだけだった。だからわたしは身構えた。
でも、来たのは、髪を引く感触だった。
毛先から、少しずつ。絡んだところで櫛が止まると、その人は指でほぐした。無理に引かなかった。千切れないように、時間をかけて。
わたしは震えた。
「痛いか」
「……ちがう」
「じゃあなんだ」
「あたま、さわられるの、はじめて」
それは本当だった。
誰もわたしの髪に触らなかった。触ったら移ると思われていた。伸び放題の髪は、わたしが誰にも触られていないという証拠そのものだった。
その人は、手を止めなかった。
半刻かかった。
髪がほどけていくたびに、頭が軽くなった。軽くなるたびに、わたしの中の何かが、剥がれていった。
この人は、切らなかった。
切ったほうが楽なのに。短いほうが手入れがいらないのに。
切らずに、革紐で結んでくれた。
わたしは自分の髪の束を手に取って、何度も指で撫でた。これは、わたしの髪だ。誰かが手をかけてくれた髪だ。
「そういや、名前は」
わたしは首をかしげた。
「なまえ」
「呼び名だよ」
「……『厄』」
言うと、その人は聞き返した。
わたしはもう一度言った。おとうさまは『厄』、おくさまは『それ』、執事は『あれ』。生まれたとき村の麦が枯れたから、わたしは『厄』。
その人は、立ち上がった。
乱暴に立ち上がったので、わたしは縮こまった。殴られると思った。
殴られなかった。
「──ノア」
「え」
「お前の名前だ。今から、ノア」
……。
わたしは、その音を、頭の中で転がした。
ノ、ア。
二つの音。
たったそれだけ。
「なんで」
「昔いた孤児院に、ノアってばあさんがいてな。飯を食わせてくれた唯一の大人だ。麦粥に一匙多く砂糖を入れてくれた。一番いい名前を思い出したらそれだった。文句あるか」
一番いい名前。
この人の中で、一番いい名前。
それを、わたしにくれた。
わたしは口を押さえた。押さえないと、変な音が出そうだった。
「ノア。ノア。わたし、ノア」
言うたびに、声が震えた。最後には言葉にならなかった。
名前があるということは、呼ばれるということだ。
呼ばれるということは、誰かが、わたしがそこにいると知っているということだ。
わたしはこの日、生まれた。
十一年遅れて。
その人が戻ってきて、結んだばかりの髪をぐしゃぐしゃに撫でた。
わたしは一瞬固まって、それから、掌の下に頭を押しつけた。
もっと触ってほしかった。
もっと、ここにいると確かめてほしかった。
ーー
三日目に、追手が来た。
男たちがヴァルの名を呼んだ。「その娘だけ返せ」と言った。「金は持っていけ」と言った。
わたしはヴァルの服を掴んだ。
同時に、こうも思った。
──返されるだろうな、と。
当然だ。麻袋三つ分の金貨と、わたし。比べるまでもない。
わたしは、それでもいいと思っていた。三日もらった。空を見た。スープを飲んだ。名前をもらった。十一年分より、ずっと多い。これ以上をねだるのは、欲張りだ。
だから、掴んだ指を、離そうとした。
その前に、ヴァルが言った。
「そいつはもう、名前があるんだ。名前のあるやつは、物じゃねえ」
わたしの中で、何かが割れた音がした。
そのあとは、よく覚えていない。
金貨が宙に散った。腕を掴まれて走った。矢が飛んだ。ヴァルが転んだ。
剣が振り下ろされて、ヴァルの脇腹から血が出た。
赤かった。
火よりも赤かった。
わたしは走れと言われた。崖から飛べと言われた。
「いや、だ」
「聞け」
「いやだ!」
叫んだ。
生まれて初めて、叫んだ。
地下では叫ばなかった。叫んでも誰も来ないと知っていたから。声は、誰かが来る場所でしか意味を持たない。
でも今は、来てくれる人がいる。もう来てくれた人がいる。
だから叫べた。
三人目の剣が、ヴァルの肩を裂いた。
ヴァルが倒れた。
男たちが、倒れたヴァルを跨いで、わたしに手を伸ばした。
その瞬間。
わたしの中で、ずっと閉じていた蓋が、外れた。
地下の呪符。床の模様。あれは全部、この蓋を押さえるためのものだった。ここには呪符がない。模様もない。空が広い。影が長い。
革紐が切れた。髪が広がった。
わたしの影が、地面から起き上がった。
わたしは、ただ、こう思っただけだ。
──この人たちが、いなくなればいい。
それだけで、足りた。
男の足に影が絡んだ。引き倒した。地面の下へ引きずり込んだ。二人目。三人目。悲鳴。馬が逃げる音。
わたしはそれを、遠くから見ているような気持ちで見ていた。
怖くはなかった。
うれしくもなかった。
ただ、道具が正しく動いているのを見る気持ちに似ていた。
全部が終わって、わたしはヴァルに駆け寄った。
ヴァルの目は閉じていた。血が止まらなかった。
わたしは、両手で傷を押さえた。
押さえながら、思った。
この人は、わたしを選んだせいで死ぬ。
わたしのせいで。
わたしは、生まれてから今日まで、一度も「わたしのせいだ」と思ったことがなかった。麦が枯れたのも、飢饉も、母の死も、全部わたしのせいだと言われ続けたけれど、心のどこかで、それは違う気がしていた。
でも、これは、違う。
これは、本当にわたしのせいだ。
わたしは初めて、自分の罪を知った。
ーー
ヴァルは三日眠った。
わたしは、その三日を数えた。
夜が三つ。朝が三つ。
数えられた。数えられるということは、変わっていくということだ。よくなるほうにも、悪くなるほうにも。
わたしはヴァルの手を握って、寝床の脇に座っていた。
薬草の使い方は知っていた。屋敷の庭に生えていたのを、鉄格子の隙間から見ていた。侍女たちが摘んでいくのを、何百回も見た。見ることしかできなかったから、よく覚えていた。
傷に貼った。熱が出た。下がった。また出た。
握った手が、たまに冷たくなった。
そのたびに、わたしは息が止まりそうになった。
三日目の夜、わたしは考えていた。
この人が死ななくても、追手はまた来る。
男爵は諦めない。あの人は、わたしがいないと自分に災いが降ると本気で信じている。信じている人間は、諦めない。
次はもっと多く来る。二十人。三十人。
そのたびに、ヴァルは短刀を抜くだろう。
あの人は、そういう人だ。「名前のあるやつは物じゃねえ」なんてことを、七人を前にして言う人だ。
わたしは、その言葉が世界でいちばん好きで、世界でいちばん怖い。
なぜなら、あの言葉は、あの人を必ず殺すからだ。
わたしは、握った手を見つめた。
この手は、わたしにスープをくれた。名前をくれた。髪を梳いた。
この手が冷たくなるのは、いやだ。
絶対に、いやだ。
だったら。
追ってくる人間が、いなくなればいい。
考えは、とても静かにまとまった。怒りはなかった。復讐という言葉も浮かばなかった。
ただの、計算だった。
残っているのは何人か。門番が二人。執事が一人。おくさまが一人。侍女が四人。厨房に三人。庭師が一人。私兵は十四人いて、七人が街道に出て、五人が帰らなかったから、九人。
それに、おとうさま。
全部で、二十二人。
数えられた。
地下では何も数えられなかったのに、今は数えられる。
ヴァルがくれたのは、名前と、スープと、空と、それから、数の概念だった。
わたしは握っていた手を、そっと外した。
指が離れた瞬間、胸の奥が、물理的に痛んだ。こんな痛みは知らなかった。
「すぐ、もどるから」
声には出さず、口の形だけ作った。
わたしは裸足のまま、扉を開けた。
ーー
夜の森は歩きやすかった。
わたしは暗いところで育った。暗さは壁ではなく、床だ。踏んで進める。
丘の上の屋敷には灯りがついていた。おとうさまが帰っている。器が逃げたと知って、慌てているのだろう。
三年前の飢饉のとき、あの人は毎晩地下に来て、わたしの前で祈った。祈りながら、震えていた。
閉じ込めているのはそっちなのに、どうして震えるんだろうと、ずっと不思議だった。
今はわかる。
鎖でつないだものを、いつか外れると知りながら飼うのは、怖いことだ。
門番が二人、松明の下に立っていた。
わたしは正面から歩いていった。隠れる必要がなかった。
一人がわたしを見て、目を見開いた。
「──『厄』」
その名で呼ばれた瞬間、松明の火が揺れた。
揺れた影が、門柱から二人分の足元へ、するりと伸びた。
声は上がらなかった。
わたしは門をくぐった。地面に松明が二本、転がって燃えていた。
ヴァルなら、この人たちにも名前があると言うだろうか。
たぶん、言う。あの人はそういう人だ。
だから、わたしがやる。
あの人に、やらせない。
玄関の広間で、執事に会った。銀の燭台を持って階段を降りてくるところだった。
「……あれが、どうしてここに」
あれ。
わたしの名前は、この人の中では十一年間ずっと「あれ」だった。
「わたし、ノアっていうの」
初めて、自分から名乗った。
名乗るのは、うれしいことだった。こんな場所で、こんな相手にでも。
「捕らえろ! 誰か──」
燭台の火が消えた。広間が真っ暗になった。
暗いところは、わたしの床だ。
二階に上がった。
おくさまは鏡の前にいた。わたしを見て「それ」と呼んだ。
侍女たちは悲鳴を上げた。四人のうち一人が、逃げるときに廊下でつまずいて転んだ。
わたしは、その人の顔を覚えていた。
三年前、地下に食事を運んできたとき、干からびたパンの端に、こっそり蜂蜜を塗ってくれた人だ。一度だけ。ばれたら罰を受けるから、それきりだった。
わたしは、その人の影に触れなかった。
「にげて」
侍女は、腰を抜かしたままわたしを見上げていた。
「うらぐちから。にわをとおって、もりへ。ふりかえらないで」
女はうなずいて、這うようにして逃げていった。
一度だけの蜂蜜。それだけで、わたしはこの人を選り分けた。
自分の基準の安さに、少し笑った。
でも、ヴァルがくれたスープだって、たった一杯だった。
たった一杯で、わたしの世界は全部ひっくり返った。
人はきっと、そんなに高いものでは動かないのだ。
ーー
おとうさまは、地下にいた。
わたしが十一年間いた、あの部屋。呪符を貼り直していた。震える手で、床の模様を描き直していた。
器が逃げたから、また捕まえて戻すつもりだったのだろう。
階段を降りる足音に、おとうさまが振り返った。
そして、笑った。
「帰ってきたか」
安堵の笑いだった。
「そうだ、お前はここにいるべきだ。ここがお前の場所だ。外は寒かろう。人はお前を嫌うだろう。ここならわしが養ってやる」
両手を広げた。
わたしは、その顔をじっと見た。
この人の中では、これは優しさなのだと思った。
飼い主の優しさ。壊さないように、逃げないように、餌をやる優しさ。
十一年間、わたしはこれを世界の全部だと思っていた。
でも今は、比べるものがある。
スープを一口飲んでみせてから、椀を押しつけてきた手。
絡まった髪を、半刻かけて、千切れないように梳いた指。
「名前のあるやつは物じゃねえ」と言って、七人の前に立った背中。
比べてしまえば、こんなものは、優しさですらなかった。
「わたし、ノアっていうの」
わたしは言った。
おとうさまの笑みが、固まった。
「……なんだと」
「なまえ。もらったの。ヴァルに」
「名など要らぬ。器に名は要らぬ」
「いるよ」
わたしは首を振った。
「なまえがないと、しんだとき、だれもかなしまないから」
おとうさまの顔から、血の気が引いた。
やっと理解したらしい。わたしがこれから何をするか。
「待て。待つのだ。お前は厄だ。厄そのものだ。人を殺せば、その厄はさらに濃くなる。お前は自分で自分を汚すのだぞ!」
「うん」
わたしはうなずいた。
「しってる」
呪符が、一斉に剥がれ落ちた。
貼り直したばかりの糊が、湿った音を立てて壁から離れた。床の白い模様が、内側から黒く滲んで消えていった。
この部屋はもう、わたしを閉じ込めない。
「わたしがきたなくなっても、いいの」
わたしは静かに言った。
「ヴァルが、きれいなままなら」
ーー
夜明けまで、まだ間があった。
わたしは井戸で手を洗った。
手にはほとんど何もついていなかった。影は物を汚さない。それでも、何度も洗った。爪の間まで。三度、四度。
髪も洗った。革紐は切れてしまっていたから、ほどけたままだった。
冷たい水に浸すと、黒い髪が水面に広がって、自分が水の底にいるように見えた。
水に映った顔を見た。
黒い目。誰も見たがらなかった目。
変わっていなかった。二十一人を消しても、顔は変わらないのだと知った。
少し、がっかりした。
もっと恐ろしい顔になっていれば、これから先、ヴァルの役に立つかもしれないのに。
わたしは、ヴァルにこれを話すつもりはない。
あの人は優しいから、きっと悲しむ。もしかしたら、わたしを怖がるかもしれない。
怖がられるのは平気だ。慣れている。十一年やってきた。
でも、あの人にだけは、いやだ。
だから隠す。上手に隠す。
あの人が優しさを隠すみたいに、わたしは黒いところを隠す。
それはきっと、公平な取引だ。
わたしは井戸の縁に座って、濡れた髪を絞りながら、少しだけ泣いた。
悲しかったからじゃない。
これから先ずっとこの人に嘘をつき続けるんだと思ったら、なぜか涙が出ただけだ。
ーー
小屋に戻ったのは、空が白み始めた頃だった。
音を立てないように扉を開けた。
ヴァルは眠っていた。よかった。
わたしは寝床の脇に戻って、外したときと同じ形に、そっと右手を握った。
指が触れた瞬間、胸の痛みが消えた。
やっぱりだ、と思った。この痛みは、離れているときだけ起きる。
しばらくして、ヴァルが目を覚ました。
「……起きてたのか」
「うん」
「ずっとか」
「ずっと」
嘘だ。最初の嘘。
思ったよりずっと簡単に、口から出た。
ヴァルは寝ぼけた目でわたしを見て、それから少し眉を寄せた。
「髪、濡れてんぞ」
心臓が跳ねた。
「……あらった。いどのみずで」
「夜中にか。馬鹿、風邪ひくだろ」
ヴァルは呆れた顔をして、痛む腕を持ち上げ、わたしの頭に手を置いた。
それだけだった。
それ以上、何も聞かれなかった。
この人は盗賊だ。夜中に人が抜け出す音に気づかないはずがない。裸足の足の裏が土で汚れているのに、気づかないはずがない。
気づいていて、聞かない。
わたしはうつむいた。うつむかないと、顔がおかしくなりそうだった。
「……ヴァル」
「あ?」
「わたしのこと、こわくない?」
ヴァルはしばらく黙って、それから、あくびをして言った。
「腹が減ってる盗賊のほうが、よっぽど怖ぇよ」
わたしは笑った。
声を出して笑ったのは、生まれて初めてだった。喉が変な音を立てて、途中で咳き込んで、背中を叩かれた。
窓の外で、朝日が昇っていく。
丘の上の屋敷から、まだ煙は上がっていない。数日すれば誰かが見つけるだろう。悪徳領主の屋敷が、一夜にして静まり返っていることに。
人はきっと言う。厄が来たのだ、と。
好きに言えばいい。
わたしは『厄』でいい。
この人がごはんを食べられて、傷が治って、空の下を歩けるなら。
わたしの名前は、この人が呼ぶときだけ、ノアであればいい。
「ノア」
「なに」
「スープ、作れるか。芋切るだけでいい」
「うん」
わたしは立ち上がった。
鍋を火にかけて、水を汲んで、芋を切った。手つきは下手だった。指を切って、血が出た。
ヴァルが「不器用だな」と笑って、布を巻いてくれた。
わたしはその布を見つめていた。
昨日の夜、二十一人分の影を引きずり込んだ手に、この人は布を巻いてくれる。
何も知らずに。
これからも、知らないままで。
わたしは、この人が「気まぐれだ」と思っていることを知っている。
三日前、地下でわたしを拾ったのは、偶然だと思っていることも。
スープの塩が足りなかったと悔やんでいたことも、名前を思いつきでつけたと思っていることも、髪を梳いたのは虫が湧くからだと自分に言い聞かせていることも、全部知っている。
あの人にとっては、そうなのだろう。
でも、わたしにとっては、違う。
あの人が軽く投げたものを、わたしは全部、両手で受け止めた。
落とさなかった。一つも。
だから、これはもう、返せない。
返せないものを抱えた人間がどうなるかというと、こうなる。
わたしは芋を切りながら、ヴァルの寝息を数えていた。
一つ、二つ、三つ。
数えられる。
数えられるということは、いつか終わるということだ。
だから、終わらせない。
なにがあっても。