金がないから屋敷襲ったらよくわかんないガキに執着された。 作:都頃天
異端審問局第三席、シーラ・ヴェントは、丘の上の屋敷を見上げて、まず匂いを確かめた。
九日。通報からここまで九日かかった。夏なら手遅れだが、幸い季節は冬の入り口だ。それでも近づけば匂う。人が二十人も死ねば、屋敷は屋敷でなくなる。
「開けろ」
同行の衛士が正門を押した。閂は下りていなかった。
シーラは手袋を嵌め直しながら、門柱の下に落ちていた炭化した棒を靴の先で転がした。松明だ。二本。ここに立っていた人間が、握ったまま倒れた形で燃え尽きている。
揉み合った跡がない。血もない。
彼女は帳面を出して、一行目を書いた。
『門番二名。抵抗の痕跡なし』
審問官の仕事の八割は、この帳面である。異端者を焼くのは残り二割で、しかもその二割は年に一度も来ない。異端審問官などと言えば大層に聞こえるが、実際は死体を数えて記録する役人だ。シーラはその事実に、就任十四年目にしてようやく慣れた。
広間に入った。
執事が階段の途中で倒れていた。銀の燭台を握ったままだ。ろうそくは折れていない。
「傷は?」
衛士が屈み込んで、しばらくして首を振った。
「……ありません。どこにも」
シーラは自分でも確かめた。切創なし。刺創なし。打撲痕なし。毒特有の変色もなし。窒息の徴候もない。
ただ、表情だけがひどかった。
この男は、最後に何かを見た。見て、理解して、それから死んだ。理解する時間があったというのが、一番よくない。
『執事一名。外傷なし。表情に恐怖の固定』
二階に上がった。夫人が鏡の前で倒れていた。侍女が三名。厨房に三名。庭師が一名。私兵が九名——うち七名は、廊下や階段で武器を抜いた姿勢のまま。抜いただけだ。振っていない。
シーラは数えながら歩いた。数え終えて、帳面を閉じた。
二十一名。
全員、外傷なし。
「……悪魔憑きですか」
衛士の一人が、掠れた声で言った。
「それを決めるのが私の仕事だ」
シーラは答えた。決めたくはなかった。悪魔憑きと書くと書類が四倍になる。
ーー
酒蔵の奥の樽が動かされていた。床石がずれ、階段が口を開けている。
「灯りを」
降りた。二十段、三十段。屋敷の基礎より深い。
シーラは階段の途中で足を止めた。
金がかかっている、と思った。この深さまで石を積んで掘るには、村がひとつ建つほどの金がいる。ガルバン男爵は税を絞ることで有名な男だった。絞った税は、どうやらここに埋まっている。
降りきった先は、四角い石の部屋だった。
男爵が、床の中央に倒れていた。手に筆と白い塗料。
壁を見て、シーラは眉を寄せた。
呪符が、全部剥がれ落ちている。
床に散らばった紙を一枚拾い上げ、灯りにかざした。書かれているのは古語だ。読める。読めるが——読めることと、意味がわかることは違う。
『これは封である』
『これは器である』
『出でざれ』
繰り返し、何十枚も。同じ三行。
「……封じの札ですね」衛士が言った。「悪魔祓いの」
「違う」
シーラは首を振った。
「悪魔祓いの札は外に貼る。入ってこないように。これは——」
彼女は剥がれた札の裏を見た。糊のついていた面が、部屋の内側を向いていた形跡がある。
「内側に貼ってある。出ていかないように」
部屋の中央、床の白い模様の真ん中に、鉄の檻があった。
人ひとりが座れるだけの檻。鎖。手枷と足枷。錠前は、力ずくで壊されている。
シーラは檻に近づいて、床の隅の木の椀を確かめ、それから、鉄輪の内側を灯りで照らした。
擦れた跡が、内側にびっしりついている。
長い年月をかけて、少しずつ、肉が鉄を磨いた跡だ。
シーラは黙って、しばらくそこに立っていた。
十四年やってきて、この手の部屋は初めてではない。だが慣れることもない。
「……男爵は、何を飼っていたんです」
衛士が訊いた。
「飼っていた?」
シーラは檻の中を見たまま言った。
「閉じ込めていた、だ。飼うというのは、餌をやることだ。ここには椀が一つしかない。犬でももう少しましな扱いを受ける」
彼女は壁に近づいた。
石壁に、細かい傷が刻まれている。
数えた。
職業病だ。数えなければ気が済まない。四百まで数えて、彼女は自分が何をしているのか気づいて、それでも最後まで数えた。
四百八十三本。
途中で、やめている。
シーラは、その途中でやめた理由を考えて、考えるのをやめた。
ーー
生存者が一人いた。
通報したのはこの女だ。ふもとの村に逃げ込んで、三日間口をきかず、四日目に「屋敷が」とだけ言った。侍女で、名をベラといった。
シーラは村の教会の一室で、彼女と向かい合った。
「見たものを話しなさい。異端審問局は、生存者を罰しない」
嘘ではない。罰する場合もあるが、この女は罰しても書類が増えるだけだ。
ベラは震える手で椀を持ち、水を飲んで、話し始めた。
黒い髪の娘。地下にいた娘。長い髪。黒い目。
「男爵さまは、あの子を『厄』と呼んでおられました。あたしらも、そう呼ぶように言われて」
「名は」
「……ありません。ないんです、名前が」
シーラは筆を止めた。
『被疑者の氏名——なし』
その一行は、彼女が十四年書いた中で、最も気分の悪い一行だった。
「その娘が、屋敷の人間を殺した。そう言うのか」
「はい」
「では、なぜお前は生きている」
ベラの顔が歪んだ。
その歪み方を、シーラはよく知っていた。生き延びた人間が、生き延びた理由を思い出すときの顔だ。
「……逃げて、と」
「なんだと」
「あの子が、あたしに、逃げてと言ったんです。裏口から、庭を通って、森へ。振り返らないで、と」
シーラは筆を置いた。
これは、まずい。
悪魔憑きなら、話は簡単だ。悪魔は選ばない。悪魔は片端から殺す。それが悪魔の定義であり、書類の様式であり、火刑の根拠だ。
だが、この娘は選んだ。
二十一人を殺し、一人を逃がした。
「なぜお前だけ逃がされた。心当たりは」
「わかりません。あたしは……あたしは、あの子に何もしてやれませんでした。あたしだって、あの子を『あれ』って呼んでました。みんなそう呼んでたから」
ベラは顔を覆った。
「一度だけ、パンに蜂蜜を塗ったんです」
シーラは、しばらく黙っていた。
「……それだけか」
「それだけです。一度だけ。ばれたら鞭だから、それきり」
シーラは天井を見上げた。
教会の天井は低く、煤けている。
一度だけの蜂蜜で、命が釣り合う。
つまりその娘の中では、人の価値は、そういう単位で計られているということだ。
それは、慈悲深いのではない。
基準が、まっさらだということだ。まっさらな天秤に、最初に載ったものが、そのまま「重い」になる。
誰かが優しくすれば、その誰かが世界の全部になる。
誰かが優しくしなければ、その誰かは、いてもいなくても同じになる。
——最悪だ、とシーラは思った。
十一年間、誰も優しくしなかったのだ。だから天秤は空だった。空の天秤に、たった一度の蜂蜜が載った。
その娘の傍に今、誰がいるのか。
「娘は今どこに」
「わかりません。でも」
ベラは顔を上げた。
「男が、いたそうです。屋敷の金を盗った男。私兵の方々が、その男を追って街道へ出て——帰ってきませんでした」
ーー
その夜、シーラは村の宿で報告書を書いた。
書き出しは決まっている。『第三席審問官シーラ・ヴェント、ガルバン領における異常死二十一件の調査につき、以下の通り報告する』
問題は、その先だ。
彼女は筆を持ったまま、長く考えた。
異端。悪魔憑き。呪術。魔女。
どれも当てはまらない。当てはめれば楽になるが、当てはまらない。
この事件で最も異常なのは、二十一人の死ではない。
鉄輪の内側の擦り跡だ。四百八十三本の傷だ。内側に貼られた札だ。名前のない子供だ。
異端がいたとするなら——十一年前から、この屋敷にいた。
シーラはそう書きたかった。書けばこの報告書は上で握り潰され、彼女は左遷される。局は貴族の領地経営に口を出さない。それが十四年で学んだことだ。
結局、彼女はこう書いた。
『被疑者。年齢十歳前後の少女。黒髪、黒目。姓名不詳。呼称「厄」』
『能力。影を介した何らかの力と推定。物理的外傷を伴わず対象を死に至らしめる』
『特記。被疑者は殺害対象を選別している。無差別ではない』
『同行者。盗賊と目される成人男性一名。氏名不詳』
最後の一行で、彼女は筆を止めた。
同行者。
ベラの話では、私兵七人がその男を追って、五人が帰らなかった。娘を返せと迫られて、男は娘を返さなかったということだ。
金貨の入った袋を三つも抱えて、それでも返さなかった。
シーラは筆の先を眺めた。
男が善人なら、この娘には初めての救いだ。
男が悪党なら、この娘は、世界で最も高くつく武器になる。
どちらにせよ——と彼女は思った。
どちらにせよ、その男は、自分が何を持ち帰ったのか、たぶん理解していない。
シーラは最後の一行を書き足した。
『追跡の要あり。ただし、接触は推奨しない』
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結論から言うと、金は減る。
これは俺が三十年生きて学んだ数少ない真理の一つだ。金は減る。必ず減る。使わなくても減る。減る速度は、持っている額に比例する。
街道にばらまいた金貨を回収する暇はなかったので、俺の手元には麻袋が二つ残った。人生最高の残高である。
俺たちは南に下って、川沿いの町に落ち着いた。名前はどうでもいい。石橋があって、水車があって、審問局の支部がない町だ。三番目が一番大事だ。
宿ではなく、家を借りた。二階建ての、傾いた小さい家。大家のばあさんは目が悪くて耳が遠く、俺たちの素性に一切興味がなかった。理想的な人物である。
初日の夜、ノアは家の中を一周して、戻ってきて言った。
「へやが、よっつある」
「そうだな」
「ひとりに、ひとつ、ある」
「二人しかいねえからな。二部屋余る」
ノアは、その事実をしばらく処理していた。
それから、階段の下の物置を指した。
「わたし、ここでいい」
「なんでだよ」
「せまいほうが、おちつく」
俺は溜め息をついて、二階の日当たりのいい部屋に、こいつの荷物を放り込んだ。荷物といっても、櫛と、替えの服と、街道で拾った石ころが三つだけだ。石ころは「きれいだったから」らしい。
「ここで寝ろ。物置で寝てるガキを飼ってると、俺が近所で悪党扱いされる」
「あくとうだよ」
「それは事実だが、近所に知られたら困るんだよ」
ノアは、その日、一晩中ベッドの上に正座していたらしい。
翌朝、目の下に隈を作って「やわらかすぎて、しずむ」と言った。
三日かかった。四日目にようやく横になって寝た。
人ひとりを普通の生活に戻すというのは、思ったより手間である。
ーー
最初にやったのは、数の教育だった。
こいつは物を数えられる。むしろ異常に数えたがる。窓の桟、階段の段数、俺の寝息。放っておくと一日中何かを数えている。
だが「値段」の概念がなかった。
初めて市場に連れて行った日、ノアはパン屋の前で固まった。
「これ、いくつ?」
「三枚くれ」
「……もらえるの?」
「金を払えばな」
ノアは、俺が銅貨を渡すのをじっと見ていた。パンが手元に来るのを見て、それから俺を見上げた。
「かねをはらうと、ひとは、ものをくれるの?」
「そういうもんだ」
「じゃあ、かねをはらうと、なんでも、くれる?」
「まあ、だいたいはな」
ノアは黙って考え込んだ。
その顔が、なんというか、少し怖かった。
俺はあとになって、この会話をもうちょっと丁寧にやるべきだったと後悔することになる。だがこのときは「賢いガキだな」くらいにしか思わなかった。
勘定の練習には苦労した。
銅貨十枚で銀貨一枚。銀貨二十枚で金貨一枚。この程度の換算に、こいつは三日かかった。ただし三日で完璧に覚えた。四日目には、俺が肉屋にごまかされていることを見抜いた。
「そのおにく、きのう、ぎんか一まいと、どうか三まいだった。きょう、ぎんか一まいと、どうか五まい」
「なんだと」
「おにくのおおきさも、きのうより、ちいさい」
肉屋の親父は真っ赤になって、銅貨を四枚返してきた。
帰り道、ノアは俺の袖を掴んで歩きながら、上機嫌で言った。
「わたし、やくにたった?」
「ああ、立った。銅貨四枚分な」
「よかった」
ノアは笑った。
それから、少し声を落として言った。
「わたし、やくにたたないと、いらなくなるから」
俺は足を止めた。
「……おい」
「なに?」
「そういうんじゃねえよ」
「うん」
こいつは頷いた。頷き方が、話を終わらせるための頷き方だった。
俺は言葉を探して、見つからなくて、結局こう言った。
「肉屋の件は褒めてやる。だが役に立たなくても飯は出る。この家、そういう決まりだ」
「きまり?」
「決まりだ。大家が決めた。俺だ」
ノアはしばらく黙って、それから、袖を掴む手に力を入れた。
言葉は返ってこなかった。
まあ、伝わっただろう。たぶん。
ーー
平穏な日々だった。
平穏とは、金があって、腹が減っておらず、追手が来ないことを言う。三つ揃うのは俺の人生では珍しい。
ただ、細かい妙なことは、いくつかあった。
一つ。隣の家の犬が、ノアを嫌っていた。
あれは犬に嫌われるとか、そういう次元ではなかった。ノアが窓を開けるだけで、隣の犬は腹を地面につけて震えた。声も出さなかった。
その犬が、二週間ほどして、いなくなった。
隣の親父は「どこかに迷い込んだんだろう」と言っていた。俺もそう思った。犬はよく迷子になる。
二つ。市場で、ノアの手首を掴んだ男がいた。
物乞いの子供と間違えたらしい。腕を掴んで引きずろうとしたところに俺が割り込んで、鼻を折ってやった。それで終わった話だ。
その男が、三日後に町を出た。荷物をまとめて、夜逃げ同然に。
パン屋のおかみさんが「あの人、急に南に移住したんだって。取り憑かれたような顔してたよ」と言っていた。
俺は「ざまあみろ」と思った。それだけだ。
三つ。ノアが、夜中にいなくなる日がある。
これは気づいていた。
俺は盗賊だ。同じ家で誰かが階段を降りたら、目が覚める。眠っていても目が覚める。そういうふうにできている。
朝になると、こいつは俺の寝床の脇に座っている。何食わぬ顔で。髪が濡れていたり、足の裏に土がついていたりする。
訊けばいい。
訊けばいいのだ。俺は保護者で、こいつは十一かそこらのガキで、夜中に出歩くなと言う権利は明らかに俺にある。
だが、訊かなかった。
なぜかと言われると困る。
強いて言えば——こいつが嘘をつく顔を、見たくなかった。
それだけだ。
ーー
冬が本格的に来た頃、町に噂が流れてきた。
ガルバン男爵の屋敷が、全滅したという噂だ。
俺は市場の立ち話でそれを聞いた。話しているのは行商人で、北から来たばかりだという。
「屋敷の連中が、一晩で二十人以上。それが、傷が一つもねえんだと」
「病気か?」
「病気で門番が松明持ったまま死ぬかよ」
俺は、パンを選ぶふりをしながら聞いていた。
最初に思ったのは、正直に言うと「よかった」だった。
ガルバンが死んだなら、追手はもう来ない。ノアを返せと言ってくる奴もいない。これで安心して冬が越せる。人生でこんなにいい報せは滅多にない。
次に思ったのは、「一晩で二十人」だった。
行商人が続けた。
「審問局が入ったらしい。第三席が直々にな。しかも屋敷の地下から、とんでもねえもんが出たって話だ」
「地下?」
「檻だよ。人を飼う檻だ。呪符だらけの部屋にな」
俺は、パンを一つ落とした。
拾って、埃を払って、金を払って、店を出た。
外は寒かった。
俺は石橋のところまで歩いて、欄干に寄りかかって、川を見ていた。
考えないようにしていることを、考えないようにするのは、けっこう体力を使う。
街道の七人は、見た。あれは事故みたいなものだ。こいつは俺を守ろうとして、蓋が外れただけだ。そういうことにしていた。
だが、屋敷の二十一人は、別だ。
あれは、自分から丘を登らないと起きない。
俺は、その日の夜のことを思い出した。
俺が三日眠って、目を覚ました日。ノアが俺の手を握って、寝ていない目で俺を見ていた。
あのとき、こいつの髪は濡れていた。
俺は「井戸で洗った」と言われて、「夜中にか、馬鹿」と言って、それで終わりにした。
終わりにしたのは、俺だ。
川面に、薄い氷が張っていた。
ーー
家に帰ると、いい匂いがした。
ノアが竈の前にいた。鍋をかき混ぜている。芋と、干し肉と、この間覚えたばかりの香草。あいつは料理の覚えが異様に早い。手順を一度見れば再現できる。地下で十一年、見ることしかできなかった人間の特技だ。
「おかえり」
ノアが振り向いた。
笑った。
こいつは最近、よく笑うようになった。最初の頃は、笑い方がわからなくて、口の端を引きつらせるだけだった。今はちゃんと笑う。目も一緒に細くなる。
「パン、かってきた?」
「ああ。落としたから埃がついてる」
「はらえばいい」
「そうだな」
俺は椅子に座った。
ノアが椀にスープをよそって、持ってきた。俺の前に置いて、それから自分の分をよそって、向かいに座った。
最初の頃は、床に座ろうとした。
今は、ちゃんと椅子に座る。飯も同じ量を食う。教えるのに二ヶ月かかった。
俺はスープを飲んだ。
塩は、足りていた。
「うまい」
ノアの手が止まった。
それから、じわじわと、顔が赤くなった。
「……ほんと?」
「嘘ついてどうすんだ」
「もういっかい、いって」
「うまい」
ノアは椀を両手で持って、下を向いた。耳まで赤かった。
俺は、この光景を見ながら、市場で聞いた話を思い出していた。
二十一人。傷なし。呪符の部屋。審問局第三席。
訊けばいい。
「お前がやったのか」と。
訊いて、こいつが「うん」と言ったら、俺はどうするんだろう。
叱るのか。怖がるのか。出ていくのか。
……たぶん、しない。
俺は自分がどうするかを、たぶんもう知っている。
俺は何もしない。何も変わらない。明日も市場に行って、肉屋にごまかされて、こいつに指摘されて、飯を食う。
だったら訊く意味がない。
訊くという行為には、答えによって態度を変える覚悟が必要だ。俺にはそれがない。
だから、俺は訊かない。
これは優しさじゃない。臆病でもない。たぶんもっと悪いものだ。名前をつけるとしたら——共犯、というのが一番近い。
俺はスープを飲み干して、椀を置いた。
「ノア」
「なに」
「明日、審問局が来る町には行くな」
ノアの目が、わずかに動いた。
黒い目だ。何も返さない目。だが最近は、俺の顔が映る。
「……なんで?」
「うるせえ連中だからだ。お前みたいな黒い髪は目をつけられる。それだけだ」
嘘だ。
俺は嘘をついた。こいつが嘘をつくから、俺も嘘をついた。それで釣り合いが取れる気がした。
ノアは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、にこりと笑った。
「うん。わかった」
こいつも嘘をついている。
俺にはわかる。
なぜならこいつの嘘は、俺の嘘に、あまりにもよく似ているからだ。
窓の外で、雪が降り始めた。
この冬は長くなりそうだ、と俺は思った。
二人分の嘘が積もる冬は、たぶん、長い。