金がないから屋敷襲ったらよくわかんないガキに執着された。 作:都頃天
テオドール・ラングは、二十九歳で異端審問局討伐課第七席になった。
史上二番目の若さである。一番ではない。そこが彼にとって最も重要な事実だった。
中央本部の回廊で、彼は写しを手に歩いていた。第三席シーラ・ヴェントの報告書。ガルバン領異常死二十一件。
『被疑者。年齢十歳前後の少女。黒髪、黒目。姓名不詳。呼称「厄」』
『能力。影を介した何らかの力と推定』
『同行者。盗賊と目される成人男性一名』
『追跡の要あり。ただし、接触は推奨しない』
テオドールは、最後の一行を鼻で笑った。
ヴェント第三席のことは知っている。十四年在職して第三席。優秀ではあるが、慎重すぎる。あの女の報告書はいつもこうだ。調べ尽くして、並べ尽くして、最後に「推奨しない」と書いて終わる。
だから十四年で第三席なのだ。
彼はそう思っていた。悪意ではなく、心からそう思っていた。
考えてもみろ、と彼は思う。
二十一人を外傷なく殺す力。それが今、盗賊一人の手にある。
これは災厄ではない。資産だ。
教会が長年欲しがっていたものが、名もない盗賊の家に転がっている。回収すれば功績は計り知れない。少なくとも第五席には上がる。二年で第三席、三十五までに次席。
彼は一週間かけて所在を洗った。黒髪黒目の子供は目立つ。南へ下った川沿いの町、石橋と水車のある町。連れの男は「ヴァル」と名乗り、盗賊にしては金離れがいい。
簡単だった。第三席が九日かけて書いた報告書より、七日で見つけたのだから、自分のほうが有能だという証明である。
なお、追加報告書というものが同じ局の書庫で審査待ちの山に埋もれていることを、テオドール・ラングは知らなかった。
知る必要も感じなかった。
ーー
彼の作戦は単純で理にかなっていた。
子供は武器である。武器には使い手がいる。
二十一人を殺したのは子供だが、指示したのは男だ。男爵家に恨みがあったのは男のほうだろう。金を奪い、証拠を消し、子供を連れて逃げた。理屈が通る。
ならば手順はこうなる。
一つ、使い手を排除する。
二つ、武器を回収する。
逆にすれば失敗する。子供を先に押さえようとすれば、男が子供に命令を下す。二十一人が死ぬ。
だから男が先だ。男が単独になった瞬間を狙う。
「子供が家を出るまで待て」
テオドールは八人の討伐兵にそう命じた。
「子供が離れたら、家を焼く。男が出てきたところを取り囲め。生死は問わん」
部下の一人が訊いた。
「子供が戻ってきたら?」
「泣くだろうな」
テオドールは軽く言った。
「保護対象だ。丁重に扱え。あれはただの被害者だ。十一年も檻に入れられていた哀れな子供だ。悪党から解放してやれば、我々に懐く」
彼はそう信じていた。
その考えは、半分だけ正しかった。
あの子は確かに、解放してくれた者に懐く。
問題は、もう一度解放される必要がないということだった。
ーー
その日、ノアは井戸端のニナのところへ行っていた。
ニナの下の子が熱を出したというので、薬草を届けに行ったのだ。うちのガキは最近、薬草の使い方だけは一人前で、町の女連中に妙に頼りにされている。
黒髪黒目の子供を町が受け入れるまで三ヶ月かかったが、受け入れさせたのは俺じゃない。あいつが自力でやった。
俺は家で、証文を読んでいた。
こう見えて、俺には今まっとうな仕事がある。運送屋の荷の護衛だ。盗賊が護衛をやるのは効率がいい。どこが狙われるか全部わかるからだ。
字はノアに直してもらっている。俺より上手いので癪に障る。
その日の夜、雪が降っていた。
最初に気づいたのは、音だった。
雪の日は音が消える。消えているはずの中に、金属が擦れる音が混じった。
蝋燭を吹き消して、二階の窓の隙間から外を見た。
足跡が、家を回り込んでいた。
数えた。八。それと、動かない足跡が一つ。指揮官だ。
歩き方が揃っている。町のごろつきでも、賞金稼ぎでもない。訓練された人間の歩幅だ。
次に匂いがした。
油。
状況を整理する。整理にかけられる時間は、たぶん二分もない。
まず、逃げるという選択肢を検討した。俺の仕事は逃げることだ。三十一年それで生き延びてきた。裏口から出て、屋根に上って、隣家の物置を伝って川へ降りれば、八人程度なら振り切れる。
だが、逃げたらどうなる。
こいつらは俺を追わない。ここで待つ。
そして薬草を届けた帰りの、十一歳のガキが、この家に帰ってくる。
……無理だ。
俺は舌打ちした。
逃げるのが仕事なのに、逃げられない状況ほど盗賊にとって最悪のものはない。
だったら、次善策だ。
一階に降りて、大工が置いていった釘の箱を引っ掴んだ。家の修繕用に買ってあったやつだ。それから、竈の火を消さずに残し、油の壺を戸口の内側に立てて、洗濯物を干す麻縄を天井の梁から外した。
短刀は二本。
最後に、階段の下の物置の戸を開けておいた。ノアが「ここでいい」と言った、あの物置だ。
外から見て、いかにも人が隠れそうな場所を一つ用意しておく。
窓が割れた。
火のついた布が投げ込まれた。二つ。三つ。
油を撒かれた壁に、火が回り始めた。
ーー
燃える家から人が出てくるとき、素人は正面から飛び出す。玄人は裏口から出る。
だから連中は、正面と裏口の両方に人を置いている。
俺は上へ行った。
煙は上に溜まる。だから誰も、火事の家の屋根に人がいるとは思わない。濡らした布を口に巻いて、天窓から屋根に出た。
雪の積もった瓦の上で、俺は伏せた。
真下、裏口の前に二人。槍を構えて戸を睨んでいる。
瓦を一枚剥がして、放り投げた。
狙ったのは頭じゃない。雪の上、二人の三歩先だ。
瓦が落ちて音を立てた。二人が同時にそっちを向いた。
その二秒で、屋根から飛び降りた。
一人目の背中に膝から落ちて、首の付け根に肘を叩き込んだ。倒れる勢いのまま前転して、二人目の膝の外側を蹴り抜く。人間の膝は横から蹴られると壊れる。悲鳴が上がった。
二人。
槍を一本拾って、放り捨てた。俺は槍が使えない。持っていると使えると思われて、余計に警戒される。
三人目が路地の角から来た。
懐から布袋を出して、宙に放った。
銅貨が雨みたいに散った。雪の上に、火明かりを浴びて、何十枚も。
三ヶ月前、これで七人の目を逸らした。街道でやった手だ。
——効かなかった。
三人目は、金を一瞥もしなかった。まっすぐ突っ込んできた。
俺は間一髪で身を捻った。剣先が外套を裂いた。
なるほど、と俺は思った。
こいつらは野盗じゃない。給料をもらっている連中だ。目の前に銅貨が降っても、拾ったら罰せられるだけだ。
金で目が逸れるのは、金に困っている人間だけだった。
俺は後退しながら、路地の入り口に走った。
走りながら、釘の箱の蓋を開けて、地面に撒いた。
新雪の上だ。撒いた釘は雪に埋もれて見えない。
三人目が追ってきた。
二歩目で、足を止めた。止めたというより、止まった。
絶叫が上がった。
三人。
俺は振り返らずに、燃えている家へ戻った。
四人目と五人目が、玄関から中に入っていくところだった。物置の戸が開いているのを見て、そこへ向かっている。
戸口の内側に立てておいた油の壺を、外から窓越しに蹴り倒した。
壺が割れて、床に油が広がって、燃えている壁の火が走った。
炎の帯が、二人と物置の間を横切った。
二人が飛び退がった。飛び退がった先に、俺が立っていた。
一人目の顎を短刀の柄で打ち上げて、崩れたところを蹴り出す。二人目が剣を振ってきたので、腕ごと抱え込んで、燃えている壁に押しつけた。
悲鳴。革が焦げる匂い。
俺は手を離して、外へ出た。
五人。
肩で息をしていた。ここまでで、たぶん一分と少し。
悪くない、と思った。三十一の盗賊にしては上出来だ。
問題は、残りが四人いることと、俺がもう息が上がっていることだった。
ーー
路地に出たところで、正面に男が立っていた。
黒い外套に、銀の刺繍。異端審問局の紋章。
若い男だった。三十前後。顔立ちが整っていて、そこそこ嫌味な整い方をしていた。剣は抜いているが、構えは崩れていない。この場で唯一、走ってもいなければ焦げてもいない男だ。
両脇に、兵が三人。
「異端審問局討伐課第七席、テオドール・ラング」
男は名乗った。誇らしげに。
「盗賊ヴァル。貴様の罪状は、異端の使役および隠匿。ガルバン領における二十一名の殺害の教唆」
「……きょうさ」
俺は雪を吐きながら言った。
「なんだそりゃ」
「白を切るか」
「切ってねえよ。本気で言ってる」
「五名を戦闘不能にしたな。存外やる」
「そりゃどうも」
俺は膝に手をついた。
「言っとくが、俺は逃げるのが専門でな。斬り合いは失敗したときにしかやらねえ。つまり今、俺はけっこう失敗してる」
「正直だな」
「正直者なんだよ」
俺は突っ込んだ。
正直者は嘘をつかない。だから相手は、俺が疲れていると信じる。疲れている人間は突っ込んでこないと信じる。
テオドールの剣が動いた。速い。訓練された振り方だ。
俺は受けなかった。受ける腕力がない。
左に沈んで、剣の下をくぐって、懐に入った。
盗賊が人の懐に入るのは、殴るためじゃない。
俺は右手で短刀を突き上げるふりをして、相手の視線を上に釘付けにし——左手で、腰帯の内側を撫でた。
指が革の小袋を掴んだ。紐を切る。
次の瞬間、俺は蹴り飛ばされた。
肋が鳴った。雪の上を三回転して、起き上がろうとしたところに、背後から矢が来た。
太腿に刺さった。
弩だ。屋根の上に一人いた。数え忘れていた。
膝が笑って、俺は雪に沈んだ。
三人がかりで押さえつけられた。腕を踏まれ、背中を踏まれ、顔を雪に押しつけられた。
冷たかった。
雪って冷てえな、と思った。妙に落ち着いた頭で。
テオドール・ラングが、ゆっくりと歩いてきた。
「よく粘った。だが、ここまでだ」
「……なあ」
俺は雪から顔を上げた。
「腰、軽くねえか」
男の手が、反射的に腰へ行った。
止まった。
もう一度、探った。今度は丁寧に。
顔から表情が抜けた。
「印だよ」
俺は言った。
「第七席の印章だ。討伐課の許可証も、報告書も、それがねえと一枚も出せねえんだろ。俺は学がねえが、こういう袋の重さは知ってる」
「……貴様」
「探しても無駄だぞ」
俺は、燃えている家のほうへ顎をしゃくった。
さっき蹴り飛ばされる寸前、俺の左手は空だった。
小袋は、割れた窓から燃え盛る一階の床に落ちている。
「灰だ。いい火加減だろ。お前らが焚いた火だ」
テオドール・ラングの顔が、白くなった。
俺は雪の上で笑った。血が混じって、うまく笑えなかった。
「言っとくがな、坊主。俺は人を斬るのは失態だと思ってる。だが掏るのは仕事だ」
「……たかが印章だ」
「そうかい。じゃあ帰って、印のない報告書を上に出すんだな。『家を焼きました。五人やられました。印は焼けました』って」
男の握った剣が、震えた。
殴られるかと思った。殴られはしなかった。それだけの理性はあるらしい。
俺は雪を吐いて、それから、言った。
「もう一つ、教えてやろうか」
「命乞いは聞かん」
「命乞いじゃねえよ。忠告だ」
俺は男を見上げた。
「お前ら、順番を間違えてる」
「順番?」
「ああ」
俺は咳き込んだ。太腿が熱い。矢は抜けていない。抜かないほうがいい。抜くと血が出る。
「お前、俺を先に殺すつもりだろ」
「使い手を排除するのが定石だ」
「使い手」
俺はまた笑った。今度は本当におかしくて笑った。
「聞け、坊主。俺はな、あいつに一度も命令したことがねえ」
「嘘をつくな」
「嘘じゃねえ。一度もだ」
俺は雪を掴んだ。
「言ったことは三つだ。飯を食え。床で寝るな。名前を呼ばれたら返事をしろ。それだけだ」
テオドールとかいう男が、眉を寄せた。
理解できていない顔だった。
当然だ。俺だって、三ヶ月前ならわからなかった。
「お前らが押さえてるのは、手綱じゃねえよ」
俺は言った。
「重しだ」
そのとき、外の空気が変わった。
雪が止まった。
いや、止まっていない。降っている。降っているのに、落ちてこない。
雪片が、宙で止まっていた。何百も、何千も。
俺を踏んでいた足の力が抜けた。
テオドール・ラングが振り返った。
俺も、首を捻ってそっちを見た。
路地の入り口に、小さい影が立っていた。
薬草の包みを持ったまま。
雪が積もった黒い髪。黒い目。
その目が、燃えている家を見て、雪の上の俺を見て、俺を踏んでいる男たちを見て、太腿の矢を見た。
順番に。ゆっくりと。
俺はこのとき、生まれて初めて、心の底から祈った。
神様にじゃない。
あのガキにだ。
やめてくれ。
お前は、やらなくていい。
ーー
家が、燃えていた。
わたしの家が。
部屋が四つあって、階段が十三段あって、窓が七つある家が。
ヴァルが雪の上に倒れていた。足に矢が刺さっていた。血が、雪に染みていた。
男が三人、ヴァルを踏んでいた。
その瞬間、坂ができた。
いつもの、ゆるやかな傾きじゃなかった。
崖だった。
立っていられないほどの角度で、世界が傾いた。踏ん張るとか、そういう話ではなかった。足元の地面が、そのまま滑り台になっていた。
消せばいい。
九人。
九つの形。名前を知らない。
わたしは、自分の中の何かがもう半分ほど滑り落ちているのを感じた。
影が、伸びた。
わたしの意思より、少し早く。
男の一人が悲鳴を上げた。足が沈んだ。膝まで、地面の影に。
——ああ。
わたしは、それを見ながらこう思った。
簡単だ。
息を吸うより簡単だ。三ヶ月、あれだけ我慢したのに、こんなに簡単なんだ。
我慢していたわけじゃない。ただ、崖が来ていなかっただけだ。
わたしは、ずっと平らな道で「歩かない」練習をしていた。崖の上では、なんの役にも立たなかった。
もう一人の足が沈んだ。
三人目が、腰を抜かして下がった。
——ヴァル。
わたしは倒れている人を見た。
雪の中で、こっちを見ていた。
その顔が、灰色ではなかった。
この人の顔だけは、いつまでも灰色にならない。何百人消しても、この人の顔だけは残るのだと思う。
その顔が、何かを言っていた。声は出ていなかった。口の形だけ。
やめろ。
……ちがう。
やめてくれ、だ。
命令じゃなかった。
この人はわたしに命令をしない。三ヶ月、一度もしなかった。「飯を食え」と「床で寝るな」以外、何も言わなかった。
わたしは、動きを止めた。
止めるのに、全身の力を使った。
沈んでいた男の足が、半分だけ戻った。
わたしは息を吸った。
吸って、吐いて、それから目の前の若い男を見た。
銀の刺繍。まっすぐな立ち方。この人が指揮官だ。
わたしは、その人に近づいた。
ーー
「動くな! それ以上近づけば——」
男の声が、震えていた。
剣は抜いている。構えている。でも震えている。震えているのに、逃げない。
わたしは足を止めた。三歩の距離。
そして、訊いた。
「なまえ、なに」
男の顔が歪んだ。
「……何だと」
「あなたの、なまえ」
わたしは必死だった。
この人は今、わたしの中で「形」だ。輪郭だけの、灰色の。形のままで放っておいたら、次の瞬間には消してしまう。
だから早く。
早く、名前をちょうだい。
男は——たぶん、わたしの必死さを、別のものと勘違いした。
脅えていると思ったのかもしれない。あるいは、名乗ることが強さの証明だと思っていたのかもしれない。
彼は、胸を張って言った。
「異端審問局討伐課第七席、テオドール・ラング」
声は震えていたけれど、はっきりと。
「覚えておけ。貴様を焼く男の名だ」
わたしは、目を閉じた。
からだの中で、崖が少しだけ緩んだ。
テオドール・ラング。
テオドール。ラング。
二つの音のかたまり。
名前だ。
この人には、名前がある。
名前があるなら、この人は形じゃない。
名前があるなら、この人には、呼ぶ人がいる。家に帰れば呼ばれる名前がある。母親がいるかもしれない。妻がいるかもしれない。子供がいるかもしれない。この人が帰らなかったら、その誰かが、この名前を呼びながら探す。
わたしは、それを知ってしまった。
知ってしまったら、もう消せない。
——名前のあるやつは、物じゃない。
わたしは目を開けた。
「テオドール・ラング」
わたしは言った。
男の肩が、びくりと跳ねた。
「あなたのなまえ、おぼえた」
「……何を」
「だから、ころさない」
沈黙が落ちた。
雪が、また降り始めた。宙で止まっていた何千もの雪片が、ゆっくりと落ちてきた。
男は、剣を構えたままわたしを見ていた。
理解していない顔だった。
わたしは説明する気になれなかった。説明したところで、この人にはわからない。三ヶ月かけて石を集めて、名前を書いて、箱の裏に並べた人間にしか、わからない。
代わりに、わたしは一つだけ訊いた。
「そのひとを、なんてよんだ?」
わたしは、雪の上のヴァルを指した。
男が、怪訝な顔をした。
「……盗賊だ」
「なまえは」
「ヴァル、と名乗っているそうだが」
「よんだ?」
「何を——」
「なまえで、よんだ?」
男は答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
わたしは頷いた。
「よばなかったんだね」
その一言で、この人が何をしに来たのかが全部わかった。
この人にとって、ヴァルは「盗賊」だ。わたしは「異端」だ。名前じゃない。呼称だ。
おとうさまが、わたしを「厄」と呼んだのと同じだ。
名前で呼ばなければ、何をしてもいい。
みんなそうやって生きている。
わたしは、雪の上に膝をついた。
テオドール・ラングの、すぐ前に。
男が、後ずさった。
「わたし、ノアっていうの」
わたしは言った。
「あなたのなまえは、おぼえた。だから、わたしのなまえも、おぼえて」
「……なぜ、そんなことを」
「なまえをおぼえたひとは、ころせないから」
わたしは、まっすぐに見上げた。
「おたがい、そうなればいい」
男の剣が、下がった。
落としたのではなく、腕から力が抜けたのだ。
わたしは立ち上がって、その人の横を通って、ヴァルのところへ行った。
誰も、止めなかった。
ーー
ヴァルの足の矢は、抜かなかった。抜くと血が出ると、この人が前に言っていたから。
布で縛って、肩を貸して、家から離れた。家はもう半分燃えていた。
町の人が集まってきていた。バケツを持って、水をかけていた。
マルタが走ってきた。パン屋のおかみさん。
「ノアちゃん! 大丈夫かい!」
顔は、灰色だった。
でも名前は言えた。
「マルタ。だいじょうぶ」
エルサが来た。グレンが来た。ニナが下の子を抱いて来た。
みんな、顔は灰色だった。
みんな、名前は言えた。
わたしはたぶん、これでいいのだと思った。
顔なんて、いつか全部忘れる。
名前だけ、覚えていればいい。
ヴァルが、わたしの肩に体重を預けたまま、掠れた声で言った。
「ノア」
「なに」
「……お前、あいつに何言った」
「なまえ、きいた」
「それだけか」
「それだけ」
ヴァルは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「名前のあるやつは、物じゃねえ」
わたしの足が、止まった。
「……おぼえてたの」
「言った本人だぞ」
ヴァルは咳き込んだ。
「三ヶ月前だ。街道でな。適当に言ったんだよ、あれは。かっこつけただけだ」
「うん」
わたしは頷いた。
「しってる」
この人はいつも、適当に言う。
適当に飯をくれて、適当に名前をつけて、適当に髪を梳いて、適当にかっこいい台詞を言う。
全部、この人にとっては軽い。
わたしは、それを全部拾って持っている。
落とさなかった。一つも。
だから、九人生きている。
ヴァルが、わたしの頭に手を置いた。血のついた手だった。
「……ノア」
「なに」
「よくやった」
わたしは、雪の上で立っていられなくなった。
肩を貸したまま、二人で座り込んだ。
わたしは泣いた。声を出して泣いた。地下では出せなかった声で、みっともなく、大きな音で泣いた。
ヴァルは何も言わずに、頭に手を置いたままだった。
泣きながら、一つ思い出していた。
路地の入り口で、雪が止まったあの瞬間のことだ。
矢の刺さった足を見て、雪に染みた血を見て崖が来た。
あのとき、わたしは箱の中の名前を思い出そうとした。三ヶ月かけて集めた三十四個。マルタ、エルサ、グレン、ニナ。毎晩数えていたはずの名前。
——一つも、出てこなかった。
全部、白かった。
三十四人ぶんの名前が、そっくり消えていた。頭の中に残っていたのは、雪の上に倒れているこの人の顔だけだった。
そのことを、わたしは誰にも言えない。
石の箱は、役に立たなかった。
崖の上では、なんの役にも立たなかった。
止めたのは、箱じゃない。
この人が、声を出さずに「やめてくれ」と言ったからだ。
つまり、わたしの三ヶ月ぶんの努力は、全部この人の口の形一つに乗っている。
この人がいなくなったら、箱は空になる。
わたしはそれを、はっきりと知ってしまった。
だから、その夜、わたしは眠らなかった。
エルサばあさんの離れの寝台の脇に座って、ヴァルの寝息を数えた。
傷が痛むのか、時々息が乱れた。乱れるたびに、心臓が縮んだ。
千を数えたところで、わたしは手を伸ばして、この人の手首に指を当てた。
脈があった。
当たり前だ。生きているんだから。
それでも、指を離せなかった。
離すと、またあの白い頭の中が戻ってくる気がした。
朝になって、ヴァルが目を覚まして「お前、寝てねえだろ」と言った。
わたしは「ねた」と答えた。
また嘘をついた。
ーー
シーラ・ヴェントが川沿いの町に着いたのは、その二日後だった。
燃え残った家の前に、討伐課の兵が九人、所在なげに立っていた。全員生きていた。
それを見た瞬間、シーラは自分の推論が正しかったことを知った。
そして、その正しさに少しも喜べなかった。
「第七席はどこだ」
兵が指さした先、宿の一室に、テオドール・ラングがいた。
椅子に座って、机を見ていた。机の上には何も置かれていなかった。
シーラは扉を閉め、向かいに座った。
「私の追加報告書を読んだか」
「……追加?」
テオドールが顔を上げた。
目の下に隈があった。二晩眠っていない顔だ。
「あったのか。そんなものが」
「審査待ちの山にある。第三席の上申は、目を通されるまで十日かかる。第七席の作戦許可は三日で下りる」
シーラは淡々と言った。
「これが局の速度だ。慎重は遅く、功名は早い。私が十四年で第三席なのは、その速度差を変えられなかったからだ」
テオドールは何も言わなかった。
「何があった。報告しろ」
彼は、ゆっくりと話した。
家を焼いたこと。男を捕らえたこと。子供が来たこと。雪が止まったこと。部下の足が沈んだこと。
そして——止まったこと。
「なぜ止まった」
「……名前を、訊かれました」
「名前」
「私の名前です。あの子は、私に名前を訊いた。必死に。まるで——」
テオドールは、そこで言葉を探した。
三十秒ほどかかった。
「まるで、溺れながら板を掴むように」
シーラは、帳面を開かなかった。
開く必要がなかった。この話は、忘れようがない。
「それで、名乗ったのか」
「名乗りました。……格好をつけて。貴様を焼く男の名だ、などと」
「そうしたら」
「『名前を覚えた。だから殺さない』と」
シーラは、目を閉じた。
九日前、地下三層で自分が書いた一行が浮かんだ。
『被疑者を人間の側に留めているのも、おそらく同じものである』
名だ。
封を破ったのも名なら、封の代わりに立っているのも名だ。
あの子は、自分を人間にした方法をそのまま他人に適用している。名前を与えられて人になった子供が、名前を訊くことで相手を人にしている。
誰に教わったわけでもなく。
いや——教わったのだろう。
あの盗賊に。
たぶん、本人が忘れているような、どうでもいい一言で。
「第七席」
「……はい」
「お前は今日、非常に幸運だった。人生でこれ以上ないほどにな」
「……はい」
「そして局も非常に幸運だった。お前一人の判断で、この国は滅んでいたかもしれん」
テオドールは俯いた。
シーラは立ち上がり、扉に手をかけて、振り返らずに言った。
「報告書に書け。全部だ。名を訊かれたことも、格好をつけたことも、板に掴まるようだったことも」
「……書けば、私は」
「終わりだな。第七席は失う」
シーラは扉を開けた。
「だが、次に誰かが同じ間違いをするのを止められる。十四年やってわかったことを教えてやる。我々の仕事は、異端を焼くことじゃない。焼かなくていい理由を、書き残すことだ」
彼女は宿を出た。
雪はやんでいた。
川沿いの道を歩きながら、シーラは考えた。
これから会いに行く子供は、二十一人を殺し、九人を許した。
その基準は、名前を知っているかどうか。
脆い基準だ。あまりにも脆い。
だが、彼女が十四年書き続けてきたどの規定より、はるかにまともだった。
石橋の向こうに、水車が見えた。
その手前の路地に、焼け残った家と小さな人影があった。