畜生道に堕ちたと思ったら五条悟の飼い猫になった件 作:鳳飛鳥
この世界へと産まれてから大半の時間を過ごした呪術高専東京校の学生寮、懐かしいと言う感覚に浸る程未だ長い時間離れていた訳では無いが、ソレでも感じ入るモノはある。
その一角、現在は4年に進級したであろう伊地知の部屋の前へと来た俺は、爪を出した前脚でその扉をノックする。
人間と違って前脚の甲は毛皮だし、手のひらは肉球なので、爪を出さなければ上手くノック音が出ないのだ。
「はい……どうぞ空いてます」
「済まない、ここのドアは俺には開けるのが難しいんだ、出来れば伊地知の方から開けてほしい」
高専学生寮の個室は丸い金属製のドアノブで、猫の足では上手く回して引き開ける事が出来ないのだ。
「えっと……ああ、ポチさんでしたか、ご無沙汰してます」
ドアを開け、自分の目線に誰も居ないのを確認し、一瞬首を傾げてから下を見て俺を発見する伊地知。
その顔は卒業前に見た時から多少やつれている様には見えるが、俺を見つけて笑顔を浮かべた事から察するに然程酷い状態では無い……と思うならば恐らくその者は社会経験が足りてない、コレはどう見ても弱っているのを隠す為の笑顔だ。
「御母堂が身罷られたと聞いた、先ずはお悔やみ申し上げる、御愁傷様でした」
「え、ああ、父さんの方からですか……はい、有難うございます。私は他の家族に比べれば大分マシですけどね。あ、良かったら部屋にどうぞ」
そう言って部屋へと迎え入れてくれる伊地知、彼の部屋は様々なジャンルの本が満載された本棚が幾つも増設されてはいるが、基本的には几帳面な性格を表す通り綺麗に整頓されている。
「私は男ですし、もう母親に甘える様な年じゃ無いですから……薄情と言えば薄情ですが葬儀が終わったらもう一段落付いた気分なんですよね。ただ姉と妹の様子は見てて辛かったのでさっさとこっちに逃げて来た感じですよ」
そう言う伊地知の話を聞くと、彼の母が無くなったのは呪霊など全く関係ない極々普通の交通事故で、姉と喫茶店でお茶した帰りに脇見運転の自動車に轢かれて亡くなったと言う。
「姉さんは自分があと1分でも母に付き合ってお茶してれば事故を避けれたかもしれないと責任感じてましたし、妹は未だ9歳で母親にべったりの年頃ですからね……父さんは呪術師を辞めて補助官に成って今までよりは家に帰れるそうですが……」
そう訥々と話す伊地知、口では平気だとか辛くないとか言っているが、彼の年頃で実の親を亡くして悲しく無い訳が無い。
「伊地知、男でも辛い時には辛いと言って良いんだ。悲しい時には泣いても構わないんだ。我慢するな、所詮俺は猫だ、猫に愚痴を吐く人間なんざぁ世の中幾らでもいる」
俺の言葉を聞き伊地知は声を上げる事も無くポロポロと涙を零し、ソレから床に蹲り声を殺して泣き続けた。
ソレを静かに見守り、
どれくらいそうしていただろう、決して短い時間ではなかったが、対して長い時間でもなかった様に思う。
「……大の男がこんな子どもみたいに泣くなんて、すみませんポチさん、私自身でも思ってた以上に母の死が辛かったみたいです」
呪術師と言う仕事は常に死と隣り合わせだ、ソレは自分自身が死ぬ事も含めるが、ソレ以上に呪霊や呪詛師の被害者を見る事の多さを指し示す。
故に死と言うモノに対して鈍感に成ってしまうのは、呪術師と言う職業の職業病の様なモノだろう。
「身内の死が辛くない人間など居ない、例外があるとすれば余程酷い虐待を受けて育ったか、ボケボケにボケてトコトン介護なんかで面倒を掛けて『やっとくたばったクソジジイ』なんて言う様なケースくらいだ」
虐待云々は実体験ではないが、介護云々の方は俺が癌でくたばる前に亡くなった嫁の父親が、酷い痴呆を患い施設に入れるまでがまた大変で、施設に入ってからも色々とやらかして酷かったのだ。
嫁は末娘な上に遠方に嫁いで来たので、実家のアレコレにソコまで深く関わらなくても問題無かったが、近場に居た親戚一同が葬式の場で揃って『やっとくたばったかクソジジイ』と誰は憚る事無く口にしていたので相当酷かったのだろう。
兎角そうした例外を除けば、身内の死を悲しむのは極々普通の人間としての心の在り方だ。
なんなら人間に限らず、一定以上の知能を持つ動物の中には、野生でも仲間の死を弔う性質を持っているモノもいる位である。
幸い御主人と俺は原作の様に仲間の死を味わう事無く高専を卒業したが、様々なバタフライエフェクトが起きているこの状況では誰が何時どんな理由で命を落としても不思議は無い。
術式の関係上、極めてインスタントかつリーズナブルに人の命を救えてしまう俺こそが、一番誰かの死で折れやすい可能性があるので、自分でも色々と注意を払っている事柄なのだ。
……それにしても伊地知の母が在学中に亡くなるなんて情報は原作には無かったぞ?
まぁ原作がそれぞれのキャラクターの全てのバックボーンを描写しているわけではないし、仕方が無い事なのは間違いない。
そも伊地知2級と言う彼の父親や姉や妹がいるなんて言う情報だってなかったしな。
「……泣いたら少しすっきりしました。近いウチに準2級の推薦任務が入る予定に成っていたので、あのままだったらソコで死んでたかもしれませんね」
戦いの場で精神状態と言うのは結構大きな要素だ、いや戦いの場だけではない、殆どの仕事に置いて精神に負担が掛かる様な状態で作業をすれば良い結果を齎す事は無い。
日本では忌引きは法律上で定められたモノでは無く、所謂ブラック企業と呼ばれる様な場所だと『親が死んだ位で休めると思うな!』なんて場所もあったらしいが、真っ当な企業ならば大半がある程度の日数の休暇を認める制度を用意している筈である。
国に依っては忌引きは法律で認められた休暇であり、ソレを拒む事こそ犯罪としている国や地域も多々あるし、法律上で定められた制度では無くとも会社の社則なんかでソレを定めている企業は大体95%前後あるらしい。
逆を言えば日本の企業の5%は忌引きを認めないブラック企業だと言う事でもある訳だ。
親や子に兄弟と言った身近な親類縁者を亡くして精神的に弱った人間を酷使した所で、生産性は上がらず寧ろ集中力を欠く事でトラブルが増えそうなモンだが……そもそもブラック企業と言う奴は普段から人間を酷使し集中力なんか無い状態が当たり前なのか……。
「吐き出す事で少しでも楽に成ったなら良かったよ、伊地知にきゅ……伊地知補助官とはさっき会議で顔を見たが割と酷い顔をしてたからな、お前の事も心配してたんだ」
「やっぱりポチさんは人を気遣うのが上手いですよね」
「まぁコレでも一応は大人だからな」
前世も含めりゃ80歳を優に超えるジジイだ、ボケちゃ居ないならそれ相応の老獪さは身に着けていて当然の年齢である。
まぁ肉体に引きずられているのか80歳を越えているにしては未だ性欲旺盛で、某アダルト系有料動画サイトを見ながら毎晩の様に、ぬいぐるみ相手にマウンティングをしているがね。
「飯は食えてるか? ちゃんと夜は眠れているか? 人間食事と睡眠がしっかりと取れていればそう簡単には壊れないらしい。逆に言えばそのどちらかに問題がある様だと簡単に折れるって事だ」
ストレスが原因で暴飲暴食に走るのは余りよろしい事では無いし、ストレスから来る不眠もやはりよろしい事では無い。
ソレでもストレスや体調不良が原因で飯を食えなくなるのに比べたら暴飲暴食の方が未だマシまである……糖尿病を患う危険性はあるがね。
食事は身体を作る根幹であり、飯を食わずに生きていける人間は居らず、睡眠は食事と並んで身体作りに必須な作業で有り『寝ないで死んだ奴は居ない!』と言うブラック常套句は嘘である。
徹夜と言うのは寿命の前借りで、若いウチなら1晩位の徹夜はどーって事無いかもしれないが、年を取って行くとそうした無理がだんだんと出来なく成っていくし、若い頃に無理をしていればして居る程に身体の衰えは早く来るモノなのだ。;
極々稀に産まれながらショートスリーパー体質で、一日3時間程度の睡眠でもパフォーマンスが落ちないと言う様な人も居るがソレは例外中の例外で、普通の人間は最低でも6時間、可能ならば8時間はきっちり睡眠を取るべきなのである。
「最近はちょっと食べれて無かったし、睡眠の方も寝付きは良くなかったですが……泣いたお陰でしょうかね? 少しお腹が空いてきたので食堂に行って何か残り物が無いか、無ければストックのカップ麺でも食べて、今日は早めに寝ることにします」
最初に扉を開けた時とは違い、未だ影は残ってはいるものの比較的マシな顔で笑う伊地知を見て、俺は少し安心しその場を立ち去り御主人と合流するのだった。