BLEACHの世界に転生した俺は、初代剣八になるらしい 作:まいちー
プロローグ
ただ、刀を振りたかった
最初に違和感を覚えたのは、天井だった。
白くない。そもそも、平らですらない。
ぼんやりと霞む視界の向こうに、黒ずんだ木の梁らしきものが見える。
――どこだ、ここ。
そう思って身体を起こそうとして、まったく力が入らないことに気づいた。
手を動かしてみる。
小さい。
というか、丸い。
指なんて信じられないほど短い。
嫌な予感がした。
「お目覚めになられました」
知らない女の声がして、続いて身体がふわりと持ち上がる。
――ちょっと待て。
首が据わっていない。自分の意思で身体を動かせない。
視界に入った女は、見たこともない格好をしている。そして俺を抱き上げると、別の女へ向かって嬉しそうに言った。
「姫様がお目覚めにございます」
姫様。
……姫様?
誰が?
俺が?
いやいやいや。
待て待て。
いろいろおかしい。
まず、俺は死んだはずだ。そこまでは覚えている。
なのに生きている。しかも赤ん坊。さらに今、明らかに俺を指して「姫様」と言った。
――もしかして俺、女?
確認しようにも赤ん坊の身体は言うことを聞かない。声を出そうとしても、
「あぅ」
だった。
絶望的に可愛らしい声だった。
――マジか。
どうやら俺は、女の赤ん坊に生まれ変わったらしい。
いわゆる転生というやつだ。前世では散々読んだ。漫画でも小説でも見た。自分が実際に経験するとは思わなかったが。
問題は――どこに転生したのか。
それについては、まったく分からなかった。少なくとも現代日本ではなさそうだった。
もっとも、その結論に辿り着くまでにも、それなりに時間がかかった。
何しろ赤ん坊である。自由に歩き回ることもできなければ、人に質問することもできない。最初のうちは、視界に映るものを眺めていることしかできなかった。
木でできた屋敷。床に敷かれた畳とは少し違う敷物。御簾らしきもの。妙に長い髪の女たち。聞き慣れない言葉。
夜になっても電灯が点かず、テレビも冷蔵庫もなければ、スマホなど影も形もない。
――ずいぶん徹底したところだな。
最初はそんな呑気なことを考えていた。
何かの施設か。あるいは俺の知らない外国か。転生したのだから、そもそも地球ですらない可能性もある。
異世界。
それならそれで悪くない。
剣と魔法。冒険。モンスター。
そういう世界なら、むしろ歓迎だった。
だが、一年、二年、三年と過ぎ、自分で歩き、言葉を理解し、屋敷の外を見る機会が増えるにつれて、その期待は少しずつ消えていった。
どう見ても日本だった。
ただし、俺の知っている日本ではない。
人々の服装や建物、生活、身分。父と呼ぶことになった男が朝廷へ出仕しているらしいこと。牛に引かれた車。女たちが御簾の内側で暮らしていること。そして、俺自身がそれなりに高い身分の家の娘として扱われていること。
五つ、六つになるころには、さすがの俺にも分かってきた。
――これ、もしかして昔の日本じゃないか?
さらに歳を重ね、言葉や作法を教えられ、父や客人たちから朝廷の話や貴族たちの暮らしを聞くうちに、前世で得た断片的な歴史知識と目の前の光景が少しずつ重なっていった。
確信したのは、ずっと後だった。
おそらくここは――平安の世。
正確に何年なのかまでは分からない。俺は歴史学者でもなければ、元号を全部暗記していたわけでもない。
だが、少なくとも自分が知っている現代から千年以上昔の日本らしい。
――なるほど。
転生先、平安時代か。
悪くない。
悪くない……のだが。
一つだけ、俺にはどうしても我慢できないことがあった。
刀だった。
◇
前世から刀が好きだった。
別に剣道経験者だったわけではない。居合を習っていたわけでも、日本刀を所有していたわけでもない。
ただ、振ってみたかった。
それだけだ。
自分の手で柄を握って、重さを感じて、構えて、思い切り振り下ろしてみたい。
少年のころからずっと、そんな単純な憧れがあった。
前世では結局、叶わなかった。
まあ仕方ない。
現代日本で本物の刀を振り回していたら、別の意味で人生が終わる。
だから、転生したと気づいたとき、ほんの少し期待したのだ。
今度こそ刀を振れるんじゃないか、と。
何しろ昔の日本である。
刀がある。
実際、見た。
父が外出する日だった。
屋敷の者たちが慌ただしく準備を進めているのを、俺は少し離れた場所から眺めていた。
牛車が用意され、供をする男たちが集まる。その中に、弓や矢を持ち、腰に太刀を佩いた者がいた。
それを見た瞬間だった。
胸の奥が、妙に騒いだ。
――あ。
刀だ。
前世で博物館のガラス越しに眺めたものとは違う。
今、目の前にある。
人が持っている。
使うための刀だ。
男の一人が鞘から太刀を抜いた。何か不具合でも気になったのだろうか。刀身を確かめるように眺めてから少し場所を空け、一度、軽く振った。
風を切る音がした。
「…………」
俺は黙ってそれを見ていた。
――振りたい。
最初に出てきた感想は、それだった。
上手いとか、格好いいとか、そういうことではない。
俺が振りたい。
あれを握りたい。
どれくらい重いんだろう。片手でも持てるのか。両手ならどうだろう。振ったら、どこに重さが乗る? 刃の重みで勝手に落ちていくような感覚があるんだろうか。振り下ろしたあと、止められるのか。
――やってみたい。
無性にやってみたい。
「姫様?」
「……はい?」
「いかがなさいました?」
女房に声をかけられ、我に返った。
「ずいぶん熱心にご覧になっておいででしたので」
「…………」
俺は少し考えてから、微笑んだ。
「珍しいものだと思いまして」
「まあ」
それだけで済んだ。
外から見れば、物珍しさから武装した男たちを眺めていただけの幼い姫君だっただろう。
だが、その日からだった。
刀が頭から離れなくなった。
◇
当然ながら、刀を貸してくれる者などいなかった。
頼んですらいない。
幼い公家の娘が、
「太刀を貸してくださいませ」
などと言い出したら、どうなるかくらい俺にも分かる。
だから代用品を探した。
庭に落ちていた枝だった。
少し長く、少し曲がっている。
握ってみる。
悪くない。
周囲を確認する。
誰もいない。
「…………」
両手で握った。
あの男がやっていたように足を開き、上に持ち上げる。
そして――振る。
ぶんっ。
「おお」
声が出た。
もう一度。
ぶんっ。
「……おお」
楽しい。
何だこれ。
ただ枝を振っているだけなのに、めちゃくちゃ楽しい。
もう一度振ると、今度は身体がよろけた。
「っと」
危ない。
どうやら腕だけで振ってはいけないらしい。
じゃあ腰か?
足も使う?
試してみる。
ぶんっ。
さっきよりいい気がする。
もう一度。
もう一度。
気づけば夢中になっていた。
前世で動画を見て真似したことくらいはある。だが、当然ながら剣術なんて知らない。構えも適当で、足運びも滅茶苦茶だった。
それでもよかった。
自分で振っている。
それだけで楽しかった。
「姫様」
「――っ」
枝が止まった。
ゆっくり振り返ると、女房が非常に困った顔をして立っていた。
「……何をなさっているのでございますか」
「…………」
まずい。
これはまずい。
何と言おう。
虫を追い払っていました?
無理がある。
枝を眺めていました?
さっきから全力で振っていた。
俺は枝を背中に隠した。
「……遊んでおりました」
我ながら完璧な回答だった。
「そのように枝を振り回してはなりませぬ」
「はい」
「お怪我をなさったらどうするのです」
「申し訳ございません」
「姫様はもう少し、お淑やかになさいませ」
「はい」
素直に枝を渡すと、女房は安心したようだった。
俺もにこりと笑った。
――また別の枝を探そう。
反省はしていなかった。
◇
それから何度も枝を振った。
見つかって叱られても、また振った。今度は人の来ない場所を選んだが、また見つかり、場所を変えた。
そのうち、俺も学習した。
昼間は駄目だ。
人が多い。
早朝なら比較的見つかりにくい。
もっとも、公家の姫君が朝から庭の隅で枝を振り回しているのは、どう考えてもおかしい。
だから成長するにつれて、やめた。
正確には――やめざるを得なかった。
公家の娘として覚えなければならないことが増えた。
書、歌、琴、作法、装束、家と家との付き合い。
年齢を重ねるほど、俺の行動には多くの目が向けられるようになり、いつまでも枝を振り回しているわけにはいかなくなった。
俺はきちんと学び、公家の娘として、周囲が望む通りに振る舞った。
穏やかに。静かに。
笑うときには口元を隠し、歩くときには裾を乱さず、声を荒らげることもない。
いつしか、
「実にお淑やかな姫君でございます」
などと言われるようになった。
――昔、庭で枝を振り回していたことは黙っておこう。
そう思った。
だが、刀への憧れがなくなったわけではなかった。
外出する男の腰に太刀があれば目で追い、武装した者が屋敷を訪れれば、つい手元を見る。
鞘。柄。鍔。
その向こうに収まっている刀身を想像する。
欲しいわけではない。
飾りたいわけでもない。
ただ――振りたかった。
自分の手で。
◇
結局、その願いが叶うことはなかった。
歳月は流れ、俺は公家の娘として生きた。
前世が男だったことなど、いつしか遠い昔の記憶のようになっていた。
この身体で生まれ、この家で育ち、笑い、泣き、人を好きになり、人を失い、一つの人生を生きた。
悪い人生ではなかったと思う。
むしろ恵まれていた。
それでも、病の床で自分の命がもう長くないことを悟ったとき、なぜか思い出したのは、幼い日に拾った一本の枝だった。
両手で握り、振り上げ、振り下ろした。
ぶん、と風が鳴った。
ただそれだけの記憶なのに、妙に鮮明だった。
「……刀」
掠れた声が漏れた。
傍らの女房が顔を上げる。
「何か仰いましたか?」
「いいえ」
俺は小さく笑った。
何でもない。
本当に、どうでもいい未練だ。
もっと大切なことはいくらでもあった。
それでも最後に、一つだけ。
――一度くらい。
思い切り、自分の手で刀を振ってみたかったな。
目を閉じる。
今度こそ、人生が終わる。
そう思った。
けれど。
俺はまだ知らなかった。
この世界では、人は死んでも終わらないということを。
俺が平安の世だと思って生きたこの場所が、ただの過去の日本ではなかったことを。
死者には、行くべき場所があることを。
そして、その場所で。
前世から引きずり続けた、どうしようもなく子供じみた願いが――
まさか、人生そのものを狂わせるほど叶うことになるなんて。
このときの俺は、まだ何も知らなかった。