まず刀だ。
そう決めた。
最高の卯ノ花烈を作る。
原作を超える。
更木剣八より強くなる。
大層な目標を掲げたところで、今の俺には刀一本ない。
斬魄刀どころか、普通の刀すらない。
「…………」
順番にいこう。
まずは刀。
話はそれからだ。
◇
流魂街を歩いてみれば、刀そのものは見かけた。
腰に差した男。
荷物と一緒に刃物を持ち歩く者。
遠目に見ただけで、それがまともな刀なのかどうかまでは分からない。
少なくとも、死神だけが刀を持っているわけではないらしい。
問題は、俺には金も仕事も、交換できる物もないことだった。死んだばかりなので当然である。
公家の姫だったころなら、欲しい物があれば誰かに用意してもらえた。
もちろん刀は駄目だったが。
今は自由だ。
誰も俺が刀を持つことを止めない。
その代わり、誰も用意してくれない。
「……世の中、上手くできていますね」
あまり嬉しくない発見だった。
ならば働いて手に入れる。
普通ならそうするところなのだろう。
だが。
俺は考えた。
ここは流魂街。
それも中心から離れるほど治安が悪くなるという。
争いも珍しくない。
刀を持っている者もいる。
そして俺が欲しいのは名刀ではない。
斬魄刀でもない。
振れればいい。
刃こぼれしていても。
錆びていても。
とりあえず一本。
「…………」
落ちてないかな。
我ながら発想がだいぶ庶民的になった。
いや。
庶民というより拾得物狙いである。
公家の姫として一生を終えた女とは思えない。
だが仕方ない。
刀のためだ。
◇
数日かけて、俺は少しずつ流魂街の外側へ向かった。
景色は分かりやすく変わっていった。
家は粗末になり。
道は荒れ。
人々の目つきも変わる。
最初のうちは一人で歩く女も見かけた。
それが減った。
さらに進むと、こちらを見る男たちの視線が妙に長くなった。
「…………」
これは。
あまりよろしくない気がする。
公家社会で生きてきたおかげで、人の視線には敏感だ。
俺は早々に引き返した。
刀は欲しい。
だが、刀を手に入れる前に何かあったら意味がない。
翌日は別の道を選んだ。
その次の日も。
焦る必要はない。
何しろ、もう死んでいる。
時間だけならいくらでもある。
そして。
五日目。
見つけた。
「…………」
最初は気づかなかった。
道から少し外れた場所。
壊れかけた家の裏手。
何かが争った跡があった。
木箱が壊れている。
布が落ちている。
乾いた血の跡もある。
誰が。
何のために。
ここで争ったのか。
そんなことを考えながら視線を動かして。
止まった。
「…………」
長いものが落ちていた。
半分ほど土に埋もれている。
黒ずんだ鞘。
擦り切れた柄。
俺は動かなかった。
数秒。
いや。
もっと長かったかもしれない。
ゆっくり近づく。
しゃがむ。
見る。
「……刀」
本物だ。
手を伸ばしかけて。
止める。
周囲を見る。
誰もいない。
もう一度見る。
刀。
周囲を見る。
やっぱり誰もいない。
「…………」
これは。
拾っていいやつでは?
いや。
たぶん駄目だ。
誰かの物だ。
少なくとも、昨日まで地面から生えていたものではない。
しかし。
持ち主らしい人間はいない。
届ける場所も知らない。
そして。
俺は二つの人生を費やしてなお、一度も本物の刀を振ったことがない。
「…………」
拾った。
ずしり。
「っ」
思ったより重い。
危うく落としそうになった。
慌てて両手で抱える。
「……重いな」
当たり前なのだが。
少し感動した。
これまで振っていた枝とは違う。
重量がある。
鞘を握る。
柄に手をかける。
少し力を入れた。
抜けない。
「…………」
もう一度。
少し角度を変える。
今度は抜けた。
擦れる音とともに刀身が現れる。
「…………」
綺麗。
ではなかった。
普通に汚い。
錆が浮いている。
刃も何か所か欠けている。
前々世の俺が博物館で見た日本刀とは比較にならない。
でも。
刀だった。
ガラス越しではない。
目の前にある。
俺が握っている。
柄を両手で持ってみる。
「…………」
重い。
さっきとは違う意味で重い。
鞘から抜くと、刀身の重さがはっきり分かる。
手元だけではない。
ずっと先にまで重さが伸びている。
少し傾けただけで、手首が持っていかれそうになる。
――これか。
ずっと。
これをやりたかった。
振ってみる。
「……っ!」
ぶおん。
想像していたものとは全然違った。
刀に身体を持っていかれた。
二歩よろける。
「…………」
危な。
今のは駄目だ。
もう一度。
両手でしっかり握る。
足を開く。
幼いころ、護衛がやっていたのを思い出す。
もっとも、一度か二度見ただけだ。
正確な構えなんて覚えていない。
振り上げる。
重い。
振り下ろす。
ぶんっ。
「…………」
さっきよりはいい。
でも。
何か違う。
もう一度。
ぶんっ。
もう一度。
ぶんっ。
「…………」
俺は笑った。
「楽しい」
刀を拾った。
ただそれだけ。
なのに。
これまで尸魂界に来てからで、一番嬉しかった。
◇
刀を手に入れてから、俺の日課は決まった。
朝起きる。
刀を振る。
少し歩く。
刀を振る。
食べ物を探す。
刀を振る。
寝る前に。
刀を振る。
「…………」
我ながらひどい生活である。
公家の娘だったころとは比べものにならない。
琴もない。
歌を詠む必要もない。
女房もいない。
朝廷の話を聞くこともない。
着飾る必要すらない。
その代わり。
刀がある。
――最高では?
そう思ってしまう程度には、俺は満足していた。
もちろん、剣術なんて知らない。
だから最初は、ただ振った。
両手で柄を握る。
頭上へ持ち上げる。
振り下ろす。
それだけ。
「っ……」
重い。
最初に拾った日にも感じたが、枝とはまるで違った。
腕だけで振ると、刀に身体を引っ張られる。
止めようとすると肩に力が入る。
何度も振っていると手が痛くなる。
柄を握る場所を変えてみた。
駄目。
力を抜いてみた。
怖い。
刀が手から飛んでいきそうになる。
強く握る。
今度は腕が固まる。
「……難しいですね」
誰もいないのに、公家時代の口調が出た。
何十年も使っていたのだから、もうこちらが素なのかもしれない。
でも。
楽しかった。
ものすごく楽しかった。
できないからこそ、次を試したくなる。
幼いころ、枝を振っていたときとは違う。
本物の刀には、はっきりと重さがある。
適当に振れば、適当にしか動かない。
こちらの都合に合わせてはくれない。
なら。
合わせるのは俺の方だ。
次の日も振った。
その次の日も振った。
誰に教わったわけでもない。
正解も知らない。
だから、とにかく試した。
腕だけでは駄目。
なら腰を使う。
腰だけ意識すると、今度は身体が捻れすぎる。
足を動かす。
刀と足がばらばらになる。
「…………」
難しい。
もう一度。
振る。
違う。
もう一度。
振る。
「……今のは少し良かった」
何が良かったのかは説明できない。
ただ、さっきより刀が軽く感じた。
なら、同じように。
振る。
「…………違う」
再現できない。
腹が立つ。
もう一度。
また違う。
もう一度。
違う。
十回。
二十回。
三十回。
そして。
――ヒュッ。
「…………」
止まった。
今。
音が違った。
もう一度。
同じように。
振る。
ぶんっ。
「……違う」
戻った。
でも。
確かに一度だけ。
刀が自分から走ったような感覚があった。
「…………」
口元が緩む。
面白い。
翌日。
また振った。
◇
それから何日経ったのか。
十日か。
二十日か。
数えるのをやめた。
毎日、刀を振った。
手の皮が擦れた。
痛かった。
翌日も振った。
また擦れた。
それでも振った。
やがて皮が硬くなった。
「…………」
少し嬉しかった。
手のひらにできた硬い部分を、指で何度も触った。
公家の姫だったころには絶対になかったものだ。
刀を振った証拠。
それだけで気に入った。
振り方も少しずつ変わった。
最初のころのように、刀に引っ張られて転びそうになることはない。
振り下ろして、その場で止まれる。
横にも振れる。
踏み込みながら振ることも試した。
突きもやってみた。
これは怖かった。
勢いをつけすぎて、そのまま前につんのめった。
二度目からは気をつけた。
もちろん。
これが剣術なのかと聞かれれば、分からない。
たぶん違う。
完全な我流だ。
でも。
昨日より今日。
今日より明日。
確実に上手くなっている。
それだけは分かった。
何より。
楽しい。
振れば振るほど、もっと振りたくなる。
もっと速く。
もっと軽く。
もっと綺麗に。
刀が自分の腕になったみたいに動けば、どれだけ気持ちいいんだろう。
想像するだけで楽しかった。
――才能、あるんじゃないか?
ある日。
そんなことを考えた。
いや。
あるだろう。
何しろ俺は卯ノ花烈になる女である。
原作が正しければ、尸魂界でも屈指の剣士になる。
つまり。
才能は保証済み。
「…………」
これは。
かなり期待していいのでは?
今は完全な我流。
それでも日に日に上達している。
ちゃんと剣術を習えば。
一年。
十年。
百年。
その先は。
「ふふ」
思わず笑った。
楽しくなってきた。
いや。
最初から楽しかった。
ようやく。
本当にようやく。
自分がずっとやりたかったことをやれている。
◇
その日の夕方。
いつものように刀を振り終えた。
鞘へ納める。
今日は良かった。
最後の十回は特にいい。
刀が軽かった。
少なくとも昨日よりは。
「明日はもう少し足を――」
そこで。
声が聞こえた。
「おい」
「…………」
振り返る。
男がいた。
一人ではない。
三人。
少し離れたところに立っている。
いつからいたのか。
分からなかった。
――まずいな。
直感した。
これまで刀を振る場所には気をつけていた。
人通りが少なく。
周囲から見えにくく。
邪魔が入らない場所。
練習には最適だった。
そして。
女一人を襲うにも最適だった。
今さら気づいた。
「一人か?」
男の一人が聞いた。
俺は答えなかった。
距離を見る。
三人。
こちらは一人。
逃げ道は。
後ろ。
細い道がある。
「お前、この辺の奴じゃねえだろ」
別の男が笑う。
視線が気持ち悪い。
顔。
身体。
そして腰の刀。
順番に見ている。
「ずいぶん綺麗な姉ちゃんだな」
「…………」
なるほど。
目的はだいたい分かった。
俺は静かに一歩下がった。
「失礼いたします」
背を向ける。
「待てよ」
腕を掴まれた。
「――っ」
速い。
いや。
速くない。
俺が遅い。
振りほどこうとする。
動かない。
「離してください」
「そう怖い顔すんなって」
笑い声。
もう一人が前へ回る。
逃げ道が塞がれた。
――まずい。
普通にまずい。
心臓が速くなる。
刀がある。
俺は刀を持っている。
毎日振った。
何百回。
何千回。
最初とは比べものにならないくらい上手くなった。
俺は卯ノ花烈になる女だ。
剣の才能だって――。
「…………」
いや。
違う。
今。
腕一本振りほどけない。
当たり前だ。
俺は卯ノ花烈になるのかもしれない。
だが。
今の俺は。
枝を振ったことしかなかった公家の娘が、拾った刀をしばらく一人で振っていただけだ。
剣士ではない。
「その刀、飾りか?」
男が笑った。
俺の手が柄に触れているのを見ている。
「抜いてみろよ」
「…………」
男たちが笑う。
俺は柄を握った。
手が震えていた。
おかしい。
練習では震えなかった。
何百回握っても。
一度だって。
でも今は。
抜けば。
これは練習ではなくなる。
目の前に人間がいる。
動く。
殴る。
掴む。
こちらを傷つける。
そして。
俺が振った先に相手がいれば。
斬れる。
「…………」
初めて理解した。
刀を振ることと。
人に向けて刀を振ることは。
まるで違う。
「何だよ。使えねえのか?」
笑われた。
その通りだった。
使えない。
少なくとも。
今まで一度も使ったことはない。
それでも。
男の手が俺の着物へ伸びた。
「――触らないでください」
俺は刀を抜いた。
刃が出る。
男たちの笑いが、一瞬だけ止まった。
俺は両手で柄を握った。
いつも通り。
何百回もやったように。
足を開く。
構える。
「…………」
できる。
そう思った。
毎日やった。
身体は覚えている。
男が一歩近づいた。
俺は刀を振った。
「っ!」
ぶんっ。
空を切った。
「…………え」
男はそこにいなかった。
半歩下がっただけだった。
たったそれだけ。
なのに当たらない。
しかも。
振り切った刀に身体を持っていかれた。
「おっと」
男が笑う。
横から肩を突かれた。
「きゃっ――」
地面に転がった。
痛い。
刀は。
まだ握っている。
「なんだ。本当に使えねえじゃねえか」
笑い声が降ってくる。
「…………」
俺は地面から男たちを見上げた。
そして。
場違いなことを思った。
――なるほど。
全然違う。
素振りとは。
本当に。
全然違う。
相手は止まってくれない。
自分の間合いに立ってもくれない。
好きなタイミングで振らせてもくれない。
怖い。
身体も思った通りに動かない。
心臓がうるさい。
手も震えている。
なのに。
「…………」
ほんの少しだけ。
頭の片隅で。
別の感情が生まれていた。
――どうすれば、当てられる?
男が近づいてくる。
俺は刀を握り直した。
今度は。
さっきと同じ振り方では駄目だ。
初めての実戦は。
ここから始まった。
◇
立たないと。
まず、それだった。
剣がどうとか。
間合いがどうとか。
そんなことを考えている場合ではない。
地面に転がったままでは、どうにもならない。
俺は刀を支えにして身体を起こそうとした。
「おっと」
男の足が伸びてきた。
腹を蹴られる。
「――っ!」
息が詰まった。
身体が転がる。
痛い。
普通に痛い。
魂になったら痛みもなくなる、なんて親切設計ではないらしい。
「お前、やりすぎんなよ」
「分かってるって」
笑い声。
俺は腹を押さえた。
吐きそうだ。
それでも刀は離さなかった。
というより。
これを離したら、本当に終わる。
「…………」
立て。
俺。
立て。
刀を持っている。
なら使え。
何のために毎日振った。
男が近づいてくる。
今度こそ。
俺は立ち上がりながら刀を横へ振った。
「うわっ」
男が慌てて下がる。
また空振り。
だが。
今度は近づかせなかった。
「…………」
なるほど。
当たらなくてもいい。
振れば下がる。
少なくとも。
素手で掴まれるよりはましだ。
俺は刀を前へ向けた。
切っ先が震える。
腕も震えている。
格好悪い。
原作の卯ノ花烈なら絶対にこんな構えはしない。
いや。
比べるな。
あれは完成品だ。
こっちは初日だ。
「何だ、その構え」
男が笑った。
「知らないなら黙っていてください」
「あ?」
「私も分かりませんので」
一瞬。
男が黙った。
何を言っているんだという顔をしている。
俺もそう思う。
でも本当に分からない。
正しい構えなんて知らない。
なら。
今できることをするしかない。
男がこちらを見る。
俺も見る。
肩。
腕。
足。
どこを見ればいい?
顔?
手?
全部?
分からない。
「もういい。押さえろ」
後ろにいた男が言った。
二人が動いた。
「――っ」
同時は無理。
そう思った瞬間。
俺は刀を振った。
右から来た男へ。
大きく。
力いっぱい。
「危ねえ!」
避けられる。
当然だ。
そして。
反対側が見えなくなった。
腕を掴まれた。
「しまっ――」
強く引かれる。
身体が回る。
刀を持った右腕を後ろから押さえられた。
「離して!」
「大人しくしろ!」
肘を振る。
当たらない。
足を踏もうとする。
逃げられる。
力任せに暴れる。
駄目。
男の方が強い。
もう一人が正面から近づいてくる。
「ったく。面倒かけさせやがって」
「…………っ」
怖い。
はっきりそう思った。
さっきまでの比ではない。
逃げたい。
助けてほしい。
誰でもいい。
だが。
周囲には誰もいない。
自分で選んだ場所だった。
刀を振るところを見られたくなくて。
邪魔されたくなくて。
人の来ない場所を探した。
――馬鹿か、俺。
自分で逃げ場のない場所を選んでどうする。
男の手が伸びてくる。
顔に触れた。
「――触るな!」
頭突きした。
「ぐっ!」
額に衝撃。
俺も痛い。
だが男が顔を押さえた。
後ろの男の力が一瞬緩む。
今だ。
身体を捻る。
腕が抜けた。
刀を振る。
「っ!」
また。
大振り。
また避けられる。
――違う!
分かっている。
さっきから全部同じだ。
怖いから。
近づいてほしくないから。
力いっぱい振っている。
当てようとしているんじゃない。
追い払おうとしている。
だから分かりやすい。
男がこちらの腕を見ていた。
刀を振り上げた瞬間に、もう下がっている。
だったら。
小さく。
速く。
毎日の練習でもやった。
力を入れすぎれば刀が重くなる。
たまに。
本当にたまに。
力が抜けたときだけ、刀が軽く走った。
あれだ。
あれを。
「この――!」
男が殴りかかってくる。
怖い。
でも。
見る。
拳。
いや。
拳だけじゃない。
肩が動いた。
身体が前に出た。
近づいてくる。
今。
俺は刀を振った。
小さく。
横へ。
「ぐっ!」
「…………!」
感触があった。
刀が止まった。
男が飛び退く。
腕を押さえている。
血が出ていた。
「…………」
斬った。
浅い。
服と、その下の皮膚。
ほんの少し。
それでも。
初めて。
当たった。
「てめえ……!」
男の顔が変わった。
さっきまで笑っていた。
もう笑っていない。
怒っている。
「…………」
俺は刀を見る。
刃に血がついていた。
自分がやった。
人を斬った。
胃の辺りが冷たくなる。
これ。
本当に人を斬れるんだ。
当たり前なのに。
初めて実感した。
刀は。
俺が何十年も振りたかったものは。
こういうものだった。
「ぶっ殺す!」
「おい!」
斬られた男が突っ込んでくる。
さっきとは違う。
完全に怒っている。
――まずい。
俺は刀を構える。
男が来る。
今度は蹴りだった。
見えた。
避ける。
つもりだった。
「っ!」
脇腹に入った。
身体が浮く。
地面に倒れる。
刀が手から離れた。
「――あ」
からん。
少し先に落ちる。
男が俺の腹を蹴った。
「ぐっ……!」
もう一度。
身体を丸める。
痛い。
息ができない。
駄目だ。
これ。
普通に負ける。
俺。
卯ノ花なのに。
いや。
だから違う。
まだ卯ノ花烈じゃない。
名前だけ。
顔だけ。
才能があるとしても。
何も習っていない。
才能だけで勝てるなら、誰も修行なんてしない。
「押さえろ!」
腕を掴まれる。
もう一人が足を押さえた。
「やめ――」
身体が動かない。
男が上に乗る。
着物の襟を掴まれた。
引かれる。
布がずれた。
「――っ!」
頭が真っ白になった。
嫌だ。
それだけだった。
刀。
どこ。
視線を動かす。
あった。
少し遠い。
右手を伸ばす。
届かない。
指先から、ほんの少し先。
「大人しくしろ!」
頬を打たれた。
視界が揺れる。
それでも手を伸ばす。
あと少し。
駄目。
届かない。
身体を捻る。
肩が痛い。
指先が鞘に触れた。
違う。
刀身。
刃に触れたらまずい。
でも。
そんなことを気にしている場合ではない。
指を伸ばす。
柄。
あと少し。
男の手が襟の中へ入る。
「――嫌だ!」
身体を無理やり捻った。
指が柄にかかった。
掴む。
引き寄せる。
「このっ!」
男がこちらを見る。
俺は刀を持ち上げた。
構えなんてない。
振る余裕もない。
ただ。
両手で柄を握って。
前へ突き出した。
「――っ」
男の身体が止まった。
「…………」
重い。
妙な重さが、柄から手へ伝わってきた。
さっき腕を斬ったときとは違う。
刀が。
何かの中に入っている。
「……え」
男が俺を見ている。
目が合った。
驚いた顔。
俺も同じ顔をしていたと思う。
ゆっくり。
視線を下げる。
刀が男の腹に入っていた。
「…………」
俺が。
刺した。
いや。
違う。
突き出しただけだ。
そこに男がいた。
でも。
だから何だ。
俺がやったことには変わらない。
男の口から息が漏れる。
身体の力が抜けた。
重みがこちらへ来る。
「っ!」
慌てて横へ逃れる。
男が地面に倒れた。
動かない。
「…………」
静かになった。
一瞬だけ。
「お、おい……」
残った二人も止まっていた。
俺も動けない。
刀を握ったまま。
倒れた男を見る。
血が広がっていく。
死んだ?
いや。
ここは死後の世界だ。
魂が死んだらどうなる?
そんなことは今どうでもいい。
俺は。
人を。
「…………」
手が震えた。
刀の切っ先も震える。
怖い。
吐きそうだ。
前々世は現代日本人だった。
前の人生は公家の娘だった。
人が死ぬところを見たことはある。
病で。
老いて。
事故で。
でも。
自分の手で殺したことなんてない。
「こいつ……!」
一人の声で我に返った。
男がこちらへ来る。
「――っ」
無理。
二人いる。
勝てない。
今ので分かった。
俺は刀を持っているだけだ。
剣士じゃない。
なら。
逃げる。
俺は刀を握ったまま走った。
「待て!」
待つわけがない。
走る。
着物の裾が邪魔だ。
持ち上げる。
公家の姫としては完全に失格の姿で走る。
「止まれ!」
嫌です。
絶対に。
曲がる。
また曲がる。
細い道へ入る。
後ろから足音。
まだ来る。
速い。
怖い。
刀が邪魔だ。
重い。
でも。
捨てるという選択肢だけは、不思議なくらい浮かばなかった。
走った。
ただひたすら。
どれくらい走ったのか。
分からない。
気づいたころには、後ろから足音が聞こえなくなっていた。
「はっ……はっ……」
壁に手をつく。
膝が震える。
そのまま座り込んだ。
「…………」
刀を見る。
血がついている。
「…………」
俺。
人を殺した。
改めて思うと、身体の震えが強くなった。
怖かった。
殺されると思った。
それ以上のことをされるとも思った。
だから。
仕方なかった。
正当防衛。
そう言えばいいのかもしれない。
実際そうだ。
あそこで刀を使わなければ、どうなっていたか分からない。
でも。
「…………」
それでも人を殺した。
俺はしばらく刀を見つめた。
そして。
妙なことに気づいた。
恐怖とは別に。
頭の中に、さっきの光景が何度も浮かんでいる。
最初の一振り。
大振り。
簡単に避けられた。
二度目も同じ。
腕を斬ったとき。
あれだけは違った。
小さく。
力を抜いて。
相手が入ってきたところへ振った。
「…………」
あれなら。
当たる。
次は。
「――いや」
思考を止めた。
次って何だ。
何を考えている。
俺は今、人を殺したんだぞ。
反省しろ。
もっとこう。
罪悪感とか。
命についてとか。
考えるべきことがあるだろう。
「…………」
でも。
頭から離れない。
素振りでは分からなかった。
相手は動く。
こちらの間合いから逃げる。
逆に入ってくる。
刀を振る前に殴ってくる。
腕を掴む。
蹴る。
怖い。
そうすると身体が固まる。
力が入る。
いつもできていたことすらできなくなる。
「……全然駄目だった」
小さく呟いた。
自分でも驚くくらい。
悔しかった。
人を殺したこととは別に。
俺は。
負けた。
偶然、最後に刀が刺さっただけ。
あれは剣術じゃない。
俺が勝ったわけでもない。
相手が油断して。
俺が必死に刀を突き出して。
たまたま入った。
それだけ。
「…………」
悔しい。
もっとできると思っていた。
毎日振った。
少しずつ上手くなった。
才能もあると思った。
でも。
実際に人間を前にしたら。
何もできなかった。
刀を持っていない男三人に。
何度も倒されて。
殴られて。
蹴られて。
最後は逃げた。
「…………」
俺は刀を握り直した。
血で少し滑る。
それが嫌で。
近くに落ちていた布で拭った。
刀身が見える。
錆びて。
欠けて。
相変わらず、ひどい刀だ。
でも。
もう。
拾ったときとは少し違って見えた。
これは玩具じゃない。
振って楽しむだけのものでもない。
人を傷つける。
人を殺せる。
そして。
俺が下手なら。
俺が殺される。
「…………」
怖い。
もう戦いたくない。
そう思う。
少なくとも今は。
なのに。
同時に。
強く思った。
「……習いたい」
剣術を。
ちゃんと。
誰かに。
刀の握り方から。
立ち方。
歩き方。
間合い。
振り方。
避け方。
全部。
俺は何も知らない。
何も知らないくせに。
刀を振れるようになった気でいた。
「…………」
なら。
知ればいい。
習えばいい。
原作の卯ノ花は。
八千流と名乗った。
天下にあるあらゆる剣術を修めたから。
その名を名乗った。
なら。
俺も。
「…………」
そこまで考えて。
苦笑した。
「気が早いですね」
まだ一つも習っていない。
今日なんて素人相手に負けたばかりだ。
八千流どころか。
零流である。
「……まず、一つですね」
俺は立ち上がった。
足がまだ少し震えている。
刀を鞘へ納める。
怖かった。
人を殺した。
その事実が消えるわけではない。
たぶん。
今夜は眠れない。
それでも。
刀を捨てようとは思わなかった。
むしろ。
もっと知りたかった。
もっと上手くなりたかった。
次に同じことが起きたとき。
今日みたいに何もできないのは嫌だった。
そして。
それとは別に。
もっと単純に。
剣というものを。
ちゃんと知りたかった。
俺は歩き出した。
まず探そう。
剣を使える人間を。
そして。
教えてもらおう。
どうすれば。
もっと上手く刀を振れるのか。
このときの俺は。
知りたい。
ただ、知りたいだけだった。