最高の卯ノ花烈を始めよう   作:まいちー

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第二章 刀

まず刀だ。

 

そう決めた。

 

最高の卯ノ花烈を作る。

 

原作を超える。

 

更木剣八より強くなる。

 

大層な目標を掲げたところで、今の俺には刀一本ない。

 

斬魄刀どころか、普通の刀すらない。

 

「…………」

 

順番にいこう。

 

まずは刀。

 

話はそれからだ。

 

 

流魂街を歩いてみれば、刀そのものは見かけた。

 

腰に差した男。

 

荷物と一緒に刃物を持ち歩く者。

 

遠目に見ただけで、それがまともな刀なのかどうかまでは分からない。

 

少なくとも、死神だけが刀を持っているわけではないらしい。

 

問題は、俺には金も仕事も、交換できる物もないことだった。死んだばかりなので当然である。

 

公家の姫だったころなら、欲しい物があれば誰かに用意してもらえた。

 

もちろん刀は駄目だったが。

 

今は自由だ。

 

誰も俺が刀を持つことを止めない。

 

その代わり、誰も用意してくれない。

 

「……世の中、上手くできていますね」

 

あまり嬉しくない発見だった。

 

ならば働いて手に入れる。

 

普通ならそうするところなのだろう。

 

だが。

 

俺は考えた。

 

ここは流魂街。

 

それも中心から離れるほど治安が悪くなるという。

 

争いも珍しくない。

 

刀を持っている者もいる。

 

そして俺が欲しいのは名刀ではない。

 

斬魄刀でもない。

 

振れればいい。

 

刃こぼれしていても。

 

錆びていても。

 

とりあえず一本。

 

「…………」

 

落ちてないかな。

 

我ながら発想がだいぶ庶民的になった。

 

いや。

 

庶民というより拾得物狙いである。

 

公家の姫として一生を終えた女とは思えない。

 

だが仕方ない。

 

刀のためだ。

 

 

数日かけて、俺は少しずつ流魂街の外側へ向かった。

 

景色は分かりやすく変わっていった。

 

家は粗末になり。

 

道は荒れ。

 

人々の目つきも変わる。

 

最初のうちは一人で歩く女も見かけた。

 

それが減った。

 

さらに進むと、こちらを見る男たちの視線が妙に長くなった。

 

「…………」

 

これは。

 

あまりよろしくない気がする。

 

公家社会で生きてきたおかげで、人の視線には敏感だ。

 

俺は早々に引き返した。

 

刀は欲しい。

 

だが、刀を手に入れる前に何かあったら意味がない。

 

翌日は別の道を選んだ。

 

その次の日も。

 

焦る必要はない。

 

何しろ、もう死んでいる。

 

時間だけならいくらでもある。

 

そして。

 

五日目。

 

見つけた。

 

「…………」

 

最初は気づかなかった。

 

道から少し外れた場所。

 

壊れかけた家の裏手。

 

何かが争った跡があった。

 

木箱が壊れている。

 

布が落ちている。

 

乾いた血の跡もある。

 

誰が。

 

何のために。

 

ここで争ったのか。

 

そんなことを考えながら視線を動かして。

 

止まった。

 

「…………」

 

長いものが落ちていた。

 

半分ほど土に埋もれている。

 

黒ずんだ鞘。

 

擦り切れた柄。

 

俺は動かなかった。

 

数秒。

 

いや。

 

もっと長かったかもしれない。

 

ゆっくり近づく。

 

しゃがむ。

 

見る。

 

「……刀」

 

本物だ。

 

手を伸ばしかけて。

 

止める。

 

周囲を見る。

 

誰もいない。

 

もう一度見る。

 

刀。

 

周囲を見る。

 

やっぱり誰もいない。

 

「…………」

 

これは。

 

拾っていいやつでは?

 

いや。

 

たぶん駄目だ。

 

誰かの物だ。

 

少なくとも、昨日まで地面から生えていたものではない。

 

しかし。

 

持ち主らしい人間はいない。

 

届ける場所も知らない。

 

そして。

 

俺は二つの人生を費やしてなお、一度も本物の刀を振ったことがない。

 

「…………」

 

拾った。

 

ずしり。

 

「っ」

 

思ったより重い。

 

危うく落としそうになった。

 

慌てて両手で抱える。

 

「……重いな」

 

当たり前なのだが。

 

少し感動した。

 

これまで振っていた枝とは違う。

 

重量がある。

 

鞘を握る。

 

柄に手をかける。

 

少し力を入れた。

 

抜けない。

 

「…………」

 

もう一度。

 

少し角度を変える。

 

今度は抜けた。

 

擦れる音とともに刀身が現れる。

 

「…………」

 

綺麗。

 

ではなかった。

 

普通に汚い。

 

錆が浮いている。

 

刃も何か所か欠けている。

 

前々世の俺が博物館で見た日本刀とは比較にならない。

 

でも。

 

刀だった。

 

ガラス越しではない。

 

目の前にある。

 

俺が握っている。

 

柄を両手で持ってみる。

 

「…………」

 

重い。

 

さっきとは違う意味で重い。

 

鞘から抜くと、刀身の重さがはっきり分かる。

 

手元だけではない。

 

ずっと先にまで重さが伸びている。

 

少し傾けただけで、手首が持っていかれそうになる。

 

――これか。

 

ずっと。

 

これをやりたかった。

 

振ってみる。

 

「……っ!」

 

ぶおん。

 

想像していたものとは全然違った。

 

刀に身体を持っていかれた。

 

二歩よろける。

 

「…………」

 

危な。

 

今のは駄目だ。

 

もう一度。

 

両手でしっかり握る。

 

足を開く。

 

幼いころ、護衛がやっていたのを思い出す。

 

もっとも、一度か二度見ただけだ。

 

正確な構えなんて覚えていない。

 

振り上げる。

 

重い。

 

振り下ろす。

 

ぶんっ。

 

「…………」

 

さっきよりはいい。

 

でも。

 

何か違う。

 

もう一度。

 

ぶんっ。

 

もう一度。

 

ぶんっ。

 

「…………」

 

俺は笑った。

 

「楽しい」

 

刀を拾った。

 

ただそれだけ。

 

なのに。

 

これまで尸魂界に来てからで、一番嬉しかった。

 

 

刀を手に入れてから、俺の日課は決まった。

 

朝起きる。

 

刀を振る。

 

少し歩く。

 

刀を振る。

 

食べ物を探す。

 

刀を振る。

 

寝る前に。

 

刀を振る。

 

「…………」

 

我ながらひどい生活である。

 

公家の娘だったころとは比べものにならない。

 

琴もない。

 

歌を詠む必要もない。

 

女房もいない。

 

朝廷の話を聞くこともない。

 

着飾る必要すらない。

 

その代わり。

 

刀がある。

 

――最高では?

 

そう思ってしまう程度には、俺は満足していた。

 

もちろん、剣術なんて知らない。

 

だから最初は、ただ振った。

 

両手で柄を握る。

 

頭上へ持ち上げる。

 

振り下ろす。

 

それだけ。

 

「っ……」

 

重い。

 

最初に拾った日にも感じたが、枝とはまるで違った。

 

腕だけで振ると、刀に身体を引っ張られる。

 

止めようとすると肩に力が入る。

 

何度も振っていると手が痛くなる。

 

柄を握る場所を変えてみた。

 

駄目。

 

力を抜いてみた。

 

怖い。

 

刀が手から飛んでいきそうになる。

 

強く握る。

 

今度は腕が固まる。

 

「……難しいですね」

 

誰もいないのに、公家時代の口調が出た。

 

何十年も使っていたのだから、もうこちらが素なのかもしれない。

 

でも。

 

楽しかった。

 

ものすごく楽しかった。

 

できないからこそ、次を試したくなる。

 

幼いころ、枝を振っていたときとは違う。

 

本物の刀には、はっきりと重さがある。

 

適当に振れば、適当にしか動かない。

 

こちらの都合に合わせてはくれない。

 

なら。

 

合わせるのは俺の方だ。

 

次の日も振った。

 

その次の日も振った。

 

誰に教わったわけでもない。

 

正解も知らない。

 

だから、とにかく試した。

 

腕だけでは駄目。

 

なら腰を使う。

 

腰だけ意識すると、今度は身体が捻れすぎる。

 

足を動かす。

 

刀と足がばらばらになる。

 

「…………」

 

難しい。

 

もう一度。

 

振る。

 

違う。

 

もう一度。

 

振る。

 

「……今のは少し良かった」

 

何が良かったのかは説明できない。

 

ただ、さっきより刀が軽く感じた。

 

なら、同じように。

 

振る。

 

「…………違う」

 

再現できない。

 

腹が立つ。

 

もう一度。

 

また違う。

 

もう一度。

 

違う。

 

十回。

 

二十回。

 

三十回。

 

そして。

 

――ヒュッ。

 

「…………」

 

止まった。

 

今。

 

音が違った。

 

もう一度。

 

同じように。

 

振る。

 

ぶんっ。

 

「……違う」

 

戻った。

 

でも。

 

確かに一度だけ。

 

刀が自分から走ったような感覚があった。

 

「…………」

 

口元が緩む。

 

面白い。

 

翌日。

 

また振った。

 

 

それから何日経ったのか。

 

十日か。

 

二十日か。

 

数えるのをやめた。

 

毎日、刀を振った。

 

手の皮が擦れた。

 

痛かった。

 

翌日も振った。

 

また擦れた。

 

それでも振った。

 

やがて皮が硬くなった。

 

「…………」

 

少し嬉しかった。

 

手のひらにできた硬い部分を、指で何度も触った。

 

公家の姫だったころには絶対になかったものだ。

 

刀を振った証拠。

 

それだけで気に入った。

 

振り方も少しずつ変わった。

 

最初のころのように、刀に引っ張られて転びそうになることはない。

 

振り下ろして、その場で止まれる。

 

横にも振れる。

 

踏み込みながら振ることも試した。

 

突きもやってみた。

 

これは怖かった。

 

勢いをつけすぎて、そのまま前につんのめった。

 

二度目からは気をつけた。

 

もちろん。

 

これが剣術なのかと聞かれれば、分からない。

 

たぶん違う。

 

完全な我流だ。

 

でも。

 

昨日より今日。

 

今日より明日。

 

確実に上手くなっている。

 

それだけは分かった。

 

何より。

 

楽しい。

 

振れば振るほど、もっと振りたくなる。

 

もっと速く。

 

もっと軽く。

 

もっと綺麗に。

 

刀が自分の腕になったみたいに動けば、どれだけ気持ちいいんだろう。

 

想像するだけで楽しかった。

 

――才能、あるんじゃないか?

 

ある日。

 

そんなことを考えた。

 

いや。

 

あるだろう。

 

何しろ俺は卯ノ花烈になる女である。

 

原作が正しければ、尸魂界でも屈指の剣士になる。

 

つまり。

 

才能は保証済み。

 

「…………」

 

これは。

 

かなり期待していいのでは?

 

今は完全な我流。

 

それでも日に日に上達している。

 

ちゃんと剣術を習えば。

 

一年。

 

十年。

 

百年。

 

その先は。

 

「ふふ」

 

思わず笑った。

 

楽しくなってきた。

 

いや。

 

最初から楽しかった。

 

ようやく。

 

本当にようやく。

 

自分がずっとやりたかったことをやれている。

 

 

その日の夕方。

 

いつものように刀を振り終えた。

 

鞘へ納める。

 

今日は良かった。

 

最後の十回は特にいい。

 

刀が軽かった。

 

少なくとも昨日よりは。

 

「明日はもう少し足を――」

 

そこで。

 

声が聞こえた。

 

「おい」

 

「…………」

 

振り返る。

 

男がいた。

 

一人ではない。

 

三人。

 

少し離れたところに立っている。

 

いつからいたのか。

 

分からなかった。

 

――まずいな。

 

直感した。

 

これまで刀を振る場所には気をつけていた。

 

人通りが少なく。

 

周囲から見えにくく。

 

邪魔が入らない場所。

 

練習には最適だった。

 

そして。

 

女一人を襲うにも最適だった。

 

今さら気づいた。

 

「一人か?」

 

男の一人が聞いた。

 

俺は答えなかった。

 

距離を見る。

 

三人。

 

こちらは一人。

 

逃げ道は。

 

後ろ。

 

細い道がある。

 

「お前、この辺の奴じゃねえだろ」

 

別の男が笑う。

 

視線が気持ち悪い。

 

顔。

 

身体。

 

そして腰の刀。

 

順番に見ている。

 

「ずいぶん綺麗な姉ちゃんだな」

 

「…………」

 

なるほど。

 

目的はだいたい分かった。

 

俺は静かに一歩下がった。

 

「失礼いたします」

 

背を向ける。

 

「待てよ」

 

腕を掴まれた。

 

「――っ」

 

速い。

 

いや。

 

速くない。

 

俺が遅い。

 

振りほどこうとする。

 

動かない。

 

「離してください」

 

「そう怖い顔すんなって」

 

笑い声。

 

もう一人が前へ回る。

 

逃げ道が塞がれた。

 

――まずい。

 

普通にまずい。

 

心臓が速くなる。

 

刀がある。

 

俺は刀を持っている。

 

毎日振った。

 

何百回。

 

何千回。

 

最初とは比べものにならないくらい上手くなった。

 

俺は卯ノ花烈になる女だ。

 

剣の才能だって――。

 

「…………」

 

いや。

 

違う。

 

今。

 

腕一本振りほどけない。

 

当たり前だ。

 

俺は卯ノ花烈になるのかもしれない。

 

だが。

 

今の俺は。

 

枝を振ったことしかなかった公家の娘が、拾った刀をしばらく一人で振っていただけだ。

 

剣士ではない。

 

「その刀、飾りか?」

 

男が笑った。

 

俺の手が柄に触れているのを見ている。

 

「抜いてみろよ」

 

「…………」

 

男たちが笑う。

 

俺は柄を握った。

 

手が震えていた。

 

おかしい。

 

練習では震えなかった。

 

何百回握っても。

 

一度だって。

 

でも今は。

 

抜けば。

 

これは練習ではなくなる。

 

目の前に人間がいる。

 

動く。

 

殴る。

 

掴む。

 

こちらを傷つける。

 

そして。

 

俺が振った先に相手がいれば。

 

斬れる。

 

「…………」

 

初めて理解した。

 

刀を振ることと。

 

人に向けて刀を振ることは。

 

まるで違う。

 

「何だよ。使えねえのか?」

 

笑われた。

 

その通りだった。

 

使えない。

 

少なくとも。

 

今まで一度も使ったことはない。

 

それでも。

 

男の手が俺の着物へ伸びた。

 

「――触らないでください」

 

俺は刀を抜いた。

 

刃が出る。

 

男たちの笑いが、一瞬だけ止まった。

 

俺は両手で柄を握った。

 

いつも通り。

 

何百回もやったように。

 

足を開く。

 

構える。

 

「…………」

 

できる。

 

そう思った。

 

毎日やった。

 

身体は覚えている。

 

男が一歩近づいた。

 

俺は刀を振った。

 

「っ!」

 

ぶんっ。

 

空を切った。

 

「…………え」

 

男はそこにいなかった。

 

半歩下がっただけだった。

 

たったそれだけ。

 

なのに当たらない。

 

しかも。

 

振り切った刀に身体を持っていかれた。

 

「おっと」

 

男が笑う。

 

横から肩を突かれた。

 

「きゃっ――」

 

地面に転がった。

 

痛い。

 

刀は。

 

まだ握っている。

 

「なんだ。本当に使えねえじゃねえか」

 

笑い声が降ってくる。

 

「…………」

 

俺は地面から男たちを見上げた。

 

そして。

 

場違いなことを思った。

 

――なるほど。

 

全然違う。

 

素振りとは。

 

本当に。

 

全然違う。

 

相手は止まってくれない。

 

自分の間合いに立ってもくれない。

 

好きなタイミングで振らせてもくれない。

 

怖い。

 

身体も思った通りに動かない。

 

心臓がうるさい。

 

手も震えている。

 

なのに。

 

「…………」

 

ほんの少しだけ。

 

頭の片隅で。

 

別の感情が生まれていた。

 

――どうすれば、当てられる?

 

男が近づいてくる。

 

俺は刀を握り直した。

 

今度は。

 

さっきと同じ振り方では駄目だ。

 

初めての実戦は。

 

ここから始まった。

 

 

立たないと。

 

まず、それだった。

 

剣がどうとか。

 

間合いがどうとか。

 

そんなことを考えている場合ではない。

 

地面に転がったままでは、どうにもならない。

 

俺は刀を支えにして身体を起こそうとした。

 

「おっと」

 

男の足が伸びてきた。

 

腹を蹴られる。

 

「――っ!」

 

息が詰まった。

 

身体が転がる。

 

痛い。

 

普通に痛い。

 

魂になったら痛みもなくなる、なんて親切設計ではないらしい。

 

「お前、やりすぎんなよ」

 

「分かってるって」

 

笑い声。

 

俺は腹を押さえた。

 

吐きそうだ。

 

それでも刀は離さなかった。

 

というより。

 

これを離したら、本当に終わる。

 

「…………」

 

立て。

 

俺。

 

立て。

 

刀を持っている。

 

なら使え。

 

何のために毎日振った。

 

男が近づいてくる。

 

今度こそ。

 

俺は立ち上がりながら刀を横へ振った。

 

「うわっ」

 

男が慌てて下がる。

 

また空振り。

 

だが。

 

今度は近づかせなかった。

 

「…………」

 

なるほど。

 

当たらなくてもいい。

 

振れば下がる。

 

少なくとも。

 

素手で掴まれるよりはましだ。

 

俺は刀を前へ向けた。

 

切っ先が震える。

 

腕も震えている。

 

格好悪い。

 

原作の卯ノ花烈なら絶対にこんな構えはしない。

 

いや。

 

比べるな。

 

あれは完成品だ。

 

こっちは初日だ。

 

「何だ、その構え」

 

男が笑った。

 

「知らないなら黙っていてください」

 

「あ?」

 

「私も分かりませんので」

 

一瞬。

 

男が黙った。

 

何を言っているんだという顔をしている。

 

俺もそう思う。

 

でも本当に分からない。

 

正しい構えなんて知らない。

 

なら。

 

今できることをするしかない。

 

男がこちらを見る。

 

俺も見る。

 

肩。

 

腕。

 

足。

 

どこを見ればいい?

 

顔?

 

手?

 

全部?

 

分からない。

 

「もういい。押さえろ」

 

後ろにいた男が言った。

 

二人が動いた。

 

「――っ」

 

同時は無理。

 

そう思った瞬間。

 

俺は刀を振った。

 

右から来た男へ。

 

大きく。

 

力いっぱい。

 

「危ねえ!」

 

避けられる。

 

当然だ。

 

そして。

 

反対側が見えなくなった。

 

腕を掴まれた。

 

「しまっ――」

 

強く引かれる。

 

身体が回る。

 

刀を持った右腕を後ろから押さえられた。

 

「離して!」

 

「大人しくしろ!」

 

肘を振る。

 

当たらない。

 

足を踏もうとする。

 

逃げられる。

 

力任せに暴れる。

 

駄目。

 

男の方が強い。

 

もう一人が正面から近づいてくる。

 

「ったく。面倒かけさせやがって」

 

「…………っ」

 

怖い。

 

はっきりそう思った。

 

さっきまでの比ではない。

 

逃げたい。

 

助けてほしい。

 

誰でもいい。

 

だが。

 

周囲には誰もいない。

 

自分で選んだ場所だった。

 

刀を振るところを見られたくなくて。

 

邪魔されたくなくて。

 

人の来ない場所を探した。

 

――馬鹿か、俺。

 

自分で逃げ場のない場所を選んでどうする。

 

男の手が伸びてくる。

 

顔に触れた。

 

「――触るな!」

 

頭突きした。

 

「ぐっ!」

 

額に衝撃。

 

俺も痛い。

 

だが男が顔を押さえた。

 

後ろの男の力が一瞬緩む。

 

今だ。

 

身体を捻る。

 

腕が抜けた。

 

刀を振る。

 

「っ!」

 

また。

 

大振り。

 

また避けられる。

 

――違う!

 

分かっている。

 

さっきから全部同じだ。

 

怖いから。

 

近づいてほしくないから。

 

力いっぱい振っている。

 

当てようとしているんじゃない。

 

追い払おうとしている。

 

だから分かりやすい。

 

男がこちらの腕を見ていた。

 

刀を振り上げた瞬間に、もう下がっている。

 

だったら。

 

小さく。

 

速く。

 

毎日の練習でもやった。

 

力を入れすぎれば刀が重くなる。

 

たまに。

 

本当にたまに。

 

力が抜けたときだけ、刀が軽く走った。

 

あれだ。

 

あれを。

 

「この――!」

 

男が殴りかかってくる。

 

怖い。

 

でも。

 

見る。

 

拳。

 

いや。

 

拳だけじゃない。

 

肩が動いた。

 

身体が前に出た。

 

近づいてくる。

 

今。

 

俺は刀を振った。

 

小さく。

 

横へ。

 

「ぐっ!」

 

「…………!」

 

感触があった。

 

刀が止まった。

 

男が飛び退く。

 

腕を押さえている。

 

血が出ていた。

 

「…………」

 

斬った。

 

浅い。

 

服と、その下の皮膚。

 

ほんの少し。

 

それでも。

 

初めて。

 

当たった。

 

「てめえ……!」

 

男の顔が変わった。

 

さっきまで笑っていた。

 

もう笑っていない。

 

怒っている。

 

「…………」

 

俺は刀を見る。

 

刃に血がついていた。

 

自分がやった。

 

人を斬った。

 

胃の辺りが冷たくなる。

 

これ。

 

本当に人を斬れるんだ。

 

当たり前なのに。

 

初めて実感した。

 

刀は。

 

俺が何十年も振りたかったものは。

 

こういうものだった。

 

「ぶっ殺す!」

 

「おい!」

 

斬られた男が突っ込んでくる。

 

さっきとは違う。

 

完全に怒っている。

 

――まずい。

 

俺は刀を構える。

 

男が来る。

 

今度は蹴りだった。

 

見えた。

 

避ける。

 

つもりだった。

 

「っ!」

 

脇腹に入った。

 

身体が浮く。

 

地面に倒れる。

 

刀が手から離れた。

 

「――あ」

 

からん。

 

少し先に落ちる。

 

男が俺の腹を蹴った。

 

「ぐっ……!」

 

もう一度。

 

身体を丸める。

 

痛い。

 

息ができない。

 

駄目だ。

 

これ。

 

普通に負ける。

 

俺。

 

卯ノ花なのに。

 

いや。

 

だから違う。

 

まだ卯ノ花烈じゃない。

 

名前だけ。

 

顔だけ。

 

才能があるとしても。

 

何も習っていない。

 

才能だけで勝てるなら、誰も修行なんてしない。

 

「押さえろ!」

 

腕を掴まれる。

 

もう一人が足を押さえた。

 

「やめ――」

 

身体が動かない。

 

男が上に乗る。

 

着物の襟を掴まれた。

 

引かれる。

 

布がずれた。

 

「――っ!」

 

頭が真っ白になった。

 

嫌だ。

 

それだけだった。

 

刀。

 

どこ。

 

視線を動かす。

 

あった。

 

少し遠い。

 

右手を伸ばす。

 

届かない。

 

指先から、ほんの少し先。

 

「大人しくしろ!」

 

頬を打たれた。

 

視界が揺れる。

 

それでも手を伸ばす。

 

あと少し。

 

駄目。

 

届かない。

 

身体を捻る。

 

肩が痛い。

 

指先が鞘に触れた。

 

違う。

 

刀身。

 

刃に触れたらまずい。

 

でも。

 

そんなことを気にしている場合ではない。

 

指を伸ばす。

 

柄。

 

あと少し。

 

男の手が襟の中へ入る。

 

「――嫌だ!」

 

身体を無理やり捻った。

 

指が柄にかかった。

 

掴む。

 

引き寄せる。

 

「このっ!」

 

男がこちらを見る。

 

俺は刀を持ち上げた。

 

構えなんてない。

 

振る余裕もない。

 

ただ。

 

両手で柄を握って。

 

前へ突き出した。

 

「――っ」

 

男の身体が止まった。

 

「…………」

 

重い。

 

妙な重さが、柄から手へ伝わってきた。

 

さっき腕を斬ったときとは違う。

 

刀が。

 

何かの中に入っている。

 

「……え」

 

男が俺を見ている。

 

目が合った。

 

驚いた顔。

 

俺も同じ顔をしていたと思う。

 

ゆっくり。

 

視線を下げる。

 

刀が男の腹に入っていた。

 

「…………」

 

俺が。

 

刺した。

 

いや。

 

違う。

 

突き出しただけだ。

 

そこに男がいた。

 

でも。

 

だから何だ。

 

俺がやったことには変わらない。

 

男の口から息が漏れる。

 

身体の力が抜けた。

 

重みがこちらへ来る。

 

「っ!」

 

慌てて横へ逃れる。

 

男が地面に倒れた。

 

動かない。

 

「…………」

 

静かになった。

 

一瞬だけ。

 

「お、おい……」

 

残った二人も止まっていた。

 

俺も動けない。

 

刀を握ったまま。

 

倒れた男を見る。

 

血が広がっていく。

 

死んだ?

 

いや。

 

ここは死後の世界だ。

 

魂が死んだらどうなる?

 

そんなことは今どうでもいい。

 

俺は。

 

人を。

 

「…………」

 

手が震えた。

 

刀の切っ先も震える。

 

怖い。

 

吐きそうだ。

 

前々世は現代日本人だった。

 

前の人生は公家の娘だった。

 

人が死ぬところを見たことはある。

 

病で。

 

老いて。

 

事故で。

 

でも。

 

自分の手で殺したことなんてない。

 

「こいつ……!」

 

一人の声で我に返った。

 

男がこちらへ来る。

 

「――っ」

 

無理。

 

二人いる。

 

勝てない。

 

今ので分かった。

 

俺は刀を持っているだけだ。

 

剣士じゃない。

 

なら。

 

逃げる。

 

俺は刀を握ったまま走った。

 

「待て!」

 

待つわけがない。

 

走る。

 

着物の裾が邪魔だ。

 

持ち上げる。

 

公家の姫としては完全に失格の姿で走る。

 

「止まれ!」

 

嫌です。

 

絶対に。

 

曲がる。

 

また曲がる。

 

細い道へ入る。

 

後ろから足音。

 

まだ来る。

 

速い。

 

怖い。

 

刀が邪魔だ。

 

重い。

 

でも。

 

捨てるという選択肢だけは、不思議なくらい浮かばなかった。

 

走った。

 

ただひたすら。

 

どれくらい走ったのか。

 

分からない。

 

気づいたころには、後ろから足音が聞こえなくなっていた。

 

「はっ……はっ……」

 

壁に手をつく。

 

膝が震える。

 

そのまま座り込んだ。

 

「…………」

 

刀を見る。

 

血がついている。

 

「…………」

 

俺。

 

人を殺した。

 

改めて思うと、身体の震えが強くなった。

 

怖かった。

 

殺されると思った。

 

それ以上のことをされるとも思った。

 

だから。

 

仕方なかった。

 

正当防衛。

 

そう言えばいいのかもしれない。

 

実際そうだ。

 

あそこで刀を使わなければ、どうなっていたか分からない。

 

でも。

 

「…………」

 

それでも人を殺した。

 

俺はしばらく刀を見つめた。

 

そして。

 

妙なことに気づいた。

 

恐怖とは別に。

 

頭の中に、さっきの光景が何度も浮かんでいる。

 

最初の一振り。

 

大振り。

 

簡単に避けられた。

 

二度目も同じ。

 

腕を斬ったとき。

 

あれだけは違った。

 

小さく。

 

力を抜いて。

 

相手が入ってきたところへ振った。

 

「…………」

 

あれなら。

 

当たる。

 

次は。

 

「――いや」

 

思考を止めた。

 

次って何だ。

 

何を考えている。

 

俺は今、人を殺したんだぞ。

 

反省しろ。

 

もっとこう。

 

罪悪感とか。

 

命についてとか。

 

考えるべきことがあるだろう。

 

「…………」

 

でも。

 

頭から離れない。

 

素振りでは分からなかった。

 

相手は動く。

 

こちらの間合いから逃げる。

 

逆に入ってくる。

 

刀を振る前に殴ってくる。

 

腕を掴む。

 

蹴る。

 

怖い。

 

そうすると身体が固まる。

 

力が入る。

 

いつもできていたことすらできなくなる。

 

「……全然駄目だった」

 

小さく呟いた。

 

自分でも驚くくらい。

 

悔しかった。

 

人を殺したこととは別に。

 

俺は。

 

負けた。

 

偶然、最後に刀が刺さっただけ。

 

あれは剣術じゃない。

 

俺が勝ったわけでもない。

 

相手が油断して。

 

俺が必死に刀を突き出して。

 

たまたま入った。

 

それだけ。

 

「…………」

 

悔しい。

 

もっとできると思っていた。

 

毎日振った。

 

少しずつ上手くなった。

 

才能もあると思った。

 

でも。

 

実際に人間を前にしたら。

 

何もできなかった。

 

刀を持っていない男三人に。

 

何度も倒されて。

 

殴られて。

 

蹴られて。

 

最後は逃げた。

 

「…………」

 

俺は刀を握り直した。

 

血で少し滑る。

 

それが嫌で。

 

近くに落ちていた布で拭った。

 

刀身が見える。

 

錆びて。

 

欠けて。

 

相変わらず、ひどい刀だ。

 

でも。

 

もう。

 

拾ったときとは少し違って見えた。

 

これは玩具じゃない。

 

振って楽しむだけのものでもない。

 

人を傷つける。

 

人を殺せる。

 

そして。

 

俺が下手なら。

 

俺が殺される。

 

「…………」

 

怖い。

 

もう戦いたくない。

 

そう思う。

 

少なくとも今は。

 

なのに。

 

同時に。

 

強く思った。

 

「……習いたい」

 

剣術を。

 

ちゃんと。

 

誰かに。

 

刀の握り方から。

 

立ち方。

 

歩き方。

 

間合い。

 

振り方。

 

避け方。

 

全部。

 

俺は何も知らない。

 

何も知らないくせに。

 

刀を振れるようになった気でいた。

 

「…………」

 

なら。

 

知ればいい。

 

習えばいい。

 

原作の卯ノ花は。

 

八千流と名乗った。

 

天下にあるあらゆる剣術を修めたから。

 

その名を名乗った。

 

なら。

 

俺も。

 

「…………」

 

そこまで考えて。

 

苦笑した。

 

「気が早いですね」

 

まだ一つも習っていない。

 

今日なんて素人相手に負けたばかりだ。

 

八千流どころか。

 

零流である。

 

「……まず、一つですね」

 

俺は立ち上がった。

 

足がまだ少し震えている。

 

刀を鞘へ納める。

 

怖かった。

 

人を殺した。

 

その事実が消えるわけではない。

 

たぶん。

 

今夜は眠れない。

 

それでも。

 

刀を捨てようとは思わなかった。

 

むしろ。

 

もっと知りたかった。

 

もっと上手くなりたかった。

 

次に同じことが起きたとき。

 

今日みたいに何もできないのは嫌だった。

 

そして。

 

それとは別に。

 

もっと単純に。

 

剣というものを。

 

ちゃんと知りたかった。

 

俺は歩き出した。

 

まず探そう。

 

剣を使える人間を。

 

そして。

 

教えてもらおう。

 

どうすれば。

 

もっと上手く刀を振れるのか。

 

このときの俺は。

 

知りたい。

 

ただ、知りたいだけだった。

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