それから、俺は毎日宗玄のもとへ通った。
刀は持っていかない。宗玄に、
『刀はいらん』
と言われたからだ。
先日の一件以来、刀を持たずに流魂街を歩くのは少し怖い。
あの日、俺は刀を持っていた。それでも三人の男に囲まれ、殴られ、蹴られ、地面に押さえつけられた。
最後は必死に抵抗して、どうにか逃げ延びただけだ。
もし刀すらなかったら。
そう考えると、腰元が妙に寂しい。
だが、宗玄に教えを請うたのは俺である。言いつけを破るわけにもいかない。
だから刀は寝床に隠し、今日も宗玄のところへ向かった。
◇
「持て」
「はい」
渡されたのは、初日と同じ木の棒だった。
「構えろ」
「はい」
「膝」
「はい」
「腰」
「はい」
「肩」
「……はい」
「そのまま」
「…………はい」
そして、立つ。
ただひたすら。
初日もそうだった。
最初に棒を振らされ、
『全部駄目』
と言われ、立ち方からやり直しになった。
どうやら今日も、その続きらしい。
棒は持っている。構えてもいる。
ただし、振らない。
横では。
――カンッ!
「っ!」
「遅い」
「もう一度!」
――カンッ!
「足が止まってる」
「くそっ……!」
先日、俺が宗玄を見つけたときに稽古を受けていた若者がいる。
「…………」
羨ましい。
あちらは振っている。打ち合っている。避けている。
叩かれてもいる。
最後はいらないが。
俺はただ立っている。
少しくらい見てもいいだろうか。
視線だけを横へ――。
「前」
「……はい」
即座にばれた。
「師匠」
「何だ」
「私も、あちらのような稽古をするのは――」
「膝」
「…………はい」
駄目らしい。
宗玄の棒が膝に触れ、位置を直される。
「そこ。動くな」
「はい」
しばらくすると、足が震えてきた。
太腿が痛い。腰も痛い。肩まで痛い。
刀を百回振る方が楽だった。
「師匠」
「何だ」
「足が痛いです」
「そうか」
「…………」
終わった。
助言ではなかった。
◇
やがて、若者の稽古が終わった。
「いってぇ……」
頭を押さえながらこちらへ来る。宗玄に何度も叩かれていたからだ。
「なあ、清子」
「はい」
「今日もそれ?」
「今のところは」
「振らねえの?」
「振るなと言われておりますので」
「…………」
若者が宗玄を見る。
「親父。何やらせてんだ?」
「稽古」
「これ稽古なの?」
「お前もやるか」
「いや、いい」
即答だった。
俺もできるなら遠慮したい。
「つまんなくない?」
「とても」
「じゃあ何でやってんだよ」
「刀を振りたいので」
「今、振らせてもらってないじゃん」
「ですから困っております」
吹き出された。
「変な奴だな、あんた」
「そうでしょうか」
「普通、そこまでして刀振りたいか?」
「振りたいですね」
ここは迷わない。
前の人生では、公家の娘だった。
幼いころ、庭の隅で枝を拾い、両手で握って振った。それだけで楽しかった。
けれど、本物の刀には最後まで触れられなかった。
死んで、尸魂界へ来て。
ようやく刀を拾った。
初めて振ったとき、楽しかった。
もっと上手くなりたいと思った。
だから、立つくらい何でもない。
いや。
足はかなり痛いけど。
「ふうん」
そこで、ふと思った。
「あの」
「ん?」
「そういえば、私はあなたのお名前を伺っておりませんでした」
「今さら?」
「はい」
「今まで何て呼んでたんだよ」
「心の中では『あの若い方』と」
「それで済ませてたのかよ」
「特に不便はありませんでしたので」
「ひでえな」
「そうでしょうか」
「普通、何日も顔合わせてたら気になるだろ」
「稽古を見る方が重要でしたので」
「やっぱ変だわ、あんた」
若者が呆れたように笑う。
「新太」
「?」
「俺の名前。新太」
「新太殿」
「殿はいらねえよ」
「では、新太さん」
「それも何かむず痒いな」
「…………では、新太」
「急に雑になったな」
「難しいですね」
「好きに呼べよ」
これでようやく、若者の名前を知った。
◇
翌日も、稽古はほとんど変わらなかった。
「構えろ」
「はい」
「右足」
言われた通りに動かす。
「行き過ぎ」
戻す。
「戻し過ぎ」
「…………」
「腰が浮いてる」
「はい」
細かい。
ものすごく細かい。
言われた通りに直しても、しばらくするとまた崩れる。そのたびに宗玄の棒が飛んできた。
その横では、新太が棒を振っている。
――ヒュッ。
「…………」
見たい。
ほんの少しだけ視線を向けようとすると。
「前」
「……はい」
やはり駄目だった。
そんな稽古が数日続いた。
立ち方を直され、構えを直され、また立ち方を直される。
そして、ある日。
「歩け」
「…………!」
思わず宗玄を見る。
「何だ」
「いえ」
ようやく動いていいらしい。
「はい」
一歩踏み出す。
「違う」
「…………」
一歩で終わった。
「何がでしょう」
「全部」
「…………」
この人。
俺に対して「全部」という言葉を使いすぎではないだろうか。
「足を上げるな。腰を揺らすな。上体を残すな。下を見るな」
「はい」
一歩。
「違う」
戻って、もう一度。
「違う」
また一歩。
「違う」
「…………」
歩くって。
こんなに難しかったのか。
普段なら何も考えずにできる。
だが、構えたまま、いつでも刀を振れる状態を保って動くとなると、まるで違った。
横を見ると、新太が一歩踏み込み、棒を振っている。
――ヒュッ。
身体が揺れない。
「新太」
「ん?」
「今のをもう一度お願いできますか」
「これ?」
一歩。
――ヒュッ。
「はい。もう一度」
――ヒュッ。
「もう一度」
「おう」
――ヒュッ。
足。
腰。
肩。
腕。
棒。
全部が繋がっている。
「もう一度――」
「清子」
「はい」
「前」
「…………はい」
また怒られた。
だが、少し分かった気がする。
一歩。
「違う」
気のせいだった。
◇
それからは、立つだけではなく、歩く、止まる、下がるといった動きが加わった。
毎日同じことの繰り返しだったが、少しずつ宗玄に直される回数は減っていった。
その間も、新太は横で俺よりずっと先の稽古をしている。
最初はただ羨ましかった。
だが、見ているうちに気になるところが変わってきた。
足。
腰。
距離。
新太が踏み込む。
宗玄が半歩ずれる。
新太の棒が空を切り、宗玄の棒が肩に触れた。
「痛っ!」
「遠い」
「入ったと思ったんだけどな……」
「思っただけだ」
「…………」
何で?
新太はちゃんと踏み込んでいる。
宗玄も大きく下がってはいない。
なのに、新太は届かず、宗玄は届く。
面白い。
何をやっているんだ?
「清子」
「はい」
「前」
「……はい」
最近。
こればかり言われている気がする。
◇
さらに日が過ぎた。
「止まれ」
ぴたりと止まる。
宗玄は何も言わない。
「もう一度」
「はい」
一歩、二歩。
「止まれ」
止まる。
また何も言われない。
「師匠」
「何だ」
「今のは?」
「まし」
「…………!」
まし。
最初の素振り以来、初めて言われた。
「ふふ」
「何笑ってんだ?」
新太が聞く。
「褒められました」
「褒めてねえだろ」
「初めて『違う』以外の言葉をいただきました」
「基準低すぎない?」
「昨日より進歩しております」
「まあ……そうだけど」
たった一歩。
でも、昨日できなかったことが今日は少しできた。
楽しくない稽古だったはずなのに、いつの間にかそれが嬉しくなっていた。
◇
その翌日。
「振れ」
「…………」
俺は宗玄を見る。
「何だ」
「振ってよろしいのでしょうか」
「そう言った」
「はい」
来た。
ようやく。
初日に振って以来、ずっとこれを待っていた。
木の棒を握り、構える。
足。
腰。
背。
肩。
握り。
まだ全然できていないけれど、何も知らなかったあの日とは違う。
「振れ」
「はい」
一歩。
振る。
――ぶんっ。
「違う」
「…………」
まあ。
そう簡単ではない。
もう一度。
――ぶんっ。
「手で振るな」
「はい」
「肩」
「はい」
「足が遅い」
「はい」
何度も振る。
以前、一人で刀を振っていたころは、ただ上から下へ振っていただけだった。
今は違う。
足、腰、身体、腕。
全部を使い、それを一つの動きにする。
「新太」
「ん?」
「一度、振っていただけますか」
「いいぞ」
新太が構える。
一歩。
――ヒュッ。
「もう一度」
――ヒュッ。
「もう一度」
「何回やるんだよ」
「分かるまででしょうか」
「俺が疲れるわ」
「申し訳ありません」
「まあいいけど」
もう一度。
――ヒュッ。
見る。
足。
腰。
肩。
腕。
違う。
順番じゃない。
全部が一つ。
真似する。
一歩。
――ぶん。
「違う」
もう一度。
「違う」
さらにもう一度。
――ヒュッ。
「…………」
今。
少し。
「もう一度」
宗玄が言った。
「はい」
振る。
――ぶん。
「違う」
「…………」
戻った。
でも。
さっき、一度だけ違った。
「…………ふふ」
「また笑ってる」
新太が言う。
「はい」
「ほとんど駄目って言われてんのに?」
「一度だけ上手くできました」
「一回だけだろ」
「それでも、できたことに変わりはありません」
「お前、剣のことになると妙に前向きだな」
「好きですので」
新太が宗玄を見る。
「親父。こいつやっぱ変だぞ」
「知ってる」
「…………」
失礼な師弟である。
◇
それから、俺の稽古にも本格的に素振りが加わった。
立ち、歩き、振り、止まり、また構える。
新太と並んで振ることも増えた。
「振れ」
――ヒュッ。
――ぶんっ。
新太の方が速く、安定している。
十回振れば十回、ほとんど同じ軌道を通る。
俺はまだ、いいときと悪いときがある。
それでも、振るたびに飛んできた宗玄の「違う」は、少しずつ減っていった。
ある日。
構える。
振る。
――ヒュッ。
「…………」
宗玄は何も言わない。
もう一度。
――ぶん。
「違う」
やはり、まだ安定しない。
それでも、できるときはできるようになった。
「ふふ」
「また笑ってる」
新太が言う。
「はい」
「今の、次は駄目だったじゃん」
「ですが、一度目は何も言われませんでした」
「それだけで嬉しいの?」
「はい。上手くできたということでしょう?」
「まあ……そうだけど」
「でしたら、嬉しいです」
「ほんと剣のことになると前向きだな」
もう一度、構える。
さっきの感覚を思い出しながら振る。
――ヒュッ。
「…………」
宗玄は何も言わなかった。
「ふふ」
「またかよ」
少しずつだが、正しい振り方が身体に馴染み始めていた。
◇
そして、ある日の稽古終わり。
「清子」
「はい」
「明日は刀を持ってこい」
「…………」
一瞬、反応できなかった。
「聞こえなかったか」
「いえ」
聞こえた。
だから。
嬉しい。
「はい」
「嬉しそうだな」
新太が言った。
「そう見えますか?」
「めちゃくちゃ」
「…………」
外面も、まだまだ修行が必要らしい。
◇
翌朝。
久しぶりに刀を腰へ差した。
ずしりとした重さがある。
「…………」
これだ。
歩くたびに腰に重さを感じる。それが不思議と安心する。
宗玄のところへ着くと、新太はもう来ていた。
「お。やっとか」
「はい」
「抜いてみろよ」
「師匠が来てからにいたします」
「真面目だな」
「当然です」
本当は今すぐ抜きたい。
ものすごく。
しばらくして宗玄が来た。
俺の腰を見る。
「抜け」
「はい」
刀を抜く。
錆も刃こぼれも相変わらずだ。
それでも、久しぶりに握ると懐かしい。
「振れ」
「はい」
構える。
最初に拾った日を思い出す。
重かった。
刀に振り回され、止まることもできなかった。
一人で何度も振って、少し上手くなったと思った。
そして、人を相手に何もできなかった。
宗玄に会い、立ち方からやり直した。
歩いた。
止まった。
木の棒を何度も振った。
そして今。
もう一度、本物を握っている。
足。
腰。
背。
肩。
握り。
振る。
――ヒュンッ。
「…………!」
自分で驚いた。
軽い。
いや。
刀は以前と同じ重さだ。
俺の身体が、刀の邪魔をしていない。
刃がまっすぐ走った。
「もう一度」
「はい」
――ヒュンッ。
もう一度。
――ヒュンッ。
思わず口元が緩む。
「すげえな」
新太が言った。
「最初に見たときと全然違うじゃん」
「ありがとうございます」
嬉しい。
ずっと横で見ていた新太に言われると、本当に変わったのだと思える。
「師匠」
「何だ」
「いかがでしょう」
「駄目だ」
「…………」
相変わらず。
「ただ」
宗玄が続ける。
「ようやく刀を振る準備ができた」
「…………」
これで。
準備。
「ここからだ」
「はい」
不思議と、がっかりはしなかった。
むしろ胸が高鳴った。
ここまでやって、まだ入口。
なら。
この先にはどれだけある?
宗玄が新太を見る。
「新太」
「ん?」
「明日から清子の相手をしろ」
「俺が?」
「ああ」
俺も宗玄を見る。
「打ち合うのでしょうか」
「まだだ」
「新太が打つ。清子が避ける。次は受ける。その次は清子が打つ」
「はい」
「勝手なことはするな」
「承知いたしました」
いきなり試合ではない。
少し安心した。
「清子」
「はい」
「素振りと同じだと思うな」
「…………はい」
その言葉で、あの日が蘇った。
男が動く。
避ける。
掴む。
殴る。
蹴る。
刀を振っても、そこにはもういない。
身体がほんの少し固くなる。
宗玄はそれ以上、何も言わなかった。
「まあ」
新太がいつものように笑う。
「俺が相手なら大丈夫だろ。親父の言う通りにやるだけだ。いきなり斬りかかったりしねえよ」
「……ありがとうございます」
「ただ」
「はい」
「避けるの下手だったら普通に痛いぞ。木の棒でもな」
「…………先ほどの安心を返してください」
新太が笑った。
俺も少し笑った。
怖さはまだある。
でも、今度は違う。
逃げるためではない。
生き残るためでもない。
学ぶために、人の前に立つ。
「よろしくお願いいたします、新太」
「おう」
俺は新太を見る。
立ち方。足。構え。握り。
「…………」
「何だよ」
「明日のためです」
「怖えよ」
「?」
学ぶのだから、見るのは当然だと思う。
明日は初めて、人を相手に剣を学ぶ。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも。
それ以上に楽しみだった。
◇
二人が帰ったあと。
宗玄は一人、その場に残っていた。
地面には、清子が何百度と足を運んだ跡が残っている。
最初は酷いものだった。
立てない。歩けない。握れない。振れない。
剣を習ったことがないのだから当然だ。
初めて棒を振ったときも、技はなく、力もなく、足すら使えていなかった。
だから、
『全部駄目だ』
そう言った。
嘘ではない。
本当に全部駄目だった。
――技だけは。
「…………」
初めて刀を握る者は、刀を怖がる。
重さを怖がる。
刃を怖がる。
振ることを怖がる。
清子には、それがなかった。
それだけなら、ただの無鉄砲だ。
だが。
一度振り、宗玄が「違う」と言えば、二度目には僅かに変わった。
三度目には、また変わった。
何が違うのか教えてすらいないのに、自分で探していた。
そして何より。
振るたびに楽しそうだった。
「剣が好き、か」
宗玄が小さく呟く。
清子は、自分がどれほど奇妙なことをしているのか、まだ分かっていない。
「さて」
宗玄は立ち上がった。
「どこまで行く」
明日。
初めて清子に人を相手にさせる。
そこで、もう少し分かる。
あれがただ剣を振るのが好きなだけの女なのか。
それとも――。
宗玄は続きを口にしなかった。