「では、始める」
宗玄の声に、俺は木の棒を握り直した。
目の前には新太がいる。昨日までは隣に立ち、同じ方向を向いて棒を振っていた相手だが、今日は向かい合っている。
それだけなのに、新太の持っている棒が昨日までとはまったく別のものに見えた。
「そんな緊張すんなよ」
「しているように見えますか?」
「見える」
「…………」
なら、しているのだろう。
自分でも、手に少し力が入っているのが分かる。
「握り過ぎだ」
「はい」
力を抜く。
「肩」
「はい」
少し落とす。
いつも通り立って、構える。それだけなのに、目の前に人がいるだけで身体が言うことを聞かない。
「新太」
「はい」
「右から打て」
「はい」
「清子は避けろ」
「承知いたしました」
「余計なことはするな」
「はい」
「始めろ」
新太が構える。
「行くぞ」
「はい」
一歩。
棒が来る。
「…………!」
右から来ると分かっているのに、速い。
慌てて身体を引くと、棒が目の前を通り過ぎた。
「下がり過ぎだ」
「……はい」
見ると、三歩も下がっている。
「一歩」
「はい」
もう一度。
今度は一歩で避ける。
「遅い」
「はい」
さらに繰り返す。
「腰」
「はい」
直して、また構える。
次の一撃が来た。
棒が顔の近くを通った瞬間、身体が勝手に固まる。
怖い。
新太が俺を傷つけるつもりではないことも、どこから来るのかも分かっている。
それでも身体が反応する。
あの日とは違うと頭では分かっているのに、身体は覚えているらしい。
「止めるか?」
「いいえ」
即答した。
「続けてください」
宗玄は少し俺を見る。
「新太」
「はい」
「続けろ」
「おう」
◇
何度か繰り返すうちに、少しずつ見えるものが変わってきた。
新太の右肩が動き、足が出る。
そのあとに棒が来る。
「…………」
棒が突然飛んでくるわけではない。
その前に、新太自身が動いている。
「もう一度お願いします」
「お、おう」
今度は棒だけではなく、新太を見る。
「行くぞ」
「はい」
新太が動く。
一歩外れる。
――ヒュッ。
避けられた。
新太の速さも、俺の速さも変わっていない。
ただ、来る瞬間が少し分かる。
それだけで、まるで違った。
「…………ふふ」
「何で笑ってんだよ」
「楽しくなってきました」
「俺はちょっと嫌なんだけど」
「なぜでしょう」
「さっきから避け方が気持ち悪い」
「下手ということでしょうか」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
「新太」
宗玄の声が飛ぶ。
「何?」
――ごん。
「痛っ!」
「返事」
「……はい」
「声」
「はい!」
「…………」
なるほど。
俺も何度も前を見ろと注意されているが、まだ叩かれてはいない。
余計なことを言わなければいいらしい。
大変勉強になる。
「清子」
「はい」
「前」
「……はい」
危ない。
それでも、まだ叩かれてはいない。
今のところは俺の方が少しだけ賢い。
「今、何か失礼なこと考えてない?」
「いいえ」
「絶対考えてただろ」
「新太」
「はい!」
非常にいい返事だった。
◇
「次。受けろ」
「はい」
今度は新太の棒を、自分の棒で受ける。
――カンッ!
「っ!」
手が痺れ、棒を大きく横へ流された。
「力むな」
「はい」
もう一度。
――カンッ!
また流される。
「違う」
さらに続ける。
「違う」
「…………」
最近少し減っていたのに、また「違う」が増えた。
「何笑ってんだ?」
「振り出しに戻った気分です」
「楽しそうだな」
「楽しいですよ」
「…………」
「新太」
「はい!」
立派な返事だと思った。
◇
次は俺が打ち、新太が避ける。
当然のように何度振っても避けられた。
それでも、少し悔しい。
さっき自分が避けたときのことを思い出しながら、新太を見る。
棒だけではなく、肩や足、腰。
どこか一つではなく、新太全体を見る。
何度か繰り返すうちに、避ける直前、身体がほんの少し動くことに気づいた。
次に新太が動いた瞬間、その方向が分かった。
なら、少しだけ軌道を――。
「清子」
止まる。
「勝手なことをするな」
「……はい」
危ない。
決められた場所からずらそうとしていた。
「今日は覚えろ」
「はい」
当てようとしていた。
無意識に。
避けられるのが悔しかったから。
◇
稽古が終わるころには、腕も足も重くなっていた。
それでも、一人で棒を振っていたときとはまるで違う。
相手が動き、避け、打ってくる。同じように見える動きでも、一回ごとに少し違う。
「…………ふふ」
「まだ笑ってんの?」
「はい」
「何がそんな楽しいんだよ」
「面白かったので」
「俺は疲れた」
「明日もよろしくお願いいたします」
「もう決定なの?」
俺は宗玄を見る。
「師匠」
「明日もやる」
新太がため息をついた。
帰り際、新太が俺を見る。
「でも清子。途中から変だったぞ」
「何がでしょう」
「最初、全然避けられなかったのに、途中から俺が振る前に動いてなかった?」
「新太が動くのを見ていただけですよ」
「だから、それが――」
「新太」
宗玄が遮った。
「帰れ」
「はいはい」
「返事」
「はい!」
完全に学習している。
◇
翌日。
宗玄は俺と新太へ一本ずつ棒を放った。
「新太。清子とやれ」
「昨日と同じ?」
「違う」
宗玄が俺を見る。
「避けろ。受けろ。打て」
「はい」
「好きにやれ」
「…………好きに?」
「ああ」
昨日は勝手なことをするなと言われたばかりなのだが。
ただ、一つだけ確認したい。
「新太に当ててもよろしいのでしょうか」
「当てろ」
「…………!」
思わず顔が綻んだ。
「何で嬉しそうなんだよ」
「そう見えますか?」
「見える」
困った。
外面にはそれなりに自信があったのだが。
「よろしくお願いいたします、新太」
「お、おう」
どこを打ってもいい。
どう避けても、受けてもいい。
そして、当ててもいい。
「…………ふふ」
「だから何で笑うんだよ」
「楽しみですので」
「俺はちょっと嫌になってきた」
「?」
失礼な新太だ。
「構えろ」
俺たちは同時に構える。
「始め」
新太が先に動いた。
右。
そう思って左へ動く。
――カンッ!
「痛っ」
棒が肩に当たる。
「何で?」
「昨日と同じじゃねえから」
「…………」
なるほど。
昨日は右から来ると決まっていた。
今日は違う。
「もう一度」
「待て」
宗玄だった。
「もう始まってる」
「…………」
あ。
そうか。
交互に打つわけではない。
「一本取ったな」
新太が笑う。
少し腹が立つ。
今度は俺から踏み込んだ。
振る。
避けられる。
すぐに返ってきた棒を受ける。
――カンッ!
流され、そのまま額を打たれた。
「二本目」
「…………」
非常に腹が立つ。
肩も額も痛いし、手も痺れている。
だが、それより新太の動きが気になった。
どこから来る。
どう避ける。
その次、どこへ動く。
「続けろ」
「はい」
「おう」
◇
そこから何度も打ち合い、何度も負けた。
打たれ、避け、受け、失敗するたびに何が悪かったのかを考える。
新太も同じ動きを続けてはくれない。
俺が一つ覚えれば、次には変えてくる。
なら、俺も変える。
「…………ふふ」
「笑うなよ!」
「申し訳ありません」
「絶対悪いと思ってないだろ!」
「新太」
「はい!」
宗玄の一言で新太が黙る。
便利だな。
俺が言っても効かなそうだけど。
しばらくして、新太が棒を下ろした。
「ちょっと待て。休ませろ」
「まだできますが」
「俺がだよ!」
腕も肩も脇腹も痛い。
それでも、楽しかった。
「痛くないの?」
「痛いですよ」
「じゃあ何で笑うんだよ」
「楽しいので」
「分かんねえ……」
俺にも上手く説明できない。
まだ一本も当てられていないのに、次を考えているだけで早く続きをやりたくなる。
◇
「続けるぞ」
「はい」
「もう?」
「新太」
「はい!」
再び向かい合う。
新太が来る。
右――いや、右に見せて左。
一歩外す。
次は上から。
受ける。
――カンッ!
まだ流される。
だが、さっきより小さい。
少し横へ逃がすと、新太の棒が逸れて身体が開いた。
振る。
「うおっ」
新太が大きく下がる。
外れた。
あと少し。
「ちょっと待て。お前、今の受け方いつ覚えた?」
「昨日、師匠に教えていただきました」
「さっきまでできてなかっただろ」
「何度も失敗しましたので」
「…………」
「少し分かってきました」
新太が何とも言えない顔をする。
「親父。こいつ嫌なんだけど」
「新太」
「はい!」
何がそんなに嫌なのだろう。
再開する。
俺が見ていることに気づいたのか、新太は同じようには避けなくなった。
なら、それも見る。
変わるなら、変わった方を見る。
少しずつ避け、受け、流せるようになってきた。
それでも、新太には届かない。
悔しい。
「もう一度」
「いいぞ」
新太全体を見る。
動く。
受ける。
流す。
振る。
避けられる。
そのとき、何度も見た動きに気づいた。
新太は大きく避けたあと、ほんの一瞬だけ足が止まる。
なら、そこへ先に入る。
一歩踏み込む。
「っ!」
振る。
――こつ。
俺の棒の先が、新太の肩に触れた。
「…………当たりました」
「……当たったな」
何十回も打たれ、避けられて、ようやく届いた。
「ふふ」
自然と笑みが浮かぶ。
「今度は当たらねえぞ」
「はい」
「もう分かったからな」
「…………」
ばれてしまった。
「では、別の方法を考えます」
「…………」
新太の顔が引きつった。
そして本当に、次は通じなかった。
新太は大きく避けるのをやめ、小さく外してすぐに打ち返してくる。
さっきまで通じたものが、もう通じない。
でも、それでいい。
新太が変わったなら、俺も変えればいい。
「…………ふふ」
「また笑ってるし……」
新太はそう呟いたが、もうこちらから目を逸らさなかった。
◇
結局、その日は二度だけ新太に当てることができた。
こちらはその何倍も打たれ、勝負になったとは到底言えない。
稽古が終わり、新太が帰ったあと。
「清子」
「はい」
「明日は刀を持ってこい」
「刀を?」
「ああ」
「新太と?」
「違う」
少し安心した。
いや。
残念ではない。
決して。
「棒で人。刀で型だ」
「はい」
「まだ刃を向けるな」
「承知いたしました」
宗玄は少し間を置いた。
「今日の二本」
「はい」
「忘れろ」
「…………」
「忘れるのでしょうか」
「ああ」
「せっかく当てたのですが」
「だからだ」
「…………?」
「次も同じように当たるか?」
「……いえ」
新太は、一度当てたあとは避け方を変えた。
同じ方法は、もう通じなかった。
「答えを覚えるな」
「…………」
「探せ」
「……はい」
◇
清子が去ったあと、宗玄は一人その場に残っていた。
「…………」
最初は何もできなかった。
当然だ。
それでも、打たれるたびに変わった。避けられるたびに考え、失敗した答えを捨てて次を探した。
二度、新太へ届いた。
宗玄が見ていたのは、その二度ではない。
一度通じた方法を新太が潰したあと、清子はそこへ執着しなかった。
相手が変われば、自分も変える。
「……なるほどな」
そして、もう一つ。
最初の清子は、棒が近づくだけで身体を固くしていた。
恐怖が消えたわけではない。
痛みもある。
それでも打ち合いが続くうちに、清子はそれらより相手を見ることを優先し始めた。
そして初めて新太に届いた瞬間。
笑った。
何十回も打たれ、ようやく一本触れただけなのに、心底嬉しそうだった。
「……人を相手にする方が好きか」
刀を振るのが好きなのだと言っていた。
それだけではないらしい。
相手がいる。
読めない。
思い通りにならない。
だから考える。
変える。
届けば、相手もまた変わる。
その繰り返しを、清子は一人で棒を振っているときより明らかに楽しんでいた。
「…………」
今はまだ、新太の方が強い。
積み重ねた年月も、経験も、技も違う。
だが。
あの女が新太を追い越したあと、何を見るのか。
まだ分からない。
ただ、一つだけ分かる。
あれは、剣を振れるだけでは満足しない。
宗玄は小さく息を吐いた。
「……面倒な弟子を拾ったな」
その声は、少しだけ楽しそうだった。