「急いでください!」
私は妹を急かしながら、野原を走っていました。
後ろを振り返る余裕はありませんでした。遠くから、低く唸るような音が聞こえていました。空気そのものが震えているような、地面の底から響いてくるような音です。
あの音を、私は知っていました。
敵の飛行機です。
空を見上げれば、雲の切れ間から黒い影がいくつも見えます。こちらへ近づいてくるたびに、その影は少しずつ大きくなっていきました。
「お姉ちゃん、待ってください!」
「待てません! 早くしてください!」
妹の声は、泣きそうになっていました。
私は妹の手を強く握りました。手のひらには汗が滲んでいましたが、それを拭っている暇などありません。妹の小さな手を離してしまえば、もう二度と会えないような気がしていました。
時は西暦19XX年です。
この頃、世界は戦争によって真っ二つに割れていました。
私たちが暮らしていた国は、世界一の工業大国と敵対していました。そして、戦争に勝利して植民地を手に入れるため、長い年月をかけて軍備を増強してきました。
しかし、戦争が始まってからというもの、私たちの味方だった国々は次々と降伏していきました。
最初は新聞に小さく載っていただけでした。
「○○国、降伏」
「○○方面軍、撤退」
「敵連合軍、さらに東進」
そんな記事を、父は毎朝のように読んでいました。
私には、それがどれほど恐ろしいことなのか分かりませんでした。
新聞に書かれている国は、どこも私たちの村から遠く離れていました。地図の上では大きな国であっても、私にとっては名前すら聞いたことのない場所です。
ですから、最初のうちは「遠い国で戦争をしている」としか思っていませんでした。
それが間違いだったと気づいた頃には、もう遅かったのです。
味方の国が一つ、また一つと降伏していき、ついには慷慨連合が最も多く残っている大陸へ攻撃するための道が、私たちの国の目の前まで伸びてきました。
そして、私たちの国は敵にとって非常に都合のよい場所にありました。
大陸の海に一番近いところにある、小さな島国だったからです。
この島を占領し、飛行艇や軍事拠点に改造することができれば、朱然連合へ攻め込むことは格段に簡単になります。
だからこそ、敵は私たちの国を最初の攻撃対象に選びました。
言い換えれば、世界の半分が小さな島国に押し寄せてきたのです。
毎日のように空には戦闘機が飛び、海沿いでは砲撃が行われました。
夜になっても安心できません。
空襲警報が鳴り響けば、家族全員で地下壕へ逃げ込みます。
昼間に聞こえる飛行機の音だけでなく、夜中に遠くで鳴る爆発音まで、私たちにとっては日常になっていました。
窓ガラスが割れることも珍しくありませんでした。
屋根が吹き飛ばされる家もありました。
朝起きたら隣の家がなくなっていた、ということさえありました。
それでも、私たちは生きていました。
我が国の一族には、慫慂という特別な力があると言われていたからです。
その力のおかげで、私たちの国はかろうじて敵連合の攻撃を耐え抜いていました。
学校では、私たちは神に選ばれ、慫慂という特別な能力を授けられた神民なのだと教えられていました。
教師は黒板の前に立ち、何度も同じことを繰り返しました。
「我々には神から与えられた使命があります」
「慫慂は我々神民だけが扱える力です」
「この力によって、我が国は必ず勝利します」
子供だった私は、その言葉を疑いませんでした。
しかし、慫慂が具体的にどのような能力なのかと尋ねても、先生はいつも困ったような顔をするだけでした。
慫慂は讎懜という概念を起源とした能力であり、我が国の偉い讖緯者様方が長い年月をかけて完成させた技術なのだ、と説明されました。
けれど、讎懜とは何なのか。
どうして慫慂という力が生まれるのか。
なぜ一部の人間だけがその力を使えるのか。
私には何も教えてもらえませんでした。
質問を重ねれば重ねるほど、先生の顔は険しくなっていきました。
「子供が知る必要はありません」
最後には、いつもそう言われました。
讖緯者様という方々もいました。
讖緯者様とは、この国の行政機関から独立して存在している特別な人々です。
人々の讎懜から生まれる化け物たちを、讎懜の力を利用して倒すことを生業としているのだと教えられていました。
ただし、讖緯者様になるためには特別な資格が必要でした。
その人数も限られていました。
そのため、私たちのような田舎の村には当然のように一人もいませんでした。
近所を斥候しに来られたときには、村人総出でお迎えしなければならないほどでした。
私は生きているうちに、一度だけ讖緯者様の御凱旋を見たことがあります。
いつもは偉そうにしている父や学校の先生たちが、讖緯者様の前では何度も頭を下げていました。
子供心にも、それが少し面白かったのを覚えています。
讖緯者様は、不思議な衣装を身にまとっていました。
服の至るところには見たことのない模様があり、紙垂がいくつも取り付けられていました。
顔にも何かを書いていました。
それは化粧のようにも見えましたが、私には何を意味しているのか分かりませんでした。
その方は、村の家々を軽く見て回ったあと、一晩だけ村に泊まりました。
翌朝には、何事もなかったかのように去っていきました。
私は、その背中をいつまでも見送っていました。
あの方がいれば、何が起きても大丈夫なのだと思っていました。
しかし、現実はそうではありませんでした。
そんな寂れた村にも、我が国への攻略作戦が進んでくると、敵の攻撃が始まりました。
山に囲まれた私たちの村は、立地的には天然の要塞になり得る場所だったそうです。
海からもそれほど遠くありませんでした。
だからこそ、敵にとっては無視できない場所だったのでしょう。
最初は、遠くの空を飛行機が通過するだけでした。
それが一週間もすると、村の上空まで飛んでくるようになりました。
さらに数日経つと、爆弾が落ちてくるようになりました。
私たちの村に讖緯者様を派遣してほしいと、村長は何度も国へ手紙を送ったそうです。
しかし、全国各地で同じような攻撃が起きていました。
今の御国には、私たちのような田舎の村にまで讖緯者様を回す余裕などありませんでした。
結局、私たちはただひたすらに毎日の攻撃を耐えるしかありませんでした。
サイレンが鳴ると、みんなで家の近くに掘った簡素な地下壕へ潜り込みます。
そして、頭を抱えて震えながら、攻撃が終わるのを待ちました。
地下壕の中は狭く、暗く、土の匂いがしました。
大人たちは何も言いません。
子供が泣けば、「静かにしなさい」と小声で叱ります。
泣き声が敵に聞こえるとでも思っていたのでしょうか。
それとも、大人たち自身が恐怖を我慢するために、子供の泣き声すら聞きたくなかったのでしょうか。
私は妹の肩を抱きながら、ひたすら耳を塞いでいました。
ドン。
遠くで爆発が起こります。
少し遅れて、地下壕の壁が震えます。
また一つ。
また一つ。
爆発音が増えていきます。
そのたびに妹が私の服を強く握りました。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫です」
私はいつもそう答えました。
「大丈夫です。もうすぐ終わります」
本当は、私だって怖かったのです。
それでも妹の前では泣けませんでした。
祖母は、きっと明日には讖緯者様がやってきて、みんなを救ってくれると、毎日のように祈っていました。
「神は私たちを見捨ててはいません」
祖母はそう言っていました。
「讖緯者様が来れば、きっと大丈夫です」
私はその言葉を信じていました。
少なくとも、信じようとしていました。
けれど、その祖母も、先日亡くなりました。
空襲警報が鳴ったとき、祖母は地下壕へ駆け込もうとして転んでしまったのです。
私は祖母を助けようとしました。
しかし、父に腕を掴まれました。
「行くな!」
次の瞬間、空が白くなりました。
轟音がしました。
何が起きたのか分かりませんでした。
気づいたときには、祖母はもう動いていませんでした。
頭部を敵の攻撃によって吹き飛ばされていたのです。
その光景を見て、妹は泣き叫びました。
私は何も言えませんでした。
ただ、祖母が最後まで言っていた言葉だけが頭の中に残っていました。
――讖緯者様が来てくれます。
しかし、来ませんでした。
敵は飛行機から鉄の塊をものすごい速さで落としてきました。
それは地面に突き刺さり、家を壊し、人を殺しました。
爆弾もたくさん落ちてきました。
最初の頃は、爆発音を聞くだけで震えていました。
しかし、何度も繰り返されるうちに、人間というものは恐ろしいほど簡単に慣れてしまうのだと知りました。
爆発音を聞いても、すぐには驚かなくなりました。
家が揺れても、「またか」と思うだけになりました。
隣の家が燃えていても、自分の家が無事なら安心するようになりました。
そして、そんな自分が怖くなりました。
戦争は、人を殺すだけではありません。
人が人らしく生きるために必要なものまで、少しずつ壊していくのです。
そんな日常が続いていた、ある日のことでした。
村の中で一番高い家に住んでいたおじいさんが、村人を集めました。
おじいさんは、青ざめた顔で言いました。
「敵が上陸してきたそうです」
誰も言葉を返しませんでした。
「海岸から順番に、村々を侵略しているらしいです」
その瞬間、村の空気が変わりました。
これまでは、敵は空の向こうにいる存在でした。
飛行機に乗って空から爆弾を落としてくる、顔も名前も知らない人々でした。
しかし、それが違うのだと初めて分かりました。
敵は、もうすぐそこまで来ています。
海岸からこちらへ向かって歩いてきているのです。
誰かが、小さな声で尋ねました。
「軍隊は来ないのですか?」
おじいさんは答えませんでした。
答えられなかったのだと思います。
しばらくして、村長が重い口を開きました。
「……我が国の軍隊は、別の地域で戦っているそうです」
「では、讖緯者様は?」
今度は誰も何も言いませんでした。
その沈黙だけで、十分でした。
讖緯者様は来ません。
私たちを助ける人は来ないのです。
その日の夕方、村のあちこちから煙が上がっていました。
遠くの山の向こうでは、砲撃の音が聞こえます。
鳥たちはすでにどこかへ逃げていました。
犬も、猫も、家畜も、人間より先に異変を察していたのかもしれません。
私は家の中へ戻ると、妹の手を握りました。
「逃げます」
「どこへ行くのですか?」
「分かりません」
私は正直に答えました。
「でも、ここにいたら危ないです」
父も母もいませんでした。
いつの間にか、家族は私と妹だけになっていました。
何を持っていけばいいのか分かりませんでした。
食料でしょうか。
水でしょうか。
毛布でしょうか。
それとも、祖母の写真でしょうか。
結局、私は何も選べませんでした。
ただ妹の手を握り、家を飛び出しました。
そして今、私たちは野原を走っています。
後ろから、戦闘機の音が聞こえます。
妹が転びそうになりました。
「立ってください!」
「もう走れません……」
「走ってください!」
私は妹の腕を引きました。
本当は私も、もう走れませんでした。
足は痛く、肺は焼けるようでした。
何度も転びそうになりました。
それでも止まれませんでした。
遠くには、山があります。
あの山の向こうへ行けば、少しは安全かもしれません。
そう思っていました。
根拠などありません。
ただ、そう思いたかっただけでした。
空を見上げました。
黒い飛行機が、こちらへ向かってきています。
私は妹の手を握り直しました。
「大丈夫です」
自分自身に言い聞かせるように、私は言いました。
「大丈夫です。きっと、まだ大丈夫です」
その言葉を口にした瞬間、遠くで爆発が起こりました。
地面が大きく揺れました。
妹が悲鳴を上げました。
私は妹を抱き寄せ、地面へ伏せました。
土と草の匂いがしました。
耳鳴りがしました。
何も聞こえなくなりました。
それでも私は、妹を離しませんでした。
やがて耳鳴りが少しずつ収まっていきました。
私は顔を上げました。
野原の向こうには、黒い煙が立ち上っていました。
そこに何があったのか、私は知りませんでした。
家だったのかもしれません。
人だったのかもしれません。
あるいは、これから私たちが逃げようとしている道そのものだったのかもしれません。
それでも、私は立ち上がりました。
妹も立ち上がらせました。
「行きましょう」
「どこへですか?」
妹がもう一度尋ねました。
私は答えられませんでした。
ただ、前を向きました。
讖緯者様が来るのを待つことも、神が助けてくれるのを待つことも、もうできません。
私たち自身が、生きるために動かなければならないのです。
私は妹の手を握りました。
そして、燃え続ける故郷を背にして、山の向こうへ走り出しました。