翌朝になっても、私はほとんど眠ることができませんでした。
体育倉庫の中は狭く、周りには同じような子供たちが大勢いました。誰かが寝返りを打つたびに身体がぶつかり、少し離れたところでは夜通し泣いている子もいました。
外からは、負傷者の呻き声が聞こえ続けていました。
時々、誰かが大声で助けを求めます。
そのたびに私は目を覚ましました。
結局、まともに眠れた時間がどれほどあったのかは分かりません。
朝になったことを知らせる鐘の音もありませんでした。
ただ、体育館の隙間から差し込んでくる光が少し明るくなったことで、夜が終わったのだと知りました。
私は重たい身体を起こしました。
頭がぼんやりしています。
身体中が痛みました。
特に足がひどい状態でした。
山を越えている間は、痛いと思う余裕すらありませんでした。
しかし、逃げる必要がなくなったことで、今まで無視していた痛みが一気に戻ってきたように感じました。
妹も同じでした。
足を動かそうとするたびに顔をしかめています。
「お姉ちゃん……」
「どうしましたか?」
「足が痛いです」
「私もです」
私はそう答えました。
けれど、痛いからといって寝ているわけにはいきません。
このまま放っておけば、もっとひどくなるかもしれません。
私は、足を治してくれる人を探すことにしました。
体育館の中には、大人がたくさんいました。
しかし、誰もが忙しそうに動き回っていました。
負傷した人の中には、明らかに私たちよりもひどい怪我をしている人がたくさんいました。
腕を失っている人。
顔を大きく負傷している人。
身体をほとんど動かせず、何人もの人に支えられている人。
そうした人たちを前にして、私たちの足の怪我など、たいしたものではないように思えてきました。
「すみません」
私は何人かの大人に声をかけました。
「足を怪我したのですが、見てもらえませんか?」
しかし、返ってくる答えはほとんど同じでした。
「後にしてくれ」
「今は忙しいんだ」
「看護の人に頼んでくれ」
「怪我をしているのは君たちだけじゃないんだ」
怒鳴られることもありました。
私は、そのたびに頭を下げました。
「すみません」
何度も謝りました。
妹は私の後ろで黙っていました。
私は諦めませんでした。
足が悪化してしまえば、逃げることができなくなるかもしれません。
また敵が来たとき、歩けなければ妹を連れて逃げることもできません。
だから、どうしても治してもらわなければいけませんでした。
何人目だったでしょうか。
何度も断られながら、それでも人を頼って歩き回っている私たちを見かねたのか、一人の看護学生の方が声をかけてくれました。
「足を見せてください」
私は顔を上げました。
「本当にいいのですか?」
「ええ。酷そうですから」
その方は、疲れ切った顔をしていました。
目の下には濃い隈ができています。
髪も乱れていました。
昨日からほとんど休んでいないのでしょう。
それでも、その人は私たちを追い払うことなく、しゃがみ込んでくれました。
「靴を脱げますか?」
「はい」
私は頷きました。
そして、丸一日ぶりに粗末な靴を脱ごうとしました。
ところが、靴はなかなか脱げませんでした。
山を越える途中で泥と水を大量に吸い込んでいたうえ、傷口から出た血や体液まで染み込んでいたからです。
私は靴を引っ張りました。
しかし、靴は足に張り付いているようでした。
「痛いですか?」
「……少しだけです」
「無理はしないでください」
そう言われましたが、私は力を入れました。
そして――
ベリッ。
嫌な音がしました。
靴が大きく裂けました。
私たちが使っていた粗末な靴は、そこで完全に壊れてしまいました。
私は、靴の残骸を見つめました。
山を越えてこられたこと自体が奇跡だったのだと思います。
靴は泥だらけで、ところどころ破れています。
靴底もかなり擦り減っていました。
「これは……」
看護学生の方が、小さく息を吐きました。
そして、私の足を見ました。
私自身も、まともに自分の足を見たのはそのときが初めてでした。
酷い状態でした。
傷口は赤く腫れています。
ところどころ黄色く変色していました。
山を越える途中でできた傷に、泥や土が入り込んでいたのでしょう。
湿ったぬかるみを何度も踏み、枝や石に足をぶつけ、傷をそのままにして歩き続けた結果でした。
そして、鼻を近づけなくても分かるほどの嫌な臭いがしました。
私は思わず顔をしかめました。
「……酷いですね」
看護学生の方が言いました。
「消毒液はありますか?」
「ありません」
「薬は?」
「ほとんど残っていません」
そう言って、その人は周囲を見ました。
ここにあるものだけで、何百人もの怪我人を治療しなければならないのです。
私たちの足に使える薬など、あるはずがありませんでした。
「水だけでもいいですか?」
「はい」
私は頷きました。
看護学生の方は、少量の水を用意しました。
そして、傷口を洗おうとしました。
その瞬間でした。
「っ……!」
私は声を漏らしました。
今まで感覚が麻痺していたのか、あまり痛みを感じていなかった足に、鋭い痛みが走りました。
傷口に水が触れた瞬間、身体の奥まで痛みが突き抜けたような気がしました。
私は歯を食いしばりました。
声を出してはいけないと思いました。
隣で妹も治療を受けています。
「痛い……!」
妹が声を上げました。
看護学生の方は、何も言わずに治療を続けました。
その顔にも疲労が浮かんでいました。
私たちが痛がっていることを分かっていても、治療を止めることはできないのでしょう。
傷を洗い終えると、今度は粗末な布を取り出しました。
清潔な包帯など、もう残っていないようでした。
その布を足に巻きつけます。
布が傷口に触れるたび、また痛みが走りました。
妹は耐えられませんでした。
「痛い……痛いです……」
とうとう、妹は泣き始めました。
小さな身体を震わせながら、涙を流しています。
「痛いよ……お姉ちゃん……」
私は周囲を見ました。
体育館には、たくさんの人がいます。
大人もいます。
子供もいます。
負傷者もいます。
みんなが苦しんでいる場所でした。
そんな中で妹が泣いていることが、私は急に怖くなりました。
誰かに怒られる。
うるさいと言われる。
追い出される。
そんなことを考えました。
「泣かないでください」
私は妹に言いました。
しかし、妹は泣き止みませんでした。
「痛いんです……」
「泣かないでください」
「でも、痛い……」
「泣くなと言っているでしょう!」
自分でも驚くほど大きな声が出ました。
そして私は、妹の頭を殴ってしまいました。
パシッ、と乾いた音がしました。
その瞬間、周囲の音が消えたように感じました。
妹が私を見つめています。
驚いた顔でした。
泣いていたことさえ忘れたような顔でした。
私自身も、何が起きたのか分かりませんでした。
私は、その日初めて人を殴りました。
しかも、敵ではありません。
目の前にいる妹を殴ったのです。
「……お姉ちゃん?」
妹が小さな声で言いました。
私は何も答えられませんでした。
殴った手が震えていました。
自分の手なのに、自分のものではないような気がしました。
どうして殴ったのでしょう。
妹が泣いていたからでしょうか。
周囲に迷惑をかけると思ったからでしょうか。
それとも、本当は私自身が怖くて、どうすればいいのか分からなくなっていたのでしょうか。
今でも、その理由を私は完全には説明できません。
ただ、一つだけ覚えています。
妹を殴った瞬間、祖母のことを思い出しました。
祖母も、もういません。
父も、母もいません。
私の知っている大人たちは、どんどんいなくなっています。
そして私は、そんな大人たちの代わりにならなければいけないと思っていました。
だから、強くならなければいけない。
泣いてはいけない。
弱音を吐いてはいけない。
そう思っていました。
けれど、本当は私だって泣きたかったのです。
怖かったのです。
足が痛かったのです。
家族に会いたかったのです。
ただ、それを認めることができなかっただけでした。
看護学生の方が、深いため息をつきました。
「……あなたも疲れているんですね」
責めるような声ではありませんでした。
むしろ、疲れ切った人間がさらに疲れ切った人間を見ているような声でした。
「妹さんに当たってはいけません」
私は俯きました。
「……すみません」
「謝る相手は私ではありませんよ」
私は妹を見ました。
妹は、まだ私を見つめています。
「……ごめんなさい」
私は言いました。
妹はしばらく黙っていました。
そして、小さく頷きました。
それ以上は何も言いませんでした。
看護学生の方は、私たちの足に布を巻き終えると、立ち上がりました。
「とりあえず、今はこれで我慢してください」
「はい」
「ここはまだ危険です。建物の中にもガラス片が落ちています。歩くときは気をつけてください」
「分かりました」
「それから、できるだけ傷を汚さないようにしてください」
その人はそう言って、次の負傷者のところへ向かっていきました。
休む暇もないのでしょう。
私はその背中を見送りました。
そして、妹の足元を見ました。
粗末な布が巻かれています。
私の足にも同じものが巻かれています。
それだけでした。
薬もありません。
消毒液もありません。
まともな包帯もありません。
治ったわけではありません。
ただ、これ以上悪くならないことを祈るしかありませんでした。
私は妹の手を握りました。
妹も、今度は逃げませんでした。
私は、もう一度だけ謝りました。
「ごめんなさい」
妹は何も言いませんでした。
けれど、握った手を離しませんでした。
その小さな手の温かさを感じながら、私は思いました。
戦争が始まってから、私たちは少しずつ何かを失っています。
家を失いました。
故郷を失いました。
家族を失いました。
そして今、私は自分自身がどんな人間なのかまで、分からなくなり始めていました。
それでも、妹だけは失いたくありませんでした。
私は妹の手を握ったまま、体育館の隅に戻りました。
外では、また遠くから爆発音が聞こえていました。
戦争は、まだ終わっていませんでした。
部屋に戻った私たちを待っていたのは、子どもたちの冷たい視線でした。
誰も何も言いませんでした。
けれど、その目を見れば何を考えているのかは何となく分かりました。
――どうしてお前だけ治療してもらえたのか。
――自分たちだって痛いのに。
――自分たちだって助けてほしいのに。
そんな言葉が、声にならないまま部屋の中に漂っているようでした。
私は少しだけ居心地が悪くなりました。
けれど、同時に腹も立ちました。
私たちは何も悪いことをしていません。
大人たちに無視されても、何度も頼んで、ようやく看護学生の方に見てもらったのです。
それなのに、まるで私たちが悪いことをしたかのような目で見られるのは納得できませんでした。
「あなたたちの傷が治っていないのは、自分から動こうとしなかったからでしょう」
そう言ってやりたい気持ちはありました。
私たちは自分から動きました。
だから治療してもらえたのです。
文句があるのなら、自分たちも動けばいい。
そんな言葉が喉まで出かかりました。
しかし、私は言いませんでした。
ここは狭い部屋です。
周りにいるのは、私と同じように追い詰められた子どもたちです。
もし私が余計なことを言えば、全員から敵視されるかもしれません。
最悪の場合、みんなに襲われることだってあり得ます。
そうなれば、私だけならまだしも、妹まで危険になります。
だから私は黙っていました。
妹の手を握り、できるだけ部屋の端へ移動しました。
それでも、視線は消えません。
じろじろとこちらを見てくる子もいました。
私が包帯を巻かれた足を少し動かすだけで、その視線が集まります。
まるで、私たちが何か特別なものを手に入れたかのようでした。
私は、自分たちがそんなに羨ましがられるようなことをしたのだろうかと思いました。
たかが包帯です。
薬があるわけでもありません。
傷が治ったわけでもありません。
ただ、汚れた布を巻いてもらっただけです。
それなのに、ここではそれさえ贅沢になっていました。
私は、そのことに少し怖くなりました。
そして、怖いと思ったからこそ、私はここに長くいるべきではないと思いました。
ここでじっとしていてはいけません。
少しでも前に進まなければいけません。
敵がどこまで来ているのか。
この街はいつまで安全なのか。
逃げるならどこへ行けばいいのか。
食べ物や水はどこにあるのか。
大人たちは何を知っているのか。
知らなければならないことは、いくらでもありました。
私は、周りの子どもたちに話を聞いてみることにしました。
子どもだからこそ知っていることもあるかもしれません。
誰がどこから来たのか。
どこで何が起きたのか。
この街に軍隊がいるのか。
讖緯者様が来る予定はあるのか。
少しでも情報があれば、それだけで生き残れる可能性が上がるかもしれません。
「すみません」
私は近くにいた女の子へ声をかけました。
返事はありません。
「あなたは、どこから来たのですか?」
やはり返事はありません。
女の子は私の顔を見ることさえせず、膝を抱えたまま俯いていました。
別の子にも声をかけてみました。
「ここに軍隊が来るという話を聞きませんでしたか?」
その子も何も答えません。
ただ、こちらを一瞬見て、すぐに目を逸らしました。
私は少し苛立ちました。
別に難しいことを聞いているわけではありません。
少しくらい答えてくれてもいいではありませんか。
さっきまで私たちに敵意のある視線を向けていたくせに、話しかければ無視する。
それが私は失礼だと思いました。
敵意を向ける元気があるのなら、話すくらいできるでしょう。
しかし、何人に話しかけても同じでした。
誰も私と目を合わせません。
何かを聞いても、黙ったままです。
そのうち私は気づきました。
この子たちは、私と話したくないのではないのかもしれません。
話す気力そのものがないのです。
昨日まで暮らしていた家がなくなり、家族がいなくなり、知らない場所へ逃げてきた。
そして、いつ敵が来るかも分からない。
そんな状況で、他人と会話する余裕があるほうがおかしいのかもしれません。
そう考えると、私は何も言えなくなりました。
けれど、その沈黙を破るように、突然笑い声が聞こえました。
「ははっ」
部屋の奥でした。
そこに、一人の少年がいました。
私たちと同じくらいの年齢に見えましたが、身体はかなり大きく、周りの子どもたちより頭一つ分ほど背が高い少年でした。
その少年が、私たちを見て笑っていました。
「何ですか?」
私は警戒しながら尋ねました。
少年は答えません。
ただ、口元を歪めて笑いました。
「お前たち、元気そうだな」
「……元気ではありません」
「そうか?」
少年は私の足を見ました。
「包帯まで巻いてもらってるじゃないか」
私は何も言いませんでした。
「俺たちなんか、怪我しても放っておかれてるのにな」
少年の声には、明らかな敵意がありました。
「どうして自分から頼まなかったのですか?」
思わず私は言ってしまいました。
少年の笑顔が消えました。
「……何だと?」
「私たちも何度も断られました。でも、何人もの大人にお願いして、ようやく見てもらったのです」
言い終えてから、私は少し後悔しました。
言わなければよかったかもしれません。
少年はしばらく黙っていました。
そして、突然笑いました。
「ははは……」
今度の笑い声には、先ほどとは違うものが混ざっていました。
怒りでも、面白さでもありません。
どこか壊れてしまったような笑いでした。
「そうだな」
少年は言いました。
「お前は正しいよ」
私は黙っていました。
「動けばいいんだ。自分から動けば助かるんだ」
少年は、自分に言い聞かせるように呟きました。
「じゃあ、俺たちが悪いんだな」
「そんなことは……」
「俺たちは動かなかったから、傷も治してもらえない」
少年は周囲を見回しました。
「家族が死んだのも、自分たちが悪いんだ」
部屋が静かになりました。
「村が焼けたのも、国が負けそうなのも、全部俺たちが悪い」
「違います」
私は思わず言いました。
「そんなこと、あなたたちのせいではありません」
「じゃあ、誰のせいなんだ?」
答えられませんでした。
少年は笑いました。
「誰かのせいにしなきゃいけないんだろ?」
誰も答えません。
「俺たちはみんな不幸になるんだ」
少年の声が、少しずつ大きくなりました。
「みんな不幸にならなきゃいけないんだ」
「……何を言っているのですか?」
「お前だけ幸せになるなよ」
私は息を呑みました。
少年の目は笑っていませんでした。
「俺たちはみんな絶望しなきゃいけないんだ」
その言葉が、狭い体育倉庫の中に響きました。
誰も止めませんでした。
「どうせ俺たちは負けるんだ」
少年はそう言いました。
「国も負ける。家もなくなる。家族も死ぬ。俺たちも、そのうち死ぬんだ」
私は何も言えませんでした。
その言葉を否定したかった。
そんなことはないと言いたかった。
国は勝つ。
讖緯者様が助けに来る。
軍隊が敵を追い払う。
私たちは家に帰れる。
そう言いたかったのです。
けれど、言葉が出てきませんでした。
私の頭の中にも、同じ考えがあったからです。
祖母は死にました。
家族はいなくなりました。
故郷は敵に占領されました。
そして、今いるこの街でさえ、安全だとは限りません。
私は妹の手を握りました。
妹の手は小さく、少し震えていました。
私はその手を握り返しました。
少年はまだ話していました。
「絶望すればいいんだ」
「どうせ何をしても無駄なんだ」
「逃げても、また敵が来る」
「戦っても勝てない」
「誰も助けに来ない」
私はその言葉を聞きながら、胸の奥が冷たくなっていくのを感じました。
少年の言っていることが、すべて間違っているとは思えなかったからです。
でも、だからこそ私は怖くなりました。
もし、ここにいる全員がその考えを信じてしまったら、本当に誰も動かなくなる。
誰も逃げなくなる。
誰も助けようとしなくなる。
そして、誰も生き残れなくなる。
私は、そんな未来だけは嫌でした。
だから私は、妹の手をもう一度強く握りました。
「私は、絶望したくありません」
気づけば、私はそう言っていました。
少年がこちらを見ました。
「……何?」
「私は、生きたいです」
声は震えていました。
それでも、私は言いました。
「妹と一緒に、生きたいです」
少年は何も答えませんでした。
周りの子どもたちも、何も言いませんでした。
ただ、誰かが小さく顔を上げました。
それが誰だったのか、私は覚えていません。
けれど、その瞬間だけは、体育倉庫の中に漂っていた絶望が、ほんの少しだけ揺らいだように感じました。
私は知らなかったのです。
この場所で生き残るためには、敵と戦うだけでは足りないということを。
絶望に飲み込まれないこともまた、戦いなのだということを。