私自身、このまま学校で穏やかに避難民としての生活を続けられるとは思っていませんでした。
ここは戦場に近すぎました。
学校の周囲にはまだ敵の兵隊が来ていませんでしたが、遠くから聞こえる砲撃の音や、空を飛び交う戦闘機を見ていれば、この場所がいつまでも安全でいられるはずがないことくらい、子供の私にも分かっていました。
それでも私は、あと数日くらいは大丈夫だと思っていました。
今日だけは大丈夫。
明日もきっと大丈夫。
そうやって、毎日を一日ずつ先延ばしにしていたのです。
しかし、終わりは私が思っていたよりもずっと早くやってきました。
私たちの村を確保した敵連合は、占領した地域を軍事拠点へと改造し、そのまま次の街へ向けて進軍を始めたのでした。
その街の次の目標が、私たちのいる場所でした。
最初に聞こえたのは、飛行機の音でした。
昨日までなら、その音を聞くだけで「また空襲が来る」と思うだけでした。
しかし、その日の音は違いました。
低い音が何度も重なっています。
一機ではありません。
二機でもありません。
何機いるのか分からないほどの飛行機が、空を飛び回っていました。
やがて、爆発音が聞こえました。
ドンッ、と大きな音がして、学校全体が震えました。
その直後、もう一度爆発しました。
窓ガラスが割れる音が聞こえます。
何かが倒れる音がしました。
そして、体育館の外から悲鳴が上がりました。
「敵が来たぞ!」
「逃げろ!」
「早くしろ!」
大人たちの声でした。
私たちは、その時点では何が起きているのか理解できていませんでした。
私たち子供たちは、相変わらず窓もない小さな倉庫に押し込められていました。
外の様子を見ることができません。
だから、聞こえてくる音だけが頼りでした。
爆発。
悲鳴。
足音。
怒鳴り声。
また爆発。
そのたびに倉庫の壁が震えました。
子供たちは身を寄せ合い、何もできずに固まっていました。
「何が起きているのですか?」
誰かが尋ねました。
誰も答えません。
「敵が来たのでしょうか?」
別の子が言いました。
それにも答える人はいませんでした。
私は妹を抱き寄せました。
「大丈夫です」
いつものように、私はそう言いました。
けれど、自分でもその言葉を信じていませんでした。
そのときでした。
倉庫の中にいた一人の少年が立ち上がりました。
以前、私たちに絶望しろと言っていた、あの背の大きな少年です。
少年は扉の前まで歩いていきました。
「何をするのですか?」
誰かが尋ねました。
少年は答えませんでした。
そして、扉に手をかけました。
「待ってください!」
誰かが叫びました。
しかし、少年は扉を開けました。
その瞬間、外の音が一気に倉庫の中へ流れ込んできました。
今まで壁によって遮られていた音が、突然、私たちの耳を襲いました。
爆発音。
悲鳴。
怒鳴り声。
泣き声。
何かが燃える音。
私は思わず耳を塞ぎました。
そして、扉の向こうを見ました。
大人たちが逃げていました。
誰も私たちを助けようとはしていません。
誰も振り返りません。
ただ、自分が生き残るために走っています。
その光景を見た瞬間、子供たちの間で何かが切れました。
「逃げろ!」
「早く!」
「ここにいたら殺される!」
誰かが叫びました。
その瞬間、全員が一斉に扉へ殺到しました。
さっきまで狭い場所に押し込められていた子供たちが、我先にと外へ飛び出していきます。
誰かが転びました。
その上を別の子供が踏み越えていきます。
泣いている子もいました。
叫んでいる子もいました。
それでも、誰も止まりません。
私も妹の手を握って走りました。
けれど、私たちは逃げるのが遅れました。
最後のほうになってしまったのです。
私は妹の手を引きながら、必死に走りました。
学校の廊下を抜けます。
壁には大きな亀裂が入っていました。
床にはガラス片が散らばっています。
さっき看護学生の方から言われた言葉が頭に浮かびました。
――ガラス片などに注意してください。
私は妹の足元を確認しながら走りました。
「こっちです!」
私はできるだけ安全そうな道を選びました。
外へ出ると、空が見えました。
そして、その瞬間に私は走る速度を落としました。
空を飛行機が飛んでいたからです。
敵の飛行機でした。
何機もの飛行機が頭上を飛んでいます。
飛行機がこちらを見つければ、爆弾を落とされるかもしれません。
私は、先ほどまでの混乱とは逆に、できるだけゆっくり歩くことにしました。
「走らないのですか?」
妹が尋ねました。
「走りません」
「どうしてですか?」
「見つかってしまいます」
私は小声で答えました。
焦って逃げれば、飛行機から見つかってしまう。
かといって、ゆっくりしていれば敵の兵隊が近づいてくる。
どちらを選んでも危険でした。
だから私は、屋根の下を伝うようにして歩きました。
建物から建物へ移動します。
できるだけ空から見えない場所を選びます。
頭上を飛行機が通過するたび、私は立ち止まりました。
妹も私の真似をして、じっと動かなくなりました。
飛行機の音が遠ざかる。
私はまた歩きます。
そして、また飛行機が近づく。
止まります。
その繰り返しでした。
けれど、遠くを見ると、別の恐ろしいものが見えました。
山の向こうです。
そこから、たくさんの兵隊がこちらへ向かってきていました。
隊列を組んで歩いています。
一人ではありません。
何人いるのか分からないほどの兵隊が、こちらへ向かって進んできています。
私は、その光景から目を離せませんでした。
ゆっくりと、確実に近づいてきています。
まるで、死そのものがこちらへ歩いてきているようでした。
私は、あのときのことを今でも覚えています。
遠くに見える敵軍の行進が、私には死までのカウントダウンに見えました。
一歩。
また一歩。
兵隊たちが進むたびに、私たちの残り時間が減っていくような気がしました。
早く逃げなければいけません。
でも、走ってはいけません。
早く遠くへ行かなければいけません。
でも、飛行機に見つかってはいけません。
私は頭がおかしくなりそうでした。
焦れば、目の前で死んでいった大人たちと同じように、飛行機に殺される。
そう分かっていても、じっとしていることはできませんでした。
私は妹の手を引きました。
「行きますよ」
「どこへですか?」
「分かりません」
「疲れました……」
「もう少しです」
「もう歩けません」
「歩いてください」
妹は駄々をこねるように立ち止まりました。
「足が痛いです」
「私も痛いです」
「もう嫌です」
妹の声が震えていました。
私は妹を抱き上げようとしました。
けれど、私自身も疲れ切っていました。
山を越えたときから、まともに休んでいません。
足には包帯が巻かれています。
それでも、ここで止まるわけにはいきません。
「お願いします」
私は妹の腕を引きました。
「歩いてください」
妹は泣きそうな顔をしながら、それでも歩き始めました。
私たちは、できるだけ建物の陰を伝って進みました。
時々、頭上から飛行機の音が聞こえます。
そのたびに足を止めました。
爆弾が落ちるたびに身体を伏せました。
爆発が遠ざかると、また歩きました。
どれほど歩いたのか分かりません。
街の中心から離れ、建物が少なくなっていきました。
やがて、街の隅に小さな広場が見えてきました。
周囲には壊れた建物が並んでいます。
広場には避難してきた人が数人いました。
私はそこで、ようやく足を止めました。
妹もその場に座り込みました。
「もう歩けません……」
「少しだけ休みましょう」
私はそう言いました。
けれど、遠くからはまだ爆発音が聞こえています。
そして、山の向こうからは敵の軍隊が近づいてきています。
ここも安全ではありません。
それでも、私は妹の隣に座りました。
今だけは、少しだけ休ませてください。
そう思いました。
私たちは、ただ生きるために逃げ続けていました。
けれど、この先にどこへ行けばいいのか、私はまだ知りませんでした。
その先は、地獄でした。
広場へ逃げ込んだ私たちは、そこで初めて、自分たちが敵に完全に囲まれていることを知りました。
広場の向こう側にある道路には、すでに敵の兵隊が並んでいました。
こちらへ向かってくるわけでもありません。
銃を撃ってくるわけでもありません。
ただ、そこに立っていました。
私たちが逃げようとすれば撃てる距離に、何人もの兵隊が並んでいます。
街へ戻ろうとすれば、別の場所にいる兵隊たちに見つかります。
どちらへ行っても死ぬ。
それなら、どうすればいいのでしょうか。
答えはありませんでした。
敵は、すぐに私たちを殺すつもりではなかったようです。
むしろ、私たちがどこまで耐えられるのかを見て楽しんでいるようでした。
兵隊たちは遠くからこちらを眺めています。
時々、何かを話して笑っている姿さえ見えました。
こちらが動けば、向こうも動きます。
こちらが止まれば、向こうも止まります。
まるで私たちが逃げ道のない檻に入れられ、その檻の外から観察されているようでした。
後になって考えれば、彼らは私たちがいつまで持つのかを賭けていたのかもしれません。
誰が最初に泣き出すか。
誰が最初に逃げ出すか。
誰が最初に諦めるか。
そして、最後まで残るのは誰か。
そんなくだらない娯楽のために、私たちは生かされていたのかもしれません。
最初のうちは、私はまだ希望を捨てていませんでした。
ここから逃げられるかもしれない。
夜になれば敵の警戒が薄くなるかもしれない。
味方の軍隊が助けに来てくれるかもしれない。
讖緯者様が来てくれるかもしれない。
何でもよかったのです。
どんなに馬鹿げた可能性でも、私はそれを信じようとしました。
私は妹に何度も言いました。
「きっと大丈夫です」
「夜になれば逃げられます」
「誰かが助けに来てくれます」
「おっかあも、きっと私たちを探しています」
妹は、その言葉を信じていました。
それだけが、私にとっては救いでした。
妹が希望を失わない限り、私も希望を失わずに済むような気がしたのです。
しかし、時間は私たちから少しずつ何かを奪っていきました。
食料がありません。
水も十分にはありません。
身体を温めるものもありません。
私たちは外にいるため、夜になると急激に体温を奪われました。
昼間は暑く、夜は寒い。
眠る場所もありません。
横になろうとしても地面は硬く、身体は痛みます。
少し眠ったと思えば、寒さや空腹で目を覚まします。
朝になれば、また同じ景色が広がっています。
広場の向こうに並ぶ敵兵。
崩れた建物。
空。
そして、逃げられない私たち。
昨日と何も変わりません。
今日も何も変わりません。
明日も、きっと変わらない。
そんな日が続きました。
最初は、みんな静かでした。
けれど、空腹は人を変えていきました。
少しの水をめぐって口論が起きました。
誰かが誰かを責めました。
「お前が飲みすぎたんだ」
「俺じゃない」
「じゃあ誰が飲んだんだ」
「知らない」
以前なら、そんなことで喧嘩する人などいなかったでしょう。
けれど、もう誰も余裕がありませんでした。
泣いている子供を怒鳴る人もいました。
逆に、大人が子供に水を分けてくれたこともありました。
助け合うこともあれば、奪い合うこともありました。
人間がどこまで優しく、どこまで醜くなれるのか。
私は、その両方を毎日見ていました。
そして、そのたびに心が少しずつ削れていきました。
妹だけは、そんな中でも希望を口にしました。
「おっかあに会いたいです」
「……そうですね」
「おっかあは、きっと私たちを探しています」
「そうだと思います」
「また家に帰れますか?」
「帰れますよ」
私は答えました。
でも、そのたびに胸の奥が痛みました。
妹が希望を口にするたび、私はその希望が叶わないだろうという予想を突きつけられたからです。
おっかあは、どこにいるのでしょう。
生きているのでしょうか。
それすら分かりません。
故郷は敵に占領されました。
家族の消息も分かりません。
私たちがここで死んでしまえば、誰にも知られないかもしれません。
それなのに妹は言います。
「またおっかあと一緒に暮らしたいです」
「……そうですね」
私は笑いました。
笑っているつもりでした。
けれど、上手く笑えていたのかは分かりません。
ある日、妹が言いました。
「お姉ちゃん、いつになったら帰れますか?」
私は答えられませんでした。
「明日ですか?」
「……分かりません」
「明後日ですか?」
「分かりません」
「じゃあ、いつですか?」
私は妹の顔を見ることができませんでした。
妹はまだ信じています。
明日になれば何かが変わる。
誰かが助けに来る。
おっかあに会える。
そんな未来を。
私は、それを否定することができませんでした。
否定してしまえば、妹の最後の希望まで奪ってしまう気がしたからです。
けれど、同時に、その希望が私には苦痛になっていました。
妹が希望を口にするたびに、私は現実を思い出してしまうのです。
――ここから出られない。
――食べ物がない。
――敵がいる。
――誰も助けに来ない。
――おっかあには、もう会えないかもしれない。
そんな考えが、頭の中から離れなくなりました。
そして、とうとう限界を迎えた人が現れました。
ある日、一人の男性が手榴弾を取り出しました。
周囲がざわめきました。
男性は震える手でそれを握っていました。
「もう嫌だ」
そう言いました。
「これ以上、敵に好きにされるくらいなら……」
その人は、自分たちが捕虜になることを恐れていました。
敵に捕らえられ、辱められ、国を裏切った者として扱われるくらいなら、ここで死んだほうが誇りを守れる。
そう考えたのでしょう。
私は、その言葉を聞きながら何も言えませんでした。
やがて、その人は家族を呼び寄せました。
何をするのか、誰も止めることができませんでした。
そして、広場に爆発音が響きました。
私は目を閉じました。
何が起きたのかを、見たくありませんでした。
しばらくして目を開けると、その家族はもう動いていませんでした。
私は、彼らを見ました。
そして――
私は、羨ましいと思ってしまいました。
その瞬間、自分自身が恐ろしくなりました。
可哀想だと思うべきでした。
泣くべきでした。
家族を失った人たちを悼むべきでした。
なのに、私の胸の中に生まれたのは、そんな感情ではありませんでした。
――ああ。
――そうすればよかったのか。
そんな感情でした。
戦争と飢餓と恐怖によって、私の心はもう正常ではなくなっていたのだと思います。
人が死んだというのに、悲しいと思う余裕すらありませんでした。
むしろ、先に「解放」された彼らを見て、羨ましいと思ってしまったのです。
死ねば、この苦しみから逃げられる。
死ねば、寒くない。
死ねば、空腹もない。
死ねば、敵を恐れる必要もない。
死ねば、おっかあに会えるのかもしれない。
そんな馬鹿げた考えが、頭の中でどんどん大きくなっていきました。
その頃には、私は「生きる」ということを以前ほど大切に思えなくなっていました。
生きるとは、苦しみ続けることでした。
妹を守り続けることでした。
いつ殺されるか分からないまま、毎日を耐えることでした。
それに対して、死は何も考えなくていい。
私は、そんなふうに考えるようになってしまいました。
その考えがどれほど恐ろしいものなのか、当時の私は理解していませんでした。
いや、理解する力そのものが残っていなかったのかもしれません。
そして私は、広場の片隅で手榴弾を握りしめて悩んでいる夫婦を見つけました。
二人は何度も顔を見合わせていました。
何かを話しているようでした。
けれど、なかなか決断できないようでした。
私は、その二人に近づきました。
「もし……」
声が震えました。
「もし、死ぬつもりなら」
夫婦が私を見ました。
「私たちも、一緒に入れてくれませんか?」
「何を言っているの?」
女性が驚いたように言いました。
そのとき、妹が私の腕を掴みました。
「嫌です!」
妹が叫びました。
「私は嫌です! まだ生きたいです!」
私は妹を見ました。
「お姉ちゃん、嫌です!」
「静かにしてください」
「嫌です!」
「もう十分でしょう!」
私は叫びました。
妹は泣いていました。
「生きていたって、どうするのですか?」
「おっかあに会います!」
「会えません!」
自分でも驚くほど強い声でした。
妹が黙りました。
私は、もう止まれませんでした。
「敵に捕まったらどうするのですか?」
「……」
「殺されるかもしれません」
「それでも、生きたいです!」
妹はそう言いました。
その言葉を聞いても、私は戻れませんでした。
「だったら、私と一緒に来てください」
「嫌です!」
「私たちは一緒です」
「嫌!」
「死ぬときも一緒です!」
それは、妹を守るための言葉だったのかもしれません。
あるいは、自分自身を正当化するための言葉だったのかもしれません。
私は、もう分からなくなっていました。
「みんなで天国へ行けばいいのです」
私は言いました。
「そうすれば、もう苦しくありません」
今思えば、それはただのくだらない演説でした。
けれど、そのときの私は本気でした。
夫婦は黙って私を見ていました。
二人には、子供がいることが分かりました。
女性のお腹は大きく膨らんでいました。
妊娠していたのです。
だからこそ、二人は最後まで決められなかったのでしょう。
生まれてくる子供まで巻き込むのか。
それとも、最後まで生きる可能性に賭けるのか。
私には、その迷いの意味が分かりませんでした。
ただ、苦しみから逃げたかった。
それだけでした。
私は二人を説得し続けました。
そして、とうとう二人は私たちを受け入れました。
五人で一緒にいることになりました。
その瞬間、私は妙な安心感を覚えました。
もう迷わなくていい。
もう逃げなくていい。
もう怖がらなくていい。
そんなふうに思ってしまいました。
けれど、妹だけは最後まで泣いていました。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫です」
「嫌です……」
「大丈夫です」
「まだ生きたいです……」
私は妹を抱きしめました。
その言葉を聞いても、私は決断を変えませんでした。
そして、爆発が起きました。
大きな音でした。
身体が宙に浮きました。
何が起きたのか分かりませんでした。
耳が聞こえなくなりました。
視界が白くなりました。
そして、地面に叩きつけられました。
私は、そのまま意識を失いました。
最後に見えたのは、妹の顔でした。
泣き叫んでいました。
夫婦も何かを叫んでいました。
次の瞬間には、すべてが爆風の向こうへ消えていました。
――そして。
目が覚めたとき、私は一人でした。
最初は、自分が生きていることに気づきませんでした。
身体が動きません。
耳もほとんど聞こえません。
目を開けても、何が見えているのか分かりませんでした。
やがて、少しずつ視界が戻ってきました。
私は地面に倒れていました。
そして、すぐ近くに人の姿がありました。
妹でした。
……正確には、妹だったものです。
私は、それを見つめました。
何も感じませんでした。
悲しくありませんでした。
怖くもありませんでした。
ただ、頭の中に一つの疑問だけが浮かびました。
――どうして?
どうして、私だけ生きているのでしょう。
私は死にたかったはずでした。
妹と一緒に死ぬはずでした。
みんなで苦しみから解放されるはずでした。
なのに、どうして。
どうして私だけ。
私は、ゆっくりと身体を起こしました。
目の前には、私が死ぬことを望んだ人たちの亡骸がありました。
妹も。
あの夫婦も。
そして、その夫婦の中にいた、まだ生まれてもいなかった命も。
全部、私が巻き込んだのです。
私は生き残りました。
死にたかった私だけが。
その事実が、何よりも恐ろしいものでした。
私は泣こうとしました。
けれど、涙が出ませんでした。
泣くことすらできませんでした。
悲しいはずなのに、悲しいという感情がどこにあるのか分かりません。
代わりに胸の奥に残っていたのは、どうしようもない空虚さでした。
生き残った。
ただ、それだけでした。
あれほど望んだ「解放」を自分から選んだのに、私だけがそこから取り残されました。
私は一人で、瓦礫の上に座っていました。
広場の向こうには、まだ敵の兵隊がいました。
彼らは、私が生きていることに気づいていたのでしょうか。
分かりません。
ただ私は、もう逃げようとも思いませんでした。
妹がいない。
家族もいない。
故郷もない。
そして私は、自分で妹を死なせた。
それなのに、私は生きています。
その事実だけが、頭の中で何度も繰り返されていました。
――どうして私だけ。
私は、妹の名前を呼びました。
返事はありませんでした。
もう一度呼びました。
やはり返事はありません。
その瞬間、私は初めて理解しました。
死ぬことは、逃げることではありませんでした。
少なくとも、私にとってはそうではなかったのです。
死んだ人たちは何も答えてくれません。
残された人間だけが、その後を生きなければならない。
そして私は、その「残された側」になってしまいました。
私は地面に手をつきました。
そのまま、もう一度目を閉じました。
そして、その日最後に感じたのは、悲しみではありませんでした。
自分だけが生き残ってしまったという、底のない罪悪感でした。
そのときでした。
私の耳に、敵軍の笑い声が聞こえてきました。
最初は何を笑っているのか分かりませんでした。
何人かの兵士が、広場の向こうでこちらを指差しています。
手榴弾の爆発音を聞きつけて、様子を見に来たのでしょう。
彼らは、私たちが自ら死を選んだことを面白がっていました。
せっかく一度に死のうとしたのに、全員が死ねなかった。
しかも、逃げることもできず、死んだ四人のそばで一人だけ生き残っている子供がいる。
それが、彼らにはたまらなく面白かったようでした。
「見ろよ、まだ生きてるぞ」
「一人だけ残ったのか?」
「仲間はみんな死んだのに、自分だけ生きてるぞ」
言葉の意味は、はっきりとは聞き取れませんでした。
けれど、笑われていることだけは分かりました。
私を見て笑っています。
妹を見て笑っています。
死んだ人たちを見て笑っています。
私たちがどれほど苦しんでいたのかも。
どれほど家族に会いたかったのかも。
どれほど怖かったのかも。
どれほど死にたくなかったのかも。
そんなことは、彼らには関係ありません。
私たちが死ぬか、生きるか。
それだけが、彼らにとっての面白い見世物だったのでしょう。
私は、しばらく何も考えられませんでした。
ただ、笑い声だけが聞こえていました。
あはは、と。
ケラケラと。
何人もの人間が、私を見ながら笑っています。
私は地面に座り込んだまま、その声を聞いていました。
そして、胸の奥で何かが動きました。
最初は、とても小さなものでした。
悲しみでもありません。
恐怖でもありません。
悔しさでもありません。
もっと黒くて、重いものでした。
――どうして。
どうして笑えるのですか。
私の妹が死んだのに。
私の家族が死んだのに。
私の村がなくなったのに。
私たちが何も悪いことをしていないのに。
どうして、そんなに楽しそうに笑えるのですか。
私は、妹の亡骸を見ました。
少し前まで、私の手を握っていた手です。
私に「まだ生きたい」と言っていた声も、もう聞こえません。
それなのに、私は生きています。
私だけが。
私は妹を殺したも同然でした。
私が死のうと言ったからです。
私が「みんなで天国へ行こう」と言ったからです。
妹は嫌がっていました。
それでも私は、無理やり連れていきました。
そして――死んだのは妹でした。
生き残ったのは、私でした。
私は、何度も考えました。
どうして私なのか。
どうして妹ではないのか。
どうして私は死ななかったのか。
どうして世界は、こんなにも不公平なのか。
けれど、答えはありません。
あるはずもありません。
戦争に理由なんてありません。
人が死ぬことにも、意味なんてありません。
少なくとも、そのときの私にはそう思えました。
私の愛した妹は死にました。
私の愛した家族も死にました。
私の故郷もなくなりました。
私たちが暮らしていた家も。
学校も。
村も。
思い出も。
全部、戦争によって壊されました。
そして、そのすべてを壊した人間たちは、私たちを見て笑っています。
私は、ふと先生の言葉を思い出しました。
讎懜。
あのときは、何のことなのか分かりませんでした。
先生は詳しいことを教えてくれませんでした。
讎懜とは、あまりにも難しい概念だから。
人間が知るべきものではないから。
知らないほうがいいものだから。
そう言われていました。
私は、ずっと不思議に思っていました。
なぜ、知らないほうがいいのでしょう。
なぜ、そんなに恐ろしいものなのでしょう。
けれど、その瞬間。
私は、初めてその意味を理解しました。
讎懜とは、ただの力ではありませんでした。
ただ敵を倒すための技術でもありませんでした。
それは、人間の心そのものだったのです。
愛。
憎しみ。
悲しみ。
恐怖。
絶望。
怒り。
そして、自分ではどうにもできない現実に対する、どうしようもない感情。
それらが積み重なり、行き場を失ったとき、人の心は別の何かへ変わってしまう。
先生は、それを知らないほうがいいと言ったのでしょう。
知ってしまえば、戻れなくなるから。
人間が人間のままでいられなくなるから。
私は、そのことを理解しました。
そして同時に、自分の中に生まれたものにも気づきました。
恨みでした。
果てしない恨みでした。
私からすべてを奪った世界への恨み。
私たちを笑っている人間への恨み。
何も守ってくれなかった国への恨み。
助けに来なかった讖緯者への恨み。
私を生き残らせた運命への恨み。
そして――。
自分自身への恨み。
私は、何もかもが憎くなりました。
けれど、不思議なことに。
その憎しみと同時に、私はもう何も期待していませんでした。
世界が憎い。
でも、世界が変わるとは思わない。
人間が憎い。
でも、人間が善くなるとは思わない。
戦争が憎い。
でも、戦争が終わるとは思わない。
妹を返してほしい。
でも、返ってくるとは思わない。
私は、すべてを恨んでいました。
そして同時に、すべてを諦めていました。
それは、一見すると正反対の感情でした。
憎むということは、まだ何かを求めているということです。
変わってほしい。
償ってほしい。
返してほしい。
そう願っているからこそ、人は憎むのだと思います。
けれど私は、もう何も求めていませんでした。
妹は帰ってこない。
家族も帰ってこない。
故郷も戻らない。
世界も変わらない。
だったら、何を望めばいいのでしょう。
何を信じればいいのでしょう。
何を愛せばいいのでしょう。
私は、初めて心の底から思いました。
――所詮、こんなものなのだ。
人間なんて。
世界なんて。
愛なんて。
希望なんて。
全部、こんなものなのだ。
そう思った瞬間、私の中で何かが崩れました。
そして、崩れた場所に何かが生まれました。
黒い何かが。
熱を持った何かが。
私の心の底から、ゆっくりと這い上がってきました。
私は、それを恐ろしいとは思いませんでした。
むしろ、懐かしいような気がしました。
ずっと私の中にあったもの。
ずっと私が見ないふりをしていたもの。
愛していたからこそ憎い。
失ったからこそ憎い。
期待したからこそ絶望する。
そして、絶望したからこそ、何もかもを壊してしまいたくなる。
それが讎懜でした。
私は、ようやくそれを理解しました。
けれど、そのときにはもう遅かったのです。
私自身が、讎懜そのものになりかけていたのですから。
その日。
私の故郷と、その周辺にあったいくつもの町は、地図から姿を消しました。
そして同じ日。
歴代でも最年少の讖緯者が誕生しました。
後に最強と呼ばれることになる讖緯者が。
ただし、私はそのことを覚えていません。
私の意識は、すでに朦朧としていました。
戦火のど真ん中で倒れていた私を、遅すぎる援軍として到着した讖緯者たちが発見し、回収したのだそうです。
私はそのまま、島の中心にある讖緯者たちの拠点へ運ばれました。
そこで目を覚ましたとき、私は初めて自分が生きていることを知りました。
そして同時に、私の身に何が起きたのかを教えられたのです。
私が何をしたのか。
何が起きたのか。
どれほどの規模の讎懜が発生したのか。
どれほどの人間が巻き込まれたのか。
そして、なぜ私が生き残ったのか。
けれど、その話を聞いた私は、何も覚えていませんでした。
私が覚えている最後の光景は、妹の姿だけです。
そして、敵兵の笑い声。
それだけでした。
だから私は知りません。
あの日、私の中で何が生まれたのかを。
何が故郷を消し去ったのかを。
なぜ私が、最年少の讖緯者になったのかを。
ただ一つだけ。
後になって私は、何度も考えることになります。
もしあのとき、敵兵が笑わなかったら。
もしあのとき、私が妹の死を悲しむことができていたら。
もしあのとき、私がただ泣いているだけの子供でいられたなら。
私は、讖緯者にはならなかったのではないか、と。
けれど。
そんな「もしも」に意味などありません。
妹はもう帰ってきません。
故郷も帰ってきません。
そして、一度生まれてしまった讎懜も、消えることはありませんでした。
あの日、私はすべてを失いました。
そして同時に。
私の中に、世界を壊すための力、慫慂だけが残ったのです。