最近は和歌や短歌の勉強を始めた彼女との会話は、文芸畑の僕にとっては楽しい時間だった。
なぜかたまに不機嫌になるのが怖いけど、そんなにコーヒーが不味いのかなぁ…。
営業後の喫茶店で繰り返される彼と彼女の日常。
午前1時。ドアには既に閉店の札がかった店内で僕は同僚の少女から「不味い⋯」とここ数ヶ月で何度聞いたか分からない、僕が淹れたコーヒーへの感想を頂戴していた。
僕──霧生 陸(きりう りく)はこの喫茶店『萬』でアルバイトに勤しむしがない小説家志望の大学生だ。
そして歴史を感じさせるカウンターにて僕のコーヒーを酷評する彼女──筑間 志乃(つくま しの)は同じ大学に通う同期であり、共に労働に励む同僚でもある。
といっても、それぞれの担当は僕がホールで彼女はキッチンと異なるため接点があるかといえばあまりない。大学でも学部が違うため会う機会はほとんどなく、最初にこの喫茶店で会ったときも同じ大学の生徒とは気が付かなかったほどである。
「⋯何回も言ってるけど、霧生君はコーヒーを淹れる時のお湯の温度が高すぎるのよ。どうせまた沸騰したてのお湯を使ったんでしょ?」
「熱すぎるお湯はコーヒー豆の悲鳴や苦しみまでカップの中に溶かし出すのよ。霧生君のはドリップじゃなくて豆に対する拷問と言ってもいいわ。過度に苦みやえぐ味が抽出された、過抽出の極みを誰が飲みたいって思うのよ」
「それにお湯の注ぎ方も問題ね、全体に満遍なくかかってないし、高いところから注ぎ過ぎ。まだまだコーヒーとは呼べないわね」
「一応心は込めたんだけどなぁ⋯」
「技術や知識が伴ってないなら、心なんてあったって無駄よ。むしろ質が悪いまであるわ」
「…これじゃあまだまだお店で出させるわけにはいかないわね。店長には私から話しとくから」
「さいですか」
「えぇ。…当分は私専属のバリスタよ、私としては不本意なことにね」
そんなことを言いながらもその白くたおやかな指先に握られたコーヒーカップの中身は順調に減っていく。
一度、文句を言いながらも飲むんじゃんと返した際に「豆が可愛そうだもの」と返されてしまっているので指摘はしないが、ちくせう。
「…貴方のこのコーヒーと呼ぶのが失礼なコーヒーをこうして飲むようになってから、それなりに時間が経つわね」
「そんな言い方されるなら、泥水とかストレートに罵倒してくれた方がまだマシなんだけど?」
「嫌よ、豆に悪いもの」
「僕に対する優しさとかおもちでない?」
「あなたが豆に対して優しさをお持ちになられたら、考えてあげても良いわよ?」
「それでもあくまで考慮なのかい?!」
酷い、あんまりだと思いながらお代わりと差し出されたカップにコーヒーを注ぐ。ちなみにこれに対しても何も言わない、言ったところでなにを言われるのか想像がつくからだ。試した僕が言うんだから間違いがない。
まだまだ免許皆伝は遠そうである。
「しかし、そうだねぇ。確かにこうして深夜営業のあとに、コーヒーを味見していただくようになってから随分と経つね」
「嫌みたらしい言い方ね」
「小説家志望なものでね、書き方、言い方には拘らせて貰ってるよ」
まあ、小説家志望と言っても泣かず飛ばすの名ばかり志望だけど。
「…思えば。あの時出してくれたコーヒーも…いや今より更に酷かったわね。霧生君も成長しているのね、感慨深いわ…」
その上であの評価なのは喜べば良いのか、悲しめば良いのか。まあ、なにを言ってもどうせ意地悪く返されるのだろうが。
「仕方ないだろ。喫茶店でバイトするまでハンドドリップなんて名前くらいしか聞いたことのない人間だったんだから、何でもかんでも起用にこなす筑間さんとは違うんだよ」
今から数ヶ月前バイトを始めたばかりの頃のことだ。
不器用で要領の悪い僕と違って筑間さんはバイトに入ってすぐに独り立ちするようなシゴデキガールだったのだが、その時はそれが良くなかった。
端的に言うと変な客に絡まれたのだ。
内容はほとんど言いがかりのようなものだったので、カスハラなんてものが言い出されている昨今ならお引き取り願えばそれで済むはずだった。
だったのだが、その時は折り悪く店長は居らず、僕の指導担当だった先輩も少し席を外していたのだ。
ここで僕が書く小説の主人公ならカッコ良く彼女を助けるのだろうが、そんなことをコーヒー1つまともに淹れられない僕が出来るはずもなく。
そのため僕は手元にあった皿をワザと落として割ったのだった。
「あの時はビックリしたわよいきなり大きな音がしたと思った『あぁー筑間さんちょっと来てー!』なんて声が聞こえるんだもの」
「…僕ももっと良いやり方あったなぁとは思うけども笑うことないでしょ。あの時は僕なりに必死だったんだから」
サッと間に入って助けるなんてことが出来そうもなかった僕はこうして何とか筑間さんをクレーマーから引き離すことに成功した。まあ、そのあと先輩や店長から怒られはしたのだが…彼女の今の笑顔を思えばプライスレスだろう。
「…ごめんなさいね。私のために泥を被って貰って」
「別に良いよ。そもそも普段からああいうそそっかしいミスをしてるから怒られたって言うのもあるだろうし」
実際、筑間さんが落として割ったとしても大丈夫?!が先に出るだろうし。
「ふふっ」
「何さ、急に笑って」
「いえね。あの時のことを思い出したらまた頭に浮かんで来ちゃって…」
口元を抑え僕から顔を背ける彼女。しかし、顔が見えなかろうが、どんな表情をしているかなんて想像はつく。
「笑わないでよ。僕だってその必死だったんだから…!」
「だとしてもよ。制服の袖をコーヒーで濡らしながら、『 わが背子は 物な思ひそ 事しあれば 火にも水にも わがあらなくに 』なんて急に言われても分けがわからないもの。貴方みたいに文学畑の人間ならまだしも私は授業で習うくらいしか知らないし」
「仰るとおりで…」
その後、同僚として彼女を励まそうと思った僕は休憩時間にコーヒーを持参して、今も彼女を笑わせる謎ムーブを決めてしまったのだ。
「『これは万葉集の和歌で!同僚として支える的な意味であって!』なんて説明を必死にしてくるのもまた笑いを誘われたわね」
「それも持ってきたコーヒーは不味いのなんの、色んな意味で忘れられない時間になったわよあれは」
「不味かったら残して良いって言ったじゃん…」
「嫌よ。豆に悪いもの」
もはや聞き慣れた文句を始めて聞いたもあの時。目を真っ赤にした彼女は『不味い…』と言いながら一滴残らず飲み干し立ったのだった。
それ以来、こうして営業後の店内で僕がコーヒーを淹れて、彼女が不味い!もう1杯!するのが僕らの不可思議な習慣になっていると言うわけだ。
「ねえ、霧生君。」
「なに?もう弄られるのは勘弁なんだけど?」
「…『信濃なる 筑摩の川の 細石も 君し踏みてば 玉と拾はむ』」
筑間さんは僕が淹れたコーヒーが入ったカップの縁をなぞりながら、いきなり短歌を詠み出した。
「…だから、弄るのはもうやめてってば?」
「…あら?分かるのね流石は小説家志望と言ったところかしら?」
「そりゃあね。同僚を励ますために咄嗟に出てくる位には勉強させて貰ってるよ」
「…なら、私の言いたいことも分かってくれても良いと思うのだけれど」
「分かってるさ。筑摩川にあるような何気ない小石でも貴方が踏んだものであれば欲しいって歌でしょ?」
「そうじゃなくて…」
はぁと溜息をつきながらカウンターにその身を預ける筑間さん。はらりと飴色の木目調のカウンターに彼女の黒い絹のよう長い髪が広がる。
「どうしたのさ、急に溜息なんてついて。それにしても筑間さんは最近、古典も勉強してて凄いね!なかなかこんな話できる人はいないから嬉しいよ」
「…誰かさんのせいでね」
そう呟くとまた溜息を続ける筑間さん。
「そんなに溜息をはいていたら幸せが逃げるよ?」
「…霧生君のコーヒーを飲んでる時点で逃げてるでしょ」
そっちが淹れろと言うからだろうにと言う言葉は飲み込んでおく。理由は以下略だ。
「溜息とコーヒーの湯気を見ていて思い出した歌があるわ」
「へぇ~!何々?」
「…『君が行く 海辺の宿に 霧立たば 吾が立ち嘆く 息と知りませ』、知ってる?」
「もちろん!新羅に向かう夫を思う歌とされている一首だよね!貴方の行く海辺の宿に霧が立ちこめたなら、それは貴方のことを思い嘆く私の溜息と思ってくださいって意味の」
「溜息が相手の元へと届くほど思っているなんてこれも良い歌だよねぇ」
「ええ。そうね」
最近、勉強した短歌や小説の一行なんかを会話の中でも話してくれるのは嬉しいのだが、なぜかその度に少し不機嫌になるんだよなぁ筑間さん。
「この歌にならうなら、この店は私の溜息でもう既に濃霧ね。濃霧注意報発令級よ」
「そんなに?!…もう少しコーヒーの淹れ方勉強します」
「…」
僕がそう答えると彼女はまたも溜息を吐き、またも机に突っ伏した。
「ちなみに今のでまた霧が濃くなってたりする?」
「ええ。もう何も見えないくらいにね」
なにそれ怖い。
「本当に…貴方って小説家志望なのに観察眼とかなさ過ぎじゃないかしら?人の心の機微や綾を書くのが小説家じゃないの?」
「失礼な!これでも人並み以上の観察力と表現力はあると自負しているよ!」
国語の作者の気持ちを答えなさいとか得意だったし。
「どうかしらね。知識だけはいっちょ前の頭でっかちの文章だから、評価されていないんじゃないの?」
「うぐっ…そんなに簡単じゃないんだよ、この世界は」
「ちなみに今は何を書いているのかしら?」
「目先を変えてみようと思って恋愛小説に挑戦してるよ、まあなかなか苦戦してるんだけどね」
「…主人公とヒロインの距離感というか、ヒロインが主人公に向ける好意の大きさや、思わせぶりな態度を取る際の心理描写なんかがどうもね、リアリティが出ないというか」
「やっぱり、僕にそういう経験や相手が不足してるからなのかなぁ」
「…」
なぜだろうか、僕の類い稀な観察眼が筑間さんが怒っていると告げている。なんでぇ?
固まった僕と何も言わない彼女、沈黙に支配された店内。
筑間さんはゆっくりと体を起こすと、カップの底に残った─苦味と雑味の塊を一気に飲み干した。
カタリというカップを置く音がやけに店内に響いた気がした。
「…『我が心 焼くも我なり はしきやし』」
呟かれたのはまたも万葉集の歌だ。
上の句を言い終えると筑間さんは琥珀色の瞳で続きを促すように見つめる。、
「『君に恋ふるも、我が心から』」
「大正解よ。さっきも言ったけど伊達に小説家志望じゃないのね」
「…私の心が焼け焦げているのも、私が貴方を好きなのも、全部私がやったことなんだから文句は言えない。…前提の長歌も含めて凄い歌よね、あそこまで明け透けに心を吐露しながら最後には我が心で締めるなんて」
「そうだね。嫉妬に狂ったような罵詈雑言の荒らしの長歌からのこれなのが、より一層心ってどうしようもないよねっていう諦観が強まっているって言うか!」
「…はぁ」
今日何度目か分からぬ溜息をはくと筑間さんは有無を言わせぬ凄みを纏いながら、空になったカップを手にカウンターの中に入ってくる。
「恋愛小説が上手く書けないのよね?」
「うん…まあ。というかさっきの歌といいもしかして何か怒ってらっしゃいます?!」
「怒ってないわよ…呆れてはいるけれど」
そういうと本当に心底あきれ果てたような顔を近づけると、僕の耳元で呟いた。
「…そりゃあ書けないでしょうね」
酷くない?
「はぁ~!ほら休憩終わり。閉店後の片付けとっととやっちゃいましょう」
「傷ついた僕の心へのフォローとかされないので?」
「そうね。今の私の気持ちを言い当てたなら幾らでもしてあげて良いわよ?」
そう今日一番の笑顔で返してくる筑間さんであった。
なお、当然のように正答は出せませんでした。
美味しいコーヒーが飲みたい以外に何があるんだ…?
「…ほんとに鈍いんだから。馬鹿…」
ここまでお読みいただきありがとうございました。
見辛く拙い文章だったかも知れませんが、楽しんでいただけたなら幸いです。
もし気が向いたら感想等くださると大変嬉しいです。
霧生 陸 (きりう りく)
文学科所属の小説家志望の大学生 一人暮らし
古今東西、ジャンル問わずの乱読家であり、それもあってか様々な作品に造詣が深い。
そのため一度その手の話題を振ると早口解説をしてくる典型的なオタク。
筑間 志乃(つくま しの)
霧生君の同期にして同僚の女の子。物覚えがよく何でもすぐにこなせる器用な子。
最近はな ぜ か様々なジャンルの文学作品への知識を深めている。
ちなみに最初に送られた和歌の中にあった背子と言う言葉の意味を知ったときは悶絶した。
本編には関係のない話であるが、結構嫉妬深い子である。