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第0話 誰かの願い
学校へ行かなくなって、どれくらい経ったのだろう。
最初は一日だけだった。朝、目を覚ましても身体がどうしても動かず、今日は休もうと思った。それくらいなら誰にでもあることだと自分へ言い聞かせた。二日目も休み、三日目も休んで、そのうち制服へ袖を通すこと自体が嫌になった。クローゼットの奥へ押し込み、学校からの電話にも出なくなり、先生が家まで来た時にはカーテンを閉めて居留守を使った。
昼も夜も、あまり変わらなくなった。カーテンを閉めたままの部屋では時間の感覚が薄く、誰にも会わず、誰とも話さなくても生活だけは続いていく。冷蔵庫の中身が減れば人通りの少ない時間を選んで買い物へ行き、ゴミの日には袋を玄関先へ出す。洗濯物が溜まれば仕方なく洗濯機を回し、食器も自分で洗った。
一人で暮らすことには、もう慣れていた。
「…………」
テーブルの上に置かれた写真立てへ視線を向ける。二人の大人と、その間で笑っている小さな女の子。父と母、そして私。写真の中の私は今よりずっと幼く、同じ顔のはずなのに別人みたいによく笑っていた。
「……ただいま」
返事はない。分かっている。それでも帰宅すると、たまに口から出てしまう。当然、「おかえり」と返してくれる人はいなかった。
両親がいなくなってから、家は広くなった。部屋数も間取りも何一つ変わっていないのに、生活音だけが消えたせいで空間そのものが広がったように感じる。テレビもつけなければ、聞こえるのは冷蔵庫の作動音と時計の針くらいだった。
私は椅子へ座り、そのままテーブルへ額をつける。
明日は学校へ行こう。昨日もそう思ったし、一昨日も同じことを考えた。朝になれば制服を出して、顔を洗って、教科書を鞄へ入れて、何事もなかったように学校へ行く。頭の中では何度もできた。
「……もう、嫌だな」
何が嫌なのか、自分でも分からない。学校なのか、一人なのか、自分なのか。たぶん、全部だった。
「…………?」
顔を上げる。
最初はテレビかと思った。でもテレビは消えている。部屋の中を見回し、窓辺で視線が止まった。
白い小動物がいた。
猫に似ているようで、耳は不自然に長く、尻尾の形も見たことがない。何より、鍵を閉めていたはずの家へいつ入ったのか分からなかった。
「……なに、それ」
『僕はキュゥべえ』
口は動いていない。それなのに声だけが頭の中へ直接響いてくる。
私は椅子から立ち上がることもできず、ただ窓辺の白い生き物を見つめた。
『驚かせてしまったかな』
「……喋った」
『正確には、君の意識へ直接語りかけているんだ』
「そういう問題じゃなくて……」
夢かもしれない。最近まともに寝ていないから、とうとう幻覚まで見るようになったのかもしれない。
頬を抓る。
痛い。
『僕は君にお願いがあって来たんだ』
「私に?」
『そうだよ』
キュゥべえと名乗った生き物は、当たり前のことのように続けた。
「…………」
何を言われたのか、しばらく理解できなかった。
「魔法……少女?」
『契約してくれるなら、君の願いを一つだけ叶えてあげる』
「願い?」
『どんな願いでも構わない』
思わず笑いそうになった。
胡散臭い。あまりにも胡散臭い。
知らない生き物が突然家へ入り込み、願いを一つ叶える代わりに魔法少女になれと言っている。まともな話ではないし、本来なら追い出すか、警察へ電話するような状況だ。
それなのに。
『君には、その資格がある』
その言葉だけは妙に頭へ残った。
願いが叶う。何でも。
「……本当に?」
『もちろん』
「死んだ人を、生き返らせるとか」
『君の持つ因果が許す範囲であれば、不可能ではないよ』
心臓が大きく跳ね、反射的に写真立てを見る。
父と母。
その間で笑っている、自分。
ほんの一瞬だけ、戻せるのならと思った。
でも、すぐに視線を逸らした。
たぶん、そうじゃない。
二人が戻ってくれば全部元通りになるなんて、そんな簡単な話ではない。父と母が帰ってきたとして、私は明日から学校へ行けるのか。友達と普通に話して、授業を受けて、写真の中の自分みたいに笑えるのか。
分からない。むしろ、できない気がした。
「…………」
『急いで決める必要はないよ』
キュゥべえは感情の読めない赤い瞳でこちらを見ながら、淡々と言った。
『君が本当に望んでいることを考えればいい』
本当に望んでいること。
そんなもの、考えたくなかった。考えれば認めなくてはいけなくなる。
学校へ行きたくないし、人にも会いたくない。何もしたくないし、誰にも心配されたくない。でも、一人でいるのも嫌だった。誰かに助けてほしいのに、今の自分を見られたくない。
自分でも、何がしたいのか分からない。
ただ。
「……私」
声が震えた。
ずっと胸の奥へ押し込んでいたものが、少しずつ言葉になっていく。キュゥべえは何も言わず、ただ待っていた。
部屋には、自分の声だけが響いた。
キュゥべえの赤い瞳が、ほんのわずかに細くなる。
『それが、君の願いなんだね』
「……うん」
一度言葉にしてしまうと、不思議なくらい心が静かになった。怖くないわけではないし、これで正しいのかも分からない。それでも、もう取り消したいとは思わなかった。
『分かった』
白い獣が答える。
胸の奥が熱くなった。
「……っ」
何かが身体の中心から引き抜かれる。同時に、空いた場所へ別の何かが流れ込んでくるような感覚があった。痛みとは少し違う。
視界が白く染まり、遠くでキュゥべえが何かを言っている。聞き取れない。
指先から力が抜け、椅子から身体が崩れ落ちる。
床へ倒れる直前、なぜか自分ではない誰かの声を聞いた気がした。知らない声だった。私より低く、ずっと大人で――。
◇
「…………は?」
目を開けた。