マミさんがその名前を口にした瞬間、喉の奥が少しだけ固くなった。
「――ワルプルギスの夜」
放課後。いつもの訓練場所には、風に揺れる草の音だけが続いていた。今日の訓練はもう終わっていて、俺もまどかも変身したままだったが、マミさんは武器を消し、腕を組んで少し離れた街並みを見ている。
「噂なら私も聞いているわ。各地を移動しながら現れる、とても強力な魔女。普通の魔女とは規模そのものが違うって」
知っている。
嫌になるくらい。
「最近、近隣で活動している魔法少女の間でも話が出ているの。少しずつ、こちらへ近づいているんじゃないかって」
まどかが不安そうに俺たちを見る。
「それって……見滝原にも来るかもしれないってこと?」
「可能性はあるわ。でも、まだ噂の域を出ていない。どこへ現れるのかも、いつなのかも分かっていないもの」
マミさんはそこで俺へ視線を向けた。
「マギカさんは、どう思う?」
「来ると思う」
考えるより先に答えていた。
マミさんの眉が僅かに動く。
「どうして?」
「…………」
そこまでは用意してなかった。
ワルプルギスの夜は見滝原へ来る。しかもそう遠くない。前世で見たアニメの中では、それがこの時間軸の終着点だった。
でも、それを説明する方法がない。
「……勘」
「また勘なの?」
「……はい」
マミさんが小さく息を吐く。
横でまどかが困ったように笑った。
「でも、マギカちゃんの勘って結構当たるよね」
勘じゃないんだけどな。
マミさんもそれ以上笑わなかった。廃工場の魔女の時も、俺は説明できないまま先回りした。細かいところは外しているし、実物を見て初めて思い出すことも多い。それでも何度か、結果だけは当たっている。
「分かったわ」
マミさんは少し考え、ゆっくり頷いた。
「信じる、とまではまだ言えない。でも、備えておく価値はありそうね」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
何でも信じられるより、このくらいの方がいい。
「ワルプルギスの夜は、普通の魔女とは規模が違うと言われているの。単独で挑むべき相手じゃないし、現れれば街そのものが巻き込まれる可能性もある。もし本当に見滝原へ来るなら、今までみたいに結界を見つけてから対応するわけにはいかないわ」
マミさんは俺とまどかを順に見る。
「戦う場所も、魔力も、逃げ道も考えておく。できるなら市街地から離したいけれど、相手がこちらの都合に合わせてくれるとは限らない。最悪の場合は、戦うことだけじゃなくて、自分たちが生き残ることまで含めて考えないと」
まどかの顔から、さっきまでの柔らかさが消えていく。
「そんなに……強いんだ」
「ええ」
マミさんは迷わなかった。
「だからこそ、準備するの」
頼もしい。
原作を見ていた頃なら、巴マミは強い魔法少女だと知っていただけだった。でも今の俺にとっては違う。刀の握り方から教えてくれた師匠で、戦えば誰より先に周囲を見て、俺が無茶をすれば止めてくれる。
そのマミさんが、ワルプルギスに備えている。それだけで、知っている未来が少し遠ざかった気がした。
「マギカさん」
「ん?」
「あなたの勘では、時期は?」
「…………」
来た。
「場所は見滝原?」
「……たぶん」
「いつ頃?」
「そこまでは分からない」
分かる。少なくとも大体は。
でも、言えない。
マミさんは数秒だけ俺を見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「そう。なら、今日からできることを始めましょう」
◇
それからの訓練は、少し変わった。
いつもの基礎を繰り返すだけではなく、長時間戦うことを前提に魔力消費を確認する。マミさんは手持ちのグリーフシードを数え直し、戦場になりそうな場所を地図で確認し始めた。
まどかは遠距離からの射撃を繰り返す。
「鹿目さんは無理に前へ出ないこと。遠距離から私たちを援護して。敵を倒すことより、まず自分の位置を見失わないようにね」
「うん」
まどかの返事にも、いつもの柔らかさの中へ少しだけ力が入っていた。
俺は鏡面刀を構える。
スペッキオ・ファントム。
まだ名前を口にするのは少し恥ずかしいが、今さら文句を言っている場合でもない。
姿をずらして踏み込み、そのまま刀を振る。以前なら振った勢いに身体まで持っていかれていたが、今はどうにか足を残せる。マミさんの動きを真似た時に比べればまだ粗い。それでも最初に刀を握った頃とは、もう別物だった。
「今のはいいわ。ただし、二撃目へ繋ぐ時に右肩が開いてる。大きな相手ほど、一度崩れたらそこを狙われると思って」
「了解」
もう一度。今度は肩を意識する。
できる。
少なくとも、前よりは。
マミさんがいる。
まどかもいる。
俺も、もう刀を振るだけで転ぶような初心者じゃない。
原作より条件はいい。
そう思った。
……これなら。
胸の奥に浮かんだ期待を、今度は否定しなかった。
◇
「目玉焼きには醤油ですか? それともソースですか?」
翌朝。
早乙女先生は、世界の命運とは何の関係もない話をしていた。
「こういうところに価値観って出ると思うんですよ! 料理そのものより、相手が何をかけるのか。それを許容できるかどうかが大事なんです!」
教室の何人かが笑う。
俺もホワイトボードへ視線を向けたまま、昨日マミさんと確認した地図を頭の隅で思い出していた。窓の外は、朝から雲が多い。
「私は塩かな」
さやかが小声で言う。
「聞いてない」
「田中冷たくない?」
「今授業中」
「ホームルームだけど?」
その横で、まどかが小さく欠伸を噛み殺した。
見逃さなかったのは俺だけではなかったらしい。
昼休みになると、さやかがすぐに食いついた。
「まどか、最近なんか忙しくない?」
「えっ?」
弁当箱を開けかけていたまどかの手が止まる。
「なんか眠そうだし、放課後もすぐ帰る日増えたし」
「そ、そうかな?」
「そう?」
俺も適当に首を傾げる。
知ってる。
昨日も一緒に訓練してた。
「田中は気づいてないの?」
「そこまで人の生活見てないし」
「冷たいなあ」
「さやかちゃんが見すぎなんだよ」
まどかが笑いながら助け舟を出す。
少し無理しているのは分かった。まどかは嘘が上手くない。
でも、さやかも仁美もそこまで深くは追及しなかった。すぐに別の話題へ移り、昼休みはいつも通り流れていく。
ただ一人。
ほむらだけは、何度かまどかへ視線を向けていた。
◇
放課後。
昇降口を出たところで、後ろから呼び止められた。
「田中さん」
振り返ると、ほむらが両手で鞄を持ったまま立っている。
「どうしたの?」
「少し……いいですか?」
「うん」
まどかたちはもう先に帰っている。
校門から少し離れて歩き始めると、ほむらはしばらく黙ったままだった。何か言おうとしてはやめているのが分かる。
やがて、眼鏡の奥からこちらを見た。
「最近、鹿目さんたち……何かしてるんでしょうか」
「どうして?」
「放課後もすぐ帰ってしまうことが増えましたし、少し疲れているように見えて」
よく見てるな。
以前なら、まどかに声を掛けられるだけで慌てていたのに。
「私にも何かできないでしょうか」
足が止まりそうになった。
「何かって?」
「分かりません。でも、もし鹿目さんが困っているなら……」
ほむらは途中で言葉を切り、鞄の持ち手を握り直した。
「何もしないでいるのは、嫌なんです」
その声は小さい。
でも、前みたいに消えそうではなかった。
おお……。
一瞬だけ、別の意味で感動しかける。
ちゃんと育ってる。
いや、今はそこじゃない。
「無理しなくていいよ」
「でも」
「まどかたちには、頼りになる人がいるから」
ほむらがこちらを見る。
「巴さん、ですか?」
「うん。マミさん、すごく強いし。あの人が一緒なら、そう簡単にどうにかなることはないと思う」
言いながら、自分でも不思議な感じがした。田中として話しているのに、その言葉の根拠はマギカとして知っているマミさんだった。
「田中さんは、巴さんを信頼してるんですね」
「うん」
そこだけは、迷わず答えた。
それに、俺も前より戦える。
「大丈夫。たぶん、ほむらが思ってるよりずっと強いから」
「…………」
ほむらが少しだけ不思議そうな顔をする。
しまった。
言い切りすぎたか。
けれど、ほむらはそれ以上追及しなかった。
「でも……鹿目さんが危ないなら、何もしないでいるのは嫌です」
もう一度、今度はさっきよりはっきり言った。
まどかを守りたい。
まだその言葉までは出ていない。
でも、そこにあるものは分かった。
嬉しい。
同時に、怖かった。その気持ちが、この先どこまで大きくなるのかを俺は知っている。
「その気持ちだけで十分だよ」
「……そうでしょうか」
「うん」
ほむらは納得していない顔をしていた。
それでも、今はそれ以上言わなかった。
◇
数日後。
訓練を終えた帰り道で、今度はマギカの俺が同じほむらに呼び止められた。
「マギカさん」
「ん?」
変身を解く前だった。少し離れたところには、まどかとマミさんがいる。ほむらはそこから俺のところまで小走りで来て、息を整えた。
「私にも、何かできませんか?」
「…………」
やっぱり来たか。
「来ない方がいい」
ほむらの顔が曇る。
「でも……」
「危ないから」
「足手まといだから、ですか?」
思ったより真っ直ぐ聞かれた。
少し迷う。ここで「そうだ」と言えば、たぶん引く。
でも。
「違う」
ほむらが顔を上げる。
「死んでほしくないから」
言ってから、自分でも少し強かったと思った。
ほむらは黙った。
「戦えるかどうかだけじゃない。相手がどれくらい危ないか分からないのに、わざわざ近づく必要ないだろ」
「でも、鹿目さんは行くんですよね」
「まどかは魔法少女だから」
「それでも……」
ほむらの指が鞄の紐を握り込む。
「私にも、何かできることがあるかもしれない」
「何もできないとは言ってない」
「でも」
「今は戦わなくていいって言ってるだけ」
少し間を置く。
「鹿目まどかを心配してるなら、それで十分だよ」
ほむらの視線が、俺の肩越しへ向いた。
遠くでまどかがマミさんと話している。何か言われたのか、まどかが少し困ったように笑い、それを見たマミさんも表情を緩めた。
ほむらはその姿を、しばらく黙って見ていた。
もう、ちゃんと大切なんだな。
「田中さんにも、同じことを言われました」
「……へえ」
言ったな。
「二人とも、私には何もできないみたいに言うんです」
「だから、何もできないとは言ってないって」
「同じこと言いますね」
「…………」
危ない。
「偶然じゃない?」
「そうでしょうか」
眼鏡の奥からじっと見られる。
妙なところで鋭いな。
ほむらは少しだけ視線を落とした。
「私も……鹿目さんを守れるようになりたいです」
今度こそ、はっきり言った。
胸の奥がざわつく。
嬉しい。
でも、この言葉の先にある未来を知っているから、素直には喜べなかった。
「……そっか」
それ以上は言わなかった。
◇
天気予報では、数日後から天候が大きく崩れると言っていた。
大型の低気圧。強風。大雨。
一般人にとっては、それだけだ。
でも、魔法少女側では噂がもう一段階変わっていた。
夜。
自宅で宿題を広げていると、頭の奥へ声が届く。
《マギカさん》
マミさん。
《うん》
一瞬だけ鉛筆を止めた。
《例の話……どうやら、本当に来るかもしれないわ》
「…………」
分かっていた。
それでも実際に聞くと、身体が固まる。
《近隣で魔女の反応が減っているって話もあるの。偶然かもしれないけれど、他の子たちも警戒を始めているみたい》
《そっか》
《準備しておきましょう。鹿目さんにも伝えるわ》
《分かった》
通信が切れる。
しばらく鉛筆を持ったまま動けなかった。
窓の外で風が鳴っている。
机の上には数学の教科書とノート、その横には洗って乾かした弁当箱。少し離れた場所には、二つ連なったソウルジェムが置かれていた。
学校。
弁当。
魔法少女。
全部、同じ部屋にある。
窓へ近づき、カーテンを閉める。
原作のことを思い出す。
ワルプルギスの夜。
まどか。
マミさん。
ほむら。
知っている結末。
でも、今は違う。
マミさんは生きている。
事前にワルプルギスのことも知った。
まどかもいる。
俺も、最初よりずっと戦える。
条件は、原作よりいい。
少なくとも、そう思えた。
だから。
今度こそ、なんとかなる。