目を覚まして最初に見えたのは、知らない天井だった。
白い天井に薄いカーテン、隙間から差し込む朝の光。ベッド脇には小さな机と本棚が並び、壁には見覚えのない制服が掛けられている。少なくとも、昨日まで自分が寝ていた部屋ではない。
「……どこだ、ここ」
身体を起こそうとして、右手に硬い感触があることへ気づいた。何かを握ったまま眠っていたらしい。
ゆっくり手を開くと、掌の中央には二つの小さな宝石が転がっていた。
形が少し変わっている。丸みを帯びた宝石が二つ、細い部分で繋がっていて、サクランボの実を並べたようにも見えた。
片方は銀色だった。朝日の反射とは違う淡い輝きが内部から滲み、よく見ると細かな光が奥でゆっくり揺れている。
もう片方には、色がない。
透明とも少し違う。ガラスみたいに向こう側が透けるわけではなく、本来そこに入っているはずの何かだけが抜け落ちたような、不自然な空白だった。光もなければ、濁りすらない。
「……何これ」
二つは完全に繋がっていて、軽く引いても離れる様子はない。アクセサリーにしては鎖も台座もなく、用途も分からない。それなのに銀色の方だけは、掌へ置いていると妙に馴染む感覚があった。
当然、こんなものを持っていた覚えはない。
机の上へ置こうとして、今度は自分の声に違和感を覚えた。
「…………は?」
高い。
寝起きで裏返ったとか、喉の調子がおかしいとか、そういう高さではない。どう聞いても女の声で、それも成人女性というより、まだ中学生くらいの少女に近かった。
嫌な予感のまま左手を見る。指は細く、手の甲も白い。昨日まで見慣れていた男の手とは、大きさも骨格も明らかに違っている。
「は?」
もう一度声を出す。
やっぱり高い。
視界の端へ銀色の髪が落ちてきた。掴んでみれば肩を大きく越えるほど長く、寝癖のついた毛先が胸元まで垂れている。
いや。
髪より先に確認するものがある。
恐る恐る布団をめくると、細い脚と華奢な身体が現れた。着ている寝間着も完全に少女用で、胸元の形まで昨日とは違う。身長もかなり縮んでいるらしく、ベッドから降りただけで視線の高さがいつもより低かった。
「……マジか」
部屋の端にある姿見まで歩く。身体が軽い代わりに重心は妙で、長い髪が肩や背中へ触れる感覚にも慣れない。鏡の前へ立つと、銀色の長髪に白い肌、まだ幼さの残る顔立ちをした少女がこちらを見返していた。
どう見ても中学生くらい。
当然、鏡の前にいるのは俺一人だけだ。
「……TS転生?」
我ながら、ずいぶん雑な結論だった。
事故に遭った記憶もなければ、死んだ覚えもない。神様らしき存在に会った記憶もなければ、特典だの能力だのを渡された覚えもない。昨日まで普通に現代日本で男として生きていたはずなのに、朝起きたら知らない銀髪の少女になっていた。
現実的な説明を探すより、転生だのTSだのを持ち出した方がまだ話が早い。
「いや、早くないだろ……」
何一つ分かっていない。ここはどこなのか。なぜ少女になっているのか。そもそも、この身体は誰なのか。
鏡へ顔を近づけても、当然ながら見覚えはない。それなのに完全な他人を見ている感覚とも少し違っていて、それが単に今の自分の顔だからなのか、それとも別の理由なのかまでは分からなかった。
考えていても答えは出ない。
まずは状況確認だ。
スマホでもあれば、日付と現在地くらいは調べられる。
そう思った瞬間、右手が机の一番上の引き出しへ伸びた。
「……え?」
開ける。
スマートフォンが入っていた。
一瞬だけ手が止まった。
机の引き出しなんだから、そのくらい普通に探す。そう思えば偶然で済む範囲だ。
端末を手に取ると画面が点灯し、ロック画面には今の自分と同じ銀髪の少女、その左右に男女が一人ずつ写っていた。
家族写真だろうか。
知らない顔だった。
日付を確認してからロックを解除しようとして、今度こそ手が止まった。パスコードなんて分かるわけがない。これは俺のスマホではないし、画面の少女が誰なのかさえ知らない。
なのに。
指が勝手に動いた。
四桁の数字を入力し、ロックが解除される。
「…………」
今の数字を俺は知らない。記憶から思い出した感覚もない。ただ手だけが、最初から入力方法を知っていたみたいに自然に動いた。
「なんだよ、それ……」
少し気味が悪くなってスマホを机へ置く。部屋の中を改めて見回してみるが、ベッドも本棚も制服も見覚えはない。それなのに部屋を出ようとした瞬間、今度は棚の上へ自然に手が伸び、そこから鍵を取っていた。
まただ。
偶然で片づけるには、二回続いた。
頭では知らない。
身体だけが知っている。
「……誰かいるのか?」
ふと口から出た。
返事はない。
「おい。聞こえてるなら返事してくれ」
自分でも何に話しかけているのか分からないまま、胸の奥へ意識を向ける。
「……お前、この身体の持ち主だろ」
何も返ってこない。
当然と言えば当然だ。
それでも、スマホのパスコードも鍵の場所も知っている身体を見ていると、自分以外の何かがここに残っている気がしてならなかった。
「…………」
机の上に置いた二つ繋がりの宝石へ目を向ける。
銀色の方だけが、朝日を受けて静かに光っていた。
「まあ、いい。今は外だ」
カーテンを開ける。
その瞬間、思考が別の方向へ吹き飛んだ。
窓の向こうには高層建築の並ぶ街が広がっていた。妙に広い道路、ガラスを多用した未来的な建物、現実の都市とは少し違う整い方をした街並み。
見覚えがある。
正確には、歩いたことがあるわけじゃない。
画面越しに。
何度も。
「……まさか」
胸の奥へ嫌な予感が落ちる。
銀髪の女子中学生になった時点で今さら何を言っているんだという話だが、もしこれが思っている場所なら、TS転生なんてまだ入口でしかない。
二つ繋がりの宝石を掴み、スマホと鍵を持って部屋を出る。玄関ではまた身体が勝手に靴を選び、考えるより先に履いていた。
気味の悪さは増している。
それでも今は、街を確認する方が先だった。
外へ出て歩き始めると、疑いはすぐに濃くなった。特徴的な高層ビル、無駄に広い道路、現実では少し見慣れない都市設計。そして遠くに見える学校。
「……見滝原?」
口にした瞬間、急に現実味が増した。
見滝原市。
『魔法少女まどか☆マギカ』の舞台。
鹿目まどか。暁美ほむら。巴マミ。美樹さやか。佐倉杏子。
そして。
キュゥべえ。
「嘘だろ……」
よりによって、まどマギ。
死亡率が高いとか、そういう軽い話ではない。魔法少女になれば魂を宝石へ抜かれ、最後には魔女化する。見滝原にはワルプルギスの夜まで来るし、その先まで考えれば世界の仕組みそのものが書き換わる話になる。
しかも俺は、その先も知っている。
「……叛逆まで知ってるんだけど」
原作知識があるから安心、とはまったくならない。むしろ知っているから怖い。何が起きるか知っていても、戦えるわけではないし、キュゥべえを見つけたところで契約を止められる保証もない。魔女の結界へ入れば普通に死ぬ。
原作知識は攻略本というより、事故現場の予定表に近かった。
「難易度高すぎない?」
誰に言うでもなく呟く。
返事は当然ない。
そこで、右手に握っていたものを思い出した。
朝から持っている、二つ繋がった宝石。
片方は銀色に淡く光り、もう片方は相変わらず何も映していない。
「…………」
見滝原。
女子中学生。
魔法少女。
そして、この宝石。
嫌な単語が一つだけ頭へ浮かんだ。
「いや、待て」
足が止まる。
掌へ載せ、改めて見る。形は原作で見たソウルジェムと少し違う。それでも、この世界で少女が持っていて、内部から魔力のような光を放つ宝石となれば候補はほとんどない。
「これ……まさか」
ソウルジェム。
そんなわけがない。
いや。
この世界なら、あり得る。
しかも一つではない。
二つ分ある。
銀色の方には何かが入っている。
でも、もう片方は空っぽだ。
「……なんだよ、これ」
もし本当にソウルジェムなら、普通は一人に一つのはずだ。
それなのに俺の手元には、サクランボみたいに二つが繋がった状態で存在している。
「俺、もう契約済み……なのか?」
契約した記憶なんてない。
キュゥべえに会った覚えすらない。
そもそも昨日まで俺は男だった。
だったら。
この銀色の方は誰の魂だ。
そして。
空っぽの方は、何のためにある。
「どうなってんだよ……」
二つの宝石を握り直す。
ただの宝石かもしれない。
そう思いたい。
でも、さっきまでより明らかに重く感じた。
物理的な重さではない。
意味の重さだ。
まずは今がいつなのか確認しないといけない。まどかたちが何年生なのか、ほむらがもう転校してきているのか、それともさらに前なのか。原作開始時期が分からなければ、知識があっても使いようがない。
そう考えながら歩いていたところで、ようやく腹が減っていることに気づいた。
「……腹減った」
緊張していても腹は減るらしい。
妙に現実的だ。
そこで初めて、自分がかなり遠くまで歩いてきたことにも気づいた。勢いで外へ出たせいで現在地もよく分からない。
「……戻れるか?」
スマホの地図を開こうとする。
けれど足はもう動いていた。
角を曲がる。
横断歩道を渡る。
細い道へ入る。
「いや、待て」
途中で立ち止まる。
今、どこへ向かってる?
分からない。
この道を歩いた記憶は一切ない。それなのに身体には迷いがなく、次の角を右へ曲がることまで最初から分かっているような感覚があった。
試しに逆方向へ歩いてみる。
数歩で妙な落ち着かなさが出た。
「…………」
元の方向へ戻る。
今度は自然だった。
気持ち悪い。
頭では何も知らないのに、身体だけが道順を覚えている。
そのまま歩き続けると、住宅街の一軒家の前で足が止まった。朝に飛び出してきた家だった。
「……ここか」
表札を見ても、名字には覚えがない。
鍵を取り出し、迷うことなく鍵穴へ差し込む。
家へ入った瞬間。
「ただいま……」
口から勝手に言葉が出た。
「……いや、誰に言ってんだよ」
返事はない。
家の中は静かだった。
喉が渇いたと思っただけで足は台所へ向かい、冷蔵庫を開け、麦茶のボトルを取り出す。コップの場所まで迷わない。
俺は一度も、この家の間取りを確認していない。
それなのに全部分かる。
鍵の場所。靴。帰り道。冷蔵庫。食器棚。
頭にはない。
身体だけが知っている。
「この身体……誰のなんだ」
そこで初めて、疑問がはっきりした形になった。
俺が少女として転生した。
最初はそう思った。
でも、もし最初から俺の身体なら、どうして俺の知らない生活習慣が残っている?
廊下へ戻った時、棚の上に置かれた写真立てが目に入った。
何気なく手に取る。
三人で写った写真だった。
真ん中には今の俺と同じ銀髪の少女。左右にはスマホのロック画面にも写っていた男女が立っている。
「……親、か?」
顔を見ても何も思い出さない。
名前も、声も、この写真を撮った場所も。
何一つ。
なのに。
「……え?」
頬に冷たい感触が伝った。
指で触れる。
涙だった。
「…………」
もう一滴。
そのまま止まらなくなる。
「なんで」
悲しくなんてない。
だって知らない。
この二人が誰なのかも、この少女とどういう関係だったのかも、俺には分からない。それなのに胸の奥だけが強く締め付けられ、呼吸が少し苦しくなる。写真を持つ指先まで震え始めた。
「……誰だよ」
返事はない。
写真の中では三人とも笑っていた。
真ん中の銀髪の少女も、今の俺と同じ顔で楽しそうに。
「……お前も、誰なんだよ」
写真の少女へ聞く。
当然、何も答えない。
俺の記憶には、この家も、この二人も、この少女も存在しない。
それでも、この身体だけは覚えている。
帰る場所を。
暮らし方を。
そして、この二人を見て泣くことまで。
「…………」
写真を元の場所へ戻す。
ポケットから二つ繋がりの宝石を取り出した。
銀色の方だけが、ほんの少し光を強めた気がした。
「……お前なのか?」
答えはない。
「この身体の持ち主なんだろ」
銀色の宝石を見る。
「聞こえてるなら返事してくれ」
何も返ってこない。
光もすぐに元へ戻った。
「…………」
分からない。
ただ一つだけ、朝よりはっきりしたことがある。
ここはたぶん、見滝原だ。
俺は昨日まで男だった。
今は名前すら知らない銀髪の少女になっている。
この身体には、俺の知らない誰かの生活と感情が残っている。
そして手元には、二つ繋がったソウルジェムらしき宝石がある。
片方は銀色。
もう片方は、空っぽ。
だったらまず調べるしかない。
この少女が誰なのか。
今がいつなのか。
この宝石が何なのか。
そして。
俺がどうしてここへ来たのか。
この時の俺はまだ知らなかった。
銀色の宝石に何が残っているのかも。
空っぽの宝石が、何のために存在しているのかも。
そして、一人の少女が口にした願いが。
俺自身の存在まで変えることになることも。